承ノ巻 「有宝地に聳える眺望閣」
かくして一般人の行楽客に扮した私と武信さんは、大阪へと向かったんだ。
角座や浪花座といった芝居小屋の立ち並ぶ道頓堀は大阪が誇る名所だけれど、そこから歩いて十五分程度の距離にある西成郡今宮村も、道頓堀に負けず劣らずに行楽客で賑わっているね。
道頓堀を芝居や演芸といった芸能を楽しむ名所とするなら、この今宮村は見晴らしの素晴らしさを楽しむ名所と言えるだろうな。
明治二十一年に開業したばかりの有宝地は老若男女の誰もが楽しめる遊園地として人々に親しまれているけど、その一番の目玉は何と言っても、高層展望台として建設された眺望閣だね。
八角形の屋根を頂いた洋風木造建築の眺望閣の高さたるや、何と十七間一尺。
大地を睥睨するかのように堂々と聳え立つその威容は、地上から眺めても圧巻の一言だけど、最上階である五階の展望台から望める絶景たるや、「眺望閣」という名前に恥じない素晴らしい眺めなんだよね。
何しろ四天王寺から大阪湾までグルっと一望出来るだけではなくて、今日みたいに天気が良くて空気の澄んだ日には淡路島の辺りまで見られるんだもの。
そんな素晴らしい絶景を眺めようという来場客によって、眺望閣も有宝地も連日大賑わい。
小さい子供の手を引いた家族連れや好奇心旺盛で初々しい学生さん達。
老若男女様々な年代の人達が楽しそうに行き交っていて、茶店の床机台で見ているこちらの心まで和やかになってしまうね。
「聞きしに勝る大賑わいですね、花之美さん。巷で囁かれている辻斬り騒動の現場だとは、とても思えませんよ。」
「全くですね、武信さん。それとも案外、例の噂話が客寄せになっているのかも知れません。鬼火だの辻斬りだのが出没するなら、それはどんな所なのだろう。そんな野次馬根性で有宝地を訪れた方々も、少なくはないでしょう。」
極力平静を保ちながら応じたけれど、私としては隣に腰掛けた武信さんの事がどうしても気になってしまうんだよなぁ。
普通の書生に扮するために袖を通された黒い詰襟制服は、細身で引き締まった武信さんの肢体を一段と際立たせているの。
見慣れた和装や束帯姿も素敵だけど、詰襟制服の書生姿がこれ程までに魅力的だとは予想外だったよ。
のぼせて平常心を失わないよう、気をつけなくちゃ…
「ところで、花之美さん?宜しければ、私の分の稲荷寿司も召し上がりませんか。私の方は、助六寿司の海苔巻きがあれば大丈夫ですから。」
「ああっ!御気遣い頂き有難う御座います、武信さん。」
はしたなくも声を上げてしまった私だけど、自分の分の稲荷寿司だけでは物足りなかったのも事実だったの。
白狐に転身して全身の神経を尖らせていると、どうしてもお腹が空いちゃうんだよね。
それに、きつねうどんや稲荷寿司みたいに油揚げを使った料理は私の大好物だから、幾らでも食べられちゃうんだ。
お母さんやお祖母ちゃんも油揚げが大好きだから、これは狐憑きの家系に生まれた者の宿命なんだろうな。
至って平凡な書生と女学生に身をやつし、茶店の軒先で助六寿司を分け合う。
張り込み調査の最中とはいえ、さながら恋人同士の逢い引きみたいな雰囲気に、すっかり私は癒やされてしまったの。
だけど楽しい時間も、長くは続かないんだね。
「誰か…誰か家内を知りませんか!?」
行き交う群衆を掻き分けながら叫ぶのは、二十代半ばと思わしき良家の若旦那風の男性だった。
大らかそうな白い顔は真っ青に染まり、仕立ての良さそうな洋服もアチコチ乱れているから、予期せぬ厄介事に巻き込まれたのは一目瞭然だったよ。
「行きましょう、花之美さん!」
「心得ました、武信さん!そこの方、如何なされましたか?」
駆け寄って話を聞いてみた所、この若旦那風の男性は船場で教科書を取り扱っている小野寺教育出版の御曹司で、祝言を挙げて間もない新妻と有宝地に行楽へ繰り出していたんだって。
ところが不幸にも暴漢に襲われてしまい、愛する新妻が行方不明になってしまったらしいの。
「気付けば僕だけが取り残されていて…ああ、法華さん!貴女にもしもの事があったら、僕は…!」
どうやら「法華さん」というのが、件の新妻さんみたいだね。
頭を抱えて狼狽える御曹司も気の毒だけど、どうにも私には気掛かりな事があったんだ。
謎の辻斬りが出没すると噂の有宝地で新妻の誘拐まで起きるだなんて、単なる偶然とは思えないよ。
「武信さん、もしや…」
「件の誘拐犯と辻斬り騒動との間に、何らかの関連があるのかも知れない。そう仰りたいのでしょう、花之美さん?私も同感ですよ。」
これぞ正しく、以心伝心だね。
話が早くて助かるよ、武信さん!
若旦那の介抱と警察への通報を武信さんに任せた私は、若旦那の抱えていた日傘に付着する新妻の残り香を覚えると、その臭いを辿って追跡を開始したんだ。
この深草花之美の目が黒いうちは、悪党共の好きにはさせないよ。




