第2話 失神、失神、また失神 ~前編~
「教育って… 私… 何を勉強するんでしょうか…? 私、字も読めませんし、書けません…」
ソフィアが言うと、侯爵とシュルツは目を丸くする。
ここ数年、平民でも識字率は徐々に上がっており、平民の多くは娯楽として小説を読むのが定番になっている。
ソフィアの出身国でも同様の筈だった。
だが…
「そうか… 確か君はリネルと言う村の出身だったな… 私の記憶では、リネルはランドール王国との国境付近の寒村だったと思うが…?」
侯爵の言葉に頷くソフィア。
「はい… 100人程の小さな村だと、お母さんから聞いた事があります」
「それなら教育機関が無くても仕方ありませんな。旦那様、まずは基本的な事から始めなくてはなりますまい。それには私共よりシンディが適任かと…」
シュルツに言われ、侯爵は考える。
「ふむ… 確かにシンディなら歳も近いしな… では、シンディを呼んでくれ。私は少し、彼女と話がしたい。ソフィア、そこの応接室に来なさい」
言って侯爵は歩き出す。
「は… はいっ!」
慌てて侯爵の後に続くソフィア。
侯爵は部屋に入るとソファーに腰掛ける。
「さて… そう言えば自己紹介がまだだったな。私の名はフランク・フォン・バドルスだ。知っての通り侯爵だが…」
そこまで言って、立ったままのソフィアに気付く。
「どうした? 突っ立っていないで座りなさい」
「は… はいっ!」
フランクが促すと、ソフィアはその場──床──に座り込む。
「何故、床に座る? そのソファーに座りなさい」
言ってフランクはソファーを指差す。
すると、急にソフィアは慌てだし…
「そ… そんな! 私なんかがソファーに座るなんて! 奴隷の私には床に座るのが似合ってます!」
「いや… 確かに君の立場は奴隷だが… 主人である私がソファーに座れと言っているのだ。良いからソファーに座りなさい」
主人からソファーに座れと言われては、奴隷であるソフィアは逆らえない。
立ち上がったソフィアは恐る恐るソファーに腰掛ける。
「よし、では続けよう… まず、皆が呼んでいる様に、私の事は『旦那様』か『ご主人様』と呼びなさい。『侯爵様』と呼ぶのは、私の家族やこの屋敷以外の者の呼び方だからな。 …って、何を泣いているんだ? 別に私は怒っているワケでは無いんだが…」
ソファーに座って涙を流すソフィアに、フランクは困惑した表情で聞く。
「いえ、違うんです… こんなに柔らかくて、フカフカのソファーに座る事を許されたのが嬉しくて… 奴隷商に居た時は、椅子に座る事も許されませんでしたから…」
「随分と酷い扱いを受けていた様だな… いや、奴隷がどんな扱いを受けているのか、私は全く知らないのだが…」
ソフィアは涙を拭くが、次から次へと涙が溢れている。
「私は仕方ありません… 侯爵様… いえ、旦那様も店主様から聞かれたと思いますが、私は要領が悪くて… 字を知らないから、他の人達みたいにメモを取る事も出来なくて… 何をやってもグズですし、物覚えも悪いから、しょっちゅう怒鳴られたり殴られたり…」
その言葉に、フランクはソフィアの身体を注意して見つめる。
服に隠れている場所は判らないが、袖の無い薄汚れたワンピースから出ている両腕のあちこちに痣があり、虐待を受けていた事は明らかだった。
「何と言えば良いのか… とにかくだ、ここには君を虐待する様な不埒者は居ないから安心しなさい」
フランクの言葉に、ソフィアは安心したのか全身の力が抜け…
「この程度で気を失うのか…」
またも失神したのだった。
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「旦那様、シンディを連れて参りました。それと、お茶の用意も」
シュルツが応接室に入り、シンディと言う名の若いメイドも後に続く。
「うむ。2人共、そこに座ってくれ」
フランクが着席を促すが、シュルツとシンディはソファーに横たわるソフィアを見つめている。
「旦那様、いったい何が…?」
「ソフィアの腕を見てみろ」
言われて2人はソフィアの腕を見る。
「この痣は…」
驚くシュルツ。
「旦那様? これは、もしかして…?」
シンディもソフィアの痣を見て驚きの表情を浮かべる。
フランクは黙って頷く。
「奴隷商の店主から虐待を受けていた様だな。本人は自身の要領が悪いからだと諦めていた様だが… この屋敷に君を虐待する者は居ないと言ったら、安心したのか気を失ってしまった」
「随分と酷い扱いを受けていた様ですな…」
ソファーに横たわるソフィアの足側に座り、シュルツは眉間に皺を寄せる。
「奴隷とは言っても、こんな小さな女の子に…」
シンディはソフィアの頭を膝に乗せて座り、額を撫でながら悲しげな表情を浮かべる。
「お前達の言いたい事は解る。だが、奴隷商の中は治外法権が認められているからな… 実に遺憾だが、こればかりはどうしようもない…」
フランクは苦虫を噛み潰したような表情になる。
だが、奴隷の売買が認められている国では、例外なく奴隷商には治外法権が認められている。
奴隷商が治外法権を認められず、存在しない国は無い。
フランクの住む聖クレア王国も、例外ではなかった。
雇用主は奴隷に3食を保証し、働けるだけの量を与えれば給金を支払う必要が無かったので、どの国でも一定の需要がある。
「私とて、奴隷を買うつもりは無かったのだがな… ただ、聖女の世話役になると聞いた全ての者が怖じ気付いてな… 巡り巡った末に奴隷を買わざるを得なかったのだ。しかし、ソフィアを見た時に、何とも不思議な感じのする娘だと思ってな…」
「不思議な感じのする娘… ですか…? 何故、そう思われたのでしょう?」
首を傾げながらシュルツが問い掛ける。
「それが… 私にも解らんのだ… ただ、何故かそう思った」
「ン… ふぇっ!?」
ソフィアが目を覚ますと、顔を覗き込んでいるシンディと目が合った。
「あっ、気が付いたのね? 大丈夫?」
「ふわわわわわわっ!」
自分が膝枕されている事に気付き、慌てて飛び起きるソフィア。
「ちょっ…! 落ち着いて! 暴れると落ちるわよ!」
支えようとするシンディの腕をすり抜け、ソフィアは床にひれ伏す。
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! 人の足に頭を乗せるなんてっ! 許して下さいっ!」
シンディは勿論、フランクやシュルツまでもが呆れる程に土下座して謝りまくるソフィア。
「いや… あの… 私が貴女の頭を膝に乗せたんだけど…」
「はぇっ?」
ソフィアは涙でグショグショになった顔を上げる。
「だから、私が貴女の頭を膝に乗せたのよ… 貴女は何も悪い事はしてないから、謝る事はないのよ?」
そう言ってシンディはソフィアに微笑みかけるが、ソフィアは怯えた表情のままである。
「シンディ、笑顔がひきつっているぞ? まぁ、これから徐々に打ち解けていけば良いだろう。それより一息入れよう。ソフィア、それは君の分だ。飲んで気持ちを落ち着けなさい」
言って、フランクはカップを指差す。
「は… はい… いただきます…」
カップを手に取り、お茶を飲もうとしたソフィアの顔が曇る。
「どうした? 虫でも入っていたのか?」
「いえ… ただ、この水に色が付いているので…」
「「「はっ?」」」
フランク達は互いに顔を見合わせる。
「こんなに綺麗な色の付いた水を見るのは初めてです…」
「「「………………」」」
フランク達は何も言えない。
「…美味しい! こんな… 味の付いた水を飲んだのも初めてです!」
「あのな… ソフィア… それは水じゃなくて、お茶なんだが… だから色も付いているし、味も付いているんだ… もしかして君は、お茶を飲んだ事が…」
「おおおおお、お茶ぁあああああああっ!? わわわわわ、私なんかがお茶ぁあああああああっ!? 飲んじゃった! 飲んじゃったぁあああああああっ!!!! はふぅっ…」
またも失神したソフィアであった。