伝承
紀子は部屋の隅に置いておいたダンボール箱から、新聞紙に包まれたリンゴを1個取り出した。故郷のF県の両親から送られたものだ。箱いっぱいは少し多いと思って、恋人に何個かおすそ分けしたが、それでもまだまだ無くならない。ふう、と息をつき、紀子は新聞紙を剝がした。
ふと、しわくちゃの新聞紙をゴミ袋に捨てようとして、そこに印刷された文字が紀子の目に入った。新聞はF県内だけに配達されているもので、昔から紀子の実家で購読しているものだった。
記事は文化欄の「ふるさと再発見」というコーナーだった。F県は少し前に震災の被害に会っており、地域再興の一環のようだった。内容はというと、F県に伝わる昔話を紹介したもので、記事タイトルに番号が振られているところからみると、幾つかあるものの一つらしい。
紀子の実家がある地域は、かつて鉄作りの里であったが、ある時、山を越えて鬼の軍勢がやってきて里を荒らしまわった。里の者たちは立ち向かおうとしたが、鬼は体が大きく、多勢に無勢でとても敵うものではなかった。そのうえ鬼の大将は、里長のひとり娘を見初めると戦利品とばかりにさらっていってしまった。娘は死んだものと思われたが十年後に突然戻ってきた。娘に話を聞くと、鬼の大将からは可愛がられたが、その大将が事故で死んでしまうと周りから敵視され、命からがら鬼の村を逃げ出してきたのだという。
話の盛り上がりどころもオチもない話だったが、民間伝承というのはそんなものかもしれない。
紀子は他のリンゴを包んでいた新聞紙も広げてみたが「ふるさと再発見」の記事は無かった。ひょっとしたらもう捨ててしまった新聞紙にはあったかもしれないが、今となってはもう遅い。紀子は母に電話を掛け、尋ねてみることにした。
「ああ、最近やってたわね。なんとかっていう民俗学の先生が書いてたみたいよ」
「他のも読んでみたいんだけど」
「ああ、古い新聞はまとめて縛って物置にしまっちゃったわ」
「そっかー」
「でもあれ面白かったわね。土蜘蛛の話とか」
「えっ、土蜘蛛!?」
最近聞いたばかりの妖怪の名前を再び聞いて、紀子は驚いた。
「どういうこと?」
「この辺の人たちは昔、土蜘蛛って呼ばれていたみたいね。私も知らなかったわ」
母が面白かったと言った話は次のようなものだった。かつて日本の権力者の支配が及ばなかった人々のことを土蜘蛛と呼んで蔑んでいたこと。弾圧を恐れ、土蜘蛛と呼ばれた人たちは山奥に身をひそめるようになったこと。やがて蔑称であった土蜘蛛は時代と共に忘れ去られ、妖怪退治物語に変容していったこと。
(じゃあ、正行が言ってた土蜘蛛退治をしたお侍って……)
紀子は数秒、思索する。母が電話の向こうから声を掛けて、紀子は我に返った。そして、新聞の公式サイトに行けばバックナンバーを見られるのではないかと勧められ、同意して彼女は電話を切った。
どこのどういう家の人だからって、正行は正行。
つい先日、自分が口にした言葉が頭の中でリフレインする。そう、その通りじゃないか。でもキュッと胸が痛くなった。どんなことでもいい、正行の声が聞きたくなって紀子はスマホの通話画面をそのままに彼に電話を掛けた。