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百咒の主

浅蘇芳

作者: 青磁




びゅう、と吹いた一陣の風にふと手を止め顔を上げた。規則正しく列を成す文机の置かれた教室の隅、風を取り込む為に開けられた窓の先では花信風が吹いていた。


辺りの銀杏の木々が緑から鮮やかな黄色へとその身を染める錦秋の頃である。


揺れる窓帷(そうい)越しに鼻に届く香りは芳しい金木犀のそれで、知らず肺いっぱい吸い込んではゆっくりと息を吐き出した。

そのまま肩から背に掛けて強張っていた身体の力を抜けば自身の右手は慣れた、しかし今は嫌な感触を神経から脳へと伝えて来る。


あ、と思い視線を元に戻せば何の事はない。


今日書いていた物の中では中々の出来栄えだと思われた書き掛けの行書の上に不恰好で大きな点が一つ横たわっていた。


しかも墨を思い切り吸い込ませていたそれは半紙の上にでんと乗っかりじわじわと白色を黒へと染め上げていく。侵食していく墨色は柔らかで脆い半紙など造作もないというように荒い繊維を食い破りその下にある毛氈すらその色に染め上げようとしている。


ようやっとその事に思い至った時には既に遅かった。慌てて手元の筆を筆置きにやり文鎮を端に寄せて半紙を持ち上げるもそこにあるのは見るも無惨な文字だった何か。


寸刻前までは確かに文字であった筈なのに。

毛氈の中央に主張する墨色も相まってなんとも哀しい思いを抱かせた。








ーーー落照の空に烏の声が響く。まだ身を刺すほどの寒さは無いが小袖を一枚羽織っていないと(くしゃみ)が出そうだとずしりと重たい肩掛け鞄に地に着く足を踏みしめながら首を巡らせた。


大学への進学が決まってから早半年ーー進学と共に上京が決まった際、父から渡された古い上に判り辛い地図を頼りにふらふらと街中を彷徨った事も最早懐かしく感じるものだ。


結局一時間近く彷徨った挙句、下宿先の主人自ら探し出してくれたのも今では友人への笑い話となっている。

父の古い友人であり自身のお世話になっている下宿先の主人は書道家であった。主人ーー先生は週に三日程教室を開いており、自身も大学が休みの日に学ばせて貰う事となったのはお世話になってから凡そ一週間が経った辺りか。


筆も硯も、大量に消費する半紙も一から揃えるとなると馬鹿にならない費用が掛かるので、使い込まれているもののしっかりと手入れのされたそれを一式譲ると言われた時は思わず大きな声で感謝を口にした。

教本に文具を揃えるのに加え、こちらへ来るのにも多くの金を手放す事となった貧乏学生には破格の待遇であった。

何度も頭を下げる自身に先生はおいらかに笑い「書が好きになってくれたら嬉しい」と話された。


そんな先生は以前は精力的に個展を開きお弟子さんを連れ添って全国各地を廻ったりもしたらしいが、今は教え子の学びに集中してやりたいと数年前から邸宅の一部をお弟子さん方の教室としたそうだ。


今では近所の童も学びに通って来ており週末は中々賑やかな教室となっている。

教室ではまず手本として朱墨で先生が書いた字を渡されるのだが、これは書いている所を見た方が学ぶべき所が分かると言うものだ。


先生は幼くやんちゃ盛りな童達に時折手を焼く様子を見せるものの自分や兄弟子さんが仲裁に入りいざ教室が始まると、途端に書道家としての顔付きになる。

背筋をピンと伸ばし文机の定位置に配された硯から墨を吸わせた筆を慣れた手付きで掬い取るとそれが自然だというように滑らかに腕が踊り始める。


視線は目の前の半紙に合わせたまま、鋭さすら感じる眼をジッと固定して黙々と書き進める姿は呼吸の音さえ立てるのが忍びなく思われる程で。


伸び伸びと縦線、横線を描く腕。

それに対して角でビシリと止まる指は力強く、その直後に滑らかに線が伸ばされるとつい見入ってしまう。

跳ねから飛ぶように点へ繋ぐ手が半紙の上を踊るのを文机の前で見ている時は教室へ入る度に騒がしくしている童達も黙って見守っていた。


白髪を数えた方が早い頭髪にやや曲がった背。普段は押したら簡単に倒れてしまいそうな気すらある穏やかで物静かな先生は、書に対してだけは厳格な面を垣間見せた。


前に一度童達の中でも一際やんちゃな坊主が教室内で駆け回り墨を思い切り零してしまった事があった。と言っても辺り一面を墨の海に変えた訳ではない。硯に残っていた墨を兄弟子さんが片付けていた際にぶつかってしまい文机に跳ね飛んだのだ。

その坊主は走るのを止めぶつかった事を直ぐに詫びた。小さな子が多少の墨を零すだけならよくある事。被害が無ければ先生も笑いながら諭すに留めただろう。


けれどその墨が染め上げてしまったのは文机の一部だけでなく、その上で乾かしていた兄弟子さんの作品であった。今度開かれる地域の個展にその兄弟子さんを伴い展示する予定であったものの一つだ。


その時ばかりは先生も穏やかな面を取り払い、眉を吊り上げその童を叱りつけた。鋭い眼に睨まれて聞いたことが無かった激昂の滲む説教に肩を小さくさせるその姿に哀れに思った兄弟子さんが仲裁に入らなければ三時間は懇々と説教が続いていただろうと思われる程の怒りようだった。


説教の間文机の上を拭き、作品にとって汚れとなってしまった新たに付いた墨を書き損じの半紙を押し当て乾かした後は皆んなじっと息を潜めて先生の説教を聞くに徹していた。


その時に血が滲むのではと心配になる程握られていた拳がいつ童へ飛ぶのかと冷や冷やした事も鮮明に思い出される。


日焼けした歳を感じさせる皮膚の下には、けれど衰える事のない力瘤が筋を立てているから本気で振るえば石頭の童もあまりの痛みにはしゃぐ事を控えるだろうに先生が勘気を起こしてその手を振り上げる所は結局一度も見たことが無かった。



皺の多い手は節くれだっており筆を持ち続けて来た年数を感じさせる、決して乱暴な事はしないのに力のある手だった。  

そんな手が半紙へ描く流暢な、それでいて重みを感じさせる字は先生の尊敬するものの一つで好きな所でもあった。




ーーーそんな感慨に耽っているとひらりと舞う色が目の前に飛び込んで来た。

慌てて足を止めそれを見遣ると、なんて事はない。色なき風に吹かれた枯れ葉がその身を躍らせながらやって来たのだ。褪せた茶や赤が独特に入り混じり浅蘇芳の色彩に染まる葉はどうやら桜の葉らしく、翳る陽に葉脈が透ける様が不思議と目に惹きつけられる。


軽い身を翻し此方へ来た枯れ葉はややあって勢いを無くし、くるくると舞うように弧を描くとやがて自身の足元で地に着いた。


何となく気になり重い身体を曲げ足下のそれを拾う。複雑に色が混ざり合い綺麗に染まる浅蘇芳は夕暮れの弱い光も相まって不思議な輝きを帯びているように感じる。


この色は、先生のお気に入りの色だ。先生が教室を終えて作務衣から着流しへ着替えるのは普段の習慣だ。

その時特に気に入って着ているのが少し布の擦り切れた浅蘇芳の着物であった。

襦袢は宜しい物を必ず身に付けるのに対して、その上に着る紬の着物はどこか歳月を感じさせる物ばかりを身に纏っているのだ。


兄弟子さん方はそれについて何も言わずに居るので先生の好みに口を出すのはなんとなく忍びなく、何も触れずにいる。先生にとって大切なものであると、口には出さずともその様を見ていれば自ずと分かるものだ。


個人の大切な物というのは不躾に触れるべきではない。実家の父より事ある毎に教えられていた言葉が自身に呼び掛ける。

先生の大切な色は、触れてはいけないもの。


頭の中で思いを巡らせると今手に持つそれも何処か自身が持っていてはいけない心地がして来た。


……このまま地面に置いて去ってしまおうか。

元々自身が拾わなければこの地に身を委ね、世の諸行に任せるしかない代物だ。

また風で飛んでいこうと誰ぞの足にその葉を散らそうと自身の預かり知らぬ所だ。


そう思い至り手の中で弄ぶそれを風に晒そうと指先で摘んだが、暫く後に音を携えてやって来た風からさっと庇うように枯れ葉を持ち直した。


道を歩いていればまたこのような色彩の葉なら幾らでも見当たるだろうに。そう思いながらも今は何となく。そう、なんとなく先生にこの桜の葉を見せたいと感じた。

今手に持つこの葉が良いのだと、心に訴え掛けて来るものがあった。



……何故なら自身もこの独特な風合いの葉が。そして先生としての顔を解き、己の好きなものを只大事に愛おしむあの人の姿が、好ましく思うから。


今日はこの葉と共に帰ろうか。

そう決めると前を見遣り手の中で淡く主張する浅蘇芳を携え帰路を歩く。教本や帳面、文具の詰め込まれた重たい鞄が肩に食い込み鈍く痛みを主張する。時折吹く乾いた風が一日酷使した目に沁みたが心地は普段よりもずっと軽かった。


帰ったら先生や兄弟子さんに一番にこの葉を見せよう。

綺麗な色なのだ。とても。落ち着いているのに目に映える、鮮やかな色だから。


きっと先生は穏やかな御顔をして話を聞いてくれるだろう。

そうしたら先生も話してくれるだろうか。あの何年も着ているにしては良く手入れされた着物の事を。








ーーーもう少しで家に着く所だった。


路地を曲がり生垣をぐるりと回り、見えて来た門とその先の瓦屋根にまた足取りが軽くなるのを確かに感じたのに。


……急に身体が、意識が遠のき。気が付けば見慣れた天井を只眺めていた。



数拍置いて口から息が零れ落ちる。それまでの僅かにあった高揚感も霧のように呆気なく薄れ、今は只自身の重たさだけが身体中に満ちていた。


………酷く懐かしい夢だった。


目を閉じれば教室に吹く風に乗る金木犀の香りも、墨を刷る慣れた音も、半紙の擦れる小さく軽やかな音も、文机の前に座り込んで強張った身体のあの感覚すら、何もかも思い出せるのに。


あと少しで、先生に会えたのに。


落胆はまた一つ溜め息となり口から零れ落ちた。先生に教わりたいことがまだ沢山あったのだ。浅蘇芳の色を、先生と共に見たかった。

瞼の裏にくっきりと残る鈍い赤色はいつまでも消えてくれない。その色を纏う先生の、穏やかな表情も。


頬を伝う水滴は自身の何に共鳴して流れたものか。この思い出以外何も残っていない自身にやるせ無さが募り、我が身に起きた災厄にひたひたと腹の底から憎悪が湧き上がって来る。


途端ざわり、と身体を温いものが伝う。腹の底を染め上げる激情は墨のような漆黒となりじわじわと身の内から焦がすように侵食していくが、それを止める術のない自身は黒い感情に身を任せるのみ。

内側から塗り潰す漆黒で染められる毎に寸刻前までは鮮明に思い出せた風景が色褪せ形を喪っていく。だが、それを取り戻す術は何も持たない自身は憎悪を重ね続ける。


その様に更に哀しみが募り怒りが膨れ上がった。哀しみと怒りと失望と恨みがない混ぜになった暗い、冷たいものが今にも外へ溢れだそうとしていた。



どうして自分が、どうして自分だけ。帰してくれ先生の元に。帰せ……帰せ…………帰せ!!!


視界すら墨に塗り潰された頃には最早頬を伝ったものが何なのかも思い出せずにいた。




ーーそんな折、身を焦がす激情とは対照的な静かな音が耳に届いた。


墨一色の視界の中、音を頼りに緩慢に首を巡らせると分厚い墨の向こう側に一人の少女が立っていた。少女は目の前の光景に驚く様子もなく静かに此方を見つめると囁くように言葉を紡ぐ。



「ーー浅蘇芳、遅くなってごめんなさい。何か哀しい夢を見ていたの?………どんな夢か教えてくれる?」



そう言い差し伸べられる手は背丈同様小さく頼りない。けれど意志の籠った手だった。

乾いた秋の寒さから守ってくれる温かな手だった。


そうだ。この手が優しく温かいことを自身は知っている。


縋るように腕を伸ばせば少女は安心させるように、慈しむように笑んで見せた。


「もう大丈夫だから。一人にしないよ。だから教えて?貴方の想い(嘆き)を」



そう言う少女の(たましい)は優しい青磁色をしていた。




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