ブラックなブラックコーヒー
美容室を営む麻生誠瑠は、美術館で出会い常連となった大江祐子と付き合い始めた。この二人はそれぞれ47歳と27歳の歳の差カップルだったが、美容師の誠瑠は見た目が若く、あまり違和感がなかった。
祐子には黒い過去があった。小学一年生のとき、祐子の母親は元彼に殺された。それでも父親と二人で気丈に生活していた。
一方、誠瑠は近所に住む三歳年上の安田源蔵と同棲愛だった。祐子と付き合い始めてから、源蔵とは距離を置くようになった。
この日は店が暇で、祐子が遊びに来ていた。誠瑠がキスをしかけたとき、誠瑠の携帯に着信が鳴った。誠瑠は着信の相手を見た。
「今から男の人がくるけど、いい?」
「大丈夫です」
すると誠瑠は電話を取り、「いいよ」とだけ言った。
電話のあとすぐに入ってきたのは源さんだった。源さんは誠瑠の店に入る前に必ず電話を鳴らす。施術中に男性が入ると嫌がるお客様がいるからだ。
源さんは入ってくるなり祐子を見たが、スルーして誠瑠の前に行き、いちご牛乳を手渡した。
「ありがとう、源さん」
さっきまでのセクシーな雰囲気とは全く別人のようにいたずら顔になり、源さんのお腹をつついた。
祐子はそろそろ帰ろうかと上着を羽織ったときだった。
「あ、源さんにも紹介しなきゃね。僕の恋人の祐子さんだよ。祐子さん、僕の友達の源さん」
恋人?複雑な思いだが、祐子は冷静を保った。
「大江祐子です」
「大江…、あ、いや、安田源蔵です」
祐子ははっとした。その顔に見覚えがあったのだ。
「また来ます。さようなら」
祐子は逃げるように外に出た。
源さんは店のドアの鍵を閉めた。
「あの子が美術館デートの子か」
「そうだよ。とってもいい子でしょ」
「気に入ったのか?」
「ちょっと特別な感じ。なんか、楽しかった」
「あの子はやめとけ」
「あれ?源さん焼いてるの?」
「俺の好みは違う」
「そんなこと言って、なにげに源さん食いついてるじゃない」
「お前があの子に食いついてるからだよ」
「だって、なかなか可愛いじゃない」
「大江って言ったよな」
「うん、大江祐子さんだよ」
「ふうん」
「あ、やっぱり気になるんだね」
「ちげーよ」
二人は祐子と知り合う前のようにじゃれあった。
前回の来店から2週間後、祐子は再び誠瑠の店を訪れた。
誠瑠は黒いTシャツにジーンズ、大きなペンダントにイヤカフに指輪とシルバーアクセサリーをジャラジャラにまとい、前回会ったときとは別人のようだった。
誠瑠は祐子に向かい合って顔を眺めた。思わず目を閉じる祐子。
「あの、源さんはよく来店されるんですか?」
「え?源さん?」
まさか源さんのことを聞かれるとは…
「来店というか、毎日遊びに来るよ」
「私、見覚えがあるんです」
祐子の声は震えていた。
「源さんをどこかで見たの?」
「空似かもしれないけど、初めて源さんを見たとき、どこかで見たような気がしたんです」
「大きなおじさんを見ると、みんな同じに見えるんじゃない?」
「でもたしかに見覚えがあるんです」
「源さんが二人も三人もいるわけじゃないし」
祐子は笑った。
「そうですね、何度か見ているうちに思い出せるかと思って」
「もしかして、源さんを見に来たの?」
「あ、いえ、あの…」
「源さんが好きなの?」
「違います!」祐子は強く否定した。「そうじゃないけど…なんか気になって」
誠瑠は内心安堵した。
「源さんは武骨に見えるけど、いい人だよ。優しくて体力があって頭がよくて、鑑識だから安定してるし。独身だから、いいんじゃない?」
「本当に、そういう意味じゃないんです。ただ、どうしても気になって…」
祐子は動揺していた。
「僕に会いに来たんじゃなかったの?」
「あ、いえ、麻生さんと一緒にいると楽しいから…」
「やっぱりね」店の鍵を締めた。「ここに座って」
待合用のソファーを指差した。祐子が座ると、誠瑠は隣に座った。
「キスしていい?」
祐子は戸惑った。
「いや?」
「…いえ」
「いい?」
「…はい」
祐子の肩に手が回り、唇が触れた。
「お嬢様、正直でよろしい」唇が触れたまま誠瑠は話を続けた。誠瑠の息が言葉と一緒に唇を通して祐子に伝わってくる。「本当は、僕のことが好きなんでしょ?」
再び誠瑠の攻撃がきた。声にならない囁くような響き。
「…はい」
「本当に正直だね」
祐子にはその声が怖くもあったが、吸い込まれそうで、どこか魅力的でもあった。
「祐子さん、祐子…そう呼んでもいい?」
「はい」
「僕のことはセイルでいいから」
「セイル、さん…」
「そう、セイルね、さんは付けなくていいから」
誠瑠は再び唇を付け、祐子の舌に絡めた。祐子はおとなしく受け入れた。
「なんだか、祐子とは気が合いそうだ」
「私もです」
「ずっと仲良くしようね」
「はい…」
祐子の手が誠瑠の背中に回りかけた。
誠瑠の息が荒くなりかけたとき、着信が入った。
「もうそんな時間か」
誠瑠は携帯を取った。
「あと五分待って」そう言い終えて通話を切り、車椅子に乗り換えてドアを開けた。
「源さん、おかえり」
源さんは夢心地の祐子を横目で見た。
「祐子、源さんだよ」
祐子ははっとした。
「こ、こんにちは」
何かを思い出しかけたが、祐子の頭の中は真っ白になってしまった。
「誠瑠と話があるんだ、悪いな、お嬢さん。これでも飲んでくれ、温かいうちにな」
源さんはブラックの缶コーヒーを持たせて祐子の脇を通り、誠瑠の横に立った。
「ありがとうございます」
祐子は缶コーヒーを受け取りカバンに入れ、誠瑠に手を振り、ドアを締めた。
祐子を見送ると誠瑠の笑顔が消えた。
「邪魔しないでよ」
「邪魔してねえし」
「源さんが来たから帰っちゃったじゃないか」
「そう言うなよ。ほら、お前が好きなハンバーグカレーといちご牛乳」
源さんは袋から夕飯を出した。誠瑠は無表情に受け取った。
「ありがとう」
「今あの子と何をした」
「祐子が、源さんに見覚えがあるんだってさ」
「空似だろ。それより、キスしたんだろ」
「してないよ」
「いや、しただろ」
「源さんに関係ないだろ」
「俺は一生誠瑠を守ると決めたんだ。あの子は絶対にダメだ。やめとけ」
「どうしてそんなに反対するのさ」
源さんは唇をなめた。
「あの子は、俺の元カノの娘だ。あの子には俺が母親を犯したところを見られている」
「まさか、源さんが…?」そうつぶやき、再び源さんを見上げた。「そういえば、源さんに見覚えあるって」
「なんだって?」
「あ、いや…」
「やはり、あの子に青酸カリ入りの缶コーヒーを渡して正解だった」
誠瑠ははっとした。
「さっきのコーヒーが?」
ドアを開けて車椅子を力一杯こいだ。
「こら待て」
止めようにも店を放置して一目散に飛び出す誠瑠。源さんは戸締まりをして誠瑠を追いかけた。
誠瑠は辺りを見回したが、祐子の姿がない。全力疾走しているうちに転倒した。追いかけた源さんが誠瑠を起こしたが、源さんを振り払い、再び祐子を追った。車が来るすれすれを走った。
「危ないじゃないか、コラァ」
運転手の怒鳴り声が響いた。
誠瑠はどうにもならない自分を悔やんだ。これ以上祐子を追うことができない。
「祐子ー」
思い切り叫んで泣き崩れた。
どのくらい経っただろうか、肩を叩かれ、その手を振り払った。
「うるさいなあ」
「麻生さん?」
祐子の声がする。誠瑠は顔を上げた。目の前に祐子が覗き込んでいる。
「何の騒ぎですか?」
首を傾ける祐子の手を触った。
「コーヒーは?」
祐子はカバンから缶コーヒーを出して誠瑠に差し出した。
「私、コーヒー飲まないんです。お父さんがブラック好きだから持って帰ろうと思ったけど、よかったら麻生さん飲んでください」
祐子の笑顔に誠瑠は一気に肩の力が抜けた。
「じゃもらうね、ありがとう」
受け取ってポケットに入れた。
「祐子、気をつけて帰ってね」
「麻生さんこそ気をつけてください」
互いに手を振って別れた。
向きを変えると、暗闇に源さんがいた。
「源さん、これ飲んで」
「俺もコーヒーは飲まねえよ」
缶コーヒーの回りの指紋をハンカチで拭いて差し出した。
「祐子はコーヒー苦手だってさ」
「そうか、母親はブラックをよく飲んでいたのに」
源さんは片頬で笑った。
「源さん、今までありがとう。でも、祐子を殺そうとするのは許さないから」
「俺よりあの子が大事なのか」
「祐子が好きなんだ」
「誠瑠、なんでそんなに変わっちまったんだよ」
「今回は本気だから、かな」
「どうせすぐに別れるさ」
「早く飲めよ、青酸カリ配合コーヒー」
源さんは缶コーヒーを一気に飲んだ。
「うっ」
「さようなら、源さん」
誠瑠は悶え苦しむ源さんを後に店に帰った。