透明な猫
吾輩は猫である。
色はもう、ない。
いつから色が抜け落ちてしまったのか、うっすらと見当はついている。
もとは透けるような美しい白色の体毛をしていたのだが、とうとう光に溶け出してしまったらしい。
「ゆきー!ゆきー、でておいでー」
吾輩の名を呼びながら、下僕が吾輩の前を通り過ぎていった。見つけやすいようにわざわざダイニングテーブルの真ん中に座っていてやったと言うのに、下僕には見えていないのだ。
まあ、吾輩が透明になった事が原因なのだから悪いのは吾輩かもしれないが、それにしても無視されるのは気に食わない。よし。一つ、驚かせてやろうか。
音を立てず、エレガントにテーブルから飛び降りると、壁に片手をついて、ゆっくりと歩いている下僕に近づいた。
「ゆきー、ゆき、いるんでしょー。でてきてよー」
情けない声で吾輩を呼ぶ下僕の足にすりっと身体を擦りつけた。
「うわあっ!ゆきっ!?」
驚いている下僕の様子に満足して「なーお」と笑ってやった。
「ゆき~、呼んだらぐに来てよ。いなくなっちゃったかと思ったじゃん」
下僕は吾輩を抱き上げるとギュッと抱きしめた。吾輩が確かにそこにいるのを確かめるように、吾輩の体温に縋るように。
吾輩が色を失ってから下僕は少し変わった。
まず、家を空ける時間が長くなった。帰ってくると特有のツンとした匂いがするから多分病院に行っている。吾輩の色を戻せないかどうか、あの獣医とかいう気に食わない奴に相談に行っているのだろう。余計な事だ。
次に、家を出る時の装備が変わった。細長い杖を持ち、真っ黒なメガネをかけて家を出ていく。願掛けか何かだろうか?人間のやる事はときどき意味が分からない。
ともあれ、下僕が色々な努力をしているにも関わらず、吾輩の色が戻る気配はない。それが悲しいのだろう。吾輩の事が見えないのが寂しいのだろう。下僕が吾輩を抱きしめる頻度は前よりも増えたし、その強さは増した。
正直不快だが、それもこれも吾輩の色がなくなってしまったからなのだ。寛大な気持ちで許そうではないか。
まったく、吾輩が透明になってしまったからと言って、下僕を捨てるわけなんてないのにこ奴は不安らしい。甘ったれなことだ。
下僕の頬をざりっと舐めてやると、下僕が吾輩の方を見て笑った。
その瞳にもう吾輩が映ることはないのだろう。
それでも、共に生きると決めていた。
盲目になった飼い主と、飼い主を想う飼い猫のお話