半分ずつの僕ら
・人生でたった一度だけ、人を殴ったことがある。
何がきっかけでそうなったのか、もう思い出すことができない。
原因となったトラブルは覚えていても、争いごととは無縁の生活をしていた僕が、なぜその選択肢を取ったのか。そのトリガーは何だったのかが、記憶の彼方に消えてしまった。
ただ殴った瞬間が、猛烈に痛かったことだけは、今でも鮮明に覚えている。
自分で殴っておいて自分が痛かっただなんて、我ながら身勝手な話だと思う。
恋は盲目、と言った方がいいだろうか。
人を殴ると言った粗暴な凶行に及んでいる間も、僕はかつて恋した少女、みゆきのことしか考えていなかった気がする……。
内向的でコミュ力の低い僕と違って、みゆきは活発で明るく暖かく、何より優しかった。
その昔流行した「イーストキャラバン」というバンドが好きで、持ち歩いているポータブルプレーヤーには、必ず彼らの曲が入っていた。
テスト期間中だというのに、ライブ会場まで引っ張られたこともあった。授業をサボって一緒に屋上へ出たこともあった。
さんざんいろんな場所に振り回されたものの、僕はみゆきとの時間を苦に思ったことは一度もない。
彼女といると楽しかったし、日々新しい発見があった。
それだけ僕は彼女に惹かれていて、彼女も僕を大切にしてくれていたと思う。
そう、一人の幼馴染として……。
その日は夏休みの補習帰りで、二人揃って買い食いしたアイスを食べながら公園に寄った。
夕焼けで紅色に染まったブランコに座り、とりとめもない話をしているうちに、どちらからだっただろうか、恋愛の話になった。
「みゆきはさー、結婚するならどんなやつがいいの」
卑怯にも僕は、正面から勝負をせずに僕の名前が彼女の口から出ることを期待していた。
「ん〜……少なくとも、勇介はないかな」
「ないんだ」
「ない」
無遠慮な彼女の性格ゆえか、いや、それ以上に真っ正面から勝負をしなかった僕に、神様が罰を当てたのだろう。
十数年の思いはあっという間に砕け散ったが、今回はただ男として振られたというのとは事情が違う。
彼女の瞳を見れば一目瞭然だ。
目の奥にある心の虚像を、見えない茨のようなもので縛り付けられているような具合だった。
「これねー、言おうかどうか迷ってたんだけど……」
みゆきが何かを覚悟したように感じた。目に見えない茨から、心を解き放とうとしているのかもしれないと思った。
彼女の心という魔窟から、鬼が出ても蛇が出てもいいように、僕は最大限に準備を整える。
「私ね、女のコが好きなんだ」
「……」
なぁんだ。
口に出さないようにするのに必死だった。
数秒程二人とも沈黙し、夕日が薄紫色になって遠くの空でカラスが哭いたタイミングだったか。
おもむろに立ち上がり、当たり付きのアイスの棒をビニール袋に突っ込んで、僕はブランコから立ち上がった。
「しってた」
ポツリと言ったつもりが、まるで世界中に響く大声で叫んだのではないかと錯覚するほど、たった4文字が心の中で反響し続ける。
みゆきの顔は見なかった。見るまでもなく、目を丸くしているはずだからだ。
当たり前と言えば、当たり前なのだ。
みゆきは、そういう話を一度も僕にしたことがない。
それでも彼女が、小中高校時代と、稚拙でみずみずしい青春の中で経験してきた悲恋や失恋の数々。
そのほとんどを間近で見せられてきたのだ。
気づかない方がどうかしている。
「ぁ……あの、えー!い、いつから……」
「忘れたけど、高校入る前だと思う」
「ええええ〜……!!そんなに出てた……?」
「出てた。てか、『フラレた』って事後報告しに来たの、全部女でしょ?あれ」
「なぁんでまだ覚えてんのよ〜!」
困ったようにおどおどとしながら目を泳がせるみゆき。
その上で少し僕の方を伺っているのは、僕による反感や軽蔑の類を恐れているんだろうか。
何て言ったらわかるんだろう。
ボソボソつぶやきながら頭を掻いたあと、僕は、今から考えてもとんでもないことを口走った。
「僕はさぁ、みゆきのこと好きなんだよ」
数秒前のカミングアウトを受けたの僕の告白。
みゆきの心は、数秒ほど整合性が取れていなかったことだろう。
「勇介……?」
「全部わかってたから好きって言わなかった。これからも多分言わないと思うけど……」
もうとっくに日は暮れていると思ったのに、色白だったみゆきの肌が少し赤くなっているのがわかった。
頷くのがやっとの思いのみゆきだったが、僕は構わず続けた。
「たぶん、みゆきは僕の半分くらいなんだと思う。みゆきが僕の半分ぐらいを形作ってくれたから、今の僕がここにいて、毎日なんだかんだ楽しくて……だから」
頭上にはもう1番星がキラキラ光っていたが、そんなものは、もう僕の眼中にはない。
星なんかよりよっぽどまばゆい宝石は、目の前のブランコにへにゃりと座り込んで、僕に綺麗な眼差しを向けていた。
「僕は、きっとそういう意味でみゆきが好きなんだと思う。本当に、好きなんだと思う」
「……うん」
小さな声で頷く彼女。
この愛おしさをどう表現したらいいのかわからない。
抱きつくのも違う。キスをしたいわけでもない。
もっとも、今のみゆきにそれを受け止める力はないだろう。
そんなことではないのだ。
もっとちゃんと、もっとちゃんと、この好きを余すことなく伝える手段があったなら……。
あまり出来の良くない脳みそを絞って、結局、手を差し伸べるのが精一杯だった。
「これからも、半分ずつでやっていきたいんだけど、いい?」
後から考えれば、これは、プロポーズになってしまっただろうか。
端からみればそうなのだろう。でも僕にとって、これはそんなありきたりな提案ではなかった。きっと彼女も、その意図を分かってくれていたんだと思う。
人生を揺るがす契約にも近い、大いなる約束。
ずっと鉄の鎖を握っていたせいか、随分と汗ばんだみゆきの手が僕が差し伸べた手に重なる。
「うん……!!うん……!!よろしく……!!勇介!!」
泣きながら手を取る彼女との契約のもと、一番手っ取り早い理想だった恋人の関係より、僕たちはもっといいものになったのかもしれない。
*
あっという間に季節は流れ、やがて入試の季節がやってきた。
推薦枠だった僕は秋のうちに入試を終わらせ、みゆきは憧れの音楽学校への入試に向けて書類の準備を進めていた。
この頃から彼女は以前とは違う授業のサボり方をするようになった。
3階の奥のもう使われていない会議室に忍び込んで、一人メモ取りながらギターを弾いていた
「作曲?」
「うん、卒業式の日に好きな人に聞かせて告白しようと思って」
屈託のない笑顔でそう言った彼女に、ただ肯定の言葉をかけてしまった。
もしかしたら、これが間違いだったのかもしれない。
僕には、実を言うと、彼女の想い人に心当たりがあった。
クラスでけばけばしい遊びをしていた、女子グループのリーダー格。西宮千里ではないかと思っていたのだ。
正直、みゆきが彼女のどこに惹かれたのか、何年経っても分かりかねるが、今更確かめる意味はない。
ただ、この時から嫌な予感がしていたのだ。
彼女の持っている愛情が、みゆきと同じ形とは、申し訳ないながら到底思えなかった。
そんな中でも休み時間や放課後、そして自習時間の合間に抜け出してギターを弾いては、ノートをくしゃくしゃにしている。
そんなひたむきな彼女を見て、とても後ろ向きな忠告など僕にはできなかった。
「やいてめーら、何してんだ?」
作曲に引き続き付き合っていたある日のこと、担任の烏丸誠二先生がひょこっと顔を出した。
「あ、烏丸センセ〜!」
「あーじゃねー葵!このバカ娘!てめ進路ちゃんとやってんだろうな」
「ひどいな〜!ちゃんとやってるよ〜」
「テメーは勇介と違って信用ならねえんだよ!」
作曲がはかどっていたのは、会議室の無断使用やサボタージュをなぜか烏丸先生が半ば黙認してくれたおかげだと思っている。
あの時なぜそうしたのか、その答えを聞く前に先生はなくなってしまったのだが、一応僕が“模範生"の部類だったからかもしれない。
みゆきはみゆきで成績には難があったが、周囲の評判も良く、人として先生方から信頼されていたのもあったかもしれない。
「見逃してやるから、遅くまで残ってんじゃねーぞ」
そんなふうにして、毎日少しずつではあるが、作曲が着々と進んでいた。
*
そんなある日。
いわゆる誰にでも絡むタイプ、陽キャラ特有の社交性を売りにしていた西宮が突然みゆきに冷たい態度をとるようになった。
恐れていた事が起きたかと思っていたが、どうも様子が違う。
西宮の彼氏、岡山がみゆきの様子を伺うようになっていたり、みゆきは放課後誰かと会うようになっていた。
僕と帰ることも少なくなったが、僕らは別に交際しているわけじゃない。
少し心配ではあったもが、様子を見守ることにした。
深夜にみゆきからのLINEが入ったのは、卒業式も間近に控えた春休みのある夜のこと。
みゆきは烏丸先生の指導もあり、見事志望校からの合格通知を受け取ったばかりだった。
『岡山くんに告白された!』
『どうしよう!』
ごく短い文章の中に、彼女の焦りと戸惑い、それに恐怖にも似た何かが凝縮されているように感じた。
ここで繋がった。岡山がみゆきに言い寄っていたのだろう。
思えば、彼は西宮との交際を、近頃面倒くさがっているように感じた。
僕の予測が間違いでないのなら、いや間違いでないからこそ、この想定しうる限り最悪のトラブルは起こったのである。
*
次の週の月曜日。僕は春休みなのを無視して、いつもの会議室に向かった。
僕は焦っていた。
例のメールが入った翌日に、別の友人から噂を聞いたからだ。
いわく、岡山がみゆきにキスをして、そのシーンを西宮に見られての地獄絵図。
現場を見た1年生の話では、最初に仕掛けたのは岡山の方らしいが、どちらが本当かなど確かめようもない。
どちらにしろ西宮一派には目を付けられるし、会議室でみゆきがギターを弾いてるのはもはや学年中に知れ渡っていた。
そうなるとかなり面倒くさい。
しばらく学校には近寄らないよう、警告をしようと思ったのだ。
だが、時すでに遅かった。
ギターを抱えたみゆきを、西宮が仁王立ちで黙殺していた。
「どういうつもり?」
僕は扉の影に隠れた。
元来争いは好まない主義なのだ。珍しい事に取り巻きもいない。このまま帰ってしまおうかとも思ったが、気になるのと、足がすくんで動けなかった。
「千里ちゃん!私は本当に何も……」
「名前で呼ばないでよ!慣れ慣れしい!」
「ごめん……」
普段から喧しい西宮だが、今日のみゆきに対するそれは、いつもと殺傷力が違った。
「どうなのよ……」
「……なにが?」
「何がじゃないわよ!あいつのこと好きなの?いつから狙ってたの!?そのためにずっと私にわざわざノート見せてきたり、消しゴム貸したりしてたの!?そんなにあいつのこと好きなの!?」
今にも鞄からカッターを取り出して、背中を白いコートごと赤く染めてやりたい気分でいっぱいだった。
前からそ西宮は、それほど好きな人種ではなかったが、ここに来て好きではないから嫌いに変わった。
一方的に自分の気持ちを放電して、受信する側の気持ちなどまるで考えない。
ここ数ヶ月のみゆきが、誰を想いながら苦悩して過ごしてきたかなど、きっと彼女は想像すらしないのだろう。
本当につくづく、こんな女のどこに惹かれたのだろう。
今すぐ二人の間に飛び出して言って、西宮に罵詈雑言を浴びせた後、みゆきを掻っ攫って二人で帰る。
途中の駄菓子屋でサイダーでも買って行って、二人で浴びるように飲み干す。
そんな勇敢な妄想をしていると、信じ難い言葉が聞こえた。
「私が好きなのは……!!!」
泣きながら、震えたような声で、みゆきがゆっくりと口から絞り出す。
僕は反射的に耳を塞いだ。
かすかに、半狂乱のような西宮の怒鳴り声と、作曲のメモノートがビリビリに破れて落ちる音が聞こえた。
怒り狂う西宮の目が、汚いものを見るように、その場に座り込むみゆきを見た。
みゆきを捨て置くようにして会議室を出ていく西宮。
扉の陰に隠れた僕には気づきもしなかった。
西宮が出て行くや否や、みゆきは大声でわんわん泣き出した。
絶望の津波が一気に押し寄せた。全身が硬直して、どうしていいやらさっぱりだ。
何をしている、みゆきは今一人なんだぞ。
僕のなにかが叫んだ。そいつに押されるようにして、僕は彼女の前に出てて、アイロンをかけたばかりのハンカチを渡した。
泣きながら彼女はハンカチで涙を拭い、貧弱な胸板にしがみついてきた。
「ごめん」
なぜそう言ったのか、僕自身にも理解できない。
彼女は首を横に振っても、僕には、同じことを言い続けるしかできなかった。
*
卒業式まであと3日。
わずかな登校日だというのに、みゆきは大掃除に来なかった。
先日の出来事を知っている人間にとっては、当然だった。
「マジで!?千里女だぜ!」
「マジキモいよな、あいつ」
駐輪場で聞こえてきたのはみゆきの悪口だった。岡山と金魚のフンの集団。
西宮と同じく、僕の嫌いな連中だった。
「あれだろあれだろ、LGBT!!」
「マジでいるんだな〜、ドラマの中だけだと思ってた!にしてもこじらせてんじゃんあいつ、キんモ!」
同じ空間にいるだけで吐き気がしてきた。
こいつらから一センチでも遠くに、一秒でも早く遠ざかりたい。
そう思っていたのに。僕は振り返ってしまった。
「そういえばあいつのクラシックギター、俺へし折っちゃってさ」
「うわ〜岡山ひでー!ギャハハハハ!」
「本当だよ、自分から誘ったくせにさぁ!!」
「どうせ安もんだろあれ、俺の女に手ェ出して、これだけって優しい方だろ」
僕は、振り向いてしまった。
その直前まで、トリガーになった一言以外にも、きっと色々吐き気のするような戯言を吐いていたと思う。
でも、脳がそれを認識するより早く、僕は岡山に飛びかかった。
その時の記憶はあまりないが、巾着袋に厳重にしまってあった何かどす黒いものが、排泄されるように外へ流れ出る。
あの奇妙な快感だけは今でも鮮明に覚えている。
取り巻きの連中にボコボコにされていてもおかしくない。
後から聞いた話では、僕が何も言わず無表情で岡山の上にのしかかり、石のようにガチガチな体は絶え間なく彼を殴り続けた。
サッカー部の連中が何人かいたはずなのに、誰にも止められなかったと言う。
駆けつけた烏丸先生によって、僕たちはそれぞれの部屋で反省文を書かされることになった。
通常の3倍のノルマを課せられたことに、いささか納得はいかなかったが、そこに反抗する気力はもう無かった。
結局全ての元凶である岡山は先に帰宅し、僕は烏丸先生に見張られながら作文を書くことになった。
窓からどこか遠くを見つめ、ベランダでタバコを吸う烏丸先生。
教頭先生あたりにでも見られればご法度である。
ちょうど書き終わったタイミングで、タバコを握りつぶした烏丸先生が部屋に入ってきた。
「書けたか」
「はい」
烏丸先生は吟味するように僕の反省文をチェックすると、何かを確認するように視線を僕の表情に写した。
「何がいけなかったか分かるか」
「殴ったことですか」
「それってさ、そんなに悪いことか?」
言葉の意味が理解できなかった。
そこを追求されて僕はここにいるんじゃないのか。
「いや、よそう。クビになっても嫌だし」
「はい……」
おおよそ、教師として言ってはならないことを考えているのだろうと思った。
そしてそれは、僕を擁護する側であると分かった。
「お前さ、白昼堂々殴ったのは何でだ。そこが気になる」
「特にないです」
「お前が人を殴ったのにか」
この人が何を察したのかは、ついぞ最後までわからなかった。
僕もここで正直な話をするわけにはいかなかった。
みゆきの秘密でさえも、この人に喋らなければならないからだ。
「理由がなくちゃダメですか」
「あいつらのこと叱ってやれねえからな」
西宮や、岡山たちのことだろうか。
ためにならないというのなら、それはそれでいい気味だった。
「でもそっか、お前……頑張ったよなぁ」
烏丸先生がまた窓の外を見る。
まるでその隙を見計らったかのように涙の雫が一つ落ちた。
「誰も知らないだろうけど、俺は何となく知ってる」
「先生……すいませんでした。」
「謝らんでいい。にお前は死んでも何があったか言わねーんだろ?やむを得んから反省文でこの件はチャラ、卒業式にちゃんと出るように、葵に言っとけ」
黙って頷くと、僕はカバンを背負って会議室を出た。
校門の前にみゆきが立っていた。
いろいろ言いたいことはあるのに、とりあえずそこに至ってくれている彼女がたまらなく愛しかった。
「帰ろう、勇介」
そう言ってくれた彼女に手を差し伸べる。
この傷が完全に消えることはないだろうし、癒えるまでにだいぶ時間がかかったのも事実。
それでも彼女を愛する誰かが現れるまで、僕は絶対にみゆきのそばを離れない。
そんな君の悪くていびつな絆を感じながら、僕は彼女に手を差し伸べた。
半分ずつの僕らの、変わった形の冒険は、今なお続いている。