第55話 小さなころの夢【後】
祖父はいつも優しかった。
その地位に見合わない穏やかさも持っていて、多くの人に好かれていた。
ただし厳しさがなかったわけでもない。
僕の教育については特に顕著で、決して妥協を許さなかった。
勉強は常に完璧に覚えることを求め、武術や魔術についても同様だった。
いつもそんな感じだったから、逃げ出したくなったことも一度や二度ではない。
けれど、祖父は普段は優しいのだ。
それに、なぜ僕にそのように厳しくするのかについて語ったことがあった。
「……もう嫌だよ。こんなに沢山覚えられない。魔術だって、使いすぎて頭が痛くなるし、武術だって毎日傷だらけで……そのうち死んじゃうよ」
僕が執務室で黙々と書類を片付けている祖父にそう文句を言ったときのことだ。
祖父も、十歳にもならない子供に無理させていることは分かっていたのだろう。
申し訳なさそうな表情で椅子から立ち上がり、僕が座るソファの横に腰掛けて肩に手を回す。
「……リュー。お主には無理をさせていることは分かっている。それに一生懸命耐え、頑張っていることも」
「じゃあ……もう止めてもいい?」
分かってくれているのなら、と僕は期待してそう尋ねた。
しかし祖父はゆっくりと首を横に振り、言う。
「それは、ならぬ」
「……どうして!」
僕が憤慨してそう言うと、
「それは……」
そこで祖父は口を閉じ、それから何かを逡巡するように目を瞑る。
そして、ため息を吐いて、
「……これは、そろそろ話しておいた方が良いかも知れぬな」
そう言った。
「……何を?」
僕が首を傾げると、祖父は言う。
「わしらの……そう。使命についてじゃ」
「使命?」
「あぁ……。たとえば、遙か昔の勇者が悪竜を倒すよう、運命づけられていたように、のう。分かるか?」
その話が、僕が好きで何度も呼んでいた物語のことを指していることを理解し、僕は頷く。
ずっと昔に、酷い悪さをする竜がいた。
沢山の村や町を滅ぼし、金銀財宝を奪っては自らの寝床に運び込み、好き勝手に暮らしていたという。
人々はそんな悪竜をどうにか出来ないかと毎日考えていたけれど、あまりにも強く、何人もの兵士でかかっていっても、全員簡単に退けられてしまう。
どうしたらいいのか、八方塞がりで、人々は毎日空を見ながら、悪竜が飛んでこないか心配して暮らしていた。
しかし、ある日、そんな悪竜を倒すべく、立ち上がった人がいた。
それこそが勇者だ。
彼は武器を持って悪竜の寝床に向かうと、瞬く間にその首を切り落とし、奪われた金銀財宝を持って帰ってきた。
人々は救われ、勇者は国のお姫様と結婚し、幸せに暮らしましたとさ……。
ありがちな物語。
でも、僕にとって当時、勇者は英雄だった。
今はというと、必ずしもそうではないというか、そんな夢物語が本当にあったと思えるほどおめでたい頭ではなくなってしまっている。
けれど、子供に善なるものが何かを教えるために、こうした物語が必要なことも分かっている。
当時の僕は、勇者の善性について疑ったことはなかった。
人々を苦しめるものを滅ぼし、救うこと。
それは間違いなく正しいのだと……そう思ってやまなかった。
だから、僕にも……僕の一族にも、そういう英雄になれる使命というのがある、という話は僕の心をわくわくさせたのだ。
「どんな使命があるの!?」
僕が祖父にそう尋ねると、
「世界を覆う闇から、人々を救う……そんな使命じゃな」
「世界を覆う闇……?」
かなり抽象的な言葉で、よく分からない話だった。
僕が首を傾げたのを祖父は見て、少し微笑み、
「そうじゃ。今はこの世にはないが……いずれ、それは現れる。そのとき、わしらは戦わねばならぬのじゃ。そのために、力を蓄えねばならぬ……」
「何と戦うの?」
「それはな……**とじゃ」
祖父の言葉が、うまく聞き取れない。
けれど、夢の中の僕はしっかりと聞き取ったようだ。
「そうなんだ! **と……。**って、強いの?」
「強いとも。この世を滅ぼしかねんものじゃからな。リュー。お主に勉学や魔術、武術を厳しく叩き込んでいるのはのう。何もお主が憎くてそうしているわけではない。**と戦うとき、お主が決して死なぬよう、今のうちから力をつけさせておるのじゃ。リューとて、死にたくはないじゃろう?」
急に出てきた《死》という単語に、僕は震える。
しかし、決して冗談や酔狂で言っているわけではなく、本気であるのは祖父の目を見れば明らかだった。
「そんなに強いの……?」
「強い。本来であれば、人などまるで相手にならん……そういう相手じゃ」
「だったら、一生懸命頑張って勉強しても、無駄なの?」
「……いや。そうではない。そうではないぞ、リュー。もしそうなら、この世はすでになく、世界は滅びておる。かつて**はそれをやろうとした……じゃが、わしらの先祖が退けたんじゃ」
「わぁ……! 英雄だ! 勇者なんだね!」
「そうじゃな。ただ、それは決して自分の力だけで行ったわけではない。多くの人々の力を借り、そして……**を手にして、初めて為しえたこと。じゃからな、リュー。お主もいずれ探すのじゃ。**が蘇るときは、近い。本来ならわしの代に訪れるはずじゃったが……わしは失敗したのじゃ。お主に使命を負わせることを申し訳なく思うが……担ってくれるか?」
そこで祖父は心底後悔しているような表情をし、僕に頭を下げた。
まるで許しを請うように。
けれど祖父がそんなことをする必要はない。
なぜといって、祖父は僕に英雄になるチャンスをくれたのだから。
だから僕は祖父に言った。
「もちろん! 僕、頑張る。勉強も、魔術も、武術も、そのためなら……頑張るよ!」
「……そうか。リュー、すまぬ。ありがとう……」
「どういたしまして」
僕がそう言うと、祖父は安心したように微笑み、それから、
「……ところでリュー」
「なに?」
「今日のこの話は、わしら以外の誰にも話してはならぬことじゃ。じゃが、人というのは……つい、誰かに言ってしまうことがある。わしでもそれは例外ではない。分かるな?」
「うん……そう、だね。そうだと思う」
以前、祖父に、料理長に内緒でお菓子をもらったとき、僕は料理長についそのことを言ってしまったこと思い出しながら頷いた。
すると祖父は、
「じゃからのう。今日のこの記憶は、時が来るまで封印しておこうと思う。良いか」
「封印……」
「そう、必要なときが来るまで、お主は今日のことを忘れる。他にもいくつか伝えることがあるが、それもまた同様にじゃ。しかし必要なときに、必ず思い出せるようにしておく。じゃから、心配することはない……良いな」
本来なら記憶をなくす、と言われたら恐ろしいことだと思うだろう。
しかし、僕は祖父のことを心から信じていた。
だからこそ、僕は頷いて、
「分かった」
そう答えた。
祖父の手が、僕の頭に置かれる。
そこから大きな魔力が迸り、辺りが明るくなる。
あぁ、そこできっと、僕の記憶は閉じられた……。
◆◇◆◇◆
「……っ!?」
真夜中、学園の寮で僕は目を覚ます。
辺りはまだ夜中だ。
窓の外には暗闇が広がっている。
「今のは……夢……?」
多分、そうなのだろう。
しかし、同時に示唆的なものを含んでいる夢だった。
必要なときに思い出すようにと祖父は言っていた……。
今日このときまで、僕はあの日祖父と話したことを、忘れていた。
でも、ところどころ、虫食いのように聞こえなかったところもあって……。
ただ、僕は思ったのだ。
「……僕は、祖父に捨てられたわけじゃ、なかったのかもしれない……」




