第54話 小さなころの夢【前】
「……痛っ!」
僕は足をもつれさせて、転んだ。
膝をすりむき、血が流れ出る。
痛みをこらえつつも顔を上げると、そこには僕と同じくらいの年齢の少年が、申し訳なさそうな表情で立っている。
大体、五歳くらいだ。
彼の名前は……なんだったかな。
記憶が遠すぎて、覚えていない。
というか、これは一体何だろう……いや、分かっている。
きっとこれは、夢だ。
僕が小さな頃の……本国にいた頃の、夢。
だって今の僕はこんなに小さくはないのだから。
「……お前が悪いんだ、リュー。お前が……お前の家が! お前の家がなかったら、父さんは遠い街にいかなくても良かったんだ……」
少年が、僕をそう言って糾弾する。
当時ははっきりとは分かってはいなかったけれど、それでも彼の言い分が一理あることを僕は知っていた。
彼の父親は、僕の祖父の部下に当たる。
少し前に仕事上、必要があって、遠くの街へと赴任することになった。
その決定を直接下したのは僕の祖父ではなかったけれど、最終的にそういった案に許可を出すのは僕の祖父に違いなく、だから少年の言うことは間違っていないのだと、なんとなく分かっていた。
だから僕は何も言えなかった。
流れる血が地面に溜まる。
さしたる量ではなかったけれど、このときはこのまま死んでしまうんじゃないかと不安になったっけ……。
でも、僕の家はない方が良いのだから、僕は死んでしまった方がいいのかも……。
そんなことを考えながら、僕を突き飛ばした少年とその場でなんともいたたまれない時間を過ごした。
どれくらい時間が過ぎただろう。
僕と少年のいざこざを目撃した誰かが呼んだのだろう。
大人がこの場にやってきた。
最初に来たのは、少年の母親……つまりは件の父親の妻だった。
彼女は僕の姿を見ると同時に目を見開き、怯えを顔に貼り付けながら、少年の頭を抑えて謝った。
「も、申し訳ありません、リュー様! この子は……あぁ、なんてことを! 将来の**様に、こんなことをして……! けれどどうか、お許しを。この子は何も分かっていないのです。罰を下すのであれば、私に……どのような処罰でも、受けますから!」
五歳の子供に大人の女性がするような態度ではなかった。
それは、僕も、そして少年も分かっていて、だからこそ少年は自らの母親に言った。
「母さん……! そんな奴に謝る事なんてない! こいつが、こいつの家がなきゃ、父さんは……!!」
「ゲード! なんてことを言うの! 謝りなさい! 早く!」
……あぁ、そうだ。
この少年の名前は、ゲードと言うんだったっけ……。
何か、大切な人の名前だった気がする。
けれど、夢の中ではそこまで深く意識が出来ない。
ただ延々と見せられる、過去のいたたまれない映像が流れていく様を、じっと見ていることしか出来ない……。
「……っ!」
ゲードは母親に頭を押さえつけられ、深く頭を下げることになった。
その姿に、僕はさらにいたたまれなくなる。
僕とゲードは同じ年の子供なのに、そして、僕がこんな風に怪我をしていることには、僕に責任があるのに、どうしてゲードがこんな風に責められなければならないのだろうと。
なんと言えば良いのか分からない。
どうしていいのか……。
そんな僕の気持ちが天に通じたのか、この場に新たに大人が一人、やってくる。
それは、僕の後ろからだ。
「……リュー。何があった?」
振り返ると、そこには厳粛な衣服に身を包み、錫杖を持った荘厳な老人が立っていた。
彼こそが僕の祖父である。
「おじいちゃん……何でもないよ。何も……」
「何もないということはないじゃろう。膝を怪我しておるぞ」
穏やかな様子でそう言って、それから僕の膝を見る祖父。
そんな祖父に、ゲードの母親が言う。
「……**様! も、申し訳ございません。大事なお孫様に、このような……全て私の責任です。ですから、どうか、どうかこの子は……!」
ゲードを庇う言葉。
これに祖父は微笑みながら言った。
「……デルマ。分かっておる。子供の喧嘩じゃ。誰を罰する、なんて話にはならぬよ」
「で、ですが……リュー様は、膝に怪我を……」
「おぉ、そうじゃな。だが、こうすれば……ほれ」
そう言って祖父は、ぶつぶつと呪文を唱えた。
すると、僕の膝から流れ出ていた血は止まり、傷もするすると塞がる。
それをさらに水で軽く流すと、そこに怪我があったことなどもう一切分からないようになった。
祖父は言う。
「これで問題あるまい。まぁ、そうはいってもゲード。これからは人を突き飛ばすことは、止める事じゃ。それは弱い人間がすることじゃぞ」
「で、でも僕は……父さんが……」
「ハザールのことは悪かったと思っている。だが、それを決めたのはわしじゃ。ゲード、わしを突き飛ばすか?」
「……そ、そんなこと……」
「何故出来ぬ?」
「**様は……偉い方だから……」
「偉ければ突き飛ばさず、偉くなければ突き飛ばすのか? それでは弱い者いじめになってしまうことは、お主にも分かるな?」
「僕は……」
「お主の気持ちは分かる。父上とずっと一緒にいたかったのじゃろう。それをわしのせいで邪魔されたと。だがのう。別に永遠に会えぬわけでもないし……父上は出世したんじゃぞ? ほんの数年待てば、またここに戻ってくる。そのときに、お主は弱い者いじめをしたと父上に言えるのか?」
「……言えないです……」
「そうじゃろう、そうじゃろう。では、わしの言うことも分かるな?」
「はい……リュー……ごめんなさい」
祖父の説得に、ゲードはついに僕に謝った。
それから、未だに地べたに座り込んでいた僕に手を差し出し、引き起こしてくれた。
「リュー、許してくれる?」
「うん……許すよ」
「ありがとう。また今度、遊んで欲しい」
「うん」
そして、祖父が言う。
「よし、これにて一件落着じゃ。まぁ、今日は遅いから遊ぶのはまた今度にするといい。それとデルマ。家に帰った後、ガミガミとゲードを叱るのではないぞ?」
「そ、そんな。**様。私も鬼じゃないのですから、そんなことはしませんよ……」
「本当かのう? まぁ、よい。では、帰るぞ、リュー。ではな、ゲード、それにデルマ」
それから先んじて歩き出した祖父の背を追いかけて、僕は走り出した。
たまに振り返りつつ、後ろに手を振ると、ゲードとデルマが僕に手を振っていた。




