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chapter1-3

 市内を循環するバスが、校門前に着く。

 授業が終わったばかりの時間、午後三時を回った辺りの時間帯は比較的に空いている。エリカは学生用の定期券を運転手に見せ、逃げるように一番後ろの席、その端に座る。腰を落ち着けるや否や、彼女は団子虫のように体を丸めた。そして窮屈な姿勢のまま、鞄から文庫本を取り出して視線を落とした。

 同乗者は突然現れた栗色の毛をした塊に興味津々で、奇異の目でこちらを見ている。その冷たい視線を感じながら、しかしエリカは歯を食いしばって堪えていた。

 断っておくが、エリカは好き好んでこの様な醜態を曝しているわけではない。

 高等部に入学してすぐの頃、彼女は普通にバスを利用していた。普通に席に着き、普通に文庫本を読んでいた。

 しかしある日、乗り合わせた同校の生徒にエリカ・コンターチェだと気付かれ、握手をねだられた。エリカは嫌々ながらそれに応じると、周囲の客もコンターチェ家のご令嬢が同乗していると騒ぎ出し、便乗して手を差し出してきた。

 しかもそのバスは校門前のバス停を出ると繁華街に向かい、買い物帰りの主婦や、早めの帰宅の会社員、街で遊んでいる若者なんかを大勢乗せるのである。思わぬスターの登場に沸く車内。そしてバスが停車する度に増えるギャラリー。目的地に着いても降車しない客達。次々と差し出される、握手を求める手手手。

密室であるため逃げる事も叶わず、エリカはそれらに応えていく。

 彼女が目的地に着いた頃には、バスは飽和状態。

「降ります!」

 と叫んで席を立つ彼女。しかし目の前には重厚な人垣。エリカは同乗者からの好意的なボディタッチにとってモミクチャにされ、最後に運転手と固い握手を交わしてバスを降りた。

 新品の制服はヨレヨレで、自慢の長髪はボサボサだった。

 これは今日だけの特別な事だ、なあに時が経てばそれも味になってくる苦い、苦い思い出として記憶の中に閉まってしまおう。そう心に決めたエリカだったが、次の日も、そのまた次の日も同じような目に遭った。

 バス通学は諦めようかと思った彼女だったが、徒歩や自転車ではさらに多くの人に顔を曝すことになると気付いた。バス以外の選択肢は無い、背に腹は代えられぬと覚悟を決めた彼女は、今の様な団子虫状態でバスに乗るという選択肢を選んだ。

 こうして丸まっていると、自慢の長髪が顔を隠し、周囲から見えない。また、見た目が相当に怪しいため、誰も近寄ろうとはしない。

 エリカは、エリカ・コンターチェとして混乱を呼ぶよりも、謎の茶色の塊として処理される方を選んだのだ。

 なんと健気な事だろう、彼女は今日も無理な姿勢で痛む背中に冷たい視線を背負って、帰路を急ぐのであった。


   ◆


 エリカが自宅であるアパートの玄関扉を開けると、姉のカシアの怒号が響いた。

「だから、何度も申し上げている通り、私には軍属に入る意思はありませんから!!」

 次いで、ガチーンという甲高い音が響いた。いつもの事だと、エリカは家に上がり、リビングに顔を出した。家具は必要最小限、調度品もほとんど無い。しかしそれらは全て外国の某有名ブランドの物で、スタイリッシュな統一感がある。そのリビングの中、壁掛け式の電話の前で、カシアは頭をガリガリと掻いている。

 エリカはそんな姉の背中に「ただいま」と声をかけ、ソファーの上に鞄を置いた。

「あ、エリカちょっと聞いてよ!」

 帰宅した妹の姿を見とめると、カシアはアンダーフレームの眼鏡をキラリと輝かせ、ヒステリー気味に悲鳴を上げた。

 これもいつもの事だと、エリカはカップを二つ用意し、コーヒーメーカーから濃い目に淹れたブラックを注ぐ。その隣でカシアはポテトチップスの袋を開け、木製の丸皿に中身を移している。

 二人は各々が用意したお茶とお茶請けを運び、ソファーに座した。そこが二人の基本ポジションであり、甘いお菓子と苦いブラックが二人の基本スタイルである。これから毎日恒例、コンターチェ姉妹の愚痴合戦が繰り広げられる。

 まず最初に堰を切るのは姉のカシア。

「聞いてよ、もう、参っちゃうわよ朝から立て続けに十件の電話、十件よ? 十件もう、どこのオフィスの電話にかけてるつもりなのかしらね、もう本当に、一日に十件も電話がかかってくる家庭がどこにあるのよ、しかもその内四件はどこからの電話だと思う? 空軍よ、空軍昨日も三回かけてきたのよもう正気の沙汰とは思えないわよ、親が空軍のエースだからって娘である私達も軍属に入ると思ってるのよ、ああ、やだやだ! なんて単純なロジックなのかしら、だから軍属って嫌いなのよ! この際だから電話線切っちゃおうかしら、そしたら電話もかけられないわよねおほほほほ」

 一気に捲くし立て、カシアはコーヒーを一口。ふうと長い息を吐いて、ようやっと落ち着いた。

 エリカと同じようにカシアも、日々周囲からの過剰な期待を浴びる生活を送っている。しかも彼女はライターという職業柄家に居る事が多く、軍関係者や各省庁からのヘッドハンティングの電話がひっきりなしにかかってくるのだ。

 彼女はそんな日々のストレスを、妹にぶつける事によって発散しているのだ。まあ、その後にエリカも同じ事をするのだが。

「ごめんなさい、おかげで落ち着いたわ」

「いいのよ姉さん、いつもの事じゃない」

 いつもの事という言葉に引っかかりと、情けなさを感じながら、カシアはコーヒーをもう一口すする。

「でも姉さん、電話線を切ったら仕事の電話も受け取れないでしょ?」

「あれはその場の勢いよ。本当に切ったりなんてしないわよ」

 くくく、とカシアは喉の奥で笑った。

「そうそうこの前ね、空軍か国防省の誰かさんかと思って、電話に出るなり怒鳴りつけてやったのよ。そしたら相手が担当さんでね、電話の向こうで悲鳴上げてんのよ、あれは笑ったわ」

「うわあ、可哀想……」

 担当さんというのは、カシアが原稿を納めている雑誌編集者担当の事である。

「その後ね、電話の向こうで震える彼女を宥めるので一苦労よ」

「あの人、姉さんをいつも怖がってるわよね。もうちょっと優しく接してあげたら?」

「彼女はコンターチェ家の威光に怯えているのよ。私がどんなに優しく接しても、払拭出来るものじゃないわ」

「それだけじゃないと思うけどな……」

 言いながら、エリカは思い出す。件の担当さんと原稿の事で衝突し、ヒステリーになって怒鳴りつけるカシアの姿を。そして、たっぷり一時間罵声を浴びせられ、嗚咽を漏らしながら帰路につく担当さんの背中を。

「まあ、良いけど……。それでも担当を降りないって事は、姉さんを認めているって事だしね」

「それはそうね。あそこは、私の最後のオアシスだから。ありがたい事だわ」

 エリカがカシアを見ると、彼女は憂いを帯びた表情で、どこか遠くを見るような目をしていた。エリカはその表情だけで、彼女が言わんとしている事を悟った。カシアも同じなのだ、コンターチェではなく、カシアという一人の人間として評価して欲しいと願っている。だから彼女は名を伏せ、顔を伏せ、一介のフリーライターと言う職業に身を寄せたのだ。決して脚光を浴びることのないカシアを、しかしエリカは羨ましく思うのだった。

 目が合うと、カシアはニッコリと微笑んだ。

「で、エリカはオアシスを見つけたのかな?」

 その言葉に、エリカは制服の胸ポケットから一枚の紙を取り出した。例の求人票だ。

 カシアはそれを受け取ってしげしげと眺め、次いで苦い表情を作った。

「え? 空軍基地? どういう風の吹き回しかしら?」

「基地は基地でも、厨房なのよ。別に箒に乗って戦ったりはしない、至極普通のお仕事なのよ?」

「そうは言っても、空軍基地でしょ? 正体がバレタ瞬間に担ぎ上げられて、あれよあれよという間にパイロットに仕立て上げられるわよ?」

「大丈夫、大丈夫、そんなヘマはしないわよ。悲しいけど、面接試験には慣れているんだから、平気、任せなさい!」

 何を任せるのだろうかと思いながら、カシアは首を横に振った。

 その所作に、エリカはムッとする。

「なによそれ! 妹の就職活動を応援してくれないの?」

「応援してるわよ。応援してるから言うのよ、わざわざ飛んで火に入るなんとやらは演じなくていいのよ、もっと地味で目立たない所に就職しなさいよ」

「虎穴にいらずんばなんとやらって言葉もあるでしょ! せっかく友達が見つけてきてくれた職場なのよ? 田舎で、まだ出来て間もない基地だから、そうそうバレる事は無いだろうって。多少のリスクは承知で、なんとか切り抜けてみせるわよ」

「貴方はそんなに器用な子じゃないでしょ? もっと自分の実力を測って物を言いなさいよ」

「何よ姉さん! 酷いじゃない! なんでそんな事言うのよ、何か根拠があるの?」

「根拠なんて無いわよ、でもね……」

 カシアはパッと眼鏡を外し、エリカと視線を合わせた。すっかり大人びて、母親に似てきた顔で、カシアはこう言った。

「カシア・コンターチェが言うんだから、間違いないわ」

 それは確かに根拠の無い言葉だったが、百の言葉を並べるよりも説得力がある。エリカは、何故かそう信じてしまっている自分を自覚した。


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