だからあたしは、キミのゴースト・ライター(前)
◆ ◆ ◆
「これは……何の冗談だ、『父さん』」
加勢を期待した『九番』も、詰みを覚悟したストライカーも。双方等しく戸惑って、眼前で起こる光景を半ば他人事のように見ていた。
《原初の男》が。悪を挫き正義を守る超人たちの頂点が。自らを父と慕う嘗ての仲間の肚を、拳に挟んだ剃刀刃で貫いている。
「これが、お前の冒した罪の重さだ。受け容れよ、息子よ」
そう告げる彼の声には、一片の情も籠もってはいない。彼にとって、目の前で散りゆくいのちでさえも、これまで屠った怪人たちと大差ないというのだろうか。
「さて、ガーディアン・ストライカー」
男は崩れ落ち、口をぱくつかす『九番』を見もせずに、戸惑うストライカーを乾いた瞳で射竦める。
「この子の能力は厄介でね。私でも容易に仕留めるのは難しい。感謝しているよ。期待"以上"の働きだ」
「何……だって?」
期待、とはどういうことだ。自分は、ガーディアン社会に復讐すべく産まれた此の世の癌。あなたの旧友を幾人も殺し、恨まれこそすれ、褒められる謂れは無いはずなのに。
「やぁれやれ。勘の悪い子だね」男はため息と共に頭を掻き、今仕方息を引き取った彼を指差すと。
「キミという人間を造ったのは私だ。『彼』を殺す人柱と、飽和した超人社会の程よいガス抜き。それが、キミに二度目の人生を与えた理由なんだよ。生田誠一君」
カレは、何を、言っている?
自分を・造った? 平和な社会に風穴を開けるこの俺を、正義の番人たる彼が、『造った』?
「目的は果たした。過去に苛まれ、復讐を糧に生き永らえる亡霊よ。今ここで、果てるがいい」
死臭漂う狭苦しい空間に、彼の発するどす黒い殺気が吹き荒れる。
ストライカー……生田誠一は、視えない目で何が起きているのか把握しようと努め、守りを固める暇もなく、鉄拳に腹を打ち抜かれ、地に伏した。
※ ※ ※
「えーと……八番……はちばん……どこだよォ、八番……」
お盆をとうに過ぎてなお、日中三十度超えの炎天下。今現在命の次に大事な行程表を元に、おれは指定されたのバスの停留所を捜し続けていた。
平日の真昼だというのに、ロータリーにはバスを待つ人が十数人もの列を成し、どれが割り振られた番号なのかもわからない。これだからトカイは嫌なんだ。本数を増やすがあまり、複雑なカタチにしやがって。通行人を追いすぎて、なんだか目の奥がチカチカする。
故郷のM県から新幹線で二時間半、首都に近いK県Y市。土地勘の無い此の場所で彷徨っている理由を語る為には、時計の針を数日ほど巻き戻さなくてはならない。
……
…………
……………………
「それが……ナナちん宛のお祝いハガキ?」
「私の昔馴染にも当たってみたけど、憶えがないの一点張り。これ、見ず知らずに送るモノじゃないでしょ。フツー」
上代茉莉が、生きている。急報を貰ってすぐ、みなはちゃんをF書房近くのカフェテリアに呼び付け、詳しい事情を問い質すことにした。
おめでとう。いつまでもお幸せに。素っ気のない文言だが、この丸っこい字体には覚えがある。中学時代、ヤツとガーストのアイデアを出し合ってノートに纏めていた頃。これとよく似た字を何度も目にしたっけ。
「その手のプロに見てもらわなきゃ、はっきりしたことは言えないけどさ」
「上代、茉莉の字……だと、思う?」
確証はないが、否定する理由もない。おれは首を縦に振り、表面に刻まれた住所を睨む。
「ここが、アイツの今の本拠地」
「多分、ね」みなはちゃんは少し戸惑って口ごもると。「あにじゃはさ、それを知って、どうするの」
「決まってンだろ」菜々緒の前で諦めを決め込んで、それでも食い下がるのはダサいけど。
「確かめに行く。ホントだろうがガセだろうが、やっと見付けた手がかりなんだ」
今もなお職場に出ず、枕を涙で濡らす菜々緒への罪滅ぼしか。はたまたやる気を失った己を奮い立たせるだけなのか。
何と言われ、思われようと構うものか。納得できる答えが無きゃ、おれもアイツも、いつまでも前に進めやしないんだ。
「あ。それでさ、みなはちゃん」
「『お姉には内密に』、でしょ? 言われなくても言わないよ」
茉莉のことを想い、彼女のために(おれを動員して)連載を続け、もう居ないと言う現実を受け容れまいと引き篭もるあの女に、不確定な吉報を持ち込んだらどうなるか。察しの悪いおれにだって解かる。
吉報か、凶報か。いずれにせよ、確定させなきゃ持ち込んだところで意味はない。
「毎度毎度、気を遣わせちゃってごめんな。今度、なんか奢るよ」
「いいよ、いいよ。あにじゃのお給金で食べられるご飯なんて、別に~」
「謙遜なんだか馬鹿にしてるのか、判断に困る返答、やめてくんない?」
こうと決めたら一直線。決めてさえしまえば、後は予想以上にとんとん拍子だった。
「まじすか。いや、でも三日は」
「そう思うんならお土産買って来て。スタッフ全員分」
ダメ元で職場に出した有給申請は、咎められることなく二つ返事であっさり承認。無気力のまま仕事を続けていたせいか、ようやく休む気になったかと好意的に受け取られたらしい。
何はともあれ、仕事を気にしないで動けるのはありがたい。翌日から三日間を休暇とし、向こうに宿を取って、早朝から新幹線へ飛び乗った。
……………………
…………
……
新幹線は滞りなく昼前にY市に到着し、繁雑極まる広大なコンコースを三十分かけて脱したおれは、こうしてバス乗り場で彷徨っているというわけだ。
だが、正直もう限界だ。暑い、暑すぎる。仕方がない、少し休んで体勢を……。
「あら。あらあら」
地図を掲げて右往左往するおれを不審に思ったか、背後より響く高い声。何か用かと振り返った先には、薄っすらと赤みの差した黒髪を揺らす、日傘を差した四十絡みの女がひとり。
「あ……えっと」
少し色素の薄い黒髪、毛先がくるんと内向いたショートボブ。どこかあどけなさを残した目元。胸が際立つ桃色のノースリーブの上から淡紫の羽織り物を肩がけにし、下はベージュのロングスカート。
どうしてだか、その人からなかなか目線を外せない。髪型や衣装のせいじゃない。醸す雰囲気に覚えがあったからだ。これは、まるで……。
「見ない顔ね。ここには、観光で来られたの」
「いや。観光っていうか」
いかん、いかん。元カノを捜しに来たその足で、現地のオンナに一目惚れって洒落にならんぞ。「行きたいところがあるんですけど、乗り場が解らなくて。行き先はH……」
「へえ、H区。わざわざY市から? 結構遠いわよー」
「そう、なんスか」余計なお世話だ。「で、そこにゆくには」
「えぇと、それなら……向こうの歩道橋の先。道なりに進むと見えると思うわ。後もう少しで来るはずだから」
「まじすか」やはり、地元のことは地元民に聞くに限る。なんだよ、ここからすぐ近くじゃないの。「ありがとうございます。助かりました」
散々だまくらかしやがって。割と目と鼻の先じゃねぇの。こうなっちまえば善は急げ。
「あ。もう来たみたいなんで、それじゃ」
「待って。けどね」
これ以上一緒にいると、それはそれでなにかまずい。やって来たバスを理由にし、急いでその場を後にした。
◆ ◆ ◆
「諦めたまえ生田くん。キミでは絶対に勝てない。私がそうプログラムしたのだから」
転がって地に伏すのは、これで一体何度目か。ただの能力使いなら、そのチカラを奪い、己の糧とすればよい。
だが、《原初の男》たる彼にそれはない。そこにあるのは拳のみ。極限まで鍛え上げられたその腕力が彼を超人たちの頂点たらしめる所以。究極の他力本願であるストライカーとの相性は最悪だ。しかも、彼は強化の代償で視覚を失い、まともな反撃すら叶わない。
「先日組み込んだ強化プログラムも滞りなく働いているようだね。持てる力に制限を与え、能力ブーストに伴う代償として身体機能を削る。予め想定していたプラン通りだ」
やはり、そういうことなのか。
カラダが、生きることを拒んでいる。お前は此の世に居てはならないと。滅ぶべき社会の癌は己自身だと。五臓六腑が骨身を軋ませ訴えかける。
「世界を脅かす悪鬼は消え、同じく異能者を震え上がらせた魔物も死に絶える。解かってくれ生田君。これは、この異能社会を護る為の、致し方ない犠牲なのだ」
憧れの頂点。この世界を平定した男に、必要とされず切り捨てられるこの現実。
此の命は彼が植え付けたもの。故に生かすも殺すも彼の自由。
だから、諦めるのか? 茉莉花が。自分に殺され、怨嗟を向けたガーディアンたちが、こんな現実を赦す訳がない。
「俺は……俺、は」
「死出の遺言かね。聞いてやろうじゃないか」
ガーディアン・ストライカーはメットの中に溜まった血を吐き出し、痛みに堪えて深く、深く息を吸い込み、打ち降ろしの体勢を取る《原初の男》を睨みつけ――。
※ ※ ※
『――それで? バスにはちゃんと乗れた?』
「おたくさんの情報通りにね。少し手こずったが」
ナンデ? と聞いて来たが、それ以上答える義務はない。窓ガラス越しに変わる景色を横目に、通話アプリのチャット履歴を流し見る。
ハガキに記された郵便番号からおおよそのルートを割り出し、行程表として示してくれたのはみなはちゃんだ。登録されているのは『奉華』という女性の名前のみ。手掛かりとするには弱いが、警察ですら匙を投げたこの状況、他に縋る手立てはない。
(マツリ……。本当に、そこにいるのか?)
もし、それが全くのデタラメだったら。何もかもおれたちの勘違いだったなら。
ああ、もう。大枚叩いて出て来たってのに、現地で自信無くしてどうするよ。
気合いだ気合い。何が起こっても正気を保つ。それくらいの気概がなきゃ駄目だ。
「あ。ちょっと関係ない話、していい?」
『――なんぞ』
旅に出る前日、菜々緒のアパート宛てに茶封筒を送付した。滞りが無ければ、そろそろ……。
「えっとね、そこに大型の封筒を送ったんだけど」
『――あにじゃの名前がついてた、アレ?』
「うん。ソレ」ナナちんに読むよう伝えてほしいのだけど。
『――お姉ってば、宛名見るなり読まずに破いてたよ』
「WHAT!?」
オイ。黒ヤギさんのお手紙じゃねぇんだぞ。読めよ。せめて喰え。
中に現時点でのガースト最終回案を文章に認めたのだが、まさか、解かっててやったのか?
ない、ない、ない。どこのエスパーだアイツは。ありえない。
「まあ、予想はしてたよ。別に読まないでいいって言ってやって」
『――そ』たった一字の中に、少しばかりの落胆が透けて見える。『その時間のバスなら、もう大上河に着く頃だよね。後は降りて道なりに。坂を登って一番上の』
「おーかみかわ」もうそんな時間かと思い、停車ボタンに指を触れる。
いや。待てよ。大上河?「待って。次の停車は下山の井・だけど」
『――しも……ッ!?』とだけ記し、みなはちゃん側の通知が止まった。
そこからきっかり二分後。台詞の代わりに困惑に頭を抱えたスタンプが叩き付けられた。
『――あにじゃ、本当にハチバンの停留所で乗った?』
「乗った……。乗ったよ。乗る前に確認しましたよ。八番」
『――いや、そうじゃなくて』さっきとは、比べ物にならないほどのがっかり&徒労感。『わたし、最初に言ったよね?! 終点近くの大上河で降りてって! それ、ホントにそっち行き!?』
「馬鹿野郎。それくらいおれだって……」
などと、鼻息荒く返信を打ったその瞬間。車内に響く降車アナウンス。
“今日も、◎×交通Y市市営バスをご利用いただき、誠にありがとうございます。このバスは68系統・大迫力行きです。次の停留所は下山の井・下山の井……”
大・迫・力。大迫力ってなんだよ。そういうリアクション?
いや、違う。求められているのはリアクションじゃない。理解力。
大、しかあってないじゃん。ナンデ!? どないして停留所が違うん!?
『ーーあにじゃまさか、一本前のバスに乗った!? わたし時間指定したよね? ちゃんとそこに合わせて乗ってって』
「いや、でも。ほら。見付けたじてんでもう行きそうだったから」
『ーーあ、あ、あ』
あ、だけが三文字、間髪入れずにスクロールしてゆく様はめちゃくちゃ怖い。
『ーーあにじゃのばかーっ! それ違うバスぅ! 完ッ全に逆方向なんだからぁあ』
「えっ、ぎゃ、逆ぅ!?」
いやいや、待て待て。なんでだ。何してそちら行のバスが運行に逆らう? どうして外回りなんてモノが存在するんだよ! おかしいだろ完全に!
『ーーなんで二十の後半にもなって、そんな』うわーあ、もう落胆どころか、年齢あげつらって普通にdisってる。
『ーー市バスはさ、特に都会のはだけど。同じ乗り場でも行き先違いがたくさん来るの。だいたいは目的地が一緒で道程がちがうだけだけど、あにじゃのは大外れ。目的地から完全にソッポ向いてる』
「は、あ?! はぁぁああっ!?」
初耳だぞそんな話。なんだよトカイ、それじゃ間違いなくおれのせい? 誰を責めようもなくおれのせいだってのかよ。ジョーダンじゃねえ!
「えと、あの。これはどうすれば」
『ーー何でも良いから早く出て! それからY駅行き探して戻って!! あぁもう、世話が焼けるったら!』
ごめんなさい。ものすごく、ごめんなさい。
いや、ほら、だって。うちの近所さ、同じバス停に別の行き先が来るなんてなかったし。電車と一緒で乗ったらあとは行き先までだって思うじゃん? 公共機関ってそういうもんでしょ? そうでしょう!?
"下山の井、下山の井到着でーす。お降りになられる方は少々お待ち下さい"
とか何とか言ってたら渡りに船。一刻も早くこの場から退散せねば。停車より先に席を立ち、後部ドアが開くと同時に駆け出した。
「あ、ら……?」
そう。この時のおれはひたすらに一心不乱だった。バスの乗り違いと目的地から真逆だという事実に困惑し、今目の前に何があるかさえ把握できていなかった。
だから、取っ手の代わりに触れたそれが何なのか。訳も分からず力一杯鷲掴みにしてしまった。つき立ての餅めいて柔く、ビニールボールのような弾力性を持ち、人肌に温いそれは、それは。
「お、っ、ぱ、い……?」
そうそう、それそれ。などと納得し、申し訳無さや自省の念が出るよりも早く、眼前より放たれし鉄拳がおれの眉間を貫いた。
「あっ、ああ、あぁ……! ごご、ご。ごめんなさい! わあ、あぁ、どうしましょう、どうしましょ……」
一体、誰がこんなことを? 薄れゆく意識の中で、おれが最期に見たものは、Y駅のロータリーで声を掛けてきた、あの美人……?
※ ※ ※
「ほんとに。ほんっっつとうにごめんなさい。殴った上に、荷物まで運んで貰っちゃって……」
「いや、いいんス。良いです。なのでどうか、警察は……警察だけは、ご勘弁を……」
高く昇った太陽が僅かに陰り、時刻は間もなく午後四時か。少し涼しくなったけど、生活用品ぱんぱんに詰めたビニル袋両手持ちじゃあ釣り合わない。
人との出会いは一期一会と言うけれど、出会い頭にムネを揉んだ相手を赦し、荷物持ちに使うオンナが居るたぁ驚きだ。
「本っっつ当に、ごめんなさい。私、その、反射的に……」
「それを言うならこっちですって。ビビりますよ、あんなの、普通」
加害者は間違いなくおれなのに。今度は向こうが平謝り。物の弾みで打った拳で気絶して、気が付いたら美女の膝枕越しに、先程摑んだあの膨らみを見上げていた。
話し合いの末、お互い不可抗力だからと警察沙汰にしないことを約束し、それでも悪いからと、おれが自主的に荷物を運び、家路を急いでいる。というのが今の流れ。
しっかし、葉物の野菜にペットボトル二リットルが二本。冷凍食品ガン積みに酒瓶持ちとはびっくりだ。これ、本当に自分用……?
「あぁ、そうだ。じゃあお礼というか、お詫びというか」
「何です?」
「あなたさっき、行きたいところがあるって言ってたわよね」
「ええ。お恥ずかしながら、なのに乗る車を間違えて……」
だからバスって奴は大嫌いだ。同じ場所を走っているのに、なんで真逆の方を行く。
決めたぞ。今決めた。おれァもう二度とバスには乗らねェ。二度と乗ってやるもんか。
「ねぇ。ね」などと息巻いている間、彼女がおれの隣までやって来ていた。吐息が頬に掛かる距離。そこから香るバラの匂い。待ってくれよこれはやばい。やばいって、何がやばいのかわからないくらいやばい。
「私、この辺のヒトだから。もしかしたら道、教えられるかも」
「はあ」気が進まないが、二十六にもなってバスを乗り違えるくらいだ。教えてくれるならそれに乗っかるべきか。
「えぇと、大上河が最寄りの駅で、そこから丘を進むルート……だと、思います」
「あら。あらあらあら」地名を告げるなり、彼女の顔に喜色が差した。「こんな偶然、アニメや漫画くらいだと思ってた。本当にあるのね」
「どういうことです?」
「大上河ならうちの近所よ。折角荷物を持って貰ってるんですもの。目的の場所まで案内するわ」
えっ。何これ何。
ジョーダンでしょ。
合縁奇縁なんつーけれど、出会い頭にムネ揉んだ相手に導かれるなんて前代未聞にも程がある。
「どうする? 先に荷物、運んでもらってからだけど……」
「よ。よろしくお願いします」
なんて言っちゃったけれど、偶然にしたって出来すぎじゃない? とは言え、彼女の荷物を運ぶおれに拒否権などない。休みは後二日ある。少しばかり寄り道するものだと思えば。
「あっ、次のバス来た。行きましょ」
「えっ、ええ」
特例! これはやむを得ない事情による特例です! 『ひとりじゃ』絶対バスには乗らない誓いは変わらない。と、く、れ、い!!
「ええと、マサルさん……で良かったかしら」
「あは、はい。苗字が雑葉で、名前が大なもんだから、友達はみんなして『大雑把』と言うんですよ。困ったものです」
バスを降りてかれこれ二十五分。荷物運びも慣れて来て、あっこれ楽勝じゃない? と高を括ったおれの前に広がるのは、幾ら見上げても天辺の視えない坂、坂、坂。
ここ日本国よ? 何してロサンゼルスめいたアップダウンの激しい丘陵地帯になってるワケ? おかしいでしょ、おかしいよね。あり得なくない?
「面食らうでしょう、この高さ」おれの心を見透かしたかのように、彼女が疑問に割って入る。
「H区は昔っから坂の町なの。丘陵を埋め立てて団地に換えたものだから、傾斜ばっかりきつくって」
下段はさておき、坂の上段に居を構えたひとたちは悲惨だろうな。この上り坂と食料の買い出し……。優先すべきは前者だろ。炎天下に自力で歩ける連中の気が知れぬ。
「うちもダンナが四年前に居なくなっちゃってさあ。団地住まいだからバスは坂の下までしか来なくって。あぁあ、こんなことなら普通車免許、とっとくんだったなあ」
「はあ」
それがこの炎天下、額に汗してぱんぱんのエコバッグを担ぐ理由か。相槌を打つのも、大変ですねと労うのもおかしいし、取り敢えず曖昧に笑ってごまかしておく。
というかさ、やっぱりこれ、まずくない? 未亡人の家に二十代後半の野郎が乗り込んで、双方お疲れ汗だくで……。
断ろう。このままずっと近距離で、理性を保てる自信がない。さっき警察呼ばれてた方が、って思う前に。この荷物を、お家の前まで届けた後で。
「あー、お疲れ様ぁ。ここよ、ここ。長ァい間ごめんなさいねぇ」
「こ、こ?」
気合で天辺まで上り切り、他の丘々を一望できるそこに建つのは、強固な電子ロックに守られたマンションの出入り口。
丘陵という立地を活かし、坂に沿ってひな壇状に並べられた家々。階段を下り、その中途に部屋が連なるその様は、まるで戯画化された蟻の巣だ。
うちみたいな平地地帯じゃ、こんなタイプの賃貸マンションにはまずお目にかかれない。
「ほーら。来て来て。お茶、ご馳走するから」
既に解除コードを入れ終わったのか、件の女性が自動ドアの前でおれを手招く。
「あ。いや、流石にそこまでは……。後は自分でなんとかします」
これ以上、関わるべきじゃない気がする。カタチばかりの礼を告げ、回れ右したおれの腕を、がっちり掴むは彼女の両手。
「ここまで歩かせておいてはいサヨナラじゃ、私の気が済まないわ。まだまだ暑い盛りなんだし、休憩しなきゃ身が持たないわよ」
「いや、あの、でも……」
遠慮を重ねようが向こうはお構いなし。そのまま腕を回され、この掘っ建てひな壇マンションに取り込まれてゆく。
(待てよ。待て待て)
手を引かれてマンションを下るうち、みなはちゃんとの話を思い出す。
K県・Y市・H区、大上河。丘を登ってそのてっぺん。マンション……。
「さ。着いたわ。ここが私の部屋」
もしやこれって。まさか、これって。
「あ、あのう」
「なぁに?」
「奥さん、お名前の方は」
「あ。まだ名乗ってなかったわね」女はおれを見てはにかむと。「奉華。奉納の奉に、華。姓は石取。珍しい名前でしょ」
やっぱり、そうか。そうなのか。
や。待って。ちょっとタンマ。心の準備出来てない。幾ら何でも唐突過ぎる!
「『りーちゃん』、ただいまー」
「おかえりー。ほーかおばさん。リビングのお掃除、お花の水やり、夕飯の仕込み、さっき済ませておい……た……」
ほんの一瞬、時が止まったかのように、何もかもが凍り付く。
あいつの顔は強張ったまま固まって。きっとそれはおれも同じで。
立派な赤毛はくすんでしまって見る影もなく、腰まで届いたあの髪は襟足まで涼やかに刈られ。上下共に野暮ったい灰色のスウェット。
奴が口を開かずとも、どんな生活を送って来たか、手に取るようにわかる。
だからこそ。何故? どうして? 疑問が湧き出て止まらない。
なあ。お前、一体どうしちまったんだよ。
「上代、マツリ」
「え。あ、え」
何か、言わんとしているのは唇の動きでわかる。けれど、それが言葉になっていない。
そこにあるのは申し訳なさか、驚き故か。推し量ること叶わぬ凍り付いた表情のまま、ベリーショートのスウェット女は、スライド移動でおれの背後へ回り込み、音もなく外履きサンダルに足を通すと。
「おばさん! おそと、はしってくる!!」
半開きの戸を開け、全速力で階段を駆け抜ける。
呆然とその全力疾走を見届ける中、ようやっと喉から言葉が湧いて出た。
「お、おい! お前! おいぃいいいい」
言葉を契機に脚が動き、整わぬ体勢のまま後を追う。
上代茉莉。おれの、桐野菜々緒の想い人。死を装いここまで逃げ延び、ようやっと見付けた半死人。
そこに、再会の喜びなんてない。今はただ理由が知りたい。ガーストを掘り起こし、それをおれに押し付けた理由を。何故その過程で『死を選んだ』のか。
何もかも、ここからだ。
「てめっ、こら、待ちやがれ、マツリぃいいいいいいい」




