夏の緑に見えるもの
2009年3月6日、本文を修正しました。
山の緑は、とても大きな生命力をはらんでいると思う。木々は太くうねうねと、枝や葉を空に張り出して、草花は濃くたくましく天に伸びる。夏の緑のにおい。つぅんと、鼻の奥に響く。
オニヤンマが、僕の肩をかすめて飛んでく。むくむくの入道雲。眩しい日差しに腕がちりちり焼ける。
ここはじいちゃんの住んでいる、緑が生い茂る山奥だ。毎年、盆を含む二週間くらい、じいちゃんちに泊まって過ごす。虫をとったり釣りをしたり、野草をとってきてたくさん食べたりする。ここの暮らしは、下のまちとは全然違う楽しさに溢れてる。七月中はずっと、このお泊まりを心待ちにしてた。
じいちゃんとばあちゃんは、いつもと同じように僕を温かく迎えてくれた。
そしてお泊まり初日の晩に、とてもワクワクすることを伝えてくれた。
今年は冬の異常気象により、草地に生息する毒蛇や毒虫が、ほとんどいないというのだ。
つまり。
「お前が草地に入るのを、ずっと禁止してきたが……今年は、まぁ、大丈夫かもしれんな」
「ホントに!」
草地は、まばらに木が生えてはいるけれど、ほとんど草ばかり。こういうところには、珍しい虫や植物も多いらしいんだ。
つい、ニマニマと笑ってしまう。そんな僕を、じいちゃんは嬉しそうに見ながらも、冷静に忠告する。
「しかしな、川のすぐそばになる辺りには、入り込まんようにな。鉄砲水がでることもあるから」
まぁ、そんな応酬をしつつ。明くる日、じいちゃんは晴れやかな笑顔で僕を草地に送り出してくれた。
草地は、じいちゃんの家から五分くらい山道を下りたところにある。古いアスファルトと草との境界線を、大きくジャンプして飛び越えた。
密に繁る草。その中に点々と、低い灌木の茂みがある。奥には大きな樹木もあるみたいだ。
進むたびに草の中から羽虫がぱぁっとわき出てきたり、でかいトカゲが木の枝を登ったり、バッタなんかがピチピチと向こうへ飛んで行ったり……!
バッタは今まで見たやつより断然大きい。出てくるたびにどきどきして、顔が熱くなってしまう。
そんな虫たちの発見は、めちゃくちゃ楽しい。時間わすれちゃいそう!
浮かれてて前を見らずにいたら、
「うおっ」
頭っから何かにひっかかった。
目の前には、蔦が網目状に編まれているものがあった。
蔦の茎の色は、毒々しい赤。両手を広げたくらいの間隔で生えている二本の背の高い木の間に、網はばぁっと、上の方までしっかり絡まっている。
別の木との間、その木と更に別の木との間、という具合に網は張られてて、向こう一帯が蔦の網で囲まれていた。
入っちゃいけない、ってことだろうな。
でも。ダメって言われるほど、好奇心はうずくもんで。
きっと、そんなところほど面白い出来事が待ってるよね。うん、ここで回れ右しちゃダメだ。そんなの絶対つまんない!
ラッキーなことに。右の木の下側に、網目がほどけて、大きめの犬が通れるくらいの穴になってるところを見つけた。
僕は、迷いなくそこを這っていった。
穴をくぐった、そのとたん。空気がひんやりするのがわかった。緑のにおいも薄くなった。あぁ、もしかしたらここが、川の近くになるのかな?
来ちゃいけないとは言われてたけど、もう引き返せるわけがない。こんなにワクワクしてんだから!
だんだん地面がぬかるんできてるのがわかった。やっぱり川があるんだ。でも、変だ。川のせせらぎなんて聞こえない。見渡すと霧が出ているようで、あまり周囲の様子がわからない。
もう少し。うつむいて土の様子を見ながら進んで、ついには、水を踏んだ。ぴしゃり、と水の跳ねる音。
目線を少しあげると、ちょうど手を伸ばした辺りからか、水が溜まっているのがわかった。水は濃く、澱んでいる。
……沼のようだ。
深そう。用心しながら足を進めてよかった、と、息を吐きながら、さらに顔をあげる。
人がいた。
「うお……っ」
沼の左手、霧に紛れて見えるか見えないかくらいのところ。同い年くらいのヤツがこっちを見てる。
日に焼けてるみたいだから地元の子どもなんだろうか。しかし、まぁふてぶてしい態度のヤツだ。腕組みして、背後のでかい岩にもたれてる。こっちを睨んでるように見えるのは気のせいか?
こんなとこに入り込んできた僕を馬鹿にしてるんだろうか。自分を棚にあげてよく考えたもんだ。
僕は負けじと、ぎりぎり睨みかえした。
と、そいつの様子が豹変した。明らかに、何だか慌てている。
きょろきょろと、沼や後ろの巨石、足元を見回したり、あたふた体を触ったり。 最後にまた僕のほうに顔を向ける。そして、少しうつむきがちに姿勢を整えると、また動かなくなった。
なんだ、アイツ?
すごく興味がわいた。
アイツと話してみたい。だけど、ヤツがいるところはここから少し遠かった。半端な距離。もどかしい。
僕はヤツのもとへ、足早に駆けだした。草がチクチクと痛い。度々沼の水を踏んでしまって、右足はぬちょっと濡れてしまった。
ヤツはすぐに僕が近寄ってくるのがわかったらしかった。またびくっとして、おたおた挙動不審になる。どんだけビビりなんだよ、と、僕は心のなかで毒づいた。
しかし、今度は挙動不審で終わらなかった。瞬間、もたれかかってた大きな岩の後ろに姿を消したのだ。
急いで岩のところまで駆けて、後ろの側を覗き込んだけど、いない。どこにもいない。全く、雲隠れとしか言いようがなかった。
岩は、じとりと水を含んだように湿っている。沼のどんよりしたにおいは、特に強く立ち込めていた。
周りに広がる、シダが繁る藪。
きっとヤツが、僕の見えないところからこちらを窺っている。
じいちゃんから、河童の話を聞いたことがあった。沼に住んでいて、人間に変身するときにシダを使う妖怪……。
アイツはきっと、河童だ。
「人間のように振る舞うが、所詮、こちら側と違う、冷たい血を持つ輩じゃ」
河童のことをしゃべるじいちゃんは、なんだか鋭く据わった目をしていて怖かった。今思うと、何か酷い仕打ちを受けたことがあるのかもしれない。
じいちゃんに河童と出会ったこと、話そうか、とも思った。だけど言ってしまえば、きっと近づかないようにきつく言われる。
そりゃあ、ヤツがまがまがしい妖怪に、あるいはすごい冷血漢に見えたなら、僕自身でもあそこに二度と踏み入らないって決めるだろう。だけど、アイツは普通っていうか。むしろ、下のまちに出歩く人間より、ずっとストレートで人間ぽいって思ったんだ。
じいちゃん。僕は、アイツは、大丈夫だからな。黙ってること、許してな。
次の日出向くと、もう蔦の網目が修復されていた。
でも、網の張られたところを伝っていくと、またほどけた箇所が見つかった。ずいぶん奥のほうだけど、前のより穴が大きい。楽々歩いて通り抜けられる。
待っていたけど、夕陽が沈む時間になっても、ヤツは現れなかった。
沼は変わらず淀み、泥々したにおいを放っている。ところどころでぷつぷつと小さな泡が沸く。そして、ひどい霧。
そもそもこんな夏の日に霧が出ること自体おかしかったんだ。もう少し早く気づいても良かったな。
ヤツは、僕が探しに来てるのに気づいているんだと思う。ヤツらは嗅覚がすごく良いらしいし。
だから、次の日からは策を練ることにした。まず、草の汁にまみれ、沼の水を塗りたくって、人間のにおいを消しておく。そうしてから、岩の斜め後ろの深い藪に潜んで、草の間からオペラグラスで見張るのだ。
成果がなかったら、悲惨、だった。身体につけた沼の水がくっさいんだ。虫よけスプレーも使っていないのに、蚊が避ける。蚊の気持ちがすごくわかる。こんな水のなかによく住めるもんだ。
そうして、数十分。
幸いなことに。結果は、ちゃんとついてきた。
円く切り取られた視界の中。ちらりと、茶色がかった髪が覗いた。思わず声をあげそうになるのを、必死にこらえる。
茶色の髪はちらちら動いて、視界に出入りする。顔とかは見えない。
早く、会いに行きたい。でも、まだダメだ。慎重に。
しばらく見ていると、ようやく、動いてた頭の位置が定まった。いつのまにか、茶色の髪は黒くなっていた。胸がどきりとする。
静かに、深呼吸する。そして、憮然とした顔で腕組みする様子、あたふたする様子を思い浮かべた。
大丈夫だ。ヤツは全然、怖い化けもんなんかじゃない。
ヤツが座り込んだ。そこを逃さず、一気にヤツの目の前に出た。
ヤツは逃げようとしたけど、飛び付いて押さえ込む。
ヤツは、なんとも言えぬ悲鳴をあげて、草の中に倒れ込んだ。混乱したせいなのか、頭の色が茶色に戻っていく。
ヤツはバタバタともがいてた。だけど、しばらくしたら、いきなりくったりとなってしまった。
あぁ、乱暴にしすぎたのかな……僕はヤツを、そっと腕の中に抱え込もうとした。
ヤツの腕を掴んで、顔や姿を垣間見る。
その瞬間。
ぞくりとした。
ヤツは、違う。生物と呼ぶべき生命で、人間とは、違う。
ヤツは力なく身をよじる。沼のにおいが一層強く感じられる。ひんやりした温度や、速すぎる脈拍を感じる。ヤツの肌に触れた手は、ぬるりぬるりと滑った。
沼のにおいをかぐ、ヤツに触る、体温を感じるその度に。ヤツの世界が、僕を侵食する。そういう気配を感じる。
暗い視界。深い水の中の、きぃんとする音。どろどろした沼の水に、自分のすべてを委ねる感触。こういうものを、感じ取っていたのだ。
僕の五感なのか、それとも第六感なのか、そういうところで僕はヤツの世界にいた。ヤツに共調していた。
……そうだ、泳いで。水をかいて。
そう、ずっと、ずっと下の……
と、がしがし身体を揺さぶられて、急に我に返った。気がつくと、ヤツが目の前に座っていた。僕は横向きに寝転んで、頭を岩にもたせていた。
ヤツは前に会ったときと同じ、人間の姿に変身していた。小賢しそうな小粒の瞳。背丈は短く、痩せている。そして、びしょぬれで、鼻がひんまがるくらいのものすごいにおいを放っていた。
気分悪い。においのせいか、ヤツの生活を感じたせいか。あぁ、でもきっと、コイツ、助けてくれたんだろうな。
「ありがとう」
言葉わかるのかな、とも思ったけど、ヤツは小さくうなずいた。とても、まっすぐな瞳をしている。
ヤツを眺めながら、段々と、実感が沸いてきた。僕、河童と一緒にいるんだ。すげえ。手が震えるのを、ヤツが黙って見ている。
「名前、何ていうの?」
わくわくしながら聞く。ヤツはしばらく口をつぐんでいたが、ぱくぱく口を動かしだし、次第にあきらめの表情が浮かんでまた口を閉じてしまった。
つまり、人間の言葉を聞くことはできるけど、しゃべることはできないんだ。
「もう一回、名前。えーと、パクパクしてみて?」
口の形から推測しようと試みる。ヤツは素直に口を動かしてくれたけど、アイウエオには到底当てはめられない口の形をしてた。
じゃあ、もうカワタロウでいいか、と投げやりに言う。カワタロウというのは河童の異名だ。ヤツは、ぽかんとした表情になったけど、ちゃんとうなづいてくれる。優しいヤツだ。
それから河童の世界について色々訪ねた。例えば沼のようす、食べ物、陸へあがる頻度。だけど、カワタロウは全然反応を見せなかった。
ただ僕が、秘密ってことかよ、と低くつぶやいたら、そこだけ小さくうなずいた。それと、
「じいちゃんちに、キュウリいっぱい植わってんだ」
と言うと、顔が赤くなって、僕の顔を見て激しく貧乏ゆすりしてた。
「明日、また会おうよ。キュウリ、おみやげに持ってくるから」
カワタロウはうなずく。やっぱり、全然、怖いヤツには見えないなぁ。
それから、キュウリを手土産にカワタロウと会う日々が始まった。
何をするわけでもない、そんな時間が多かった。会話にチャレンジしても、秘密を盾に、ロクな返事をしてくれないし。かといって向こうはしゃべれない。一度、しゃべれるようになったら嬉しい? と聞いたらうなずいてくれたから、とりあえずそれでいいや、と思ってる。
カワタロウはキュウリをチビチビ食べる。一かじりすると手元に置き、しばらくするともう一口かじる。小さく砕いて沼に流すこともある。仲間にお裾分けしてるらしい。キュウリの屑は少しだけ沼の水面にたたずんでから、ぷくりと沈んでいく。
「この中に仲間、いるんだな」 つぶやいたら、苦虫を噛み潰したような顔をした。墓穴を掘った心情みたいだ。抜けていてちょっと笑えた。
キュウリの他に、こまごました遊び道具も持って行ったりする。
カワタロウが一番得意なものは、コマだ。じいちゃんの小屋の中のガラクタの山から、持ち出したベーゴマ。河童って、何かコマやらメンコやらやってるイメージあったから。
カワタロウが放ったコマは、勢いよく土俵の上に飛ぶ。僕のコマは、カワタロウのように強い感じには全くならない。ガンガン弾き飛ばされて、草地に転がった。
そうした瞬間、ホントに時々なんだけど、カワタロウは上の歯で下唇を噛むようにして、くえッと声をあげる。嬉しがってるんだ。
そんな風に感情を出すことはあまりないから、なんか、負けても悔しくなくて。むしろほほがゆるんじゃう。
だからコマはよくやった。そして結局、メンコはほとんどやらなかった。カワタロウ、弱かったんだよな。派手に負けては、あからさまにがっくりしてた。
カワタロウと一緒にいる時間は楽しくて、あっという間に過ぎてしまう。
カワタロウは、しゃべれないけど、すんごくくさいけど、素直でいいヤツで。
友達。だよね、と、思える。
カワタロウも、そういうふうに感じてくれてるかな? そしたらすごく嬉しいんだけどな。
夕食時、じいちゃんは色んな話をしてくれて、釣りや山菜取りに誘う。けど、出来るだけ、かわすようになった。
じいちゃんは寂しそうな目をしながらも、口元には笑みをたたえ、
「友達、できたのか」
なんて言ってくる。
「うん」
僕は何でもない顔でうそぶく。心がズキズキ言う。
「ソイツ、寂しがりやなんだけど、遊ぶヤツがいないみたいなんだ」
「そりゃあ一緒にいてあげなきゃだな」
麦茶を手に、よっこらと座り直すじいちゃん。目をつむって、今年の天気の話なんかを始める。うし蛙の声が遠くに聞こえる。
カワタロウはいいヤツ。大切な友達。仲間。
そうは思ってんだけど。
河童といういきものを知る度、怖くなる。
例えば、カワタロウは生き物を殺すことがある。ふとした瞬間に殺して、何事もなかったように元に戻る。ノーリアクション。日常茶飯事ってことだ。
殺すのがヤブ蚊や、あるいは蛾とかだったらまぁいいんだけど。標的はトカゲやクモ、バッタ、カブトムシ、蛙、などなど。ネズミも一回あった。めっためたに叩く。無表情で。この様子は見てらんなくて、だからちょっとしか見なかったんだけど、正直、トラウマになるかもとか思ってる。
仕留めた生き物は、しばらくほっといたあとに沼に落とす。食べるわけだ。精がつくらしい。カワタロウはクワガタがお気に入りなんだってよ。
ゆらゆら沈んでく屍を横目で眺める。なにかぴしぴしと、痛くて息の詰まる感じを覚えた。
風呂上がりに夕食をとる。 夕刊を読むじいちゃんと、卓上を拭く僕。ばあちゃんは、茄子の鍋しぎを持ってくる。
皿を置きながら、ちらりと僕を見る目。僕は、気づかぬフリ。
裏庭には家庭菜園がある。茄子やトマト、オクラやピーマン、そして、キュウリが植わってる。そこの世話をしてるのはばあちゃんだ。野菜を使って料理をするのもばあちゃんで、今日のそうめんにはキュウリが添えられてない。
更に言うと、玄関脇の水道で体全部を洗うようになった僕用に、タオルを用意してくれるのもばあちゃん。服についた草の汁をとる方法を、教えてくれたのもばあちゃん。
近いうち、じいちゃんにチクられることになるかもしれない。それでじいちゃんがカワタロウのことに気づくかどうかはわかんない。けど、やっぱり伝えてほしくないなぁ。すごく河童を嫌ってるみたいだったから、草地への出入りを制限されるかもしれない。けどばあちゃんは結構おしゃべりだから、こればかりは難しいのかなぁ。
そんなふうに思いながらも、ばあちゃんの料理はいつもと同じで、とてもおいしかった。
カワタロウの仲間には、意外と普通に会えた。
岩にもたれ、沼を眺めたり手まぜしたり、時に手遊びやらを教えていたとき、後ろから肩をつつかれた。驚いて声をあげてしまう(僕の声に、カワタロウが僕よりもビックリしてた)。
振り向こうとした。けど、まず赤茶色のぬるぬるした手指が見えてしまった。そいつの姿、全部見てしまうか、迷った。迷ってるうちにカワタロウがするりと立ち上がり岩の後ろに回って、しばらくして一人で帰ってきた。
岩の後ろには、深いシダの藪がある。そこに陸と沼とを行き来できる出入り口があることは、これまでで大体察しがついていた。
「戻しちゃったな」
と言うと、カワタロウは僕の表情をうかがうようにじぃと見てから、そのまま遠くを眺めるように焦点をぼかした。
「まぁ、無理ならいいんだけど……」
セコは、小さいのだ。たぶん変身もできない。
コミュニケーションはかなりたどたどしいのに、カワタロウは僕をよく知っていく。僕が、無邪気に河童の世界を楽しんでるだけじゃないこと。人間が河童のことを良く思っていないこと、僕の家族が僕を怪しみだしたこと、そして何より、僕が向こうの世界に、少しだけ怖さを感じ始めたこと。
カワタロウはいつも、僕より先に岩のところに来ている。人間への変身も済んでいる。カワタロウの本当の姿は、カワタロウを捕まえたとき以来見てない。
変身してないとこを見たい、見たいと口では言ってる。けど、実際、人間の姿で待つカワタロウを見て少しほっとしてる自分。いやらしい。カワタロウの目のかげりに、胸がきりきりする。
次の日のいつもと同じ沼のほとり。
カワタロウは、仲間を連れて待っていた。
連れてきてくれたんだ……
「連れてきて、大丈夫だったの?」
秘密主義の河童たちなのに。だけど、カワタロウは二回、うなずいて見せた。
カワタロウも姿を見せてるんだし、今更一人も二人も同じことなのか? ……そんなハズない。きっと無理を言ってくれたんだ。嬉しかった。悪いな、と言うと、カワタロウはぶんぶん首を振った。 昨日のヤツとは、違うヤツだ。比べると少しひょろ長いし、なにより、変身ができている。セコから河童になりたてのヤツらしい。目がぐりぐりした、坊主頭のガキんちょだった。コマ遊びを教えてやると、口端をきゅうとあげて笑ってた。
草地にはくっきりと、僕の行き来する道跡がついてしまっていた。赤いとんぼがゆらゆら飛ぶ。周囲は夕陽に染まってく。
枯れ枝に止まるとんぼの目を回しながら、コイツも仲間と仲良くやってんだろうか、と考えた。もしも僕とコイツが仲良くなったなら、コイツは仲間とか紹介してくれんのかな。まぁ、僕ととんぼが仲良くなること自体に無理があるかな。とんぼはふらりと枝から離れ、上へ昇っていく。
そういえば、なぜ僕と河童が、仲良くなれたんだろう? ……そうだ、なぜ、カワタロウは僕に会い続けられるのだろう。
最初に会った頃、カワタロウは僕と一緒にいることさえ拒んだ。仲間がいることさえ教えてくれなかった。なのに今、人間のガキと遊ぶのがなんで許されてるんだろう。
仲間外れにされてるとか、そういうことはないよな。ガキんちょとは仲良さげだったし。
すると……?
背筋がざわざわするのがわかった。けど、そんな感じは、ダメだ。なんか疑うようなのは、違う。カワタロウはいいヤツだし、僕のことを好いていてくれてる。
汗が冷えて寒くなったのだ、と思った。カラスが鳴いている。そうだ、夕方だし。早く帰んなきゃ。
後から思えば、それはごまかすべき疑問ではなかった。もっとよく考えられてたら、もっともっと違う未来があった。
ともかくも、その日、じいちゃんは待ち構えていた。草地の入り口に仁王立ちして。
「おまえ」
と、じいちゃんは一言つぶやいた。沼のにおいはぷんぷんしている。夕陽の赤が、じいちゃんの顔を、眉間の皺を、くっきり映し出した。
じいちゃんに首根っこからひっぱられながら、カワタロウの肌の色を思いだしてた。この夕陽みたいに、キレイな赤色だった。
じいちゃんは、明日は外に出るなと言った。
盆の初日でもある明日、父さんと母さんがやって来る。二人はその日のうちに帰って、僕はまだここに数日残る予定になってた。
けれど、僕を二人と一緒に帰らせる、じいちゃんはそう告げたのだ。 そんなの……お別れもできないじゃんか!!
「じいちゃん、カワタロウ、悪いヤツじゃないよ。ねぇ、僕の会ってるヤツは、悪いヤツなんかじゃないんだよ。優しくて、すごくいいヤツなんだよ」
そうして、せめてあと一日、と嘆願した。
じいちゃんは僕が長ったらしくしゃべるのを、じっと聞いてくれていた。あぐらをかいた膝に手を置いて、ぴたりと静止して。
けど聞き入れてはもらえなかった。僕の話を聞き終えると、じいちゃんはうつむいて、股関節を伸ばすように、腕にぐぅと体重をかける。
「忘れっちまえ」
そうつぶやいて、今度は顔をあげて、僕をきりきりと見つめる。お前は優しいからだまされやすい、とも。
じいちゃんの視線は強くまっすぐで、僕がお願いされてるのかもしれないとも、思った。
心ん中、じいちゃんに許しを乞うのは二回目だ。こんな利かん気の強い孫で、ホントにごめんな。
じいちゃんも、ばあちゃんも、眠りはとっても深いのだ。
月がまるく浮かんでいた。満天の星はそれぞれ、はっとするほどきれいに瞬いていた。光が優しい夜の世界。走る僕の背後には、くっきりした影が踊る、踊る。
だけど、草地に来て、足が止まった。影が闇に紛れた。
草地には、木はまばらにしか生えていないはずだった。けれど、この月夜が覗いてない。そこは完全に光から閉ざされていた。黒い渦がうじゃうじゃねじれて、はみ出しているみたい。生きるもの中にある、生臭いにおい。さっきまで賑やかだった虫やカエルの鳴き声が、叩き潰されたみたいに聞こえなくなった。
こんなところだったんだ、と、今更ながら心臓が縮む。
怖さに押し潰されそうになる反面で、僕は、強く引っ張られてた。体に染みこんでしまった、カワタロウたちの世界の感触や記憶から。
カワタロウが恋しいだけなら納得いく。だけど、沼やその周りの風景までも、すごく愛おしく思えたんだ。
水、草、沼。あぁ。触りたい。踏みしめたい。感じてたい。もっと、いたい。
草地も、沼だって、怖い。怖いのに。なのにあの世界を求める自分は、なんだかちぐはぐで、ズレている。
懐中電灯を掲げながら、訳がわからなくなって、泣いた。
風は止んでいる。なのに、ざわざわと音がする。周りを見るけど、なにもない。
沼のところは、一番暗かった。光から閉ざされるのでない。大きい闇がいる。闇が、互いの黒さをじゅるじゅると擦れさせながら、とぐろを巻いている。
岩の辺りをぐるりと照らしてみる。カワタロウがいないのはわかってるんだけど、わかっていても心細い。
沼の水面を照らす。深緑色がぴかぴか反射する。
その中に、泡が出てた。昼間みたいにぽつぽつ、じゃなく。一杯出てた。煮たったお湯みたいに、あちこちから大きく。勢いよく。
泡と一緒に浮いてくるのは、無数の、生き物の成れの果て。昆虫の足。動物の皮。骨。ごちゃごちゃと重なりあう。
ざわざわという音、あれは、風の音じゃなかった。沼の深いところから、厳かに聞こえてくる音だ。この下に河童がいるのだ。たくさん。たくさん。
……でも、これはとりあえず置いておこう。そう、今はどうでもいいことだ。僕は、カワタロウにお別れを言いにきたんだから。
岩の裏側の、シダの藪に光を向ける。ここに入り口があるはず。
でもシダの根本を覗き込んだとたん、懐中電灯を取り落としそうになった。
そこでは、ちらちら、幾千もの何か小さいものが光を返していた。いや。これは鱗だ。蛇が、たくさんいる。
蛇のいる奥のほうに暗がりが見える。蛇はそこを覆うように、重なりあってうごめいていた。
門番って訳だ。そういやカワタロウ、近くに這ってた小さい蛇は殺さなかった。実は仲間だったんだ。
退かして入ろうか。とも、思ったけど、無理だとわかった。数が数だし、何より毒蛇にしか見えない。何組かの黄色い瞳が僕を捉えて、きらり、光る。
取りえる道は一つ。けど、しばらく決心がつかなかった。僕の足は、地面に貼り付けられたみたいに動こうとしなかった。ただ膝だけおかしいくらい、ガタガタに震えてた。
長い時間をかけて唾を飲み込んで、沼の方に振り返る。水面はゆるりとうねった。僕を待っていた、みたいに見えた。
膝をつき、顔を近づける。大粒の泡が弾けて、泥のしずくがほっぺたにつく。河童の食べかすの腐敗したにおいが、鼻や喉に満杯になる。闇の渦が体の中に入ってくる。渦がうねる。肺のなか。胃袋のなか。
ゆらりと目眩がした。そして、沼が、泥々した水が異常に欲しくてたまらなくなった。恋しくて、恋しくて、僕は頭のなかから深緑色に染まってくみたいだった。闇も人間も深緑になって、ぐにゃりとなった。
これ、アレだ。
前にも感じたことがある。飲み込まれる感じ。
飛び込んだ。
飛び込んでかぷりと水を飲んだ。笑顔で水を掻いた。
舌の上で水をころころ動かすと、身体が跳ねる。心が弾む。揺れながら昇る泡のリズム。深緑。じゃれながら舞い上がる骨と皮。
なんでだろ。なんでこんな。
くるくる回りながら、柔らかく水を蹴る。深みに下りていく。
暗い水のうちから、点々が見えはじめた。だんだん、だんだん、大きくなって、アイツらの頭になっていく。
「カ・ワ・タロ・ウ」
呼ぶ自分の声が聞こえる。
「カ・ワ・タロ・ウ」
もう一度呼ぶと、一つの茶色い頭がぐらりと揺れた。
止まってると、カワタロウから近づいてきた。僕は待って、いた。
……僕? 僕は?
頭がぶるり、と震えた。途端に、残り少ない息をがぼっと吐き出してた。
意識がはっきりしてからは大変だった。水を大量に飲んでしまうし、パニックになって泳げないし。カワタロウが上まで引っ張ってくれなかったら、かなりやばいことになってた。
水から上がったときは、咳きこんで、飲み込んだ水を吐いて、そして気持ち悪さから胃の中の物まで吐き出してしまった。嘔吐物が浮いて体にまとわりつく。カワタロウがそれをじっと見てる。
途方に暮れるくらいに、くさくて、気持ち悪くて頭が痛かった。
けど、カワタロウは、気持ち悪くなかった。怖くもなかった。ぬるぬるした皮膚も水掻きも皿も、全部大好きだと思えた。
「カワタロウ」
僕の声は心の底からせりだしてきた。
お別れなんか、したくないよ……
涙が出そうになった。僕は思わず、カワタロウの腕を握った。
でも。
カワタロウはそれを強引に振りほどいた。
「え」
カワタロウは僕の目を睨んでた。腕を荒々しく水から上げると、指で草地の入り口の方を示し始めた。そして、ブンブン、何度も首を振りだした。
「なに……」
呆然としてしまった僕を、なおも鋭い瞳で見ては指差し、首を振る。
なんだか、悲しくなってむなしくなって、涙が一筋こぼれた。同時に、むくむくと怒りが込み上げた。
「なんだ、それ、なんだよ! ……僕、最後」
カワタロウの目が、僕の嘔吐物に移った。
いや。嘔吐物に移った、のではなかった。すぐに気付いた。足を捕まれたから。水面下にいた、二人の河童に。
どどう、と、山のてっぺんから音が聞こえる。
カワタロウは怯えた目をして山の方を見た。僕の腕をとり、そして短い足で、太ももにとりつく河童を蹴りおとそうとしてる。
瞬間、黒い黒い川の水が、視界をふさいだ。
河童の親分に、スイコというヤツがいる。 スイコは水子、すなわち胎児のまま死んでしまった子どもの幽霊が、魂となって長い時間さまよって、さまよって、さまよい果てた末に水の妖怪になったヤツだ。
人間の体を手に入れられれば、人間になって生きてゆくことができる。だから、いつも人間を、特に、若い人間の子どもを殺すチャンスをうかがってる。河童が住む沼の水の中で殺してしまうと身体の質が河童のものになって、寿命も減ってしまうから、大抵の者は川の近くの沼に居をかまえ、鉄砲水を待つ。川の水で人間を殺す。
河童はソイツに仕えながら、時に人間を傷つけたり、あるいは、だます。
これは随分後で知ったことだ。あのときは、知らなかった。なんにも知らなかった。
目を覚ますと、病院のベッドだった。ベッドの横ににじいちゃんがいた。僕の目が開いたのを見て、瞳をぎゅうっと閉じて、うつむいたのがぼんやり見えた。 頭がぼうっとしてて、とても痛かった。頭だけじゃなく、体のあちこちがずきずき、ヒリヒリしてた。
それからまたしばらく、うとうととまどろんだ。そして、手になにか握ってる、と思った瞬間、はっと意識がしっかりした。
手の中にあったのは、シダの葉っぱだった。
体を起こそうとしたけど、腰に激痛が走って、うまく力が入らなかった。うめきながら身をよじる僕を見かねて、じいちゃんが手を貸してくれる。
「じいちゃん……」
「おう」
「カワタロウ……川の水が……」
じいちゃんは、少しだけ僕を見つめたのちに、目をそらした。
「昨日はな……」
じいちゃんの低く響く声でゆっくり語られる、昨日の晩のこと。
鉄砲水の音でじいちゃんや、少し離れたところにいる近所の人たちも起きてきたそうだ。
ばあちゃんが、僕がいないのに気付いた。二人は近所の人を連れて、すぐに、草地の方に向かったそうだ。
「鉄砲水がでたときに子供が全く見当たらん、ちゅうのはな、そういう、ことなんじゃ。引き込まれとる……」
川の水は、道路にまで溢れていたそうだ。当然、草地はほとんど水没していた。
みんな、僕の命はついえたものと思っていた。
「……だけど、お前はあのお岩の上に、横たえられていたよ」
意識はなく、あちこちにけがを負っていたけど、命に差し障るものではなかった。
「あの規模の鉄砲水で川に流されないというのは、普通、ありえないんじゃ。そうでなくても、大きい木や岩が流れてくるから、それに当たって……」
カワタロウだ、と思った。カワタロウが助けてくれたんだ。
……カワタロウ。
「じいちゃん、ねぇ」
じいちゃんの方に身を乗り出したとき、僕はじいちゃんの横に置いてある紙袋に目がとまった。
中には、パジャマがわりに着てた……昨日の晩も着てた、シャツが畳んであった。
白いシャツだったのに、沼の深緑色に染まってた。そこに赤い点がいくつか。
そして、その上に、鮮やかな緑が溢れていた。
僕は気づいた。気づいてしまった。
前に、カワタロウが枝に指を引っ掻けたときに流れた血の色を、思い出してしまった。
あ、と。
うめいた声は嗚咽に変わった。
どうなってるかはわからない、きっと大丈夫、きっと……
かすかにじいちゃんの声が聞こえた。
僕は、シャツとシダの葉を握りしめながら、願った。
それは、とても小さな希望だった。とても大事で、だけど叶えられないかもしれない祈りだった。
どうか、どうか。アイツが、沼の底、寝かされながら、そばで見守ってる家族にそっと笑い返して、手を握って……元気になったら、また沼で楽しく遊んで、くえっ、て声をあげて……
……でも、いずれにしろ。僕らが、会えないことにはかわりないのだ。
僕も、カワタロウも、みんなみんな。なんでこんなに非力なんだろう?
僕らは、緑を覚えておくことしか、できない……
今でも、夏の緑、山の緑はすごく好きだ。
木々は太くうねうねと、枝や葉を空に張り出して、草花は濃くたくましく天に伸びる。
いつまでも変わらぬ生命力。大きい強さ。
引き込まれる。
だけど、じいちゃんのとこの山の緑は、あれから一度も見ていない。
特に小学校頃の、夏休みの思い出って長く心に残りますよね。
読んでいただいて嬉しいです。
テーマ、異世界です。シンクロと強烈な思い出をサブテーマに置きました。
感想や評価、しあいたいので、お暇あればよろしくお願いします。
企画担当者様等に機会をいただけたら、もう少し改変したいものです…
最後に。
TVやネット上で知識を得ました(その上で少しだけ脚色等も行なってます)。メディアな方々、ありがとうございました!
企画担当者様、取りまとめ等ありがとうございました、アンソロジーの完成楽しみにしてます!!