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ぼくとわたしの野菜生活  作者: NES
第3章 戸惑う野菜生活
9/13

行きたいところ

 朝日が眩しい。希望の朝だ。このベッドで起きるのももう何日目だろうか。随分と慣れたものだ。うん、想像していたよりもずっと居心地がいい。セレステでの生活は実に順調だと言える。

 さて、今日は俺にとって記念するべき、初出勤の日だ。セレステの街に来て、なかなかいい仕事が見つからないでいたが、今回最高の一発を引き当てた。俺の人生の中で、最大のツキかもしれない。素晴らしい幸先だ。

 こういう時、学歴っていうのは便利だ。首都の大学を出ているって、卒業の証のメダルを見せるだけで、しゃべるまでもなく万の言葉を代弁してくれる。セレステはなんだかんだで田舎だ。首都ならこんなもんその辺の奴なら全員持っているとか言われて、全く相手にもされなかったのに。

 その代わり、仕事だけはきっちりとこなさないとな。何しろ相手が相手だ。ここで下手をうったら、首都に続いて今度はセレステの街から永久追放を食らっちまう。それだけは勘弁だ。別にセレステに骨を埋めるつもりはないが、人生に選択肢は多い方が良いに決まっている。

 一ヶ月分は前金で払ってあるし、しばらくはこの『至高の蹄鉄』亭にいられる。可能なら、セレステにいる間はここを拠点として固定しておきたい。金のアテもできたことだし、長期宿泊の延長について、かけあってみるか。

 何しろここは飯が美味い。ワインの仕入れが良い。そして、美少女がいる。

 素晴らしい環境だとは思わないか? 毎日俺の部屋を可愛い女の子が掃除してくれてるんだぞ?

 いやいや、そういう趣味はないよ。女はもっとこう、色々と出っ張っている方が良い。美少女はあれだ、癒し。人生のうるおい。眺めて愛でるたぐいのものだ。わからんかな。

 部屋を出ると、おお、ちょうどくだんの美少女ハンナちゃんだ。この子が毎日俺の部屋を掃除してくれてるとか、想像するだけで震えるね。

「あ、今からお出かけですか?」

 はい、お出かけです。お部屋の清掃よろしく。

 ・・・って。

「ん?」

 ぐるん、とその場でターンして、俺はハンナちゃんの顔をじっと見つめた。あれ? おかしいな。何かが違う気がする。

「ハンナちゃんだよね?」

「えええっと、はい、ハンナです」

 今の俺の挙動が怪しかったのは認める。それで驚いてすくんでしまうのも判る。

 でもさぁ、ハンナちゃんってそういう反応する子だったっけ?

 もうちょっとこう、噛み付いてきそうというか、警戒心と敵愾心てきがいしんのミックスみたいな感情というか。そういうのを割と隠そうともせずにぶっつけてくるイメージがあったんだけど。

 俺、何か間違えてるか?

「シフォー、さんですよね? その節はありがとうございました」

 ぺこん、とハンナちゃんが頭を下げた。いや、どういたしまして。って、え? 今更?

 その仕草も、どうしてか違和感がある。あれ? 俺、これから出勤なのに、ワイン飲みすぎたりとかしているか?

 浮かれているっていう自覚はあるけど、そこまでおかしいつもりはないなぁ。ふむ、ちょっと冷静になろう。どうにもこの目の前の認知的な不一致について、はっきりとさせないと居心地が悪い。

「あの、客室の清掃を始めたいのですが」

 顔つきがちょっと違うな。以前のハンナちゃんは、もっと強気というか、ややボーイッシュだった。そこがまだ女子として未分化な感じがして魅力だったのだが、これでは普通の女の子だ。いや、別にそれでも悪くはないが。

 後は声。微妙だが声質が違う。変装術で顔を変えることはできても、声は簡単ではないだろう。それに口調。柔らかくて、すごく丁寧な感じがするな。いや、以前がキツくて乱暴だったとか、そういうことを言っているのではないからね?

 そして最大のポイントは、目元。この前見た時は、うっすらと化粧をしていた。今日の顔色は。

 ・・・あれ? 腫れてる?

 ひょっとして、泣いていた?

「ごめんなさい、失礼します」

 ひょい、とハンナちゃんは俺の脇をすり抜けていった。何が起きているのかわけがわからずに、俺はしばらくその場で固まってしまった。

 え、一体なんなんだ?



 のっけから色々とミソが付いちまったが、お仕事は待ってはくれない。これからも継続して、美味い飯とワイン、そしてハンナちゃんを求めるというのなら、しっかりと働いておかないと。身なりだけはキチンとして、いざ参りましょう。

 やってきたのは、フェブレ公爵邸。このセレステの街の領主さまのお屋敷だ。ほっほう、この街でこれ以上の当たりはないだろう。俺はツイてる。実にツイてる。

 俺はフェブレ公爵家の一人息子、フランシス坊ちゃんの教育係の一員として、本日からこのお屋敷で採用されることになった。

 しかしこのお坊ちゃんは相当な曲者らしくて、今までもかなりの数の教育係がギブアップを申し出てきているらしい。まずはそこから。お坊ちゃんに気に入られて、教育係としての立場を確立するところからだ。これは言うほど簡単なことじゃない。遊び相手に成り下がってはダメだし、厳しくしすぎて嫌われてしまってもダメだ。微妙なさじ加減が要求される。

 首都の大学を出た偉い学者先生の、お手並み拝見といったところか。いいぜ、そういう博打は大好きだ。相手が相手だけに、これで失敗したらあっという間に噂が広まるだろう。その時は残念ながら、バイバイセレステ、だ。

 執事風の召使いに案内されて、屋敷の中に入った。ほう、田舎貴族だと思っていたが、流石に共和国に議席を持つだけのことはある。物流の要衝ようしょうセレステの領主様らしく、屋敷内の至る所に、古今東西の財宝がさりげなく飾られている。これ、歴史的な価値とかすごいんじゃなかろうか。

 裏庭が見える窓の向こうには、ガラス張りの巨大な温室が見えた。ああ、なんかどっかで小耳に挟んだ気がするぞ。フェブレ公爵の所の奥様は、趣味で珍しい植物を育てているって。なかなか洒落た道楽じゃないか。

 坊ちゃんの部屋の前までやって来て、俺は身だしなみをもう一度チェックした。まずは、なめられたりしたらおしまいだ。第一印象はちょっと強め、厳しめに。それからフレンドリーさを出していく。今日の所は顔見せ程度だから、焦らず、じっくりとだ。

「フランシス坊ちゃん、本日より参った新しい教育係の者をお連れいたしました」

 さて、フランシス君、初めましてだね。今日から君の教育係になる、シフォー・アリフという者だ。首都の大学では、考古学を専攻していた。君も伝説とか伝承には興味があるだろう? 僕と一緒に楽しく勉強していこうじゃないか。

「げっ」

 げっ、てのはなんだい。随分なご挨拶だな。これは礼法の授業に切り替えた方が良さそうだ。僕は首都の子爵様にお仕えしていたこともあってね、そういった貴族の礼節についても一通り・・・


「げっ」



 あー、なるほど。事情を一通り聞いて、俺はようやく理解が追いついてきた。今目の前にいるのが、フェブレ公爵家の御曹司、フランシス坊ちゃん。今朝『至高の蹄鉄』亭で話をしたのが、ハンナちゃん。オーケー。入れ替わり生活ねぇ。なかなか楽しそうなことをしているじゃないか。

「俺がこの前助けたのは?」

「僕だ」

 マジか。ロマンスの欠片もねぇな、おい。すると俺は、酔っ払いにからまれた女装男子を助けようとしてぶん殴られたのか? よくわからんが、騙された感だけはたっぷりとある。一体何処に、何の罪で訴え出ればいいんだか。

 しかも俺、どっちかといえば女装したフランシス坊ちゃんの方が好みだとか思っちゃったじゃん。どうしてくれんのよ。ハンナちゃんも間違いなく美少女なのに。とんでもなく失礼なんじゃないの、それ?

 俺は完全にやる気をなくしてしまった。そりゃそうだ。だって、仕事先に来てみたらハンナちゃんがいて、しかも「僕は男だ」とか言い出したわけだよ。悪夢か、そうじゃなきゃ何かの罠だって普通は考えるよ。やってらんねー。

 椅子の上にどっかりと腰かけると、襟元を緩める。あー、緊張して損した。くっそ、仕事どうしようか。このままフランシス坊ちゃんに、入れ替わりについてバラすぞとか脅して、長期契約まで持っていっちまおうか。

 ・・・ダメだ。それができるなら俺はこんなところまで流れてきてねぇ。あーもー、なんなんだこれ。

「しっかし、なんだってそんなことしてるんだ?」

 野菜ぐらい我慢して食えばいいじゃねぇか。毒ってわけでもないんだからさ。お母様がせっかく丹精込めて育てて、料理人が一生懸命作ってくれた料理なんだぜ? ありがたくいただいとけよ。

「それを一番喜んでくれる人にあげるべきだって思ったんだよ」

 ハンナちゃんね。野菜マニアとはお見それしたよ。健康的でいいんじゃない? あの子、可愛いよね。

 ・・・なんでそこで赤くなるの? 何その反応?

「あー、そういうことか」

 なるほど、そりゃそうだ。そうでもなきゃ、スカートを履いてまで身代わりになろうとか、そこまではしないわな。

「なんだよ、文句あるのかよ」

 おう、それよそれ。その挑戦的な態度、それが恋しかったのよ。俺好きだぜ、フランシス坊ちゃんの偽ハンナちゃん。

「文句なんかないよ。好きなんだろ? いいなー、うらやましいくらいだ」

 俺の初恋って、いつだったっけ? もう覚えてないなー。そんな年でもないつもりなんだけどな。

 大学の時の彼女は、元気にしてるかな。確か、帝国から来てたんだよな。このご時世によくやるよ。そして、よく戻ろうなんて考えたもんだよ。

「でも、さようならだって」

 あん?

「宿屋の下働き、下女だから、僕が好きになっちゃいけないって」

「誰がそんなこと言ったんだよ?」

 フランシス坊ちゃんは、じろり、と俺のことを睨んできた。おお、怖い。

「ハンナだ。ハンナが言ったんだ」

 ふぅん。そうなんだ。

「バカだねぇ」

 俺は天井を仰いだ。なんだよ、じゃあ今朝ハンナちゃんが泣いてたのって、それなんじゃないのか?

 フランシス坊ちゃんにしても、ハンナちゃんにしても、まだ子供じゃないか。好きだ嫌いだ、惚れた腫れた、別に構わないだろ。領主の息子とか、下女とか。そんな理由で感情を殺すなんて、バカ以外のなにものでもない。

 ホント、バカだよ。「私は帝国に恩義がある」ってさ。知らねぇよ。俺の価値なんて、それ以下だったのかよ。

「俺はさ、フランシス坊ちゃんの教育係なんだわ。教えるのは勉強だけじゃなくて、そのなんだ、生きていくためのあれこれって感じになるのかな」

 きょとんとした顔しちゃって。あああ、嫌なことばっかり思い出してきちまった。

 お前ら放っておいたら、俺と同じ失敗しそうなんだよ。なんなんだ、これ。俺、今度こそここで一旗あげて、勢いを付けて次の新天地を目指そうと計画してたのに。

 彼女に、俺がいるってところを、見せつけてやりたかったのに。

「坊ちゃんは今、どうしたい?」

 どうしてだろうな。お前のきらきらとした金髪が、未だに目を閉じると浮かんでくるんだ。まぶしくってさ。とてもじゃないけど、素面しらふじゃ眠ることすらままならねぇ。

「僕は・・・」

 なあ。俺は、ここで生きてるぜ。立派に、でっかく生きてる。お前が選んだ帝国と、今の俺。どっちが大きいよ?

「ハンナちゃんに、どうしてもらいたい?」

 ワインの味、教えてくれたのはお前だ。だいぶ判るようになったんだぜ? 帝国のワインは、美味いのかい?


「僕は、ハンナに野菜を食べて笑ってもらいたい!」


「じゃあ、すぐに行きな」

 フランシス坊ちゃん、俺みたいになるな。ちゃんと最後まで追いかけるんだ。みっともなくてもいい、無様ぶざまでもいい。

 大切なものは、絶対に離しちゃいけないんだ。




 今日の客室清掃が終わって、誰もいない厨房で、私は一人ジャガイモの皮をいていた。椅子に座って、バケツ一杯のジャガイモを、一つ一つ丁寧にナイフで撫でていく。芽もくりぬいて、つるつるのぴかぴかになったジャガイモはとても綺麗だ。

 今日のメニューは何だろう。ジャガイモの数が多いから、シチューかな、それともマッシュポテトかな。そういえば、この前フランシスの家で食べたポテトサラダ、美味しかったな。粗くつぶしたジャガイモの中に、小さくさいの目にカットしたリンゴが入っているのにはビックリした。素晴らしいひと手間だ。

 ナイフが止まる。まただ。考えないようにしているのに、すぐにフェブレ公爵邸のこととか、フランシスのことを思い浮かべてしまう。こんなことじゃダメだ。

 もう、あそこにはいかないって、決めたんだから。

「ハンナちゃん」

 目の前に椅子が置かれて、そこにナディーンが腰かけた。流石に刃物を扱っている時は抱き着いてこないか。サンドラとナディーンには、今日はいっぱい迷惑をかけちゃった。

「大丈夫? 元気出た?」

 ナディーンは私のお姉さんみたいな人。いつもこうやって心配してくれる。見た目がちょっと溺れかけた人みたいだけど、心はちゃんとあったかい。

「ありがとう。大丈夫だよ」

 うん、大丈夫。大丈夫にならないと。仕事だってあるんだから。まだまだジャガイモ、こんなにいっぱい残ってる。

「フランシスと何かあったの?」

 またナイフが止まる。サンドラもそんなことを訊いてきた。そうだよね、昨日、フェブレ公爵邸から帰ってきてから、私、ずっとこうだもんね。ごめんね。

「フランシスのせいじゃないよ」

 別に、フランシスは悪くない。

 悪いのは、多分私だ。野菜を盗みにフェブレ公爵家の温室に忍び込んで。そこで、フランシスに出会ってしまった。そのまま、フランシスに言われるがままに、入れ替わり生活を始めてしまった。そして知らない間に、私はフランシスの心の中にまで踏み込んでしまっていた。

 身分不相応。本来私なんかがいてはいけない世界に、我が物顔で居座ってしまった。

「ねえ、ハンナちゃん?」

 ナディーンの声が聞こえた。私の目は、ただじっとナイフの切っ先を見つめている。磨かれた刀身に、私の顔が映っている。フランシスと同じ顔。


「ハンナちゃんは、フランシスのこと、好きなんでしょ?」


 刃がすべる。ナイフがくるくると回って、ジャガイモのバケツの中に落っこちた。

「え?」

 顔を上げると、ナディーンが微笑んでいた。その目鼻が、ぐにゃりと歪む。景色がにじむ。

「いいんじゃない? フランシスって、なかなかいい子だと思うよ?」

 フランシスは悪い子じゃないよ。それは判ってる。そんなことは、判ってるんだ。

「でも、ダメだよ。私なんか、ただのお手伝いだよ? 下働きだよ?」

 なめらかなシルクと、まぶしいきらめきの世界。広い部屋、大きなベッド。美味しい食事。フランシスのいる世界は、私とはあまりにも違い過ぎている。

「違うよ」

 ナディーンの手が、私の頬に触れた。涙でべっちゃりしてる。私、昨日からずっと、泣いてばっかり。


「あなたはハンナ。それだけだよ」


 ハンナ。

 私は、ハンナ。

 野菜が好きな、女の子。

 そして。




「ハンナ!」




 椅子の上に座ったハンナが、ゆっくりとこっちを振り返る。ハンナと向き合っていたナディーンが、こっくりとうなずいた。僕は厨房の中にずかずかと入り込んだ。

 ハンナは、泣いていた。何をやっているんだ。ハンナの涙なんて、僕は見たくない。ハンナには笑っていてほしい。そもそも僕がハンナを好きになったのは、温室で見た素敵な笑顔がきっかけだ。

 ハンナが笑っていてくれないと、僕は面白くない。

「ハンナ、さようならとか、もうウチには来ないとか、勝手なことを言うのはやめてくれないか?」

 ここに来た時、サンドラから聞かされた。もうフランシスの家には行かないって。ハンナがそう言っていたって。

「だって、私・・・」

 僕はハンナの前に立った。涙でぐしゃぐしゃになったハンナが、僕のことを見上げてくる。僕と同じ顔で、なんてざまだ。

「いいか、ハンナ? 一体誰のせいで『お母様の野菜の日』が一日三食野菜料理になってしまったと思っているんだ?」

 美味しい美味しいって食べまくって、料理人にまで気に入られて。本当に、野菜を食べている時のハンナは、誰よりも幸せそうで、輝いている。

「三食野菜料理とか、僕には絶対無理だ。君が責任をもって、『お母様の野菜の日』にはウチにやって来て、全部の野菜料理を食べるんだ」

 そうしてくれないと、みんな困る。野菜を育てているお母様も。料理を作っている料理人も。そして。

 それを見て喜んでいる、僕も。

「それから!」

 僕はその場にひざまずいた。こんなことをするのは、人生で初めてだ。そして多分、もう一生、二度としない。そう決めた。

 ハンナの手を取る。仕事ばっかりで、あかぎれでぼろぼろの掌。今だって、ジャガイモの皮むきで氷みたいに冷たくなっている。それでも。

 僕の大切な、ハンナの手。


「僕の前から、いなくならないでくれ」


 僕はそっと、その指に唇で触れた。

 ハンナが、大きく目を見開いた。そんなに驚くことか。悪かったな。

 オリビエから聞いたんだろ? サンドラやナディーンだって気付いてたみたいだし。もういいよ、バレバレなんだから。

 僕はハンナのことが好きだ。口いっぱいに野菜を頬張って、幸せそうに笑う君が、大好きだ。僕が女中の格好をして、一日宿の下働きを代わってでも欲しかったのは、君のその笑顔だ。

 まあ、正直僕は自分のことをどうしようもないヤツだとは思うよ。野菜は嫌いだし、部屋の掃除もしないし、生意気だし、良いところなんて自分で何一つ思いつかない。

 だから、ハンナが僕のことを嫌いだっていうなら、それはそれで仕方ないって思うからさ。

 その場合でも、野菜料理ぐらいは食べに来てくれよ。週に一度の休暇ぐらいの気分でさ。僕のお母様と、料理人たちにサービスしてやるつもりで。みんな、ハンナのことを、待っていると思うんだ。

 ダメかな?

「フランシス、私、何にもないよ? 何にもできない。私、ただの下働きで、下女で、子供で――」

「そんなの関係ないよ」

 全然、何一つ関係ない。

 僕にとって大事なのは、ハンナが、野菜が大好きだってところだ。

「僕はね、ハンナ」

 ぼろぼろ泣いているハンナ。それ、もうやめようよ。僕は、そんなハンナは見たくない。僕はね。


「野菜を食べて、幸せそうにしている君が好きなんだ」


 言ってしまえば、その言葉はするりと咽喉から抜け出した。なんだかすっきりした。僕の中でずっともやもやしていた気持ちは、みんな身体の外に出て行って。

 ハンナの中に吸い込まれていった。

「フランシス」

 ハンナの手が、僕の手を握った。冷たいけど、柔らかくてしっかりしている。暗い森の中で、強くつながった二人の掌。僕を導いてくれる、野菜の女神様。

「じゃあ、私、またフランシスのお家に行くね」

 判った。待ってるよ。

 ハンナは笑ってくれた。そう、その笑顔だ。僕はずっと、君に魅せられていた。

 好きだよ、ハンナ。




 あー、頭いてぇ。昨日は飲み過ぎた。テーブルの上を見ると、ワインの空き瓶が六本。いくらなんでもやり過ぎだろう。『至高の蹄鉄』亭が割安とはいえ、今の収入じゃあ蓄えを作るのだってギリギリだ。

 部屋の外に出ると、おお、美少女。いいタイミングだった。こいつは朝から幸先が良い。

「シフォーさん、朝食の時間が終わりそうなので、お呼びに参りました」

 なんだよ、そういうことか。

 でもわざわざハンナちゃんがモーニングコールしてくれるっていうのは嬉しいね。これがあるから俺はここに逗留してるんだ。

「今日はフランシスのところに行くんですか?」

「ああ、仕事だからな」

 フランシス坊ちゃんは、俺を教育係として認めてくれた。しばらくはフェブレ公爵邸のお仕事で、食いっぱぐれずには済みそうだ。あの坊ちゃんは頭の回転は早いし、物覚えも悪くない。フェブレ公爵家は安泰だね。

 ガールフレンドも可愛いし、人生イージーモードでうらやましい限りだ。

「フランシス坊ちゃんとは、その後どうだい?」

「どうって・・・普通ですよ」

 頬染めて言うセリフがそれかよ。随分と情熱的な告白をされたみたいじゃないか。あれ、俺のお陰なんだからな。ちったあ感謝してほしいもんだ。

 いいんだよ、ハンナちゃんくらいの年頃なら、自分の気持ちに素直に生きてれば。大人になれば、嫌でも立場とかしがらみとかついて回るんだから。今は力いっぱい走って、壁にぶつかってから考えな。

 俺の方も、二人にはちょいと元気をもらったからな。またバカやってみたくなってきちまった。

「そういえば、まだ延泊で良いんですよね?」

「ん、そうだな。旅費がもう少し足りなさそうなんでな」

 帝国ってのは、近くて遠い。関所やら何やら、面倒事が多くてなかなか素直には入れてくれそうにはない。近々北方のアークライト王国と派手な戦争をやるって噂もある。

 でもさ。

 部屋を飛び出して、真っ直ぐにハンナちゃんの所に駆けつけたフランシス坊ちゃんの姿を見てたらさ。

 俺だって、負けるもんかって、そう思っちゃったりなんかもしたのよ。

 ひょっとしたら、もう遅い、もう手遅れ・・・なんて言われちまうかもしれない。

 ま、その時はその時だ。たとえそうであったとしても、手土産ぐらいは受け取ってくれるだろう。

 俺のお気に入り、『至高の蹄鉄』亭で仕入れてる上物のワイン。あいつが、このワインを飲んで美味いと言うか不味いと言うか。

 その反応をこの眼で、直に確かめること。それが俺の今の目標。俺の行きたいところなんだ。


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