真冬の逃避行
唸りを上げて飛んでくる拳は、側からみるとかなり速いものに思えた。日々寒空の下で鍛え上げられた豪腕が出す速度は並みのものではない。日焼けした末になめし革のようになった顔を引き攣らせ、瞳を憎々しげに歪めた初老の男。現場帰りなのか薄汚れた白Tシャツとニッカーボーカーを含め、自然に鍛えられたドカタの男としては最も脂の乗っている年頃だった。
その拳を軽やかに躱し、すれ違いざまに重い一撃を身体に叩き込んだのはその男とは対照的な出で立ちの若い男だった。マフィアのような沈む色をした、ともすれば野暮ったくなりがちなダブルのダークスーツを着こなし、スマートな一撃を再び繰り出して初老の男を牽制する。続くのは顔面への正拳。べち、と肉を打つ音とともに白い息が両方の口から漏れたのが終幕の合図だった。
くずおれた相手ーーいきなり絡んできたドカタ風の男を適当に路肩に投げ込んで、彼はこちらに向き直る。「無事か」という声は冷たい夜空に凍っているようだった。まず自分を心配してくれるのはいつも通りの彼の所作だが、いつもは柔和な表情で自分の長話に付き合ってくれる彼とは、今夜もわがままに付き合ってデートをしてくれた彼とはまるで別人のような雰囲気をまとっていた。
高校時代に出会い、いろいろな変遷を経て付き合うこととなった男。自分より10は年を食っているという彼だが、そんな実年齢を想像だにさせない若々しさを彼は持っている。大学3年生の自分と並んでも同年代といって通用する端正な顔立ちは、彼自身も仕事上の武器にしているという。
なんとか頷いた自分から視線を外し周囲をざっと見渡すようにした彼は、なにかを感じ取ったのか「走るぞ」と手を取ってきた。
初めてのデート以来、手をつないだこともないままだった。彼も自分も各々忙しく、すれ違いのような状態が続いていた。そんな状態でポンと降って湧いたこの状況は自分の幸運が呼び込んだものか、あるいは更なる不幸を呼ぶだけのものか。判然としない思考を弄びながら、引っ張られるままに入り組んだ路地を走り抜ける。この辺りの路地を知り尽くしてでもいるのか、彼の道選びには躊躇というものがない。しかも走りやすい道を選んでいるようで、引っ立てられながらも女の細脚がつっかかることがない。何かに駆られながらもこちらへの配慮を忘れない、彼なりの配慮なのだろう。
それもこれも、彼が逃げるために障害にならないためという理屈もあるが。ともあれ、2人の逃避行という憧れたこともあるシチュエーションに、自分が高揚している一面も隠しきれなかった。
いつの間にか大通りに出ていたらしい。人通りを確認したらしい彼がようやく笑い、「よくついてきたな」と頭をくしゃりとなでてくる。甘えたがりな自分が首をもたげ、抑え込む間も無く自分を乗っ取ったことがわかった。「怖かったか」と頭に手を置いたまま、ふと目を鋭くして車道を走る車を一瞥する。その彼が全く息を切らしていないのがわかった。
あの現場からここまでざっと1キロはある。その距離を全力疾走してきたというのに、これは一体なんだ。問いかけようとして果たせず、ただ頭を彼の手にあわせることに専念した。考えても仕方がないことは考えない、高校大学といろいろなことを経験してきた自分の処世術だった。
撒いたな、という声はやはり冷たい。私情を全く排した機械的な声。しかし今度はそれにも彼自身のあたたかさが感じられた気がして、冷たい外気とは裏腹に体温が上がるのを感じた。