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黒衣良千咲の憂鬱

 第九章 黒衣良千咲の憂鬱


 怒りに震えている時、人は恐ろしいぐらい冷酷になる。そして、何もかも忘れてしまう。自分が何をしているのかさえ……。

 306号室には、思い詰めたように、レザースーツを着た少女が立っていた。千咲は、大切そうに、ベッドテーブルの花瓶に挿してある、紫色の羽を持ち上げた。それを胸元へ仕舞い込む。震える手で、ダイバー・ウォッチを腕に巻くと、廊下へ躍り出た。

(ジョン、ジョン、ジョン!あいつを一度、ぶん殴らないと、気が済まない!)

 廊下の反対側から、アンジェリカが、慌てて走ってくる。

「千咲ちゃん、無理よ!よして!」

 心配そうについてくるアンジェリカを伴い、千咲はエレベーターの中で、地下一階のボタンを押した。

「相手はユートピアンよ!」

「だから、何だっていうんだ!」千咲が吠えた。ぷくーっと頬を膨らませるアンジェリカの顔が、千咲を見上げている。両手をグーにして、飛びかからん勢いで、踵を浮かしている。しかし、慎重百七十センチの千咲には、どう考えたって迫力負けしていた。

「普通、人間がユートピアに取り残されれば、体が保たなくて、死んでしまうの!彼らは、生き残った人々なのよ!並みの錬金術師じゃ勝てない、凄いエリクシールを持っているの!」

「奴は関係ない!私はダイブして、ジョンをぶん殴る!」

 アンジェリカは、浜辺に打ち上げられたクラゲみたいに、しんなりした。扉が開き、千咲はエレベーターから降りた。アンジェリカは、呆然と立ちつくしている。

 地下一階の大広間は、騒然としていた。エメラルド・タブレットの職員全員が集まっている。

(何、これ?私を見送りに来たの?今から、無断でダイブするつもりだったのに……)

 千咲は、エレベーターの脇で待たせているデビッチの手綱を掴んだ。そのままドラゴンを引き連れ、人波を掻き分けてゆく。大広間には、地上へ繋がる、大型エレベーターの扉がある。その左右に三つづつ、山なりの形をした、高さ五メートルほどの巨大ポッドが並んでいる。備えつけの機械だが、千咲はそれが何なのか、よく知らない。

 少女の体を燃やしていた怒りが、冷却スプレーで固めたみたいに、ぼろぼろと崩れ去っていった。そのポッドの周りだけ、人波が失せている。千咲は、職員達を掻き分け、ぽっかり空いた空間に躍り出た。アンジェリカも、人波に押し潰されながら、何とか千咲の隣に踊り出る。

 どよどよとした大広間の雰囲気は、淡い期待と不安によって、混乱しきっていた。アンジェリカと同じように、もみくしゃにされながら、ベンジャミンや徹もやってきた。ベンジャミンは、息も切れ切れに、興奮を露わにしている。徹は腕組みをして、ポッドの方を睨みつけていた。

「一体、何が始まるの?」千咲が聞いた。

「腹持ちならん奴が来るんだ」徹は不機嫌そうに言った。

「大ニュースだよ!オーダー・オブ・ザ・ドラゴンの一人が、東京支部に来るんだ!」

 ベンジャミンは両手を広げると、興奮しきって言った。

 アンジェリカが注釈した。オーダー・オブ・ザ・ドラゴンとは、世界最高のドラゴン・ダイバー二十一人で構成される、危険な任務を専門にこなす、精鋭部隊なのだそうだ。

 千咲の怒りの矛先は、みるみるうちに溶けて消えてゆくようだった。

 そこに、クラリーも加わり、呆然とする千咲に抱きついた。

「本当に来るの?オーダー・オブ・ザ・ドラゴン!」

 大広間は、一気に、別世界に変わった。ポッドの周りから、まるで夜霧のように、大量の水蒸気が吐き出されたのだ。

「あのポッドは、ユートピアからの来客用だよ。全自動のスタビライザーが備わっている」

 徹が言った。霧の中に、強烈な光が六つ、差しこんだ。光の中から、影法師が伸びている。そのどれも、背後に、巨大な影を従えさせていた。ドラゴンだった。

『フラナガン・マクガイア!ここに、参上!』

 それは、スーパーマンのクラーク・ケントから、黒縁眼鏡と謙虚さを削りとったような男だった。黒いレザースーツに、スポーツカーのような赤いラインが入っている。金髪のポマード頭を掻き上げると、筋骨隆々の体を反って、誰かを捜すような仕草を見せた。

『ここの代表者はいる?』と不貞不貞しく、チーズ臭いアメリカ英語で聞いた。


 体の上を、鼻持ちならない虫が、ゾワゾワと這ってゆくような気分だった。千咲は腕を組み、クラウスとフラナガン・マクガイアとの一部始終を眺めている。

 フラナガンは、ドラゴンが丸めた尻尾をソファ代わりに、寛ぎながら座っている。ヘアスタイルをしきりに指先で気にしながら、うんうんと頷いている。

(なんて不貞不貞しいんだ……)千咲は、先ほどの徹と同じように、世界最高のドラゴン・ダイバーを睨みつけている。クラウスは、ディスプレイの光に黒ずみながら、身振り手振りで、状況を説明していた。

「ミハイルの自供によると、ナサニエルは、ユートピアの全セクターに流れるアネモイに、改造したドラゴン・メーカーを乗せ、一年ほどかけて、超圧縮した空間の力を、一カ所に転送し、集めていたらしい……」

 大広間の中央の床が開いている。その中から、四角四面の巨大キューブが迫り出している。キューブの全面には、ユートピアの地図や、改造されたドラゴン・メーカーの画像などが、映し出されていた。

「ミハイルは、その膨大な力を貯蓄しておくための機械をばらし、少しづつ、ユートピアのナサニエル・キングストンの元へ、届けていたようだ」

 巨大キューブに、顎のガッシリしたユートピアンの顔写真が映し出された。フラナガンは、マニキュアの手入れをしている。トレイで炭酸水を持ってきた女性職員に軽くウィンクすると、彼女のくすくす笑いを誘った。

「今回、秋葉原で起こったデストピアは、静電気の現象に例えることが出来る。超圧縮したエリクシールが、ある一点に貯蓄されていると、その近辺が、高次元で緊張状態に置かれる。そのため、僅かなバランスの乱れで、空間に莫大な負荷が一気にかかる。その結果があれだ。いつでも、無尽蔵にデストピアを引き起こす可能性がある……」

(あいつ、支部長の話を聞いているのか!?)千咲は、つま先を小刻みに動かしながら、フラナガンを睨み付けた。

「ミハイルは、その原因の機械を、セクター1に移送していたらしい……」とクラウス。

 フラナガンのドラゴンは、ゴシック建築の鉄細工みたいに、荘厳な甲羅飾りを持っている。真っ黒なドラゴンで、首はとても太い。その後ろには、彼が連れてきた、選りすぐりのドラゴン・ダイバー達が立っている。

 フラナガンが、どれだけ鼻持ちならない野郎だろうと、この事態を解決してくれそうな自信とオーラを(みなぎ)らせているので、千咲には何も言えなかった。

 フラナガンは、ようやく、画像をまともに見た。丁度、キューブが、複数の画像を、花火のように撒き散らしていると所だった。その中央に、映像のボックスを現れる。

 そのポリゴン映像は、ブラックスクリーンの上で回転しながら、下から上へゆっくりとスライドしてゆく。その場の全員が息を呑んだ。フラナガンは足を組むと、「ヒュー」と口笛を吹いた。それは、機械仕掛けのタンクを何百メートルも引き延ばしたかのような、巨大な塔だった。

「リンク・タワー。設計者のミハイル自身が、そう呼んでいるものだ」とクラウス。

「これは、ミハイルの持っていた複数のデータから、計算し、再現したものだ」

 散らばっている画像は、リンク・タワーの設計図の一部だった。ここでフラナガンは、拍手をしながら徐に立ち上がった。ディスプレイの前に立つと、腰に両手を添える。

「用は、こいつを発見して、ナサニエルを逮捕すればいいんだろう?で、この機械は、ユートピアの何処にあるんだ?」千咲のカラー式通訳機に、フラナガンの英語の通訳が送られてくる。

「デストピア調査部が、総出で探したが、見つかりはしなかった……」クラウスの声が萎えた。「恐らく、隠してあるのだろう。ミハイルの供述が正しければ、機械は、セクター1の何処かにあるはずだ。空間の力が弱いため、超圧縮した力を、安定した状態で保存することが出来るため……」ここで、世界最高のドラゴン・ダイバーは、話を遮った。

「スペイシャル・プローブは?」クラウスの方は、見てすらいない。

「……超圧縮されたエリクシールだ。高次元で貯蓄されているため、探索は難しい」

「その馬鹿なユートピアンは、どうして、こんな機械を作ったんだ?目的は?」

 どうして、ステーキをレアじゃなくて、ミディアムに焼いたんだ?そんな聞き方だった。

 クラウスはフラナガンを少し睨むと、キューブに向き直った。

「動機は、完全には理解しかねるが……。この機械が何をするかは分かる」

 すると、リンク・タワーなるポリゴン画像は、クローズ・アウトされた。その真横に、地球の画像が映し出される。

「この機械は、ユートピアとこの地球を繋げる、穴掘り機のようなものだ」

 フラナガンは、拍子の抜けた顔をして、クラウスを一瞥した。

「本気で言っているのか?」その問いに、善悪の勘定はなかった。

「どの程度まで……つまり、地球とユートピアを繋ぐ?」

「永遠にだ……」とクラウス。

 人々は騒然とした。大広間は、巨大な嵐に見舞われた大海のように、蠢いた。

「なんの空間の制約もなく、向こうと此方の存在が、自由に行き来できる。しかし、常に、高次元での空間の歪みが生じる。地球は、年中、大災害に見舞われ、ユートピアの空間の一部は、ほころび、消滅してゆくだろう……」

(……待って。それって、半分、地球が消滅すると言っているようなものじゃない!)

 千咲は、思わず駆けだした。クラウスの肩を掴む。

「なんで!なんで、ジョンがそんなことの手伝いを!?」

 流石のフラナガンも、動揺の色を隠せず、絶句していた。クラウスは石像のように固まり、その目はうつろだった。声は感情がないかのように無機質だ。

「ミハイルは、この機械の理論的完璧さを追求したが、倫理は求めなかったのだ。ナサニエルには都合のいい、その結果だけを教えて、何を引き起こすかは、言わなかった……」

 千咲の体に、悪寒が走った。それは、黒い雷のようだった。刃物のように硬く鋭く、一瞬にして消え、一瞬で深々と傷跡を残す、残酷な衝撃だった。

 嵐のようなざわめきは、尚も続いている。混沌だった。千咲は、力なく膝を折り、(ひざまづ)いた。老人のスラックスの袖を掴むと、わけも分からず涙を溜めて、項垂れた。何故だろう、人のために、初めて流した涙だった……。


 体の緊張は抜けていた。変わりに、胸の辺りに、ぽっかりと穴が開いているようだった。

 千咲は、大広間の片隅で、デビッチの鞍に腰を掛け、壁にもたれかかっている。

 直接的な作業に関わる職員だけが大広間に残っている。後は全員、退散していた。

(これは、危機だよな。しかも、世界最大の……)千咲の虚ろな眼差しは、大広間の人波に向けられている。あまたのドラゴンや、レザージャケットを着た人達で、大広間は溢れ返っていた。

 フラナガン・マクガイアが、東京支部に到着した頃。ロンドン本部は全世界に、ドラゴン・ダイバー達の招集を呼びかけていた。

 大広間のポッドが、絶えず、煙を放っている。頑丈な扉が開くと、中から、ドラゴンを引き連れたダイバー達が現れた。一分、二分と経つごとに、彼らが大広間を窮屈に占領して行く。フラナガンは、全員を整列させることに躍起だった。

 世界の運命をかけた戦いが、萎びた古書店の地下で、幕を開けようとしているなんて、誰が思うだろうか?千咲は両膝を抱えて、ますます縮こまった。大広間は、中央のキューブ型ディスプレイを頭一つ残して、ほとんど、ドラゴン・ダイバー達で埋め尽くされている。

(まさか、こんな大役を任されるなんて……。しかし、これはチャンスでもある。もし、任務を成功させれば、本部長より上の、十二長老にだって昇進できるかも)フラナガンの思惑は、彼の鼻孔を、下品なぐらい広げさせていた。

 世界各国のドラゴン・ダイバー達の視線が、この男一人に集中した。

「兎にも角にも、人海戦術をとる!」

 ビリビリと、快感にも似た刺激が、男の体を駆けめぐった。不謹慎にも、その唇には、僅かな微笑みさえ見せている。彼のドラゴン、カイゼルは、鞍に主人を乗せたまま、キューブ型ディスプレイの真上へぴょんっと飛び乗った。

 これが、権力の上。私が輝くべき、玉座なんだ!フラナガンは、そんな勘違い全開の空気を身に纏い、キューブの上に降り立った。深呼吸すると、全方位を見渡した。

「スペイシャル・プローブを、今回は使用できない。とにかく、怪しい物を見つけたら、通訳機に内蔵されているトランシーバーで、直ぐに、この私に知らせること!」

「はい!」一斉に、足踏みを揃えて聞こえる返事に、フラナガンはたいそう気をよくした。

「今回の主犯であるナサニエル・キングストンなるユートピアンは、元々は、ロンドン本部のドラゴン・ダイバーだった!」とフラナガン。

 キューブの四方に、ナサニエルの顔写真が映し出された。フラナガンは、キューブの端にしゃがみ込むと、人差し指を下に向けた。唇が捲れるぐらい、忌々しい声を作り、命令を下した。

「遠慮はするな。殺しても構わない!ただ、ユートピアン達の情報によると、セクター8まで順応できる、相当の使い手らしい」

 大広間に広がるざわめき声は、単なる動揺を通り越して、死臭さえ感じさせた。そこで、フラナガンは勇ましく立ち上がった。千咲は、腕を組み、ますます壁にもたれかかりながら、話を聞いている。

「だが、安心しろ!私は、オーダー・オブ・ザ・ドラゴンの一人だ。セクター10まで順応する力を持っている」その姿は、見えざる光に照らされ、ダイバー達の瞳の中で、煌々と輝いていたことだろう。フラナガンは、その分厚い胸に、右拳をドンッと打ち付けた。

「私に続け!さすれば、勝利が待っている!」

 それから、全員が、気勢を上げた。最後に、スペイシャル・プローブの画面を、各々がチェックした。探査機能ではなく、捜索場所を記したユートピアの地図が表示されているか確認するためだった。

 千咲は、心臓に取り付けられた蛇口が、コックを捻る度に、一滴一滴、血を流してゆくような、無惨な気持ちを味わっていた。その心臓のコックは、ダイバーがドラゴンと一緒に、ポッドの中へ消える度に、捻られるのだった。

 彼女の頭の中では、記憶の地球儀が回っていた。地球儀には、僅かしかないが、ジョンとの思い出が映されていた。初めて、ユートピアで会った時。ロンドンの街を飛行した時。本部の案内してくれたこと。何より、純粋無垢な、善人そのものの笑顔。そして、彼が見せてくれた、まだ人間だった頃の父親の写真……。

(どうして、ジョンは、こんな危険を犯してまで、父親を手伝うのだろうか……)

 そんなことを、呆然と考えている千咲の足下に、アンジェリカがとぼとぼと歩いてきた。

 大広場には、もう数人のドラゴン・ダイバー達しか残っていない。クラウスは、キューブの前で、立ちつくしている。

 私は、このままでいいんだろうか?このまま、ジョンのお父さんが発見されて、殺されるのを待っていて……。世界に危機が訪れるのを、じっとしながら待っていて、平気なのか?これらの感情は、文章よりも雄弁な表情となって、千咲の顔に現れていた。

 千咲は、立ち上がった。鞍から飛び降り、がらんどうになった大広間を、必死に駆けてゆく。千咲に、これから先のプランなんて存在しなかった。

 少女は、拳を握り、挑戦的に、老人の前に立った。クラウスは、キューブ型ディスプレイの隣で、千咲が声をかけてくれるのを待っていたかのように、自然と振り返った。

「私は、あの男を、信用しとらん……」とクラウス。

(それは、マクガイアのことだろうか?それなら、私も同じ気持ちだ)千咲は思った。

 老人は、ディスプレイに手を向けた。映像が映し出される。それは、ジョンの父、ナサニエル・キングストンの写真だった。しかし、耳から翼は生えていない。瞳も黄色くない。それは、彼が人間の頃の写真だった。

「私は、彼のことを、よく知らない。人間は、変わることだってある。しかし、人間だった頃の心を、ほんの少しでも、彼が持っていてくれたなら……」クラウスは言葉を詰まらせた。

「私は、それを希望に持っている」

 不思議と、千咲の虚無感が崩れた。しかし、まだ何重にも重なる壁の、ほんの一枚が剥がれた程度に過ぎないが……。今度は、ナサニエルの顔を半分隠し、ある写真が現れた。クラウスは、ディスプレイに向き直った。アンジェリカも、千咲の隣から写真を覗き込む。

「この写真は、彼の妻、ミヤコのものだ」とクラウス。

 決して、絶世の美女ではない。しかし、丸く滑らかな白い肌で、赤ん坊を抱く姿は、何にも犯せない、溢れる慈愛で満ち溢れていた。クラウスが、画像の手前で、指を振った。今度は、ある写真が現れた。それは、ロケットペンダントだった。シックな金細工が施されている。中は開いていた。そこには、彼の妻ミヤコと、幼い頃のジョンの写真が、両方のフレームの中に収まっていた。

「これは、彼が、肌身離さず持っていたものだ。ミヤコが、デストピアが原因で亡くなった後、仕立てたものだそうだ……」クラウスの口調は穏やかだった。

 映像が動き、ジョンの写真にクローズ・アップされた。クラウスは、そのまま、キューブに背を向け、エレベーターが数台並ぶ、大広間の奧まで歩いていった。

「それは、イギリスの哲学者、ジョージ・ムーアの言葉だ」

 写真の中には、英語が刻まれていた。

「……アンジェリカ。あれ、読める?」千咲が聞いた。

 アンジェリカは、最初、それを流暢な英語で言った。そして、日本語に訳した。その桃色の唇が動いている間、千咲は、全てを忘れた。そして何かが間違っていることに気づいた。

 気がつくと、少女は走り出していた。

 アンジェリカは、そんな千咲を見て呆然とし、暫くディスプレイを眺めた。

 その和訳は、こうだった。

『人間は自分の欲しいと思うものを求めて世間を歩き回り、そして家庭に帰った時にそれを見出す』

 クラウスは、既に大広間の奧にいた。

 アンジェリカは、呆然とした表情を崩すと、ようやく走り出した。直ぐに、近くで待たせているグリンに跨った。それから二人はポッドに入り、セクター1のユートピアへとダイブした。

 大広間は、異常な静けさに包まれていた。エレベーターを待つ老人の背中だけが、この空間の表情だった。扉が開き、老人が乗った。ボタンを押しながら、その目は、天を掴むように、何かを必死に仰いでいた。

「急げ、急げ。時間がないぞ」


 さっきまでの様々なしがらみは、もはや少女の中に存在しなかった。

 ウェーブのかかった黒髪が、後方へ鋭く流れてゆく。千咲はドラゴンの手綱を打つと、鞍から腰を浮かした。足で鐙を抑え付け、最大速度をドラゴンに指示する。

(よく分からない!でも、力で解決しちゃ、駄目な気がする!)

 その一心だった。後先は考えていない。

 デビッチの翼が、ようやく広がり、減速の体勢を取った。

 二人が降り立ったのは、78地区の、荒々しい荒野だった。赤砂が地平線まで広がる、カラカラの岩砂漠の中だ。

「千咲ちゃん!みんな、秋葉原近くの74地区を探しているんだよ!どうしてここなの?」

 千咲は、広大な砂漠を、じーっと見渡している。アンジェリカは、グリンの鞍から飛び降りると、かなり混乱した表情で聞いた。

「私、おかしいと思ったの……」と千咲。

「何が?」

「ミハイル・ブルームハルトが、自供を始めたその直ぐ後、秋葉原でデストピアが起こっている。これって、都合がよすぎない?」

「だから?」

「なんて言うか、うまく言えないけど……、私たち、うまいように動かされている気がするんだ……。直感だけど」

「ふ~ん」アンジェリカは、信用おけないな、という声を漏らした。

 千咲の選択は、アンジェリカの不安通り、外れだったかも知れない。元々、UMAが全く生息しない地区だ。何にもない。千咲は、不毛な大地に、更に不毛を撒き散らすような行動を取った。歩いたのだ。暫く歩くと、あれが見えてきた。

 蟻塚だ。泥に固められた、高さ十メートルほどの塔が幾つも立っている。

(うえっ。相変わらず、気味の悪い光景だ……)千咲は、思わず胸をさすった。

 蟻塚には、UMA達の孵化した繭が、何万個と付着しているのだ。

 色々あった後でこれを見させられると、吐きそうになる。

 蹲るデビッチの脇に、千咲はもたれかかった。アンジェリカは、すーっと浮かび上がり、蟻塚を真上から見下ろしている。「私、何してるんだろう」的な、とりとめのない表情を、隠し切れていない。

「そもそも、どうして、78地区なの?」アンジェリカが聞いた。

 千咲も、どうしてか分からない。ただ、重大な何かを見落としている気がする……。

 ふと、千咲の足下で、何かが動いた。千咲は、それを見つめた。

 三メートルほど向こうの地面に、小さな生き物が一匹、這っている。それは、あのUMAだった。昼だから、青白い光は抑えられている。しかし、ぬるぬるボディに、刃物のような翼、二足歩行の蛙みたいな姿……。

 その時、千咲の中で、何かが弾けた。それは小さな閃きから、ある確信に変わった。

「千咲ちゃん、どうしたの?」アンジェリカが、上空から千咲に声をかけた。

 UMAは、鋭い翼を残像に変えると、ふわっと浮上した。何処かへ素早く飛んでく。

 千咲は、慌てて鞍に跨ると、手綱を握った。

「アンジェリカ、あのUMAを追うよ!」

 これが奇跡というものだろう。そんな実感が、千咲のみならず、じわじわと隣のアンジェリカにまで伝わっていた。数分後。千咲はデビッチから飛び降り、しゃがみ込んだ。

 目の前には、大きな穴が空いていた。幅は八メートルほど。頑丈な岩盤に隙間が空き、その奧に光が射し込んでいる。中には暗闇が広がっていた。

「前回の任務で、私が落ちた穴だよ」と千咲。

 暗闇の底に、辛うじて、チラチラ灯る光が見えた。あのUMAだ。それが真っ逆さまに、落ちるように滑空して行く。

「あいつが、高次元の空間の歪みが原因で発生した、新種のUMA達だったとしたら、その原因に引き寄せられるんじゃないか?それに、前々から、おかしいと思ってたんだ。こんな何もない場所に、突然、裂け目があるなんて……。例え、天然の空洞だとしても、ここって……」

「何かを隠すには、最高の場所!」アンジェリカは、人が変わったように大声を上げた。

(これを、あの鼻持ちならない、フラナガン・マクガイアに知らせるべきだろうか?カラーの通訳機のボタンを押せば、トランシーバー機能に切り替えられる……)

 千咲は、自分の首下を見た。見ただけで、電源を触ろうとはしなかった。直ぐに、ドラゴンに跨る。谷底の暗闇を照らしたのは、デビッチの翼だった。赤い太陽のような怪光線が谷底に降り注ぎ、千咲達を着地させた。

 いざ降りてみると、単独で行動したことが、酷く悔やまれた。それは、この谷間に広がる闇と同じで、千咲の心の弱さに、びっしりと絡みついて、離れる様子を見せなかった。前回、蚊柱の如き飛んでいたUMA達も、駆除されたため、その姿は皆無だった。だだっ広い大聖堂の身廊みたいに、静寂が轟々と渦巻いている。千咲達は、歩きに歩いた。ダイバー・ウォッチは既に、二十分を指している。それでも歩いた。

 どこまで、この谷底は続いているんだろう?千咲が、来た道を、名残惜しそうに振り返った時だった。少女の黒髪を、一陣の風が揺らした。ここは、地下である。風が吹くなどということは、通常ではあり得ない。しかし、何処を見ても、穴らしきものは見あたらない。

 強い好奇心が、少女を前へ歩かせた。アンジェリカも、何故だか千咲を信じ、磁石に引き寄せられるようについていった。

「待っていろ、ジョン!必ず、あんたをぶん殴ってやる!」それは怒りではなく、会いたい気持ちから来る言葉だった。

 そして、少女とドラゴンの足が止まった。目の前に、光が見えた。それは、ボイラーの扉ぐらい狭苦しい穴から放たれている。驚いたことに、その手前に、ドラゴンが待機している。

 それは、ジョンのドラゴンだった。ブルーホエール・ドラゴン。鞍のリュックサックに、ユニオンジャックと、ロンドン本部と銘されたエメラルド・タブレット紋章のワッペンが縫われているのだから、まず彼のドラゴンで間違いない。

 ドラゴンは大人しいものだった。千咲のデビッチが近づくと、首を合わせ、ぐるぐると唸り始めた。二人は、ドラゴンを待機させると、早速、穴の中を覗いた。思わず叫びそうになるアンジェリカの口を、千咲が押さえつけた。

 地下の中に、もう一つ、地下がある。それは、小さな町を一つ入れられるほどの、大空間だった。その中央に、機械的なサックスブルーの光沢を放つ、巨大な塔が建っていた。

(リンク・タワー!ブルームハルトがそう呼んでいた機械に間違いない!)

 千咲がそう思った時。塔の中腹辺りで、人影が動いた。リンク・タワーの周りには、複雑な発射台の足場が組まれている。階段の大きな踊り場に、二人の人間が立っていた。

 今度は、千咲が叫びそうになった。体中を巡る血液が、痛々しく凍りつくようだった。人影が、何やら話し込んでいる。

「父さん、もう少しで完成するよ。チャージが済み次第、直ぐに地上へ出よう」

「ああ、だが焦るな。もはや、我々は無敵なのだから……」

 ジョンと、その父ナサニエルだった。塔の表面についている何かの装置を点検すると、彼らはその場を離れ、足場を歩いてゆく。

 その会話に、悪意は感じられなかった。少なくとも、怪しげで巨大な機械が、彼らの真上に聳えていなければ、誰だってそう感じたはずだ。

 千咲は、行動に出た。穴から這い出し、絶壁にしがみついた。穴から出ると、空間が更に大きく感じられた。理屈は分からないが+、谷底には樹木が生い茂っている。煌々と光が差し、澄んだ空気が、谷底を色鮮やかに包み込んでいる。

 千咲の中に、彼らを悪だと決めつける要素は、重々にしてあった。しかし、クラウスの言う希望を信じてみたい気持ちもあった。

 壁には、アンジェリカもしがみついている。千咲は小さく頷いた。アンジェリカは、ゴクリと唾を飲み込んだ。二人は、ムササビみたいに宙を舞い、親子の上空を通り越してゆく。そして、壁を削って作りだしたと思われる、空中広場に着地した。そこへ丁度、足場から戻ってきたジョンとナサニエルが、足を踏み入れた。タイミングは完璧だった。

 親子は、驚きはしたものの、直ぐにこの状況を受け入れた。互いを見合った後、ジョンが最初に口を開いた。

「意外と早かったな。でも、もう遅いぞ。君らには、止められない」

「そんなことは聞いていない!」と千咲。

 少女は、右手をパーにして、ジョンに突き出した。この単刀直入さに、親子は驚いた。少しだけだが、警戒心を解いたように見えた。

「私が聞きたいことは、一つだけよ。どうして、この機械を使いたいの?」と千咲。

「ジョン、知り合いか?」ナサニエルが聞いた。

「まあね」「いい人と出会ったな」その会話だけで聞けば、悪人に思いたくても、思えなかった。「その答えは簡潔だ」とジョンの父親。

「私のように、ユートピアに残され、帰れなくなってしまった人々を、自由に地球へ帰してやりたい。これは、慈善事業だ。それに、私自身の救済でもある」

 ナサニエルは、機械の部品を、箱に入れて持っていた。それを足下に下ろす。そして、後ろを向き、巨大な塔を見上げた。

「これは画期的だ。地球とユートピアが一つになる。ドラゴンも、制限時間も必要ない。空間の垣根が、取り払われる。これは、革命なんだよ」

(やっぱり、ブルームハルトは、ナサニエルに、不都合な点は、隠していたんだ……)千咲は眉根を寄せた。ナサニエルは続けた。

「お嬢さん達。邪魔をしなければ、君らを傷つけたりはしない。もうすぐ、私の事業も完成する……」そう言うと、襟首に手を回し、銀色のチェーンを持ち上げた。チェーンの先には、鍵がついている。

「だが、君らには謝らなくてはならない……。大規模な空間の歪みには、やきもきしただろう。だが、ミハイルの計算は正しかった。セクターをかき乱しはしたが、それによって、重大なデストピアは起きなかった。そうだろう?」

 そのミハイルという名前を聞く度に、千咲は、虫唾が走った。

「今さっき、日本の東京で、デストピアが起こったことは?」千咲が聞いた。

「知っている。あれは、この機械を使って、人工的に起こしたのだ。しかし、偉大な事業を完成させるには、仕方のないことだった。分かってくれ……。それに、あのデストピアで、まんまと、大量のドラゴン・ダイバー達を、ユートピアにおびき出すことに成功した。一石二鳥だったよ」

 広場は舟形になっている。キングストン親子から向かって右には、山なりの巨大なガラスケースが置かれている。ナサニエルは、そこまで歩いてゆくと、鍵でケースの扉を開いた。中から何かを取りだしている。

「それじゃ、この機械が、地球を半分壊すことは?」と千咲。

「……何のことを言っている?」ナサニエルの動きが、突然、鈍くなった。

 千咲は、それからのことを、あまりよく覚えていない。きっと、何から何まで、「まとも」を司るピンが取れていたんだ。気がつくと、ナサニエルが、宙に浮かんでいた。

 それが、ヨーヨーを戻すみたいに、谷間の上空へ上昇してゆく。ある人間が、彼の頬を、思いっきり殴り飛ばしていた。ナサニエルは、再びヨーヨーを振るみたいに、千咲達の目の前に、叩き落とされた。岩の広場が、綺麗な正円を描いて、ミニチュアのクレーターを作っている。その中央に、ナサニエルの体がめり込んでいた。

 その人間が颯爽と降りてきた。

「ようやく見つけたぞ!私の出世!」幾分か、いやらしい声だった。

 高笑いしながら、フラナガン・マクガイアが、広場に立っている。埋まったナサニエルを、片手で持ち上げた。ナサニエルは、顔が歪むほど殴られている。手には、砲口を供える筒状の巨大装置を持っている。それは、錬金術師達が使う、UMAキャッチャーなる装置に似ていた。

「オーダー・オブ・ザ・ドラゴンの団員である私に、君如きが、敵うわけないよな?」

 千咲達は、フラナガンの登場に面食らって、仲良く、尻餅ついている。

 ここで、ナサニエルは小さく頷き、合図をした。フラナガンの背後にいるジョンは、納得したように頷いた。彼は早速、行動に出た。足場を走ってゆく。リンク・タワーに向かっているのだ……。

 フラナガンは、嫌な奴だが、実力は折り紙付きだった。肘蹴りを、ナサニエルの腹に喰らわせる―その瞬間、空間が見たこともないぐらい歪んだ。視界をひっくり返すぐらいの、巨大な衝撃波が発生する。それは、谷間全体に波及するほど大きかった。まさに、桁外れの化け物であることを、その攻撃が証明していた。大量の透明な体液を口から吐くものの、まだ体があるナサニエルの方も化け物だった。

(惨い……。どっちが悪党か、分からない)千咲の正直な感想だった。

 その間も、ジョンは、ジグザグの足場を走ってゆく。ついに、リンク・タワーの中腹に辿り着いた。天まで届きそうな塔、その頂点が、青色に輝き始める。表面のメーターやランプが、上から下へ、導火線の火みたいに次々と点火していった。

 フラナガンのパンチ一つは、巨大な戦艦が眼前を移動しているのかと錯覚を覚えるほど、凄まじい迫力があった。攻撃の音を聞いているだけで、此方が、潰されてしまうような圧迫感がある。ナサニエルが凄いのは、そんな攻撃を受けながらも、あの筒状の装置だけは、手放さないということだった。

 ナサニエルは、顎にアッパーを食らった時点で、リンク・タワーの方まで、巨大な空間の歪みと共に、弾き飛ばされていった。

「ああ、いい運動をした」と、フラナガンは、汗をビーズみたいに飛ばしている。きざなテニス愛好家のように、彼は金髪を巻き上げた。その右手首を突き上げ、人差し指を、斜め上の角度から、千咲達に向けた。

「君たち、よくやった。ダイバー・ウォッチには、発信器がついているのだよ。その不審な行動が気になり、追ってみれば、棚からぼた餅だ。しかし、私に、迅速且つ速やかに、トランシーバーで連絡をしなかったことについては、後々、よーくお仕置きをするから、待っているように!」そう言って、七十年代のディスコ・ダンサーみたいなポーズで固まってしまった。

 千咲達は、どう反応していいか戸惑った。

 フラナガンは、ここで確信していた。これで間違いなく、次期ロンドン本部長、もしくは、十二長老の座は、保証されたも同然である、と。

 だから、キングストン親子のことなど、これっぽちも見ていない。ナサニエルは、塔に叩きつけられると、血を引きながら、ずるずると落ちていった。足場で、ジョンが父親をキャッチする。その直後、ナサニエルが持っていた装置を、ジョンが取り上げた。透かさず、装置のお尻を、巨大金庫の丸蓋みたいな塔のコネクターに、差しこんだ。塔が、恐ろしいほどの眩しさを放ち、輝き始める……。


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