或いは裏切りという名のダイバー
第八章 或いは裏切りという名のダイバー
疲れが一気に吹っ飛んだ。もし、千咲の疲れが可視できる現象で、つぶさに観察できる対象だったら、泥の塊が少女の体から落ちて、一瞬で灰になったように見えたことだろう。
千咲は、赤絨毯の温かい食堂にいた。厨房前の広場に立っており、少し恥ずかしそうにしている。王冠を外したビオナーデの瓶を掲げると、「かんぱーい!」と叫んだ。
(ユートピアから生きて帰ってくるよりも、嬉しいことがあったんだ……)
千咲の瞳が、食堂を埋め尽くすエメラルド・タブレットの職員達を見渡した。少女は静かに微笑んだ。みんな、ビールやワインのボトルを掲げ、盛大な「乾杯!」を叫んでいる。
千咲達が、死ぬような思いで(実際に、アンジェリカなどは死んでいるが)、ビッグ・スタビライザーを起動させ、空間の歪み修復したことにより、UMAを地球上に侵入させていた異世界移送空間は、完全に消滅していた。
「みんなも、今まで、よく頑張った!本部から、ボーナスが支給されるだろう!」
クラウスも、小躍りしながら喜んでいる。手当たり次第、ビットプルガーの茶瓶を、職員達の酒瓶とぶつけ始めた。
千咲のあやふやな思いは、少しづつ形を作り、ある一つの結論に達していた。(これだ、この光景だ。私がドラゴン・ダイバーとして、頑張る意味は……)
それから数分も経つと、食堂は、単なるビアパーティーの会場となった。千咲達の席には、平良徹やベンジャミンが座った。
(アンジェリカが、生きていれば、私には何にも、いらないのかも知れない……)千咲の素直な感想だった。少女の隣には、いつもどおり、アンジェリカが座っている。
千咲の胸の中で、虹色の光が、くるくると回転しているようだった。
徹やベンジャミンは、肩を組み合って、千咲達の帰還にすっかり意気投合し、大声で(下手くそに)何かを歌っている。
何もかも終わった。これが平和だ。感無量で微笑む千咲の隣に、ある男がスッと現れ、影法師のように座り込んだ。
「浮かれるのもいいが、まだ、根本的な問題が解決したわけではないよ……」
デストピア調査部に所属する錬金術師、二階堂凜だった。
「……空間の歪みがどうして起こったのか、原因は不明なんですよね」意外にも冷静な口調で、アンジェリカが続けた。
二階堂凜は、貴公子のような美青年ぶりは健在のまま、目の下に、かなり派手な隈を作っていたため、それを眼鏡で隠そうと、何度も角度を気にしているようだった。それを見ている千咲の顔が、思わず微笑んだ。
「……そう言えば、あの羽、一枚減っていたけど、何に使ったの?」
アンジェリカは、皿に盛られたシンケンを頬張りながら、千咲に聞いた。
「別に、大したことじゃないから」千咲は、にやにやしながら答える。
(あんたは、一生知らなくてもいいのよ)
「ふ~ん」疑わしげなアンジェリカの顔が、千咲には心地よかった。
ふと、あの血のように赤い長髪が、千咲の脳裏を駆け抜けた―少女は思わず、隣に座る凜に聞いた。
「そう言えば、クラリーは何処なの?」
凜は、ワインボトルの年代や味をこまめに説明し、徹達に、ワイン通ぶりを披露していた。ワインオープナーをカチカチ鳴らすと、不思議そうに言った。
「……確か、まだ仕事中だったな」
その赤い髪から、クラリーの怒りが溶岩となって噴き出しても、おかしいことではなかった。少女は、灰色のドアが開き、二人の職員が、男の両腕を捕まえて連行してくる様を、睨みつけている。(ようやく、星を確保したのに。なんて、口の硬い奴だ……)
クラリーの瞳に映る男は、両腕を後ろに回され、手錠で束縛されていた。そのまま、取り調べ室の椅子に座らされる。鋭いスタッズを鏤めた、革のジャケットを羽織っている。馬の鬣のように美しい金髪のモヒカンヘアという、厳めしい外見だ。顔からして、アジア人である。
「何度、取り調べたって、俺は知らねよ」開口一番、男は黙秘に従じた。
「煩い!お前が、人工UMAの取引に、深く関わっていたことは分かっている!」
クラリーは、男のモヒカンを鷲掴みにした。ジャケットの背中を掴むと、椅子から引きずり下ろし、部屋の壁に激しく叩きつけた。少女は、三日ほど、この男の取り調べに振り回されていた。
「……相変わらず、荒っぽいな」マジックミラー越しに、千咲は目を丸々と広げ、取調室の中を覗いている。
クラリーが男を壁に叩きつけた時、千咲のいる監視室が、ぐらぐらと揺れた。錬金術師対策部の二人の職員は、倒れた男の肩を掴み、速やかに立ち上がらせた。コンクリート製の壁には、人間の頭一つ分の溝が、お椀型に開いている……。男の頭から、コンクリートの欠片が、ぼろぼろとこぼれ落ちている。
クラリーが熱を上げているのに対し、男は知らぬが損然を貫き通さん構えのようだ。まるで倦怠期のカップルの如き、殺伐とした雰囲気が漂っている。
「雇われ主がいるんだろう?報復は心配するな。安全はこちらが保証する」
鋼鉄製の頑丈なテーブル越しに、クラリーは容疑者を睨み付けながら言った。
「……あの、支部長。人工UMAって、何ですか?」
千咲は、隣の椅子に、深々と座り込んでいるクラウスに聞いた。
「人工UMAとは、地球上の物質を使って生み出されたUMAのことだ」とクラウス。
「ドラゴン・メーカーを使って、作り出すことが可能だ」
老人の手には、タブレット式端末があり、それを何度か操作すると、千咲に渡した。画面には、廃材アートのような大型のポッド式マシンと、UMAと思われる生物の写真が映っている。
「あの男には、違法なドラゴン・メーカーを使って、人工UMAを作りだし、錬金術師達に売買をさせた容疑が掛けられている。我々が知りたいのは、その違法なドラゴン・メーカーを、何処で、入手したかということだ……」クラウスの言葉は慎重だった。
「うおー!」
恐らく、クラリーの堪忍袋の緒が切れたんだろう。少女が怪獣みたいに叫んでいる。その赤いストレート・ヘアが、炎を纏っているように見えた。
「あの機械は、エメラルド・タブレットの一部の人間しか、製造方法は知らないの!独学じゃ作れないわ!誰から入手したの、言いなさい!」
「だから、俺はそんなもん作ってないし、そんな機械も知らねえ!」
クラリーは、脇のホルスターから、ベレッタ92を取り出した。その銃口と燃えるように冷酷な瞳を、容疑者の男に突きつけた。
「あんたが、ドラゴン・メーカーを操作できる腕を持つ錬金術師なら、弾丸ぐらい、止められるはずよ!」とクラリー。少女は、銃器をブローバックさせ、コッキングを完了させている。
「いい?私は止めない。予知能力で、それぐらいは、分かるでしょう?」
(……そんな無茶苦茶な)マジックミラーに、戸惑う男の顔が、貼りつく霜のように映し出されている。クラウスや千咲は、「少しや知り過ぎでは?」という顔を作るものの、クラリーを止める気はなかった。
空気を噛み砕くような、おぞましい音が轟いた。クラリーは、トリガーを惜しみもなく引いている。既に、拳銃のブローバックは完了し、薬莢が金色の煌めきを放って、飛び出している。 男の眉間ぎりぎりで、弾丸は停止していた。まるでポップコーンの屑みたいに、ぽろりとこぼれ落ちる。
「これは遊びじゃない。あんたが疑わしい以上、徹底して調べあげる……」クラリーが冷酷な口調で言った。
千咲は、脳みそから足の爪先まで、削られた鉛筆の芯のように引き伸ばされた挙げ句、超高速で移動してゆく濁流のような世界最低の感覚を味わっていた。
少女は、ドラゴンの手綱を、思いっきり右へ切った。そして、アネモイの中から、デビッチと一緒に脱出する。
(……おそらく、この感覚には、一生慣れないじゃないかな?)千咲の真上では、カーペットのように広がるアネモイが、大空を縦断しながら、果てしなく続いている。
アンジェリカは、セクター3のパトロールの巡回で、千咲とは別行動を取っていた。
千咲は、そのことが誇らしかった。いつもよりスナップを余分にきかせて手綱を打つと、デビッチを急降下させた。少女は、セクター1のパトロールを、ようやく、一人で任せてもらえるようになっていた。
少女に、前回ダイブした時の恐怖は、微塵もつきまとっていなかった。むしろ、一回り逞しくなり、輝いているようにさえ見えた。眼下に広がる世界は、東京支部の管轄の最果てにある、156地区の光景だった。
「……アンジェリカがいないと、少し寂しいな」ドラゴンを操縦する千咲の顔に、不思議な笑みが溢れた。喜びと憂い、その二つが美味しそうに混ざっている。
暫く飛行すると、真夏に公園の噴水で浴びる水飛沫のような、清々しい空気を感じた。デビッチは、着地寸前に翼を畳むと、ふわっと浮いて、前足から降り立った。
こういう場所を楽園というのだろう。広大な平野は、六角形のひび割れを無限に刻む石灰岩の大地に覆われていた。その上を、鍾乳石の間欠泉が、無数に埋め尽くしている。そこから、惜しみもなく、樹木のように水を噴出している。青空には、雲が踊るように広がっている。それが、無人の大地を祝福しているように思えた……。
あれから、ユートピアの秩序は、厳然と保たれている。
千咲は開放的な気分に浸ると、蹲っているデビッチの脇にもたれながら腰を下ろした。粒子の細かい水飛沫や、何処までも広がるブルースカイを、心ゆくまで堪能する。もはや、別のセクターから侵入してくるUMAを、警戒する必要はなかった。
千咲にもし羽が生えていれば、千切れるぐらい、めいいっぱい広げていたはずだ。無数の噴水の競演に、少女はゆったりと微睡んだ……。その時だった。
それは、奇しくも、千咲がドラゴン・ダイバーになって以来、最も異様な現象の一つとなった。千咲は、轟々と響き渡る爆発音に、目を覚ました。
青空を縦断しながら流れるアネモイが、ぐにゃりと歪んだ。そこから、放射線状の複雑な光線が放たれる。
千咲はまだ、新米のドラゴン・ダイバーだ。しかし、あの風が、強力なエリクシールの凝縮体だということは分かっている。それが、歪むということは、それ以上に強大なエリクシールが、アネモイに加えられた、ということじゃないんだろうか?
「初めてパトロールなのに、何なの?」千咲の顔から、さっきまでの恍惚とした笑顔は消えていた。更に観察していると、アネモイの中から、細長い煙が飛び出した。それがみるみるうちに墜落し、、156地区の何処かへ落ちた。
デビッチを伴い、千咲は墜落現場に駆けつけた。辺り一帯に、ビリビリとした、おぞましい雰囲気が漂っている。少女は凍りついた。
少女は、巨大なクレーターを駆け下りると、その中央に埋まっている物体を眺めた。
それは、巨大な鉄屑だった。大きさは、二メートルほど。中央に丸窓があり、そこから大量の煙を吐き出していた……。
千咲が、正体不明の鉄屑をエメラルド・タブレットへ持ち帰り、数日が経った頃。
少女の舌は、ティラミスの甘味に舌鼓を打っていた。
千咲はこれ幸いに、イチゴとマンゴーのパフェを、店員に注文した。
(ああ、この面会を、憂わない日が来ようとは、夢にも思わなかった……)
某大手チェーン店のカフェが、千咲の四方を包囲していた。少女は、窓際の一席に腰を掛けている。遠藤が、その向かいに座っていた。
千咲がこの男と会うのは、夏休みに入る前、通信簿もらいの時以来だった。遠藤はアイスティーを注文したが、一切手をつけていない。氷が独りでにカランと音を立てて崩れても、知らぬ損善だ。千咲が、思う存分、食い意地を満たすのを待っているようだ。
「どうだね、そっちの方は?」ここで遠藤の言葉が途切れた。
その灰色に沈み込んだ瞳が、窓ガラスの向こうへ注がれた。車道の一画に、黒いセダンが止まっている。窓から、黒スーツの公安部達の顔が覗いていた。
「そう言えば、何もかも極秘だったね」と続ける。
(……どっちにしろ、最近、暇だったから。ただでスイーツが食べられるんなら、こしたことはないな)千咲の思考は、甘いクリームという罠に、いとも簡単にかかっていた。
ようやく届いたパフェに、千咲は、ジェットコースター級の甘味のエクスタシーを覚えた。少女のスプーン捌きは止まらなくなる。その直後、遠藤は、テーブルの上にアタッシュケースを置いて、中から資料を取りだした。
千咲のスプーンが、口の中で止まった。遠藤は、やや気まずそうな表情を漏らした。
テーブルの上に、クリアファイルが置かれている。中には、高級そうな封筒と、A4サイズの写真が挟まれている。
「ご両親からの手紙だ。君が、電話にも、私の伝言にも答えようとしないから、こうやって、手紙をしたためられた」遠藤の声は、いつもより低い。
千咲は、パフェの器を掴んだ。そして、その写真と手紙に、クリームやらマンゴーが、派手にぶちまけられるよう、勢いよく投げつけた。
「千咲、聞くんだ!お二人は、真剣に反省なさって……」
「私の今までの人生を返してくれるんなら、幾らだって、会ってやるわよ!」
直ぐに席は空っぽになった。テーブルの上には、クリームに濡れたA4写真が、寂しそうに置かれている。二人の中年夫婦の写真だった。それは、千咲が知るよりも、少し老けた姿で写っていた。
怒りを露わにした険悪な表情で、千咲は、エメラルド・タブレットの大広間に帰った。すると、自分の両親の写真より衝撃的な存在が、広間に立っていた。
それは、革製の防具を着ている。肌の色は人間そっくりだが、節々に、透明な鱗が煌めいている。肘の先から、刃物のように鋭い鰭が生えている。眉毛の部分の骨格が突き出しており、甲殻質な瞼は、真横に開閉している。瞳は黄色い。本来は耳がある場所から、青い翼が生えている……。
ユートピアンだった。クラウスが、彼らと話をしている。ふと千咲に気がつくと、慌てて駆け寄ってきた。
「千咲!彼らがわざわざ、ユートピアから、会いに来てくださったぞ」とクラウス。
(……私、ユートピアンとの交友なんて、一切ないけど)
そうこうしているうちに、千咲の目の前に、ユートピアン達がやってきた。
千咲は、「トラブルはごめんなんだけどな」的ムード全開である。紳士で聡明そうなユートピアンが一人近づくと、水掻きの張った大きな手を差し出して、握手を求めてきた。
「やあ、君に会えて、光栄だよ」千咲は、不思議そうに握手を交わした。
無数の針で突き刺されるような、久々の緊張感が、千咲の肌を撫でていた。
ユートピアン使節団のリーダーにして、カイムと名乗る男は、ディスプレイ使用のガラス板に手をかざして説明し始めた。
「まずは、あの不審物を回収してくださった、ミス黒衣良に、心から感謝いたします」
「あの、その……どうも」千咲の笑顔はぎこちない。
クラウス、千咲、アンジェリカの三人は、地下七階にある巨大な研究室の中にいた。
「転送された、この不審物の詳しいデータを拝見し、我々は復元を試みました」とカイム。
ユートピアン達は、カイムを先頭に、ガラス板の巨大ディスプレイの周りに集まっている。ディスプレイには、千咲が回収した、あの鉄屑の映像が映し出されていた。カイムの言葉に反応するように、別の映像が映し出された。
「やはり、これは、違法に改造された、ドラゴン・メーカーでした」
千咲の視線は、バキュームで吸い込むように、その画像に集中した。それは、既存のドラゴン・メーカーに似ている。しかし、複雑な機械が、ゴテゴテと暑苦しく取り付けられている……これが、あの鉄屑を復元した姿ということなのだろうか?
(どうして、これを回収したことが、感謝なのだろう?)千咲の疑問は、ますます膨らんだ。ドラゴン・メーカーの映像が拡大され、中身の構造を説明する設計図に切り替わった。
「ドラゴン・メーカーは、空間に、強力な力や圧縮を加えることが出来る機械です。この操作によって、UMA達から採取される物質を材料に、ドラゴンを作り出すことが可能なのです」とカイム。
次は、血のように赤い映像が現れた。ぐねぐねと動いている。千咲は、アンジェリカと目を合わせると、デスプレイに視線を戻した。それは、ユートピアの上空を流れる、アネモイの映像だった。
「アネモイは、ユートピアに存在するエリクシールの内、最も純粋で、最も強大な力の一つです」今更、当たり前のことを説明しているカイムの声は、「当たり前じゃない!」と強く言っているような気がした。
「アネモイの力を、ドラゴン・メーカーに接続すれば、想像を遙かに超える、エリクシールを生み出すことが可能です」とカイム。
彼は、ガラス板の裏に回ると、長い腕を左右へ広げた。ドラゴン・メーカーの設計図と、アネモイの映像を、双方の指でドラッグし、胸の前で重ね合わせた。
「ミス黒衣良!この事実に気づかせてくれたのは、あなたが、アネモイから降ってきた、あのドラゴン・メーカーを、偶然にも回収してくれたお陰なのです」と続け、
「この回収品は、保存状態がよく、どのように改造されているか、詳しく分析することが出来ました。このドラゴン・メーカーは、アネモイの中で作り出した膨大なエリクシールを、どこか別の場所へ転送する、特別な改造が施されています」
千咲は、素っ頓狂な表情のまま、気まずそうに固まった。話が、まったく読めない。すると、ディスプレイが、世界地図をでかでかと映し出した。カイムは、人差し指を伸ばし、地図の上で点滅する無数のマークを見上げた。その表情は深刻だ。
「これは、今も尚、世界中で発生している、原因不明の巨大な空間の歪みを表示した地図です」カイムが身を引くと、地図の上がまっさらになった。
地図の上に、何本か、赤い線が伸びてゆく。それが、縦横無尽に流れ始めた。すると、先ほどのマークが、再び波紋を広げて、点々と灯り始めた。そのマークは全て、流線の付近に密集している……。
「この線は、アネモイの流れを表しています。見てください。アネモイの流れに沿って、空間の歪みが集中しているのです。これは、偶然ではありません」カイムはいよいよ興奮しながら言った。「全ては、何者かによって違法に改造された、このドラゴン・メーカーが原因だったのです」
地図の上に、千咲の回収した鉄屑の画像が、ぽっと現れた。
「いきなり生み出された膨大なエリクシールが、突如、別の場所へ転送され、その場から消えると、巨大な空間の歪みに発展する可能性があります。今回の事件は、十中八九、このドラゴン・メーカーが原因でしょう」とカイム。
「……つまり、今回の巨大な空間の歪みは、誰かが、人工的に作り出したものってことですか?」千咲の顔は陰った。
「残念ながら、そのようです……」カイムが、拳に力を入れ、ガラス板を叩いた。すると、画像がぷつんと途切れた。
クラリーは、毛穴から火が噴き出すんじゃないかと思うほど興奮して、あわただしく走ってきた。その時、千咲とアンジェリカは食堂にいた。クラリーは最初、不特定多数の職員達に呼びかけていたが、やがて千咲達の前に来ると、「ようやく、親玉が判明したわ!ついてきて!」と叫び、二人の襟首を摘み上げた。そのまま強引に引き摺ってゆく。
(私の夏休みに、安息というものは無いのか……)千咲はぼやいていた。
クラリーが二人を、部屋に放り込んだ。そこは、シアタールームだった。食事の最中だった職員達も、次々と集まってきている。
「ミハイル・ブルームハルト!奴が、違法なドラゴン・メーカーを作っていた、親玉だったの!」クラリーの喜び様は半端じゃない。スクリーンには、冷たい取調室が映っていた。千咲達は、クラリーが無理矢理空けた特等席に、無理矢理座らされた。
「この前、私が取り調べていた錬金術師。あいつがゲロしたら、芋づる式に、世界中の違法な錬金術師達のリストが上がったの。その親玉が、こいつよ!」
その男は、歴史ある大学の、年老いた教授といった印象だった。
二人のイギリス紳士の取調官(錬金術師対策部の職員)が、部屋に入ってきた。ミハイル・ブルームハルトは、茶色い髪を、アインシュタインみたいに掻き上げている。山羊髭を垂らし、丸眼鏡をきっちりとかける、六七十代の男だった。
「この人が、主犯?そんな風には見えないけど……」千咲はその第一印象に驚いた。
取調官の一人が、正面の席に座った。机は、テーブル型ディスプレイになっている。画面には、様々な資料や、証拠の画像などが広がっている。
身を乗り出しながらスクリーンを睨むクラリーの鼻息が荒々しくて、千咲は火傷するんじゃないかと思った。スクリーンの角には、「ロンドン本部:取調室:中継」の文字が回転している。取調官は、指を動かし、テーブルの資料をドラッグした。そして、ボックスを幾つか露わにした。
「ブルームハルト。世界各国で、違法なドラゴン・メーカーが押収された。逮捕された連中は、お前が主犯だと、口を揃えて自供している。これを、どう説明する?」
ミハイルは、手入れの行き届いたダークブラウンのスーツの下に、悪魔を潜ませていたようだ。突然、狂気じみた笑みを浮かべる。部屋の隅にいた、若い取調官が、太股の自動拳銃に手をかけた。部屋は頑丈なコンクリート製である。例え、ミハイルが暴れても、逃げ場はない。それに、彼の手には手錠がかけられている。
「お前は、国際錬金術技師だった。ドラゴン・メーカーや、その他、錬金術に欠かせない機器のエキスパートであり、世界各国の支部を巡回する役職だった」取調官は動じない。
シアタールームは、静まりかえっている。スクリーンの中で、取調官は、テーブルのディスプレイを操作していった。
「世界中の支部の廃品置き場から、様々な機器の部品が紛失していたのも、お前の仕業だな?それで、独自のドラゴン・メーカーを作り、売り捌いた。極めつけは、これだ」
カメラが、決定的瞬間を激写するようにクローズアップした。取調官の指がタップする。テーブルいっぱいに現れたのは、つい三日ほど前に、ユートピアンのカイムが説明してくれた映像だった。千咲が回収したドラゴン・メーカーの画像だった。
「これが、今も尚、世界中で、巨大な空間の歪みを生み出している、原因の装置だ!」
ブルームの顔は、蝋人形のように無表情だった。取調官は立ち上がると、じりじりとミハイルの席に回り込んだ。
「アネモイに流れているエリクシールを、受けきれるだけの耐久性を備えた、特別なドラゴン・メーカーだ。お前の、パソコンのデータから、この設計図が見つかった!」
「……金になるから、作った。それだけのことだ」唐突に、ミハイルが言った。
(悪のマッド・サイエンティスト……。彼が、主犯だったんだ)千咲は、ゴクリと鍔を飲み込んだ。取調官は、いきなりの自供に動揺したが、直ぐに詰め寄った。
「……テロリストではないのか?では、この違法改造のドラゴン・メーカーは誰に売ったんだ?」ミハイルは、丸眼鏡を、蛍光灯の明かりに曇らせた。
「金と、錬金術技師としての誇りだよ……。私の技術を、必要としてくれる、ある男に売った。結果がどうなるか、分かっていてもね」
スーツの中の悪魔は、いまや本性を現していた。老人は、激しく身を乗り出すと、取調官の鼻先に迫った。「どれだけ、スタビライザーで、空間の歪みを修復しようと無駄だ。更に、恐ろしいことが起こるぞ……」そこで、スクリーンの映像が途切れた。
世界の終わりを知らせるような、けたたましいサイレン音が鳴り響いた。シアタールームの照明が、一斉に回復する。シートに座っている職員全員が、立ち上がった。
(こんなサイレン、今までに、聞いたことがないぞ?)千咲の動揺は激しかった。
アンジェリカは八艘飛びで、シートを何席も飛び越えると、真っ先に入り口へ向かった。
少女は、凍りついたバイカル湖のような瞳で、千咲の姿を捉えた。
「デストピアよ!」アンジェリカは叫んだ。
ようやく、部屋の隅の緊急ランプが回転し始めた。それが、立ちつくす千咲の体を、赤色に染め上げた。
それから、数分後。レザージャケットに着替えた少女達は、ドラゴンの納屋まで、ひた走っていた。あのサイレンは、エメラルド・タブレットの職員に、デストピアを知らせる合図だった。千咲はそれを初めて、施設内で聞いたのだ。サイレンは、どの通路を走っても、押し寄せる波のように襲ってきた。
ドラゴンに乗った二人は、東京都の上空へ舞い上がった。二頭は、銭湯の巨大煙突の中から、颯爽と出動した。
(本格的なデストピアは、あの通り魔事件以来、初めてだな……)千咲の脳裏に、部屋を街路に露わにする、二軒の民家がフィードバックしていた。自然と、少女の息は上がった。その息が、自分の体を焼き尽くすような気がした。
眼下に広がる東京都、二十三区は、平和そのものに見える。見えざるドラゴンと少女達は、空飛ぶ手綱となって、ひたすら大空を飛行した。
この世の終わりみたいな光景が、少女達の眼下に覗いたのは、それから数分後のことだった。
二頭は一気に、滑空を決めた。
そこは、秋葉原の大きな交差点だった。屋上にオレンジ色の看板を配した、巨大電気店のビルディングが、腹から真っ二つに折れている。それが、無数のガラス片をぶちまけ、交差点に倒れていた。その向かいのビルデングの表面を覆う窓ガラスも、隕石が横薙ぎに穿ったような、巨大な破損を受けている。潰れた車からは、、黒煙が噴きだしている。
「人命救助、優先よ!ダイブは、その後!」とアンジェリカ。
交差点から、人波は失せていた。一見して、被害者は見当たらない。二頭は、倒れたビルディングから向かって、左側の大通りに着地した。二人は鞍から飛び降りると、姿を露わにした。エメラルド・タブレットから、応援が駆けつけるまで、暫く時間がかかる。充分な調査無しに、ダイブを試みることは危険だった。
被害を間近で見ると、巨大スタジオで作った映画のセットみたいで、現実味に欠けていた。ただ、自動車や店から噴き出す炎は、とても熱い。幅の広いアスファルトの車道には、剥き出しの鉄骨や巨大コンクリートの瓦礫、大量のガラス片が散らばっている。その細密な様子が、現実だということを物語っていた。
その時、鋭い警笛が轟いた。遠くもなく、近くもない場所から聞こえてくる……。
千咲達から百メートルほど後方に、緑色の陸橋が架かっていた。二人は直ぐに駆け寄った。拉げたレールや、緑色の装甲版、千切れて放電している電線などを、二人は慎重に掻き分けて、近づく必要があった。陸橋は、右側の端から、完全に折れている。それが、滑り台の如く、車道に傾いていた。
「……この警笛。まさか?」千咲は、小刻みに揺れるアスファルトの地面を、靴底で噛みしめた。間もなく、途切れたレールの上から、黄色いラインに塗装された電車の顔が現れた。
千咲達の頭上を、複雑な機械や、車輪で埋め尽くされた、電車の長々しい腹が縦断してゆく。
千咲は、筋肉の節という節が、限界点を突破して引きちぎられるような、痛々しい衝撃を覚えた。電車には、大勢の人達が乗っている。二人は、咄嗟に両翼に分かれると、墜ちてくる電車の両端を、そのか細い腕でキャッチした。物体強化能力で、少女達の筋肉は、限界にまで酷使されている。物体浮遊能力が、列車全体に、ささやかなセイフティー・クッションを敷いていた。それでも、少女二人の体は、地面に深くめり込んでいった。
激しい憤怒と憎しみが、少女の腑の底に、どろどろと蓄積してゆくようだった。
デストピアの現場には、電車が横たわっていた。エメラルド・タブレットの装甲車が、続々と停車してゆく。職員達が忙しなく動き、辺りは完全封鎖の勢いを見せている。
「許せない……」千咲は拳を、痛いぐらい強く握った。
職員達は、総出で、現場の収集に当たっている。倒れたビルディングは、複数の職達員の物体浮遊能力によって、持ち上げられていた。怪我人は、空中に浮かびながら列を作って、救急車まで運ばれてゆく。
機動式対策室が設けられた装甲車の前に、クラウスが立っている。その脇には、先日千咲達が面会した、ユートピアン達が集まっていた。興奮しているのか、耳の青い翼が逆立っている。そこには、カイムもいた。彼は、薄型のタブレットを操作すると、千咲に渡した。
「これは、UMA達の仕業ではない」と一言。彼の言葉が、千咲の予想を簡単にぶち壊した。「スペイシャル・プローブでも、探査不能な、高次元の空間の歪みが、原因と考えられる」とカイム。
千咲は、引っかけ問題を出された時のような、拍子抜けな顔をした。
「これって、何ですか?」
クラウスやアンジェリカも、タブレットの中を覗き込んだ。そこには、一匹のUMAが映っていた。青白い光を放つ、全身ぬるぬるの、二足歩行を成功させた蛙のような姿だ。手や足には、ノコギリ状の突起が生え、両翼は、ナイフのように鋭い。
(原因はUMAじゃないと言っておいて、UMAの画像を見せられている……。しかも、これは、以前、私たちが駆除した、新種のUMAじゃないか?)
千咲は、タブレットを、やや不躾がましくカイムに返した。「どういうことですか?」
ユートピアン達は、両肘から生えるトビウオみたいな鰭を、全開に開いている。
彼らの顔に、ライオンが獲物を喰らう時のような、殺気が籠もっていた。眉毛の骨格が鋭く、堀が深いので、余計に迫力がかってみえる。
「エメラルド・タブレットの職員は、このUMAのことを、もっと考慮すべきだった」カイムが言った。
そこに、二階堂凜が、肩で息を切らしながら走ってきた。
「支部長!ここら一帯のセクターを調査しましたが、デストピアを起こすようなUMAの存在は確認できませんでした!」
その場の雰囲気は最悪だった。更なる暗闇へ引きずり込まれるような、どろどろとした緊迫感が漂っている。カイムは、凜の襟首を掴むと、静かな口調で言った。
「当然だ。これは、更に深刻な内容を含んだデストピアなのだ」
ユートピアン達は、地球人と比べ、平均身長は三十センチほど上だった。それが数人、腕組みをして並んでいる。とてもじゃないが、凜を助ける気にはなれなかった。
「通常、デストピアには、初期微動があるのだ。デストピアの種だ。それが、観測可能な歪みまで膨れあがり、何らかの衝撃が加えられると、デストピアが発生する」
凜の眼鏡は、既に地面へ落ちている。彼は足掻こうとせず、カイムの話を黙って聞いている。
「今回は、その種が、一瞬にして爆発し、一瞬にして消滅したのだ。これは、大規模なデストピアの前触れの現象の一つだ」
凜はようやく離してもらえた。カイムは、再び千咲達に向き直り、タブレットを持ち上げた。「そして、もう一つの前触れとして、新種のUMAが発生する場合が、希にだがある」
彼の怒りも頷けた。事態は、のっぴきならない状態に陥っていたのだ。全員の背筋に、恐ろしい悪寒が襲った。
カイムは、タブレットを抱え、指を動かした。それを、全員に見せる。そこには、あるユートピアンの顔写真が乗っていた。ガッシリとして、やや太っている。データが大量に表示されており、かなり詳しくリストアップされていた。
「先ほど、ミハイルが、例の改造ドラゴン・メーカーを誰に売ったのか、自供した。それが、この男だ。そう、我々と同じ、ユートピアンだった」とカイム。
タブレットの角には、「ユートピアン戸籍管理表」の文字が踊っている。そこでカイムは、タブレットを、真っ二つに折った。その礼儀正しい声色からは、信じられないほどの悪態を吐くと、残骸をアスファルトに叩きつけた。
「奴が、今回の事態を招いた。この高次元の空間の歪み。それに、世界中で発生している巨大な空間の歪みは、全て、奴が引き起こしたものだった」
(……なに、それ。だったら、あんたらのお仲間のせいじゃん!)千咲は憤慨した。しかし、ここでクラウスが動いた。カイムの革防具のベルトを、むんずと掴んでいる。その目は深刻だ。何かを喋ろうとしているが、唇が震えて、なかなか言い出せない。
「……そ、それで、誰が内通者だった?分かったんだろう?ミハイルは自供したな?」
その言葉は、周りの全てを骨抜きにするような、酷い溶解力があった。
「……ああ、分かった」カイムは頷いた。
「このユートピアンの息子だった」
クラウスとユートピアン以外、全員が固まった。何の話が進行しているのか、一瞬、理解できなかった。「どういうこと、おじいちゃん?」アンジェリカが聞いた。
「ユートピアンは、特定の選ばれた大使しか、地球に入れない。彼らの移送には、膨大な空間の歪みが生じるからだ。つまり、主犯のユートピアンと、ミハイルの間を取り持っていた内通者が、いるということなんだろう?」
今度はクラウスが、カイムは吊し上げん勢いで迫った。カイムは、気の毒そうに、クラウスの肩を掴んだ。
「そうだ。しかも、それは、ダイバーの中にいる」ここで彼は、少し間を開けた。
「このユートピアンの名前は、ナサニエル・キングストン。そして、彼の息子の名は」
千咲も、クラウスと同じように、カイムの防具を掴んだ。
「まさか!」
「ミス黒衣良。そのまさかだ。彼の名前は、ジョン。ジョン・キングストンだ」