グリフォール・ローリン
第七章 グリフォール・ローリン
肌を溶かすように暑い夜だった。
千咲は、民家の屋根に飛び降りると、周囲の闇に耳を澄ました。
(……静かだ、あのUMAは何処へ行ったんだろう?)
少女は、高校のブレザーを着たまま、さっきから、屋根の上を、次から次へ、飛び移っていた。ウェーブのかかる黒髪が、肩の上で静かに揺れている。
千咲が、高校の制服を着ているのは、先ほどまで、人目をカモフラージュして、近所を徘徊していたからだ。エメラルド・タブレットの紋章が入ったレザースーツなんて着ていたら、不審者に間違われ、きまりが悪い。
すると、次の瞬間、屋根の上で、大きな影が横切った。千咲は、屋根瓦を粉砕すると、大きくジャンプした。屋根伝いに飛び移りながら、不審な影を追ってゆく。あの影は、さっきまで探していたUMAに違いない……。
深夜の公園は、黄泉から漏れ出した血霧を漂わせているように、不気味な雰囲気に飲み込まれていた。その敷地に、月光に照らし出される、芸術作品の如きシルエットが佇んでいる。
(ようやく、観念したな!すばしっこい奴め!)
公園の敷地には、男鹿のような生き物が、歩を休めている。それが、駆けつける千咲を見つめていた。
蠍みたいな鋭い甲羅に覆われ、武装している。尻尾はワニのように長く、刺々しい。
その体が、月明かりを吸収し、艶めかしい光を、全身に滾らせている。
そのUMAは、千咲を確認すると同時に、軽やかに飛び上がった。闇を泳ぐように、再び逃走を図る。
夜の公園よりも更に不気味なもの、それは夜の学校である。
千咲の通う浦辺高校は、グラウンドの大海の上に、ぽつんと立っていた。
これでいいのだ……。千咲は、打ち合わせ通り、UMAを学校に追い込んでいた。
男鹿は、肩の甲羅を、左右へ、可動式サイドミラーのように広げた。鋭い剣のような形状になる。それが、校舎の窓ガラスを、数メートルに渡って切り裂くと、まんまと、廊下の中に飛び込んだ。千咲は、トランシーバーをポーチから外し、「あと、もう少し!」と受話器に向かって叫んだ。
男鹿は、千咲の追い込みの甲斐あって、大地震に直撃したかのように、ぐちゃぐちゃに荒らされた理科室へ、舞い戻っていた。理科室には、手動の機械を両手で持つ、平良徹の姿がある。 千咲が、わざわざUMAを、理科室まで追い込んだのは、このUMAが、この部屋から地球へやって来たからである。
「そら!」徹が叫んだ。手動の、巨大ガトリング砲のような機械から、青白い電撃が飛び出した。それが、UMAを飲み込む。UMAは、電撃が消滅すると同時に、その場から姿を消した。ユートピアへ帰ったのである。別の場所から、このUMAを返すことも出来たが、それをやると、空間の歪みが更に拡大するため、元の場所から返さなければならなかった……。
「ふう、ようやく終わった……」
腰に手を添えると、千咲は、UMAによって荒らされた理科室を見渡した。徹が機械を膝まで下ろしている―機械の砲口の部分が、蛍光色の青色を、徐々に薄めている。
現場は、巨大な電子レンジで、大量の金属をチンしたみたいだった。異様なまでにビリビリとする空気に包まれている。徹は、その大きな体を活かして、機械を肩に乗せた。
「任務完了だな……」と微笑みながら言った。
アンジェリカは、濃厚な抹茶のジェラートみたいな、黄緑色のショートヘアのつむじを、此方に見せながら、屈み込んでいる。ブーツのベルトを締め直していた。
「それじゃ、昨日は、夜遅くまで、UMAを追っていたの?」
少女はベルトを締め終えると、彼女のドラゴン、バターカップにもたれかかり、顔を上げた。
(あの後、壊れた理科室の修復を、物体変化能力で、徹と一緒に、朝まで作業してたんだよな……)それを親友に言おうか迷ったが、千咲は、「まあね」と軽い相づちを打って、会話を終わらせることにした。
そこは、東京都内でも数少ない、貴重な自然のオアシスだった。輪井板グリーン・パークの一画は、UMA移送部の職員達が持ち込んだ装置やトラックで溢れかえっている。
ロンドン支部からの、世界的災害クラスのデストピア連続勃発を危惧させる知らせがあって以来、世界各国、どの支部も、ユートピアでのパトロールを強化することになっていた。
千咲達は、ドラゴンに跨ると、職員から、空間の状況を探索する携帯装置、スペイシャル・プローブを渡された(アンジェリカが、よく使っている奴だ)。この装置で、反応があった場所へ行き、異常がないか確かめる任務である。
いつもとは、背負う重みが違った。二人は、セクター2、54地区へダイブした。54地区は、相も変わらず、水晶の樹海に覆われていたが、時刻は、黄昏時を迎えていた。
「さっきまで、東京は、午前七時だったのに……」軽い時差ぼけを感じながらも、千咲は瞼を擦りって、気を取り直した。千咲はアンジェリカの後ろに従い、颯爽と飛行した。斜めに沈んでゆく乾いた陽光に照らされながら、二頭は、探査機の地図を頼りに、目的地を目指した。
それは、海上に建てた大理石のプールサイドみたいにだった。白い石英でできた海岸が、二人の眼下に広がっている。二頭はそこに着地した。二人は、鞍から下りると、近くの岩場に腰を下ろした。幾何学的な石英のビーチに押し寄せる、汚れのない神秘の渚を眺めつつ、二人は時間を潰した。二人の視界は、眩しさでいっぱいになった。眼前には、溶かした真珠で満たされているような、煌めく大海が広がっている。
手にしているスペイシャル・プローブの円い液晶画面は、二つとも、この57地区に、異様な反応を見せている。そのため、さっきから煩く警報音を鳴らしていた。
だから、それが突如現れても、驚くことではなかった。
空白の紙みたいな空に、巨大な影が横断してゆく。それは、陽光を遮り、千咲達の佇む海岸を、薄暗い影で満たしていった。巨大な鯨だ。空を飛んでいる。
プラチナを削りだしたかのように白く、金属質だった。まるで宇宙船のコロニーみたいな外観だ。スカイツリーほどある鰭で、空を掻いてゆく。千咲達は、顔を青くして、そのUMAを目で追った。
スペイシャル・プローブが、液晶画面を、ペロペロキャンディーのように回転させている。そして、擦り切れるほどの警報音を鳴らし始めた。アンジェリカは、手慣れた様子で、携帯装置を操作した。画面を、別の資料に切り替える。間もなく、鯨型のUMAの写真と、大量の情報が表示された。
「メガリトローグ・オーブリアね。見て、これ」アンジェリカが画面を指さした。
UMAの画像の前に、「セクター5」の文字が点滅している。
「あれは、セクター5に生息するUMAなの。ここは、セクター2。つまり、セクターの境界を突き破って、ここに侵入してきているの」
アンジェリカの説明によると、空間が大きく歪む時、このような現象が、極たまに起こるらしい……。そう、極たまにだ。
(私、エメラルド・タブレットに入る時期を、間違えたんじゃないだろうか……)
千咲は、スペイシャル・プローブが、ひっきりなしに警報音を放つ度に、そう思った。液体窒素を皮膚の間に流し込まれたような、酷い寒気を感じた。僅か数分の間に、他のセクターから侵入してきたUMA達が、五六匹ほど、空中を泳いでいった。
スペイシャル・プローブがあまりにも煩いので、千咲が思いっきり叩くと、警報音が萎びた音に変わって、喚くのを止めた。
夏も始まったばかり、アイスクリームを数十秒で溶かしてしまうんじゃないかと思うほどの、猛暑日が続いた。
千咲は、私服を着たまま、アンジェリカと一緒に、トラックの荷台の隅に立っていた。目の前には公園が広がり、噴水が、宝石のように貴重な涼を振りまいている。荷台から、エメラルド・タブレットの職員達が、次々と下り始めた。
(まさか、昼間に、こーんな怪しげな作業を、堂々と行うなんて……)内輪で首筋を仰ぎながら、千咲は心の片隅でぼやいていた。公園は、公安部の全面協力の下、完全に封鎖されていた。
職員達は、いつもみたいに、UMAを閉じこめるための檻や、空間の安定を図る、複雑な装置を準備していない。全員、手動式の、機械大砲のような装置を持っている。
これは、単に、UMAキャッチャーと呼ばれている。
職員達は、そのUMAキャッチャーの電源をオンにして、砲口の部分を、青白い電撃で満たし始めた。噴水の周りを、数人がかりで囲ってゆく。UMAは、強いエリクシールを持っているため、普通の機械などでは捕まえられない。UMAキャッチャーは、錬金術師のエリクシールを、機械に集中させることで、UMA達を束縛するための、特殊な電撃を放つことができるのだ。
しかし、異常な光景だ。まるで、秘密のエージェント達が、宇宙から飛来した巨大昆虫型エイリアンを退治しようと作業しているようだった。千咲の脳裏に、昔の映画が蘇った。二人は、トラックの荷台に腰掛けると、他部署の仕事を眺めた。
「世界の平和を維持するのも、楽じゃないな……」隣のアンジェリカと一緒に、スイカーバーを舐めながら、千咲は言った。
千咲は、スイカバーの種を噛みしめつつ、アンジェリカがスペイシャル・プローブを取り出す様子を眺めた。まるで、女子高生が、スマホでも取り出すように、もはや当たり前の光景になっている。装置の画面が、デジカメのように、辺りの光景を映し出していた。
「見て。あれが、UMA達の抜け道なの」
アンジェリカが、画面を噴水に向けると、噴水の上に、ブラックホールそっくりの、巨大な穴が映し出された。しかし、肉眼で見ると、噴水の上には、何も見えない……。
「あれは、天然の異世界移送空間よ。空間が奇妙に捻れているから、可視できないの」
その電撃は、宇宙船を一隻、墜落させられるんじゃないかと思うほどの迫力で、職員達の持っているUMAキャッチャーの砲口から発射された。電撃は、噴水の真上に集結し、青いミニチュア太陽のような光を作りだした。職員達は、全員、機械仕掛けのゴーグルを填め、噴水の真上を仰いでいる。
「今、捕獲したの。簡単でしょう?」とアンジェリカ。
千咲は、スペイシャル・プローブの画面を覗き込んだ―電撃は、ブラックホールを、確かに捕まえている。職員達が、電撃をゆっくり下ろしてゆく。すると、噴水の脇に置かれている、四角四面の頑丈そうな銀色の檻に、ブラックーホールが入った。檻の扉が、オートロックで閉まる。職員達は、この作業を、ここ数日、何十回と繰り返している。UMAの地球侵入を防ぐため、昼夜問わず、駆け回っていた。
(ドラゴン・ダイバーとして、錬金術師の端くれとして、私も頑張らないと……)猛暑の中、狂ったように走り回る彼らの姿を見て、千咲は勇気をもらった。
職員達は、銀色の檻を数人がかりで持ち上げ、トラックの荷台に積み込んだ―荷台は、似たような檻で溢れかえっている。スイカバーの棒が、くるくると回転して、千咲の足下に落ちた。二人のドラゴンダイバーは、職員達の邪魔にならないよう、隅の方に座った。トラックは間もなく走り出し、次のポイントへ向かった。
翌日、千咲達にも、重要な任務が課せられていた。千咲は、夏ばてを解消するために、徹の助言通り、脂っこい串カツを大量に食べて、腹を壊している最中だった。だから、あまり気分は良くない。クラウスに連れられて、エメラルド・タブレット地下七階にある、最も大きな研究室に、千咲とアンジェリカは来ていた。
(悪の科学者が、世界征服のために設計した、秘密基地みたい……)千咲の発想は幼稚だった。しかし、的は得ている。部屋の中央には、巨大なガラスの塔が建っていている。中には、複雑な機械が幾つも展示されていた。
「これは、ビッグ・スタビライザーだ」クラウスが言った。
千咲は、ガラスの塔を見上げた。塔の中心線に亀裂が入ると、観音開きのように分かれてゆく。モーターの音を響かせ、展示されている機械の一つが、すーっと降りてきた。クラウスの手が、その機械を台から外し、二人に見せた。
「つい最近、エメラルド・タブレットのデータ分析の深部で、この装置の製造法が発見された。見ての通り、開発には成功した」とクラウス。
それは、機械仕掛けの卵だった。ドラゴンの卵の二倍はある。
超重要な任務と聞かされて、クラウスに連れてこられた二人は、その装置を見て戸惑った。複雑な回路や、メーターランプ、赤や黄色の装甲部分が、まるで玩具のようで、とても可愛いらしい外観だったからだ。
クラウスは、先ほどから吸っている葉巻の煙を、波のように吹き出した。それが、千咲達の咳を誘った。これが、老人の癖である。何か集中する時に、必ず煙を吐き出すのだ。クラウスは、千咲達を引き連れ、巨大なガラス板の前まで案内した。
人が部屋にはいると、自動的に電源を入れるテレビみたいだった。ガラス板に映像が映し出される。それは、関東一帯の地図だった。東京を中心に、赤い円形のマークが、巨大に広がっている。ピンのように小さな青色のマークも、無数に灯っている。
「空間の歪みは、予想以上に深刻なものだ。ここ一週間で、UMA達が、五匹も東京支部の管轄に侵入している」その声も深刻だった。
クラウスは、青いマークを指さし「これが、天然の異世界移送空間の数だ」と言った。
「赤いマークが、原因不明の、巨大な空間の歪みだ。恐ろしいデストピアの引き金になることは、まず、間違いない」と付け加えた。
最近のクラウスは、巨大隕石が地球に激突することが分かっている科学者のような、切迫した雰囲気を纏っている。ビッグ・スタビライザーなる機械を床に置くと、老人は弱々しく、二人に向き合った。
「この機械は、特別だ」クラウスは、重々しく言った。その直後、機械が、卵の形を崩した。赤や黄色の装甲部分が、四本の脚立に変形した。そして、地面にしっかりと立脚する。卵の頭が分かれ、複雑な装置や、二本の操縦桿を露わにした。
「ユートピアは、強いセクターと弱いセクターのバランスによって、成り立っている。この機械は、その秩序を、本来の均衡に戻し、不自然な空間の歪みを解消する力がある」
(つまり、その機械があれば、全て解決するということだろうか?)千咲の意識は、「ビッグ・スタビライザー」の名前にふさわしい姿に変形した機械に、惹きつけられた。
「これは、一時的な解決策に過ぎない。ユートピアの中で、最も空間の歪みが激しい場所に、この装置をセットするのだ。ただし、取扱注意だ。大量のエリクシールを、機械に流し込まなければならない。その間、能力は、一切使えなくなる」
巨大な魚を突き刺す、鋭いフックのような電撃が、ビッグ・スタビライザーから放たれた。そして、直ぐに収まる。クラウスが、スタビライザーの操縦桿を握っていた。溶鉱炉の口みたいな部分から、青い煙がゆらゆらと漂っている。
「……この仕事は、命がけだ。それに、東京の運命が掛かっている」クラウスは息を切らしながら言った。
八月にはいると、エメラルド・タブレットで職員達が最も団欒するはずの食堂でさえ、がらんどうになっていた。誰もが、何処かで忙しなく作業をし、動き回っている。ダイブまであと二時間ほどに迫った午後三時頃、千咲達は、平良徹のもとを尋ねていた。
「なんだこれ……」首をキョロキョロ振りながら、千咲は部屋を見渡した。頑丈な鋼鉄製の部屋だ。先日、トラックの荷台に、溢れるほど積まれていた銀色の檻が、この部屋に運び込まれている。
人の目では見えない、ブラックホールみたいな「異世界移送空間」を、職員達が閉じこめていた、あの檻だ。平良徹が、部屋の奥で作業を行っている。何故か、ドラゴン製造部のベンジャミン・クラフバードが、彼の作業を手伝っていた。
「何せ、今は、ドラゴン造りなんて場合じゃないですからね。手の空いている職員は、とにかく手伝わされるんです」ベンジャミンは、汗を拭いながら少女達に説明した。
一見しただけでは、理解不能な作業を、二人は黙々と行っていた。部屋の奥には、山なりにぽっかりと空いた空間がある。床には、機械仕掛けの頑丈な舞台が設置されていた。
(これから何をするのか、あまり知りたくない……)千咲は直感的にそう思った。
舞台の上には、銀色の檻が置かれている。その手前に、徹が立っていた。徹の脇には、千咲がダイブする時にいつも見かける、像の子供みたいな形をした、複雑な機械が置かれている。それが、突如、鷲が翼を広げるような動作で、機動し始めた。コードや配線を従えて、本体と土台が切り離された。本体が空中に浮かびあがる。小型車の操縦席みたいに、広々とした装置である。大きな画面や、操縦桿も現れた。徹は、機械に近寄り、操縦桿を握った。
機械の正面には、鳥の嘴みたいな突起がついている。それが青白い電撃を、危なっかしく漏らし始めた。画面には、舞台に置かれた銀色の檻が、はっきりと映っている。
「これが、通常のスタビライザーだ。歪んだ空間を修復する力がある」徹が言った。
千咲とアンジェリカが画面を覗き込んでいると、ベンジャミンがふらりと説明した。「君たちドラゴン・ダイバーが、ダイブをしている間、徹達UMA移送部は、こうやって、ドラゴンが開けた空間の歪みを、補正したり、維持したりしているんだよ」少年のドヤ顔に、徹はあまりいい顔をしなかった。
千咲は、「知ってた?」という文字を顔に貼り付け、アンジェリカを見つめた。アンジェリカは「もちろん」を雄弁に語る笑顔を見せた。そうこうしている間に、スタビライザーは唸り声を上げ、本格的に起動し始めた。徹は操縦桿を構え、画面を覗き込む。
この機械を使い、あの「UMAの抜け道」を消滅させる作業を、徹とベンジャミンは行っていた。まるで、ゴミ処理作業のように。すると、舞台の上にある銀色の檻が、三本線の青いランプを輝かせた。頑丈な蓋がスライドして、空っぽの中身を露わにする。
「偶発的な異世界移送空間は、処理に物凄く時間がかかるんだ」とベンジャミン。
「徹と一時間交替で、作業しているんだ。一つ処理するのに、四時間はかかる。その間、能力を機械に流すから、物凄く体力を消耗するんだよ」
また、あのブラックーホールだ。肉眼では見えないが、スタビライザーの画面には、その禍々しい姿が、はっきりと映し出されている。徹は、滝のような汗をかき、画面を睨んだ。少年が操縦桿のスイッチを押すと、嘴状の突起から、電撃が一気に放電された。それが、ブラックホールに、激しく絡みつく……。
二時間後。千咲は、吐きそうな悪寒に絶えながら、ユートピアのセクター2、54地区にダイブしていた。
闇を吸い込むように、ひっそりと静まりかえったクリスタルの樹海を抜けると、その気持ちも幾分、落ち着いた。千咲は、どんな状況でも、ドラゴンで飛行している時は、気持ちが楽になった。
しかし、(もし、セクター2以上のUMAと遭遇したらどうしよう)という恐怖は、ぬぐい去れなかった。54地区は、酷く様変わりしていた。上空から臨むクリスタルの森は、所々、巨大な山火事に見舞われていた。樹木も無惨に折られ、荒らされている。
これだけ生態系を脅かす存在は、他のセクターから侵入してきたUMA意外に考えられなかった。これだけ被害がでているのに、地上でデストピアは観測されていなかった。それも、巨大な空間の歪みのせいなのだろうか……。
二人は暫く飛行した。すると、翡翠の木々が生い茂る、なだらかな平地に躍り出た。ドラゴンを着陸させて、身を寄せ合うと、二人は息を潜めた。スペイシャル・プローブは、いよいよ、この近くに、巨大な空間の歪みがあることを突き止めている。
ここら一帯のUMAは、全員、殺されてしまったのではないかと思うほど、静かだった。ふと目をやると、千咲の視界に、黒い塔のような影が映った。
(なんて巨大なんだ……)思わず息を呑むほど、それは大きかった。
その影は、紫色の草に覆われた大樹だった。しかし奇妙だ。54地区で、鉱物で構成されていない樹木を目撃したのは、これが初めてだった。
その時、スペイシャル・プローブが、けたたましく叫び始めた。
「どうした?」千咲はアンジェリカに聞いた。
「千咲ちゃん!あ、あれ……」アンジェリカは、珍しく、動揺の色を見せている。
さっきまで、天高く聳えていた大樹が、ぐねぐねと動いている。間もなく、巨大な翼が大樹の両脇に現れた。それが、恐ろしいほどの強風を巻き起こす。両翼が天を隠すほどに広がると、大樹と一緒に、大空へ浮かび上がった。
それは、生きたB29戦闘機だった。その前足は獣のようで、鋭い爪が剥き出しになっている。上半身は紫色の羽毛に覆われおり、下半身は白かった。まるで、狩猟犬のようだ。弓なりに跳ねる尻尾は、ふさふさの体毛に覆われている。
「あれ、グリフォール・ローリンだわ!」アンジェリカは、スペイシャル・プローブを操作すると、画面を、UMAのデータに切り替えた。
グリフォール・ローリンの画像の中央に、「セクター9」の文字が躍っている。
「信じられない!セクター9のUMAよ。やっぱり、ここら一帯は、酷い空間の歪みを持っているんだわ……」アンジェリカが絶望的な声を漏らした。
UMAが飛び去った後、全てを飲み尽くすような闇が、翡翠の木々の間に広がった。
ドラゴンに跨ると、千咲達は、さっきまでUMAが居座っていた場所へ移動した。
木々が、半径数百メートルにわたってなぎ倒されている。
「間違いない……。この辺りに、空間の歪みの中心が存在するわ」
アンジェリカは、画面の地図を確認すると、「空間の歪み:最大」の赤文字を指で突きながら言った。
「千咲ちゃん、ビッグ・スタビライザーの用意をして」
(あれは何だろう……?)不思議な違和感が、千咲を襲った。少女は不思議なものを、折れた翡翠の木々の中に目撃した。何かが落ちている。それは、二枚の羽だった。
花瓶に挿しておけば、部屋の照明に使えそうなほど、眩しく輝いている。千咲は、スタビライザーをアンジェリカに渡すと、折れた木々の上を走り、二枚の羽を拾い上げた。
羽は、銀河に輝く星雲のような、美しい光を纏っている。千咲は早速、アンジェリカに羽を見せた。
「……これって、とっても貴重なんじゃないか?」千咲の興奮は、アンジェリカにも、打てば響くように伝染した。
「凄いよ、千咲ちゃん!それ、絶対に離さないで、持っててね!」
千咲は、アンジェリカのあまりの喜びように、一瞬、眉根を深く寄せた。しかし、小さく頷くと、羽をレザースーツの胸元にしまった。
「後で役に立つよ、きっと」アンジェリカはそう言って、ビッグ・スタビライザーを千咲に渡した。何かあるに違いない。アンジェリカの悲壮な声が、少し明るくなった。少女は、再び、スペイシャル・プローブの画面を覗き込んでいる。
「なあ、この羽って、凄いのか?」千咲は、思わず少女に質問した。
アンジェリカは、画面から目を離すと、ドラゴンのバターカップの鼻先を撫でながら、にっこり笑って言った。
「UMAには、特殊な力を持っている種も存在するの」
アンジェリカの説明を聞きながら、千咲の体温は上昇した。慌てて、胸の中から、羽を二枚取りだす。そして、まじまじと眺めた。にわかには信じられない。手の中で、奇跡が風に揺れて、ふわふわ光を放っているなんて……。
アンジェリカは、スペイシャル・プローブの丸画面を、千咲に見せている。さっきのUMAの解説書が乗っていた。
「このUMAの羽は、最大で、十分間、時間を遡る力を持っているの!」とアンジェリカ。
千咲は、震える手で、羽を胸にしまい込んだ。きつめにファスナーをしめる。画面では、先ほどのUMAが、くるくると立体的に回転して映し出されていた。
「それだけ、強いエリクシールを持っているUMAなのよ。なのに、こんな場所にいるなんて……。よほど酷い空間の歪みが生まれていることの証拠……」アンジェリカが言いかけている時だった。
鋭い歯で獲物を噛み砕くような、おぞましい鳴き声が響いた。千咲達は、急いで、辺りを見渡した。視界には、翡翠の木々の残骸が散らばる、広大な平地しか見えない。別段、異常はなさそうだった。
しかし、スペイシャル・プローブの画面は、そう言っていなかった。
「うそ!」アンジェリカが叫んだ。千咲は、その声に、思わずスタビライザーを落としそうになった。二人は画面を覗き込んだ。そこには、一匹のUMAの画像が、立体的に回転していた。「デモース・ガウローズ:接近中」の文字が躍っている。
「セクター4!?」千咲の瞳に、その文字がまざまざと焼き付けられた。
デモース・ガウローズは、二足歩行の狼みたいな生き物だった。腕に生えている甲羅の表面は、荒削りの鑢みたいに刺々しい。腕自体はサーフボードのように大きい。首も長く、唇は捲れ、銀色に輝く牙を見せている。
千咲の体に、ぞっとするような悪寒が走った。その悪寒は、すぐに現実のものとなった。
月明かりや山火事で、うっすらと紫色に染まる夜空に、無数の影が舞った。そして、重々しい音を立てて、千咲達の目の前に、それは次々と着地していった。
千咲の顔は、文字通り、真っ青に染まった。本物のデモース・ガウローズが、十頭ほど現れ、少女二人を取り囲んでいるのだ。デモースの一匹が、巨大な腕を振った。その衝撃波は、少女二人の足下を簡単に消し飛ばした。二人は、物体浮遊能力で、地面から三十メートルほど上空へ逃れた。大量の土煙が、辺りに舞っている。
ドラゴン達も、上空へ避難していた。
(セクター4のUMAなんて、今の私には、天地がひっくり返ったって、勝てるわけがない……)千咲は更に驚愕した。真下には、デモース達が徒党を組んで、此方を見上げている……。その足下に、ビッグ・スタビライザーが転がっていた。
「千咲ちゃん!千咲ちゃん!」アンジェリカが叫んだ。千咲は、我に返った。
「セクター4のUMAなら、私でも、何とか食い止められるわ。千咲ちゃんは、隙を見て、スタビライザーを回収して」正しい判断だった。千咲が手伝っても、足手まといになるだけだ。アンジェリカは、空中へ虚しく逃げてゆく、二頭のドラゴンにも目をやった。
「ドラゴン達も、もともと、セクター2に対応する品種だから、それより上位のセクターのUMAには勝てないわ。彼らを連れて、逃げて!」
千咲はもう一度、スタビライザーを見た。
計画に二言はない……。拳に力が入った。その刹那。千咲は、海岸で波に襲われるような、あの独特の浮遊感を感じていた。空間が波打って、大きく歪んでいる。
アンジェリカの周りの空間が、波状に捲れ、揺らいでいた。少女は、ロケットのように飛び出すと、白い雲を引いた。そして、真下のデモース達に突っ込んだ。リーチは短いが、破壊力抜群の回し蹴りが、UMAの一匹に炸裂する。UMAは、頭から地面に突っ込んだ。少女が拳を突く度に、空間が波紋を広げて歪んでゆく。それと同時に、UMA達も吹っ飛んでゆく。次々と繰り出すパンチや蹴りは、空間を轟かせるような音を放っている。それでも、セクター4のUMA達と戦うには、不利な様子だった。デモース達は、直ぐに起き上がり、少女に攻撃を繰り出してゆく。
アンジェリカは、たっぷりUMA達を惹きつけると、大きくジャンプした。遠くの場所へ移動する。これはチャンスだ。千咲は、まだ慣れていない物体浮遊能力で、のろのろとドラゴン達へ近づいた。スターとバターカップの手綱を結ぶと、スターに乗りこんだ。そのまま滑空し、ビッグ・スタビライザーを回収すると、アンジェリカ達とは反対の方向へ飛行していった。計画は見事に成功した……。
数分後。一メートル先を喰らい尽くすような激しい濃霧が、千咲の視界を覆っていた。ドラゴン達と一緒に歩いている。足下には、黄色いマリガーネットのカットを敷き詰めたような、ごつごつとした地面が広がっている。
この緊迫した状況を、からからと笑い飛ばすような、警報音が響き渡った。アンジェリカのドラゴン、バターカップの鞍に取り付けられた、リュックサックの中身が喚いている。
千咲は、スペイシャル・プローブを取り出して、画面を覗き込んだ。
画面には、「空間の歪み:最大接近」の文字が躍っている。
「うそ!この近くなの?」千咲の目が、爛々と輝いた。装置を方々に振り回す。すると、千咲の周りから、濃霧がカーテンのように引いていった。やがて目の前に、ぽっかりと開けた空間が現れた。黒いボールだ。ビーチボールほどの大きさ。それが、空中に浮かんでいる。
千咲の体に、溶かした鉄のような汗が滴った。
そのボールは、パズルのピースのような粒子を飛ばしている。それが、くっついたり、離れたりを繰り返して、球形を維持している……。
「これが、ここら一帯を狂わせている、空間の歪み……」千咲は唾を飲み込むと、囁くように言った。
千咲の手は、携帯のバイブレーションのように震えていた。ビッグ・スタビライザーを持ち、黒いボールへ近づく。機械から、四本の脚が飛び出した。それを、ボールの真下に置く。早速、装置のコントロールパネルと操縦桿が露わになった。
「確か、この機械を起動させている間は、能力が一切、使えなくなるんだ……」
千咲の髪が揺れた。その目が辺りを見回す。
濃霧に隠れて、その奧に何があるのか、さっぱり分からない。
迷っている暇はない。制限時間も、あと僅かだろう。千咲は、腕時計を見た。
針は「三十九分」を示している。
千咲は、一瞬、この状況が忌々しくなった。真上の黒いボールを睨み付ける。表面の粒子が、パズルのピース型に飛び散り、くっついたり離れたりを繰り返している。
(今、この状況に、命を賭ける価値はあるのだろうか……?)そこには、ドラゴン・ダイバーの任務において、初めての葛藤を覚える少女がいた。操縦桿をギュッと握り、潔く構える。
その時だった。
濃霧が、巨大な扇風機で吹き飛ばされるようになくなってゆく。そして、一本の大きな道が生まれた。風は吹いていない。道の奧には、アンジェリカが立っていた。少女は、再び流れ込んでくる濃霧を、能力で押しやりながら走ってきた。
「ごめん、千咲ちゃん!ようやく撒いてきた!」息も切れ切れ、レザージャケットは切り裂かれ、そこから血が流れ出している。スタビライザーを仕掛け終わり、後は装置を起動するだけの千咲を見つけると、アンジェリカは大喜びで飛び跳ねた。
「千咲ちゃん、私がやる!」アンジェリカは、その勢いで、千咲をはねのけた。しゃがみ込むと、操縦桿を掴み、スイッチを押した。溶鉱炉のような発射口から、電撃が放たれる。それが、」装置の真上のボールを、繭のように包み込んだ。
「私の方が、エリクシールが強いから、早く終わるはずよ」その声には希望が溢れていた。
少女は、鼻血を拭いながら、懸命に装置の操縦に取り組んでいる。電撃に包まれたボールは、パズルのピースを飛ばさなくなった。。そして、綺麗な球形に落ち着いている。
しかし、状況は芳しくない。UMAと戦いすぎて、アンジェリカは、大分、体力を消耗していた。息は更に荒くなり、目は半開きになっている。しかし、少女が衰弱すればするほど、頭上のボールは一ミリ、一ミリと小さくなって行く。
(……どうして、この娘は、躊躇わずに、操縦桿を握れたのだろう。私よりも、錬金術師としての実力が、上だからだろうか?)それは違った。アンジェリカは、単純に強いのだ。何者も恐れない、真っ直ぐな心を持っている……。
そんな少女の姿を見ながら、千咲は、自分の臆病さに嫌気がさした。
その時、全てを穿つような恐ろしい衝撃が、千咲を襲った。気がつくと、遠くの地面に少女は倒れていた。上半身をゆっくりと起こし、辺りを見回す。
凄い衝撃で、濃霧が消え去っていた。しかし、徐々に戻ってきている。その中央。
操縦桿を握っているアンジェリカの真後ろに、デモース・ガウローズの一匹が立っていた。刃物のように鋭く揃えられた右手を、少女の背中から、滴る血液と共に、引き抜いている所だった。
全てがスローモーションに見えた。予知能力ではなかった。興奮と動機で、千咲は、完全に正気を無くしていた。アンジェリカは、力なく、地面に倒れ込んだ……。デモースは、千咲に気がつくと、右手についた血液を払い、此方に歩を向けた。
千咲は、最大の後悔を覚えていた。(あの時、操縦桿のスイッチを押していれば、アンジェリカは死なずに済んだのだ。私のせいだ……)その自責の念が、アンジェリカの亡骸に、自然と目を向けさせた。
少女は、這い蹲りながらも、まだ動いていた。紺碧の大きな瞳を、涙で輝かせている。その右手を広げ、千咲に向けていた。
ここで、少女達は、無言の意思疎通を成立させていた……。なぜ、アンジェリカが、死にかけながらも、そんなジェスチャーを取っているのか。その仕草、指の先の動き、直感的なメッセージが、駆け抜ける電撃のように千咲に伝わった。
千咲のは、胸元のファスナーを開け、中からあるものを取り出していた。アンジェリカの命を、そして、自分の命さえ繋ぐ物を……。それは、一枚の羽だった。
その眩しくて怪しげな光の中に、全宇宙の星の輝きを鏤めたような光線が、無数に注ぎ込まれてゆく……。全てが止まった。そう見えるのではなく、本当に、時間が止まっていた。一枚の羽の中に、全てが吸い込まれてゆく。
気がつくと、千咲は、操縦桿を握っていた。辺りは、濃霧に包まれている。頭上には、黒いボールが浮かんでいる。咄嗟に、腕時計を見た。表示は「三十九分」を示している。
(神様、ありがとう!私は、もう少しで、人生最大の過ちを犯す所だった……)
千咲の涙でにじむ目が、胸元を見下ろした。ファスナーが開いている。二枚入っているはずの羽が、一枚減っていた。腕に、さっきまでの震えは感じなかった。
操縦桿を握ると、スイッチを押した。装置から、電撃が放たれる。それが黒いボールを包み込む。千咲の体力はどんどん奪われてゆく、吐き気も酷くなってきた。しかし不思議と、少女の心は清々しかった。アンジェリカの時より、ボールの縮む速度は遅かったが、確実に小さくなってゆく。
千咲は、ほとんど、気を失いそうになった。朦朧とした意識の中、操縦桿を握る手に、誰かの手が重なった。アンジェリカだった。
「千咲ちゃん。頑張ったね。今度は、私が交代する……」
「駄目!アンジェリカは、後ろを見張ってて!」千咲は吠えた。
「UMAが来るかも知れないんだから!」
千咲の激しい物言いに、アンジェリカは、若干引いていた。しかし、直ぐに嬉しそうな顔に変わり、うんと頷いた。それからは、なるようになった。
十分も経つと、ボールは、最後のパズルの一欠片になって、ふっと消滅した。
アンジェリカが、UMAを何体か撃退し、千咲を守ってくれていた気がする。しかし、千咲はほとんど覚えていなかった。ボールが消滅すると同時に、千咲も気絶した。
数時間後、千咲が目を覚ますと、その体は、エメラルド・タブレット、医療棟のベッドの上に横たわっていた。
(……ここは、天国じゃないな。こんな薬品臭い天国は願い下げた)千咲は、毒づく気力を持っていた。天上では、蛍光灯の明かりが、天国の光以上に煌々と輝いていた。
ふと、横に目をやると、テーブルの上の花瓶が見えた。中には、紫色の羽がささっている。
羽は、星空を切り取ったような光を、繊維一本一本に纏っている。
千咲は、羽を暫く眺めると、枕の中に深々と頭を埋めた。そして再び、深い眠りについた。