ジョン・キングストン
第四章 ジョン・キングストン
眩しい朝日が、テーブルの上を、真っ白に染め上げている。
千咲は、いつもどおり、カフェの窓際の席に座っていた。
(まさか、こんな状況が訪れるとは……)千咲の両脇には、二人の男が物々しく座っている。黒スーツ、黒ネクタイの、個性を排除した服装だ。無表情のまま挨拶をする。
「私は、警視庁公安部の大津と申します」
「同じく、小日向です」
三人の反対側の席には、呆けた顔の遠藤が座っている。
「黒衣良さんのご両親からは、お話を断られたので、代理人であるあなたと、話をしたいと思い、ここにお呼びいたしました」いかにも事務的な、乾燥した言葉を、公安部のどちらかが吐いた。公安部二人のサングラスに、遠藤の狐に摘まれたみたいな顔が映っている。
「ええ、千咲のご両親からは、こちらにも連絡が……。それで、お話とは?」
(ついに、俺の手に負えない事をしでかしたか?)遠藤の顔がそんな風に歪むと、千咲は、気まずそうに公安部の間で縮こまった。
「……す、すいません。心の準備が。タバコ、いいですか?」と遠藤。マールボロのアイス・ブラストの香りが、遠藤の一服する音と共に広がった。タバコはあっさりと、灰皿に収まった。「どうぞ……」遠藤が言った。
「黒衣良さんはこの度、国家最高機密に属する組織、エメラルド・タブレットの職員となられました。これから、黒衣良さんの行動は、公安部によって監視され、また、我々の保護下に置かれます」背が高い方の小日向が言った。その早口ぶりと、内容のうさんくささに、遠藤は「冗談だろう?」という風な表情を漏らした。その顔は、千咲の異常さを散々見てきた男らしく、ものの十秒ほどで、諦めと納得の表情へ変化した。
「この組織の存在を知るのは、公安部の者と、内閣総理大臣、及び、一部の大臣だけです」そう言って大津は、ラップトップ・パソコンを、暗殺道具を取り出す殺し屋のように、手際よく取り出した。テーブルに置くと、画面を遠藤に向けた。
画面には、赤い電話ボックスが、意味ありげに映されている。その扉が開き、視点が中に入ってゆく。エレベーターのように視点が下りると、ある紋章が現れた。それは、エメラルド・タブレットの紋章だった。直ぐに、黄色い婦人服を着た、上品な西洋人の老婆の写真が映し出される。
「エメラルド・タブレットの本部は、イギリスのロンドン地下にあります。かの女王、直属の機関である、秘密情報部も関与している、歴史ある組織です」と大津。
「黒衣良さんのような特殊能力を持った人々の組織です。国家の要人となります。活動内容は極秘のため、詳しくは話せません。しかし、黒衣良さんが組織の一員であっても、あなたとの交流が絶たれることはありません。あくまで、身内の方に、概要をお話しすることは、義務になっています」小日向が言った。
「その際、あなたも、我々の監視下に置かれます」大津が続けた。
公安部の二人が、あまりにも戦々恐々としていることと、千咲ならあり得る話だということ、その二つが入り乱れ、遠藤の思考回路をショートさせていた。
すると、彼の眼前に、全ての疑いを晴らすか、もしくは、更に混乱させる、ある証拠が突き出された。「これは、エメラルド・タブレットの手帳よ」と千咲。
「エメラルド・タブレット……。黒衣良千咲。部署名:ドラゴン・ダイバー部……」
遠藤は、呆然と、手帳の内容を読み上げた。警察手帳に似ており、銀色のエンブレムと、千咲の顔写真などが入っている。
「やれやれ……」この男にしては珍しく、やや滑稽な声を漏らした。
すると、遠藤の懐が、窓から漏れる朝日に反射して、黒く光った。
公安部の二人は、無駄のないプロの動きで立ち上がると、脇のホルスターから自動拳銃を取り出した。そして遠藤の額に突きつける。遠藤の腕は、懐の中で停止している。それが、恐る恐る、中から出てきた。
「ス、スマホだよ……」彼の手には、小型のタブレット式携帯電話が握られていた。
少年は、作業の合間に、コーヒーを飲んでいる。部屋中に、カフェインの香りをぷんぷんと漂わせていた。ベンジャミン・クラフバードは、ドラゴンの卵を管理している部屋の中を、忙しなく飛び回っている。部屋の入り口には、分厚いレザージャケット風のユニフォームを着ている、千咲とアンジェリカが立っている。そして、彼の八面六臂に近い活躍を見守っていた。
(……駅前のロッカールームみたい)千咲の鋭い目が、部屋の奥にある、ガラスケースで埋め尽くされた壁を見つめた。ベンジャミンは、ようやく足を止め、手に持っている管理用のタブレットを、近くの書斎机に置いた。
「ここにあるドラゴンの卵は、エメラルド・タブレットの他の支部から、回されてきたものなんだ。今は、全部で三十個ある」ベンジャミンが、タブレットの中央で赤々と光るボタンをタップした。すると、百ほどあるガラスケースの内、恐らく、三十ほどが、煙を吐いて飛び出してきた。「どのダイバーに、どの卵が孵るか分からない。だから、定期的に、卵を回す決まりになっているんだ」とベンジャミン。
ドラゴンの卵を管理するケースは、巨大なゆで卵を作る、大げさな機械のようにも見えた。サスペンダーを伸ばして、ぺしんっと戻すと、少年は「千咲にも、早く、次の卵が孵るといいね……」と言って微笑んだ。
「……ありがとう。でも、凄いな。ドラゴンの卵って、こんなにあるんだ」と千咲。
卵の管理ケースは、ビル窓みたいに隙間なく並んでいる。その内の幾つかが飛び出しているから、千咲達の姿が歪に映し出されている。焦げ臭い香りや、むかむかするほどの悪臭、この世のものとは思えないぐらい芳しい香り、ベンジャミンが、ケースから回収している卵は、どれも、その姿に応じて、独特の匂いを放っている。
少年は、卵を、ステンレス製の巨大なカートに、一つ一つ、丁寧に移してゆく。
溶岩が卵の形をしたようなもの。明滅を繰り返す、穴みたいに真っ黒なもの。勿忘草のような花に包まれた、ブーケのようなもの。どれも個性的である。それらが、ベンジャミンの革手袋によって、カートの小部屋に、次々と入れられてゆく。
「アンジェリカ、ちょっといいかな?」ベンジャミンが聞いた。
少年は、卵を一通り入れ終わると、書斎机に置いてあるマグカップを持ち上げた。それを啜りながら、アンジェリカの青い瞳を見つめつつ聞いた。
「どうして、千咲に、あの卵が孵せると思ったんだ?デビッチのことだよ……」
「勘ね」と少女。
「あれ、最後の雄の卵だったから」
「……どういう事?」千咲の視線は、卵から、アンジェリカ達に注がれた。
「男性には雌のドラゴン、女性には雄のドラゴンが孵るのよ」とアンジェリカ。
「たった、それだけの理由で、千咲に卵を渡したのか?」ベンジャミンが聞いた。
「うん。そう」とアンジェリカ。少年の顔は、完全に呆れている。
ベンジャミンは、卵を全部、カートに詰め込んでいるようだけど、一体、これから何をするのか、千咲には皆無だった。少年の革手袋は、最後に残った卵を持ち上げようと、ガラスケースの中に突っ込まれている。
「とにかく、これから千咲には、初めての任務が待っているんだ。この卵を、ロンドン本部まで運ぶのが、今回の仕事だ」とベンジャミン。少年が卵を取り出すと、ケースは、オートロックで閉まった。卵は、螺旋状の文様を巻く、金属質な殻を持っている。
「それに、雄の卵は、あれが最後じゃないんだよ。アンジェリカ」ベンジャミンが言った。
「どういうこと?」千咲の卵に対する関心は、急激にそのメーター値を跳ね上げた。
「これが、最後の雄の卵だ。千咲、任務の合間、これを持っているといいよ」とベンジャミン。その卵は、見た目通り、とてもひんやりして、滑らかな肌触りだった。千咲は、少年から卵を受け取ると、暫く、吸い込まれるように、それを眺めた。
数時間後―。鋭い風が、少女達の髪を、激しく揺らしていた。
ドラゴンが二頭、東京都の街並みを、絵の具のように掻き混ぜて、猛スピードで飛行している。
「ひゃっほー!」千咲の大声は、風に攫われ、あっと言う間に後方へ流されてゆく。
暫くして、二頭は、だだっ広い水田の畦道に着地した。厳密に言えば、二つの空飛ぶ手綱が、ふわっと畦道に接近した。
「ユートピアにダイブしていられる時間を短縮するために、任務では、こうやって、ダイブする場所を指定されることがあるの」アンジェリカが、グリンの鞍から降りると説明した。畦道の泥濘を踏みつけつつ、クラウスが物腰軽やかにやってきた。
「……二人とも、早速だが、任務についてもらうぞ。アネモイの吹く場所は変わりやすい。今日は、ここからダイブだ」
のどかな田舎の農道には、エメラルド・タブレットの紋章が刻まれた、トラック式装甲車が数台、停車している。かなり物々しい光景だった。
「ドラゴンがダイブすると、高次元で、空間が大きく歪む可能性があるんだ。そのため、野外でのダイブは、UMA対策部に出動して、空間の歪みを制御してもらっている」とクラウス。
装甲車よりも目立つのは、所々に置かれた、謎の大型装置だった。装置の周りには、数人のUMA対策部の職員と共に、平良徹の姿も見受けられた。
(……こんな大がかりな準備の中で、ダイブするなんて、少し気が引けるな)千咲は思った。
視線を下げると、特注のレザースーツの胸の上に、エメラルド・タブレットの紋章が窺えた。いよいよ、ドラゴン・ダイバーとしての初任務である。
徹は、機械の点検の方法を、頑固そうな錬金術師の男に教えてもらっている。ふと千咲達に気がつくと、軽く手を振ってくれた。
緊張で強ばった頬が、ぎこちなく微笑むと、千咲は徹に手を振り返した。
「今、卵の入ったバッグを、ドラゴン達に取り付けさせよう」クウラスが言った。
職員達は、大量のバッグをドラゴン達の鞍に取り付け始めた。千咲は、その様子を眺めつつ、雄のドラゴンの卵が入っているバックパックを、大切そうに背負った。
それから数分後……。
「それでは、健闘を祈る!」クラウスが叫ぶと、手綱が二つ、畦道の上から消えた。
千咲とアンジェリカは、初めからそこにいなかったように、忽然と、消えている。
農道でモーターを温めていた機械達が、一斉に起動し始めた。UMA対策部の職員達が、畦道の上―千咲達がダイブした場所に、次々と雪崩れ込み、作業を開始していく。
「初めてのアネモイは、恐いだろうな……」クラウスが心配そうに呟いた。
「アンジェリカ!あれは何?」千咲が叫んだ。
辺りは、大理石の柱みたいに聳え立つ、巨大な樹木が生い茂っている。
針葉のギザギザした屋根の破れ目から、青空が覗いている。その中を、突然変異したオーロラのような光が、でかでかと流れている。血のように真っ赤な光だ。
「あれは、アネモイよ!」アンジェリカは、千咲を見ながら言った。
少女とグリンは、降り注ぐ陽光のカーテンを遮り、翼を広げて浮上した。大樹の枝に止まる。数秒後、違う枝に、千咲とデビッチも止まった。
「凄い量のエリクシールが凝縮されている気流なの。あれに乗れば、広大なユートピアの中も、自由に行き来することが出来るの」とアンジェリカ。
「……もしかして今から、あの“風”に乗って、移動するのか?」(そんな、まさか……)千咲は、その「まさか」が起きないことを祈った。
アンジェリカの顔が、にんまりと微笑んだ。それが千咲に「イエス」の合図を送っている。
グリンの飛膜が、コガネ虫みたいに金属質の色合いを放って広がった。針葉を幾つかまき散らし、鼻を刺すような香りと共に、アンジェリカは上空へ飛び上がっていった。千咲も、鷲の彫刻みたいなデビッチの翼を広げさせ、その後ろに続いた。
血のように赤い光が、ここが地球ではなく、ユートピアの中だということを、如実に物語っていた。千咲達は、光線で編まれたカーペットのような、赤々と輝くアネモイの真下まで、上昇している。
「こんなのに飲み込まれたら、バラバラになるぞ!」千咲は思わず叫んだ。
二人の上空では、巨大なジェット気流が、赤い波を轟々とくねらせている。アネモイは、何もかも捻り潰さん勢いで流れていた。
「大丈夫!きっと、ロンドンまでなら、十分ほどで着くと思うわ」とアンジェリカ。
アンジェリカは、グリンの手綱を引っ張り、ふわっと上昇させた。そして、なんの躊躇もなくアネモイの波に突っ込むと、姿を消した。
拡大レンズを当てたみたいに、千咲の目は丸々と広がった。それが、アンジェリカ達が食べられてしまった、アネモイの腹を見上げている。
「よし!」千咲のグローブが、手綱を千切れるくらい握った。デビッチは主人を乗せたまま、赤い殺人気流に突っ込むと、その身を任せた。
まるで飴のように、原型が無くなるまで、千咲の体は引き延ばされた。実際にそうなったのかは分からないが、とにかく、超高速で、千咲は“風”に運ばれていった。
暫くして、ゴムのように伸びきった千咲の手を、アンジェリカの手が掴んだ。二頭は、女子高生達を鞍に乗せたまま、無事、アネモイの中から脱出した。
「……なんだ、ここ?」と千咲。二人の真下に広がっているのは、空中に浮かぶ、大量の毬藻だった。二頭は、鎖に繋がれた機雷を掻き分けて潜る潜水艇のように、植物の海を掻き分け、滑空していった。
風はなく、とても静かで乾燥した場所だ。グリンが大地に降り立つと、デビッチも数秒後、千咲を鞍から下ろしていた。広大な大地に、螺旋状の樹木が点々と生えている。そこから、蔦が無数に伸び、空中の毬藻を繋ぎ止めていた。
千咲は、まるで割れた鏡の上に立っている小人のような錯覚を覚えた。足下に広がる大地は、どこも銀色に輝いており、幾何学的な亀裂を刻んでいる。
「丁度、この辺りが、ロンドン市街のはずよ……」とアンジェリカ。
少女は、ドラゴンの手綱を手に取ると、銀色のアイテムを、小豆にいじり始めた。
それは、ブローチだった。十センチと大きく、翼の形をしている。その中央に、グリグリと眼球を動かす、気持ちの悪い鋼鉄製の目がついている。アンジェリカの指が、その瞼を、シャッターみたいに下ろした。
「千咲ちゃん。インビジブル・アイをオフにしましょう。これから、新人のドラゴン・ダイバー研修のガイドが、迎えに来るから……」とアンジェリカ。
千咲の手が手綱のブローチを、アンジェリカと同じようにいじった。しかし、千咲の目には、相も変わらず、デビッチの姿が映っている。手綱を握っている人には、ブローチの瞼を下ろそうが上げようが、ドラゴンの姿は可視されるのである。
数分後……。それは、青天の霹靂を、僅か四畳半ほどの空間に圧縮して、爆発させたような光景だった。千咲達の頭上二十メートル辺りに、青い翼が、太陽の光を遮って現れたのだ。それが、ハロウィンのおどろおどろしいテント屋根みたいに広がると、一匹のドラゴンが、千咲達の目の前に、颯爽と降り立った。
「……ブルーホエール・ドラゴン!珍しい品種だわ!」
アンジェリカがバッグから本を取り出すと、電光石火で索引し、ドラゴンの名前を言い当てた。二人は、暫く呆気にとられて、目の前のドラゴンを眺めている。
ドラゴンは、全身、魚のような青い鱗に覆われていた。体は丸く、首は短かい。翼は、背中にでなく、前足に着いており、派手な甲羅や角はない。シンプルで綺麗なドラゴンだった。
「やあ、こんにちは!」鞍の上から飛び降りた人影は、千咲達と同じ、エメラルド・タブレットの紋章が胸に刻まれるレザースーツを着ていた。
「あなたも、ドラゴン・ダイバーなの?」思わず人影に指をさすと、千咲は驚きながら聞いた。
それは、身長百七十センチ、ブロンドの癖毛をたっぷり蓄える、黒い瞳の少年だった。顔立ちは、ギリシャ神話の神様みたいで、目は子供のように円らで、可愛らしい。
「ああ、そうだ。僕の名前は、ジョン・キングストン。よろしく」とジョン。
「父がイギリス人、母が日本人だから、通訳の心配はいらないよ」握手も優しく、とても紳士的だ。千咲は、たちまち、このジョン・キングストン少年に親近感を抱いた。アンジェリカを除けば、千咲にとって、初めて会うドラゴン・ダイバーだったからかも知れない。
「早速だけど、この裏はロンドンだ。インビジブル・アイをオンにしてくれ」
少年は、都会的な雰囲気と、紅茶か蜂蜜のような香りを漂わせている。千咲は、再び、あのグリグリ動く眼球を、ブローチの中央で露わにさせた。(……でも、本当かな?つい数分前まで、東京にいたのに。今はロンドンなんて……)
「それじゃ、ついてきて!」ジョンを乗せたブルーホエール・ドラゴンは、勇ましく翼を広げ、空間に残像を残すと、消えてしまった。
千咲は、半信半疑のまま、デビッチの鞍に跨った。アンジェリカと目を合わせ、相づちを打つと同時に、手綱を打った。
数秒後、千咲は、ゆっくりと目を開けた。目の前に、絵葉書やポスターそのままのロンドンが、旧市街と新市街を絶妙に混在させ、美しく広がっていた……。
「どうだい?最高の景色だろう?」ジョンが言った。
三頭のドラゴンは、国会議事堂を左下に臨む、巨大な時計塔の屋根に止まっていた。国会議事堂の手前には、幅五百メートルはあるテムズ川が、ロンドンの街並みを切り取りながら、雄大に流れている。
「このビッグ・ベンは、ロンドンにいくつかある、エメラルド・タブレット本部への玄関口の一つなんだ。本部は、来客が多いから、玄関が、複数あるんだよ」
三人の真上には、四角錐の巨大な屋根が聳え立っている。その付近に、こじんまりと、エメラルド・タブレットの紋章が刻まれていた。
夢なのか現実なのか、千咲には理解しがたかった。暫く、呆然とロンドンの街並みを眺めた。
「こっちだ、着いてきて!」ジョンが颯爽と飛び立った。千咲は、その後におどおどと続いた。
「凄い……」思わず、その口から溜息が漏れた。
三人の眼下には、セントポール大聖堂、ミレニアム・ブリッジ、サマセット・ハウス、大火記念塔などが、ミニチュア・ハウスのように佇み、優雅に流れてゆく。
ロンドンの空気は、日本とは違い、糊をかけたYシャツのように、ぱりっとしていた。そして、ほんの少しだけ臭かった。
三人(三つの空飛ぶ手綱)は、テムズ川沿いに、観光を楽しみながら飛行した。
ドラゴンに乗って、ロンドンの空を飛ぶ。こんな夢を体験していいのだろうか?千咲の胸は、幼子のようなわくわくと驚きで、いっぱいになっている。
ロンドン・アイ(巨大な観覧車)の手前を、三つの手綱がびゅんと飛び去ってゆく。ジョンは市街地に向けて手綱を打った。三頭は、フェンチャーチ・ストリートを颯爽と走る二階建てバスの屋根に、次々と降り立った。
「このバスは、タワー・ブリッジを通るはずだ。そこに、秘密の入り口があるんだよ」ジョンが言った。三人は、手綱を操作し、ドラゴン達が礼儀正しく屋根に座るよう命令した。滑走路を通ると、三人の正面に、橋と言うよりは、お城と言った方がふさわしい、タワー・ブリッジの勇姿が見えてきた。「さあ、僕達はこっちだ。下りよう」とジョン。
ドラゴンが三頭、タワー・ブリッジの「タワー」に当たる、砦のような土台の上に降り立った。テムズ川から噴き上がる春の冷気が、一同の頬を清々しく包み込む。
「こんな所に、本当に、秘密の入り口があるの?」と千咲。ドラゴンの鞍から見下ろす景色は、石畳の敷かれた半円状の広場だけで、その他、特別なものは見当たらない……。
「観光客が気づかないように入るのがコツだよ」ジョンは意気込んだ。
少年は鞍から降りると、広場の縁にある石垣に近づき、ピンポイントで、あるブロックを押した。すると、広場そのものが、ゆっくりと沈み始めた。四メートルぐらい沈むと、頭上に、もう一枚、石畳の広場が現れ、完全にロンドンの空に蓋をしてしまった。
「ようこそ、ここがエメラルド・タブレットの本部だ」とジョン。
ロンドン本部の大広間は、東京支部とは違い、どこも古めかしく、文化遺産のような重厚さと威厳を供えていた。古代の石柱や、ダミーでは決して作れない、年月を感じさせる石壁。それらが最先端技術と一体となって、ローマのコロッセオをクラブハウス仕立てに改造したかのような、独特の雰囲気を湛えて広がっていた。
東京支部の三倍は人が行き交い、大広間は四倍ほど広かった。それなのに、千咲はあまり大きく感じなかった。それだけ、賑わっているのである。
「千咲、君が来てくれて嬉しいよ」少年の後ろ姿に、突然、晴れ晴れとしたジョンの横顔が覗いた。
「あ、ありがとう」千咲は恥ずかしがりながら答えた。
(何処へ行っても、歓迎される……。そんなに、ドラゴン・ダイバーって貴重なのかな?)ふと、千咲の頭に、素朴な疑問がよぎった。
「ここじゃ、新人のドラゴン・ダイバーって話題が、一番の吉報なんだ。ロンドンは本部だけど、ダイバーは、僕を含めて十一人しかいない」とジョン。
「世界にも、二百人ほどしか、ダイバーはいないからね……」
そこら中、色んな匂いで溢れ返っている。食べ物の匂い、体臭、物や服から漂う微かな空気の違い……。行き交う人々は、人種も、国も、まったく異なっていた。
三人は、ドラゴンを伴い、地下一階の、大きな部屋に入った。小型バスみたいな、ステンレス光沢のカートが置いてある。その隣に、三十代くらいの女性の錬金術師が立っている。
「ここが、ドラゴンの卵を渡す部屋だよ。任務、無事、完了だね」ジョンが言った。
千咲は、「そう言えば、そんな任務だった」的な顔をした。三人は、デビッチの鞍に積まれたバッグを取り外し、中から、フットボール型の圧力鍋みたいな機械を、次々と取り出した。それをイギリス人女性に渡す。機械を上下に開けると、中には、ドラゴンの卵が入っていた。女性はそれを、丁寧にカートに積み込んでゆく。
「任務がこんなに、簡単だなんて、思わなかったよ」千咲は嬉しそうに言った。
少女は、羽のように軽い足取りで、ロンドン本部の廊下を歩いている。廊下や部屋などの内装は、東京支部とあまり変わらなかった。
三人は、地下十三階の廊下を、ぐねぐねと曲がり、重厚な鋼鉄製の扉と、大きな警備室を幾つも潜り抜け、ある部屋に入った。
「これが、本物のエメラルド・タブレットだよ」ジョンの声が重々しく響いた。
三人は、薄暗い部屋に入いると、機械仕掛けの壮大なステージの前で止まった。
光の柱が、ステージの上から放たれている。その中に、エメラルド色に輝く、重々しい石版が、ゆっくりと回転しながら浮かんでいた。
「アトランティス人が、一万年以上前に、錬金術の奥義を書き記した石版だよ。ドラゴンの製造法も、ここに記録されているんだ。この組織の名前の由来だって、もう聞いたよね?」ジョンが、エメラルド・タブレットを見上げながら言った。
「眉唾だと思ってたけど、本当にあったんだな……」少女のつま先は自然と立ち、千咲は回転する石版を、驚きながら見上げた。そして、さらっと失礼なことを言った。
石版は、無限の生命を秘めているかのような神秘的な輝きを放っている。と同時に、悠久の歴史を黙って見つめてきた迫力を静かに湛えていた。
三人は、エメラルド・タブレットの前で、暫く無言になった。
すると、突然、千咲の背中が、むずむずと動いた。バックパックの中で、何かが暴れているらしい。千咲は、慌てて肩からバックパックを外すと、床の上に置いた。
「もしかして……」千咲の心臓は、フットボール型の機械を開けて、中の卵を取り出す、その段階を一つ一つ踏むごとに、ばくばくと音量を上げていった。
「ドラゴンの卵……孵っている!」アンジェリカがしゃがみ込み、千咲の手の中にある卵を覗き込むと、嬉しそうに言った。卵の表面から、鋼鉄製の翼が、ペーパーナイフのように突き出している。緑色の可愛い手が、殻を破ろうとしている所だった。
「千咲、凄いじゃないか!」ジョンが叫んだ。
暫くすると、卵は完璧に破壊され、一匹のドラゴンが、床の上に転がっていた。
それは、緑色のビニール繊維の毛並みに覆われた、ライオンの赤ん坊のような姿だった。首は馬のように長い。頭から背中、尻尾にかけて、銀細工のように美しい甲羅が生えている。頭には、太くて可愛い角が二本ついている。一番特徴的なのは翼だ。ナイフのように金属質で、肩から肘にかけて生えており、傘のように綺麗に折り畳まれていた。
(……ジョンに会えたし、ドラゴンは孵るし。ロンドンにも来れた。初めての任務は、最高ね!)千咲の胸は、黄色い太陽を借りてきたように、ほっこりと輝いていた。ドラゴンは、早速、少女の肩の上で、鸚鵡みたいに止まっている。千咲は、ドラゴンの尻尾が背中に当たるので、すこし擽ったかった。
三人は、ドラゴンを預けている納屋を目指し、廊下をゆっくりと歩いている。
「このドラゴンの名前は、ホームズにする。ロンドンで生まれたから!」と千咲。
「分かりやすいネーミングセンスよね」別段、皮肉などを感じさせない口調で、アンジェリカは言った。ジョンの顔は、嬉しそうに微笑んでいる。
と、そこに、場の空気を一変させる、明るく弾ける女の子の声が響き渡った。アンジェリカの小さい肩を、誰かの腕が羽交い締めにした。苺みたいに真っ赤な長髪が、ふわっと舞い上がる。「アンジェリカー!」
「クラリー!」アンジェリカは振り向くと、酷く驚いた顔で叫んだ。
それから、アンジェリカの説明と紹介があり、その少女が、東京支部の職員であるということが分かった。彼女の名前は、クラリアス・ナッシュ。
「クラリーって呼んで。よろしく!」と少女。
千咲は、自分より五六センチ背の低いクラリーと、不思議そうに握手をした。
「本部の仕事と、英語の勉強がしたくて、一ヶ月くらい前から、研修に来ているの」
完全な西洋人だった。アンジェリカのようにハーフではない。革のジャケットや金属質なアクセサリー、赤ネクタイにギンガムチェックのスカート、ロングブーツといったパンクファッションに身を包んでいる。その服装に、赤い髪がよく似合っていた。
「ここの錬金術師対策部は、操作が本格的なの!日本の公安部なんかと比べたら、月とすっぽんなんだから。こっちへ来て、案内してあげる!」とクラリー。
数分後。地下六階にあるその部屋は、まさに、怪しさと危なさを、全て凝縮し、閉じこめたような場所だった。部屋の中央には、ライトアップされた機械仕掛けのテーブルが置かれている。その上に、様々な書類や、情報端末タブレットが置かれている。壁には、恐いほど写真が貼られ、所々に、薄型のディスプレイがかけられている。クラリーが、意気揚々と、部屋の中を案内した。
「この部署は、確認されていない錬金術師の発見や、保護、スカウトなんかを専門に行っているの。それに……」
少女は、テーブル上のタブレットを持ち上げ、千咲に渡すと、力強く腕組みをした。
タブレットには、男の顔写真や名前、経歴、その他、プライベートなことに関するまで、事細かな情報が記録されていた。
「危険な錬金術師の捜査や監視、取り締まりも行っているの」とクラリー。
(危険な錬金術師。そんな存在もいるんだ。それより……)千咲の視線は、タブレットより、他の存在に釘付けになっていた。黒スーツを着た、英国の紳士淑女達が、うぞうぞと集まっている。エメラルド・タブレットのバッジをつけた職員達と、込み入った様子で、話し合っていた。彼らからは、薬莢から放たれる乾いた煙のような、殺伐とした雰囲気が漂っている。クラリーは、恍惚と輝くテーブルに寄り掛かり、腰に左手を添えると、微笑みながら言った。
「ここでは、秘密情報部と協力して、仕事もしているの。女王陛下、お気に入りのスパイ達と一緒にね……」クラリーのブラウンの瞳が、ディスプレイの光に反射して、赤色に輝いているように見えた……。
「千咲、同じドラゴン・ダイバーとして、これから、お互い頑張ろう」
風はない。地面は銀色に輝いている。千咲は、ビッグ・ベンの屋根の裏に当たる、セクター1の大地で、ジョンと別れの握手をしていた。
(有意義な一日だった。今までの人生で、最高だったかも知れない)ジョンと握手する千咲の顔は微笑んでいる。
ジョンのグローブが、ベルトに付いているポーチの一つを開けると、中から何かを取りだした。それは、エメラルド・タブレットの手帳だった。
「……最後に、先輩として。君の研修のガイドとして、説明することがある」とジョン。
「父さんだ。僕と同じ、ドラゴン・ダイバーだった」
ジョンは、手帳から写真を一枚取り出すと、千咲に渡した。
写真には、スキンヘッドで太ってはいるが、優しそうな顔のイギリス人男性の顔が映っている。「もう、地球にはいない……。制限時間を越えて、ユートピアにダイブしたためだ」
「制限時間?」千咲が聞き返した。
ジョンの顔は、さっきまでの好青年ではなく、静かな気炎を発する、物々しい表情に変わっていた。その手が、優しく、千咲の肩に置かれる。
「ユートピアでは、UMAも危険だ。でも、それ以上に、気をつけなくちゃならないのは……」少年の手が、今度は、別のポーチを開けていた。
「腕時計……?」あまりにも当たり前すぎて、不躾な表情になったことに、千咲は気がつかなかった。ジョンは、丸く盛り上がった、デジタルタイプの腕時計を、大切そうに取り出している。「千咲、よく聞くんだ。ユートピアにダイブしていられる時間は、決まっている。一時間だ。もしたっぷり一時間ダイブすれば、ドラゴンがその分のエリクシールを地球でチャージするまでに三時間、つまり、三倍の時間がかかる」とジョン。
千咲は、ジョンから腕時計をもらい、右手首に巻いた。金属の感触が冷たい……。
「それは、ダイバー・ウォッチ。ドラゴン・ダイバーなら、必ず携帯しているアイテムだ」ジョンが徐に、左手を持ち上げた。同じ腕時計が巻かれている。普通のフレームの二倍は大きく、ドーナッツ状のメーターが発光している。その中央の画面に、タイムが表示されている。タイムは「五分」だった。アンジェリカも巻いている。千咲は、自分のダイバー・ウォッチを、まじまじと見つめた。タイムは、運命を刻むかのように「6分」に変わっている。ジョンの腕時計が、残像を引いて見えなくなると、少年はあっと言う間に、彼のドラゴンに跨った。
「制限時間の一時間を超えると、ユートピアに取り込まれ、地球では住めない体、つまり、UMAと同じ存在になってしまう。僕の父さんも同じだった」とジョン。
ジョンは手綱を引っ張り、ドラゴンの翼を広げさせ、いよいよ、帰還の準備をした。
「僕が臨むことは、一つだけ……。僕の父さんのようにはならないで。ダイブをしたら、必ず、十分前には、地球に戻ってくること。これが、ドラゴン・ダイバーの鉄則だ」
翼は、嵐の前、不穏に揺れる洗濯物のシーツみたいに、ばさばさと音を立てた。
「それは、グリニッジ天文台と連動し、正確な時刻を刻む。時間帯が地球と異なるユートピアでも、時計は正確に機能するよ……。それじゃ、健闘を祈る!」
腕時計を見つめる千咲の前に、もう、ジョンとドラゴンの姿はなかった……。
さっきまでの楽しい雰囲気が、完全に消失していた。千咲は、身の毛もよだつようなドラゴン・ダイバーの真実を刻々と表示するダイバー・ウォッチを、呆然と眺めた。
「……これが、ドラゴン・ダイバー」千咲の声は震えていた。
と、そこに、じわじわと迫りくる、不審な影があった……。
荒々しく地面を這うような独特のローアングルが、銀色の大地に佇む少女二人を見つめている。それは、鋭い爪と、巨大な顎、それに釣り合わない、ジャガーみたいにほっそりとしたスプリンターボディを持っていた。それは、近くの樹木に身を隠しながら、しかし着実に、二人の背後に近づいてゆく。間もなく、それが飛び上がり、少女二人の前に姿を現した。
UMAだった。白い体毛を生やす、四足歩行の雪男みたいな姿をしている。
「わっ!」千咲はよろめき、恐怖に引き摺った顔を浮かべた。思わずUMAに背をむけ、しゃがみ込む。UMAの手は、熊の三倍ほど大きく、それを千咲に叩きつけようとしている。
その時、千咲のドラゴン、ホームズが動いた。主人の肩から、地面にぽろりと落っこちた。
(……何、これ?)走馬燈が走っている千咲には、その様子がはっきりと見えた。
ホームズの体が、アルマジロみたいに丸まり、円盤のような姿に変形している。頭から尻尾にかけて生えている甲羅から、鋭いナイフが幾つも飛び出している。千咲の体に稲妻が走った。咄嗟に、ホームズを掴み取ると、怪物の懐に飛び込んだ。UMAは空中にいたため、体勢を変えることが出来ず、少女に一撃も喰らわす事が出来ないまま、前方へ倒れてゆく。
千咲は、でんぐり返りし、UMAの背後に回った。すかさず、ホームズをフリズビーのように投げつけた。UMAは、間一髪、その特異なナイフを避けた。しかし、それがくるくると回転して迂回する様子を眺めると、千咲を円らな黒目で睨み付けた。UMAは、そのままどこかへ走り去っていった。
ブーツを大地に放り出すと、千咲は、思いっきり尻餅をついた。その脇に、ホームズがぐさりっと刺さって、戻ってくる。少し離れた場所で身構えていたアンジェリカは、肩の力を抜くと、ほっと胸をなで下ろした……。
「全然、楽しくない!」千咲は、大声で叫んだ。
一週間後。千咲は、同じ言葉を、ふかふかの白いベッドに倒れ込みながら、叫んでいた。
千咲は、枕に顔を埋め、ブレザー姿のまま俯せになった。ローテーブルの上には、血液のように赤い塗料を煌めかせる、ダイバー・ウォッチが置かれている。枕からそっと目を覗かせると、千咲は、それを確認した。
「何よ……。ようはドラゴン・ダイバーって、世界一、危険な仕事ってことじゃない」
その時、ベッド脇の通学鞄が、邦楽バンドの騒々しい音楽を鳴らし始めた。
「はい、何ですか?」千咲は、通学鞄を見ないまま、器用にスマホを取り出し、耳に当てた。「私だ。遠藤だ」と遠藤。
「……言いにくいんだが、ご両親が、君と話をしたいと言っているんだ。ようやく、事の重大さが分かったみたいで」
「本当?」千咲は、スマホの受話器に口を押し当て、大声で叫んだ。そして、すかさず首を振ると「二度と会いたくないって言って!」と返し、通話ボタンを切った。
今度は仰向けになると、少女は何もない天井を仰いだ。天井のスクリーンに、千咲の思考を複雑に巡らせる、見えないプラネタリウムの残光が飛び交っているように思えた……。
暫くして、腹を決めたように、
「分かった!なってやるわよ!ドラゴン・ダイバー!」と叫んだ。
半分、自棄とも思えるその声は、少女の体を上げさせた。やがて、玄関のドアが閉まると同時に、アパートの中は空っぽになった。