エメラルド・タブレット
第三章 エメラルド・タブレット
ふかふかと、柔らかいクッションみたいだった。アンジェリカは、巨大ソフビ人形みたいな、艶々のドラゴンの首を、ギュッと抱きしめている。その手が、馬のように美しい鬣を、くしゃくしゃと撫でていた。「グリン!久しぶり。会いたかった?」
(アンジェリカにも、ドラゴンがいたんだ……)千咲の後ろには、ロココ調のソファが置かれており、華やかな刺繍がふんだんに縫い込まれたクッションが並べられている。千咲は、クッションに背中をふわりと預け、座り込んだ。
ここは、クラウスの書斎だった。
千咲は、唇にレモネードのグラスを傾けると、テーブルの上に置いた。隣のクッションを、この部屋の主でもあるクラウスが押しつぶして、ゆっくりと座りこんだ。
「グリンは、アンジェリカが最初に孵したドラゴンだ。可愛さも、一塩だろう……」
部屋は独特の温かさに溢れており、クラウスの人柄を表していた。天井はとても高く、本棚が壁を作り、アンティークな家具が、部屋中に溢れかえっている。
(こっちの方が、クラウスにはしっくりくる。六畳の居間よりは……)書斎を見回しながら、千咲は静かに納得した。
天使の立像の近くで、アンジェリカとグリンは、じゃれ合っている。それを眺めながら、クラウスは話を続けた。
「率直に言って、私は……いや、我がエメラルド・タブレットは、君をスカウトしたいと思っている」
葉巻の濃厚な匂いがした。クラウスは、金のライターとモンテクリスト銘柄のロゴが入った葉巻を取り出し、火を付けている。
クラウスの瞳は、可愛い孫娘を見つめる、それ以上の切実な何かを湛えていた。
対に向かい合った天使の立像の向こうには、たいそう立派なクラウスの書斎机が置いてある。その真上に、鋼鉄製の巨大な紋章が、厳めしくかかっていた。
「あれが、エメラルド・タブレットの紋章だ」とクラウス。
千咲は、いかがわしげに、それを見上げた。再び視線を老人に戻す。
「それって、一体、何の組織なんですか?」かなり愚直で、ストレートな聞き方だった。
「錬金術師の組織、と言えば、一言で済む。パラケルススが創始者だ。かのアイザック・ニュートンも、この組織の重要なメンバーだった」クラウスは、葉巻を祝杯するように掲げ、その紋章を指し示した。尻尾を加えた大蛇の輪の中に、ピラミッドが描かれている。更にその中に、三角形のフォーメーションを組む、三つの目が配されていた。
「……孫娘は、我がエメラルド・タブレット、東京支部で、たった一人のドラゴン・ダイバーだった」と言い、「君が来るまでは……」と続けた。
千咲は、狩人にじわじわと追い詰められる獲物のような、異様な雰囲気を感じた。しかし、敢えて毅然とした態度を取った。
すると突然、塔のように高い天井から、厳めしい翼のシルエットが舞い降りてきた。それらは、高級ドレスの生地みたいに、柔らかい鰭を持つもの。釘止めされたふかふかのソファみたいな体に、蕾や花をつけるもの。星形の切れ目から、神秘的な光を放つもの―様々な姿のドラゴン達だった。
「あれは全て、アンジェリカが孵したドラゴンだ。可愛いだろう?」とクラウス。
アンジェリカは、一気に、四頭のドラゴンに囲まれた。彼らの相手をするのは大変そうだったが、少女は嬉しそうな笑顔を溢している。
「どんな種類のドラゴンが孵るかは、運次第だ。しかし、その人物の個性によるらしい……」
(じゃあ、あのドラゴンは、私の個性と同調しているって事?)
腕を組んで首を傾げている千咲の隣で、クラウスがすっと立ち上がった。煙を漂わせ、「さあ、我がエメラルド・タブレットで、最重要の部屋を見せよう。こっちだ。ついてきなさい」と言った。そのまま、右側の通路へと歩いていく。千咲は、その葉巻臭い、空中に浮かぶロープを辿りながら、老人の後を追った。
動物園みたいに、酷く煩い場所だった。
三人は、ジャングルの中を、黙々と歩いている。ただし、人工的なジャングルだった。
(……生きた博物館だな。これじゃ)千咲の首は、さっきからクルクルと回っている。今まで見たこともない様な、現代アートと太古生物のハイブリットみたいな生き物たちが、ガラスケースの中に収まっている。
「ここは、ユートピアの動植物を管理している棟だ。この棟は、セクター1の管理棟に当たる」とクラウス。職員らしき人達が、ガラスケースの長い回廊を、すたすたと歩いてゆく。
「更にセクターの高い動植物は、危険なため、地下深くの棟にある。さあ、こっちだ。目指す部屋は、更に奧にある」
クラウスとアンジェリカは、すっかりこの「怪奇のガラス回廊 に慣れているようだった。動揺しているのは千咲だけだ。暫く歩くと、前方に、複雑な廊下の迷路が現れた。どれも温かい赤絨毯と、金銀箔の鏤められたシックな壁紙を湛えている。通行人を迷わせるように広がっていた。
(あの書斎の趣味は、クラウスのものってわけじゃないのか……)
千咲の目は、次々見えてくる西洋風のシックな作りに魅了されていった。
葉巻臭い、クラウスの道しるべが、ぐねぐねと蛇行して、やがて縦に昇り始めた。
「さあ、ここが、ドラゴンの卵を製造している棟だ」
クラウスは、木造彫刻の施された、重々しい扉を、横に引いた。
そこには、奇妙な液体の入ったフラスコ、試験管、チューブ、ボルトでびっしり覆われた、ぴかぴか鋼鉄製の機械や、奇妙な光を溢す加熱器が、大迫力のジェットコースターみたいに配置され、広がっていた。
「おい、ベンジャミン!ベンジャミンはいるか?」とクラウス。すると、小柄な少年が一人、千咲達から向かって左側にかかる長い脚立から降りてきた。
「はい、支部長。どうしたんですか?」光り輝くブラウンの髪は、鳥の巣みたいにくるくると絡まっている。カッターシャツの上に、サスペンダーを生真面目そうに当てている、なんとも風変わりな少年だった。「彼は、ドラゴン製造部で、見習いとして働いている。千咲、君と同い年だ。今日は、確か、ここの掃除だったな?」とクラウス。
「日曜以外、毎日ですよ」ベンジャミンは、トンボみたいな丸眼鏡を、鼻先から一気に押し上げると言った。
部屋の中は、足場がないくらい、大量の機械や装置で溢れ返っている。千咲は、ガラスと鉄が突然変異を起こして群生した、奇妙な茨の中を歩いているような錯覚を覚えた。
「僕の名前は、ベンジャミン・クラフバード。今は下っ端ですが、いつの日か、最高のドラゴン製造職人になる男です!」とベンジャミン。
少年は、大それた夢を豪語しながら、一同を部屋の中央へ案内した。部屋の中央には、限りなく球形に近い、独特な形のポッド式マシンが三つ並んでいる。どれも、大きさは、千咲の身の丈ほどある。
「ドラゴンは、様々なUMA達の細胞を合成して作り出した、最高の生命体なんです」
(えらく、嬉しそうだな……)ベンジャミンの、虹でも架かって見えるんじゃないかと思うほどの笑顔に、千咲は興味を引かれた。ぴかぴかのポッド式マシンには、潜水艦みたいな丸窓がついている。千咲は、中を覗き込んだ。
真っ赤な光が、少女の顔を染め上げた。
「君に会えて嬉しいよ。ここにいる全員が、君が来るのを待っていたんだ」
ベンジャミンが、わくわくを堪えるような、静かな声で言った。ポッドの中心には、土台があり、その上には、巨大な卵が載っている。それが、三方からレーザー光線を受けて、灼熱色に、じりじりと輝いていた……。
白光が、埃を粉雪のように輝かせると、暗闇を掻き分けて広がった。
クラウスがプロジェクターのスイッチを、カチリと入れている。
(今から、何が始まるのだろう?)千咲の背は、大量に配置されているシートの一席にもたれかかっていた。
「錬金術師達の歴史は、遙か一万五千年前まで遡ることが出来る」とクラウス。
老人は、プロジェクターの横に立ちながら、物語へ引き込む語り部のように話し始めた。扇形のシアタールームの中腹には、弧状の踊り場がある。その中央に、プロジェクターは置かれていた。丁度、千咲達の目の前だ。
「アトランティス王国は、最盛期を迎えていた」
スクリーンには、何千年前の地図みたいなものが映し出されている。
巨大な大陸の間に、大海が広がっている。その真ん中に、でかでかともう一つ、大陸が浮かんでいた。
「ここは、錬金術師達の大陸であり、王国だった。そして、世界を支配するほどの繁栄を極めていた」クラウスは、ポップコーンをぽりぽり摘んでいるベンジャミンに、プロジェクターの操作を任せた。自身は、スクリーンの真下まで降りていく。
(なんか、そんな伝説を、どこかで聞いたことがあるぞ……)スクリーンに映されている地図が、千咲の瞳に反射し、怪しく煌めいた。
クラウスが、スクリーンの真下で合図を送ると、ベンジャミンが頷いた。少年は、映画技師みたいにプロジェクターのスイッチを押した。映像が変わる。
それは、立体的だった。クラウスは、耳を引っ張る、おどけた仕草を見せた。
分厚い石版だ。海底深くで発見されたみたいに、フジツボや珊瑚の欠片が、びっしりと貼りついている。
「彼らは、“空間の力”を利用し、次々と戦争に勝利した……。我々が、神に選ばれた種族だと、おごり高ぶっていた」石版の上には、色の禿げた、壁画が描かれている。
人間の絵だ。その姿は、ホモサピエンスとほとんど変わらないが、耳の辺りが翼のような形をしている。翼は、鮮やかな青色をしていた。「アトランティス人は、元来、強い“空間の力”を持って生まれるため、その姿が、普通の人間とは異なる進化を辿った」とクラウス。ベンジャミンが、手際よく、次の映像に切り替える。
「アトランティス人は、我々、錬金術師の先祖であると言える」クラウスは、手を後ろに組み、少し誇るような口調で言った。スクリーンに、古い文献の写真が、次々と映し出されて行く。アレキサンダー大王、モーセ、アキレス、アリストテレス、ソロモン、諸葛亮孔明、ムハマンド、オッペンハイマー、それにジュール・ベルヌ……。どれも、千咲が知る由もない人達だった。
「彼らは、活躍した分野は違えど、一様に、“空間の力”を多用していたことで知られている。我々、錬金術師は、この力を、エリクシールと呼んでいる。“万物精”と呼ぶこともできる」クラウスは、ジュール・ベルヌの白黒写真を、尊敬の眼差しで見上げた。
「アトランティス人は、このエリクシールを研究し、ある石版に、その奥義である錬金術の全てを記録した」
映像が切り替わる。それは、この世のものとは思えない、神秘的な輝きを放っている。エメラルド色に輝く石版だった。それが、大きさはそのままで、十二枚に分裂した。すると、まるでポスターのラックみたいに花開き、回転し始めた。
「これを、エメラルド・タブレットという」とクラウス。
「石版は、一定量のエリクシールを流し込むことで、十二枚に分かれる。公式的には、紛失したことになっているが、現物は、ロンドン本部に保管されている。我々の組織の名前の由来にもなっている」
クラウスは、少し溜息をついて、通路の階段を上ってきた。
「ここには、ドラゴン造りに関する、膨大な情報も記録されている……」
(錬金術師、不思議な力、ドラゴン。ということは、私も……?)
千咲の頭が、様々な思考を巡らせている最中、スクリーンの映像もぱっと切り替わった。
クラウスが、丁度、ベンジャミンとプロジェクターの操作を交代し、スイッチを押した所だった。
シアター全体が、真っ青に染まっている。
「これが、今のアトランティス大陸だ……」とクラウス。
少女は首を捻り、答えを求めるように、隣のアンジェリカを見つめた。それは衛星写真だった。だだっ広くて何もない、大西洋の……。
「戦争を更に有利に進めようと、空間に、異常なまでに、エリクシールの負荷を加えた結果、大陸ごと、ユートピアに引きずり込まれ、地球上から消滅したのだ……」
「ここで、君の疑問に答えねばならないな。つまり、君が今まで見てきた、幻覚は何だったのか……」クラウスの鼻から、モンテクリスト銘柄の高級な煙が放たれると、それが夜霧のように漂った。
「それは、ユートピアだ」その言葉に反応するように、千咲の頭は、たちまち意識を切り換えていた。
(ユートピア?つまり、この幻覚のこと?)
シアタールームが、氷の柱みたいな鉱石によって、無数に覆われてゆく。恐らく、洞窟の中だろう。氷の中には、青色の光が閉じこめられている。それが少しづつ漏れだし、洞窟の中を、神秘的な輝きで満たしている。
「今この部屋に、何が見えるかね?」とクラウス。
「氷の洞窟みたいな場所……です」千咲は、怖々と言った。ポップコーンのカップの中に顔を隠しているベンジャミンが、自分のことをどう思うか、不安だった。
「それは、セクター1の光景だね」クラウスが言った。その後、この異常な会話が、酷く正当に思えるようなやりとりが、スムーズに行われた。
「ベンジャミンには、どう見える?」老人が聞いた。
「……ランプみたいに輝く、赤い風船桂がたくさん見えます。きっと、ガラスか水晶でできているんじゃないかな?足下には、水が張っていて、緑色の飛び石が広がっています」
「え?」千咲の目は丸々と広がり、ベンジャミンを訝しげに見つめ返した。
ここで、暗闇に沈むシアタールームが、元の照明に恍惚と照らし出された。
「アンジーはどうだね?」老人は続ける。
アンジェリカは、首をキョロキョロ振って、目を薄めてから言った。
「凄く見晴らしのいい崖の上よ。鳥が何匹か飛んでいるわ。今は、夕方みたい」
「二人とも、よろしい」クラウスは、大学の名物教授みたいなフランクさで、プロジェクター隣の椅子の背にもたれかかった。腕組みをして話し始める。
「ベンジャミンは、セクター2、アンジーはセクター3の光景を見たようだ」
千咲の黒い瞳が、アンジェリカとベンジャミンの顔を、次々と映し込んだ。
「どういうこと!?」
「……ユートピアとは、地球の延長線上にある、より大きな世界のことだ」とクラウス。
クラウスが右手を持ち上げると、天井の照明器具が危なっかしく揺れた。大きな電球が一つ外れると、それが老人の手元まで、すーっと飛んできた。
「それは、幾つかのセクター、つまり、複数の世界に分かれて、存在している」とクラウス。
「この小さい電球が、地球だとしよう」
マネキンの首ぐらいある電球は、鶏が卵を産むみたいにぽんぽんと分裂していった。大小様々のガラス玉になると、老人の両手の上で、浮かび始めた。一番小さなガラス玉に、クラウスの人差し指が触れ、老人はそれを「地球」と呼んだ……。
「ユートピアとは、異世界の事だ。我々の住む地球とは、存在する空間が異なる。そして、それは、空間の持つ強さに応じて、10のセクターに分かれている」
クラウスが、ガラス玉をじっと見つめた。すると、「地球」の周りを、一つづつ、小さなガラス玉が包み込んで行く。最終的に、それは玉葱のような層になった。クラウスは続けた。
「そして、君が幻覚だと思っていたものは、異世界であるユートピアの一部を、覗き込んでいた光景に過ぎない……。千咲、君は異常じゃない。真実を見ていたんだ」
クラウスが通路を歩いている―厳密に言うと、床から一メートルほど上を、見えない道があるかの如く歩いている。
「先ほども言ったように、我々の起源は、アトランティス人にある……」とクラウス。
「大陸が滅んでも、一部のアトランティス人は生き残っていた。彼らは、人間という種族に取り込まれ、消滅した。しかし、ごく希に、その血が姿を表すことがある」
「……それが、錬金術師なのね」千咲が言った。
暫く歩くと、クラウス、千咲、アンジェリカの眼前に、木製の重厚な扉が現れた。
「ここが、保護された錬金術師達の、幼年クラスだ」
老人が扉を開けると、そこには、派手な壁紙やクッション、低いテーブルや本棚などが広がる部屋があった。そこは、夢の世界へ、オルゴールの音と共に引き込まれてゆくような、別世界だった。三人は、その部屋にずかずかと入り込む。
「彼らは、その能力から、親に見放された子供達だ」とクラウス。
千咲は、どこかの本で読んだ、リンボというキリスト教の概念を思い出していた。天国へ行けなかった子供達が集まる世界だ。西洋風の子供部屋が、そう感じさせるのかも知れない……。派手な色のクッションで溢れかえる部屋には、幼い子供達が、楽しそうに遊び回っている。
(みんな、私と同じ……。私も、両親にかくまわれていなかったら、ここにいたのかな?)
千咲の目には、無邪気に遊び回る子供達が、いつかそうなるはずだった自分の亡霊のように見えてしょうがなかった。
すると、あるはずのない場所に、あるものが見えた。千咲は、その異様な光景に、自然と目を奪われた。座り込んでいる黒人の女の子の上空に、積み木が浮かんでいる。それらが、次々と組み上がり、お城の形を作っていた。
真鍮製の滑り台から、高飛び台みたいにジャンプする男の子は、カーペットの床を擦り抜けている。数人の女の子は、天井付近を、ヘリウム風船のようにふわふわ浮遊している。ある男の子は、トレイに入ったたくさんのフォークを、くるくるとねじ曲げている。
千咲の世界観、概念は一気に崩壊した。そして、新しい価値観が形成される。それは、一言で説明できた―〈私は、異常じゃない!〉
「彼らを保護し、育てるのも、エメラルド・タブレットの重要な仕事だ」とクラウス。
クラウスは、黒人の女の子の前まで歩いて行くと、彼女の父親みたいな微笑みを浮かべて座り込んだ。
「錬金術師とは、空間を自由に操る能力を持った人々を示す言葉だ。そう言う意味では、彼らも立派な錬金術師だ」とクラウス。
「今、この娘が見せているのは、物体浮遊能力だ。他にも色々ある……」
「物体移動能力は、簡単なテレポーテーションだ。熟練者になると、半径五百メートル以内を、自由に行き来できる」
それは、ボールの入ったカップを高速でシャッフルしているか、フィルムの所々に潜ませた写真が、パチパチと現れては消えるを繰り返しているように、連続的に起こった。
子供部屋の至る所に、青白い光と共に、クラウスが現れたのだ。零点コンマ秒後には、別の場所に、同じように現れる。それを、千咲が混乱するぐらい、老人は高速で繰り返した。
「……物体変質能力。これは、複雑な生物には使えない。それに、時間がたつと、元に戻るがね」クラウスは、天蓋付きベッドの前に、パッと現れている。山積みにされているクッションを一つ持ち上げた―クッションを編み込む高級な繊維が、ステンレスのような銀色の光沢に染まってゆく。クラウスがクッションを床に落とすと、硬い音が響き渡った。
「物体透過能力……」
…」クラウスは、僅かに歪んだ空間を眺めると、微笑みながら言った。
例えば、夢と現実がひっくり返るとすれば、こういうことだろう……。
幻覚で見ている時とは、何もかもが違った。実際にとても寒い。雪の結晶が、冷気を帯びて、千咲の髪にはらはらと降り積もってゆく……。何もかもが本物だった。
山の頂に、千咲とデビッチは佇んでいた。その直ぐ脇には、緑色のドラゴンに乗ったアンジェリカがいる。嬉しそうに、そして静かに此方を見つめている。
「ようこそ、ユートピアへ!千咲ちゃん」
それから、ドラゴン達は、翼をめい一杯広げ、千咲が須姪大橋の欄干から見せた、あの素晴らしい飛行を披露した。雪の結晶が舞う、天と地が一つに繋がる銀世界を、二人の女子高生は、飽きるまで、自由自在に飛び回った……。