アンジェリカの家族
第二章 アンジェリカの家族
千咲は、強烈な朝日に目を覚ました。慌てて、上半身だけ起こすと、部屋の中を見渡した。ベッドの下に、醜く焦げ付いた、お気に入りのカーペットが見えている。
天井もぼろぼろだった。
「嘘!夢じゃない……」
中庭に面した大窓は、サッシだけを虚しく残している。溶解したガラスを、アンダーレールの辺りに溢していた。千咲は、恐怖に怯えながら、部屋の中を見渡した。
異常なものが見える……。とにかく、かなり滑稽なものだ。それが、子犬みたいに、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。サッシの前に、ぷかぷかと首輪が浮かんでいた。紐の先には、ペット用のリールがついている。
中庭、部屋と、首輪は嬉しそうに両界を往復している。
「こ、これって、幻覚?」思いの外、少女は驚かず、冷静な態度を取った。
千咲は、枕を精神安定剤にして抱きしめると、壁に背をつけた。暫くすると、少女の視界に、この不審な状況を裏づけるかの如き、一枚の手紙が飛び込んできた。ローテーブルの上に置かれている。
(……もしかして、あの娘のかな?)
千咲は、恐る恐るベッドから降りて、手紙を持ち上げた。明るいひまわり柄の便箋に、可愛らしい文字で、こう書かれている。
グーテンモルゲン!よく眠れた?
突然のことで驚いたでしょう。気絶させて、ごめんなさい。
でも、これって、凄いことなんです!
ドラゴンには、特別な首輪を付けておいたので、透明になっています。リールを触ると、姿が見えます。学校で会えることを楽しみにしています。それでは……。
―アンジェリカより
悪寒、戦慄が走る。手紙の内容が、信じられないことに、幻覚の内容と一致している。
千咲は、手紙をぐしゃぐしゃに丸め、床に叩きつけた。少女の鼻息は荒い。
首輪は、そのあどけない動きで、くるくると回っている。千咲の目は、断固として「幻覚に違いない」という信念のもと、黒い炎を滾らせている。
「でも、手紙は本物……」と呟く。
現実と幻覚がごっちゃになって、少女も戸惑っていた。何か思案するように、腕組みをする。カーペットで引き摺られているリールには、重々しい銀細工の彫刻が施されており、目のようなレリーフがついている。
リール→触る→ドラゴンが見える?……テーブル前で、千咲は、好奇心を必死で廃棄しようと奮闘している。そのつま先は、小刻みにタップしていた。千咲は、勇気を振り絞ると、リールを掴み取った。よく見ると、目のレリーフは、その眼球をぐりぐりと動かしている。
(うわっ!気持ち悪い)千咲の指が、無意識のうちに、トリガーを引いていた。すると、テーブルの前に、まるで魔法みたいに、赤色のドラゴンが現れた。
千咲の体は、石化した。本当に、細胞の核から、化石になってゆくようだった。
「きゅ~」と鳴き声がする。
カーペットの上に、犬みたいに鼻先をむずむずさせるドラゴンが座っていた。千咲は、へへへっと不気味に笑った後、狂人みたいな顔で、アパートから出て行った。
少女の体は、最新式のマッサージマシンのように、ぶるぶると震えていた。
千咲は、蒼白な顔で、窓際の席に座っている。カフェの中は、賑わっており、コーヒー豆のガラスケースが朝日に輝いていた。
(……私は、なんて情けないんだろう!こんな時に、頼る男が、こいつしかいないなんて)
向かいの席には、完璧に着こなされた、ストライプのスーツが見える。遠藤は、いつもの淡々とした表情で、コーヒーを飲んでいた。
「つまり、君の部屋に、透明なドラゴンがいるというわけだね?」と遠藤。
彼は、熱々のコーヒーを、無感情に皿へ戻した。手を組み、唇だけを動かしてドライに言う。ふさふさの髪は、几帳面なぐらい、七三分けにされている。そpれが、彼の性格を表していた。
「……これは、声を大にして言いたくはないが、君は、統合失調病の患者だ。それは、重々に、承知しているね?」と続けた。
千咲の目に、殺気のような、もしくは、悲しみのような、何かが灯った。彼女の膝の上で、悔しそうに、両手のこぶしが握られる。その顔が、力なく陰り、ウェーブのかかった黒髪に隠れた。「うん……」と頷くしかない。
(そんなことは分かっている!でも、あれは、単なる幻覚を超えていた!実際に触れたし、なにより、あのアンジェリカという娘は、公園で、幼稚園児達にやじられていた……。もしかして、あの子達も、幻覚だったのだろうか?)
目の前には、カフェのテーブルが砂漠みたいに広がり、コーヒーのタールが湯気を上げている。千咲は、鷹みたいに目を鋭くし、遠藤を睨み付けた。「でも……」
「君の体験した幻覚が、私も最初は本物ではないかと疑った。その度に、現場に駆けつけたが、何もなかった。症状が分かってから、もう、五年が経つ」と遠藤。
体中の血管に、霜が這うみたいだった。しかし、千咲は、視線を下げなかった。
遠藤は、古めかしいジッポで、タバコに火を付けた。懐にしまった箱の銘柄は、彼のお気に入りの、マールボロだった。「週末に、病院の予約を取るよ。症状が悪化しているのかも知れない。もっと、薬の投与が必要になるかも……」
冷凍庫の中で、取り調べを受けているみたい。千咲はそう思った。カフェの中は、この世の春みたいに、朝日を眩しく取り込んでいるのに……。千咲は、諦めたように、ゆっくりと項垂れた。「でも、あれは間違いなく本物だった……」
「このことは、ご両親には隠しておく。だから素直に、診察を受けるんだ」
遠藤は、さっそく事務的な作業に取りかかった……スマホで病院の予約を取っている。
千咲の指が、準備運動するみたいに動き、少女はそれを物憂げに見下ろしている。
「私、嫌だよ……。変な能力にも戸惑っているのに、その上、統合失調病なんて」
人には、二面性があるものだ。まさしく、遠藤は、その内の一つを見せている。
千咲の目の前に、優しげに皺を伸ばす、スーツの袖が見えた。遠藤が、心配そうに身を乗り出し、千咲の肩を掴んでいる。
「……何が現実か分からないことは、辛いと思う。だが、これだけは聞け」
彼は、そのまま、真剣な表情を崩さず、千咲の瞳を見つめた。
「君の能力は、本物だ。ご両親から、それを隠し、育てるように命じられた。ただ、私はこう思う……。あくまで、個人的な意見だが」肩を掴んでいる彼の手を、戸惑いながら、千咲は見つめた。
「きっと、何か意味があるんだ。誰にも出来ないことを、君は出来る……。これにはきっと、意味があるんだよ」
(……こんなこと、誰かに言ってもらえたのは、生まれて初めてだ)
千咲の肩から、溶けるように、遠藤の手が引いた。少女は、気まずそうに、テーブルの隅にあるナプキンを見つめた。
周りのざわめき声が一瞬、聞こえなくなった。
「一番、いい病院に予約をしよう……。ところで、今も、幻覚は見えるのかい?」
「うん、今も見える」千咲は、小さく頷いた。
千咲は、コンピュータの電源を入れるみたいに、意識を切り替えていた。
カフェの中に、他の惑星の景色を切り取って、そのまま運んできたような世界が広がっていた。どこもかしこも、突然変異したように巨大な、苔状の植物に覆われている。それらが、虹色に光る朝露のような胞子を放っている。ダイニングの辺りでは、身の毛もよだつような小動物が這っている―刃物のように鋭い四本脚で、蜘蛛のように歩く、毛のない鼠のような姿をしていた。しかし、千咲を除いて、そこにいる全員の目には、そう映っていない。ただ、二鰭の人魚のロゴマークが有名な、モダンなカフェの光景にしか見えなかった。
ボイラー室のような、焦げ臭さは感じない。千咲は、そろりそろりと、アパートの玄関を潜った。リビングへ入る前に、洗面所に寄った。収納棚の中には、薬局の商品棚みたいに、種々多様のピル容器が並んでいる。
「ドラゴンはいない。あれは幻覚だ。大丈夫、大丈夫……」
容器には、もはや見慣れたロゴで、統合失調病に効くピルの名前が書かれている。
千咲は、玩具みたいに派手な緑色のピルを、五粒ほど口に放り、水で流し込んだ。
リビングのサッシには、ちゃんと窓ガラスが填っていた。天井やカーペットに、焦げ跡などは皆無だ。醤油の染みすら確認できない。すべて、元に戻っている。
千咲は、暗かった表情を徐々に崩した。小躍りしながらベッドへ倒れ込む。髪には癖毛がかかり、ひどく草臥れているブレザーは、昨日の夜から着ているものだった。これで分かったのだ。全て、幻覚だったと……。
雪山を彷徨っていた登山者が、湯船に浸かった時のような表情を、千咲は溢した。
しかし、テレビ台の隣に置かれたくずかごに、くしゃくしゃに丸まる手紙が入っていることに、千咲は気がつかなかった……。
(やった!今日は早引きだ!幻覚も、たまにはいい事するじゃない……)
穏やかで伸び伸びとした土手沿いに、少女の杞憂を表すように、ほとんど散りかけた桜がずらりと並んでいた。千咲は、なだらかな芝生が美しい、須姪川の土手を歩いている。口の中では、ピスタチオとラズベリーが、芸術的に調和する、ジェラートの冷え冷えとした甘味が広がっていた。
少女は、ジェラートのカップを愛おしげに持ったまま、土手沿いのベンチに座った。目の前には、潺を平和に湛える、須姪川の春光が煌めいている。
人気のないのどかな午前の雰囲気を、少女は堪能した。静かである……。
自然の美しさは、少女に纏う孤独をいやしてくれる、大切な友達だった。
ジェラートを食べ終わると、千咲は、親しみがもてる程度に寂れた、須姪大橋の歩道まで歩いて行った。欄干にもたれかかる。
平日に見上げる空は、いつもより自由に映った。足下に落ちている、頑固そうな小石を拾うと、川に投げ込んだ。ブルーのカーディガンが風に揺れ、ブラウスの中に陽光が注ぎ込んでゆく。少女はほっこりとした。黒いボトムズのすらっとした足を組み、再び欄干にもたれかかる。(「きっと、何か意味があるんだ。誰にも出来ないことを、君は出来る……。これにはきっと、意味があるんだよ」)遠藤の言葉が、頭の中から離れなかった。
その瞬間は、千咲に降り注ぐ陽光と同じくらい、極自然に起こった。千咲の肩に、白くて柔らかい手が、そっと置かれている。ブレザーを着たアンジェリカが、千咲の背中で、にこにこしながら立っていた。
「幻覚!」千咲は叫んだ。アンジェリカは、びくっとした。飴みたいに鮮やかな、黄緑色のショートヘアを逆立て、拍子の抜けた顔で硬直する。右手には、目玉の動く、気持ち悪いリールが握られている。その先には、あのドラゴンが繋がれていた。
(いやいや、これは、幻覚なんだ。あの時はパニくったけど、もう大丈夫……)
千咲の胸が、堂々と膨れあがり、息を吐く音と共に縮んでいった。アンジェリカは、再び微笑むと、千咲の肩から手を離した。すると、ドラゴンの姿が消えた。
「千咲ちゃん。学校に来てなかったから、探しちゃった。ごめんなさい、部屋を滅茶苦茶にして。さっき、ちゃんと直しておいたから……」
これは、チャンスである。幻覚を消してやるのだ。千咲は意気込んだ。
アンジェリカのお餅みたいに柔らかい頬を、千咲は両手で掴み、ぐにぐにと引き延ばした。
少女の顔が、みるみる歪むと、目からいっぱい涙をこぼし、わんわんと泣き始めた。
「ひどーい!わ、わたし、幻覚じゃないのに……」
千咲の肘が、アスファルトの歩道に、力なく崩れた。少女は愕然として、泣き虫アンジェリカを見上げた……。
「暫く、ここに、おいとまさせてください。お願いします」
千咲の頭が、ボンッと爆発した。アンジェリカは、正座をしたまま、深々と頭を下げている。すっかり直された大窓の前で、よくできた新妻みたいに、土下座をしていた。
(同棲?いやいや!なんで、そんなこと……)千咲は戸惑った。
アンジェリカの顔は、酷く真剣で、千咲を真っ直ぐ見つめている。千咲は直ぐに立ち上がり、電光石火で壁に背をつけると、「駄目駄目、何いってんの!」と叫んだ。
「ドラゴンが、完全に成長するまで、私が千咲ちゃんの面倒を見ます!」
少女は、正義感たっぷりのレンジャーみたいに拳を握ると、朗々と言い放った。少女の足下には、毒々しいぐらい真っ赤なドラゴンが蹲っている。
「色々、餌とか、大変なんですよ」とアンジェリカ。
千咲の顔は、真っ青に変わり、次に、真っ赤に染まるという、リトマス試験紙ぶりの発色を見せた。「断る!」と続け「何よ!ドラゴンを、家で育てるっていうの?」と切り返した。
アンジェリカの隣には、一ヶ月ぐらいキャンプ出来そうな、ごてごてのリュックサックが置かれている。ドラゴンが、遊び道具にしようと、それにしがみついていた。
(こいつらが、幻覚でないことは分かった。だったら、尚更だ。早く、この部屋から出て行ってもらわないと……。ドラゴンを育てるなんて、冗談じゃない!)
「私には、そんなドラゴン、必要ない!早く出ていって……」
千咲の手が、鷲みたいに飛びかかり、リュックサックを持ち上げた。ドラゴンは、壊れた玩具みたいに、ぽろりとカーペットに転がる。
手が痛くなるほど、重い!千咲は、米俵を運ぶ力士の如き怪力を発揮し、それを玄関まで引き摺っていった。部屋の奥では、アンジェリカがぽつんと座り、止めに入る様子も見せない。
「これは私の意志ではなく、私のおじいちゃんの命令なんです」とアンジェリカ。
だからなんだ!千咲の気炎は止まらない。リュックサックの上に、旅先で買ったお土産の置物みたいに、ドラゴンをちょこんと乗せる。千咲は、怒りながら、ドアを指さした。
「出てって!」
「その道では、とっても、偉い人なんです」アンジェリカは毅然としている。
千咲は、猫の背を摘むように、アンジェリカを持ち上げた。リュックサックが、じわじわとカバみたいに動いていると思ったら、ドラゴンが口でくわえて、部屋に引き摺り戻そうとしていた。「一体、どんな道よ?」千咲はついでに聞いた。
「ドラゴン造りです」アンジェリカの答えに衒いはない。
普通は、鼻で笑われても仕方ないが、事実、目の前にはドラゴンが這っている。あながち嘘とも思えない……。再び、ドラゴンがリュックサックの上に置かれた。飄々としたアンジェリカも、その脇に、よくできたマネキンみたいに座り込む。
「じゃあ、このドラゴンは、造られた生き物ってこと?」千咲は、苛々しながら、ドアを開けた。上がり框に佇む、招かざる客人達を前に、少し興味を引かれている自分に、腹が立ったのだ。(どれだけ、奇想天外なことでも、私には何の関係もない!これ以上、異常になるなんて、まっぴらごめんだ!)
リュックサックがごそごそ動いていると思ったら、映画のセットみたいに古めかしい、革張りの洋書が、アンジェリカの手によって取り出されていた。
「ドラゴンの卵は、選ばれた、特定の人間が近づかなければ、孵化しません。このドラゴンが孵ったのは、千咲ちゃんが、その選ばれた人だからなんです」とアンジェリカ。
千咲は、外に出て、首をキョロキョロ振り、ご近所さんの目がないか、虱潰しに探した。アンジェリカは、これ見よがしに、開かれた本の一節に指をさしている。
「もしそれが本当でも、私は、ドラゴンなんて育てない!もう帰って……」
「その不思議な能力、気になりませんか?」アンジェリカが、唐突に切り出した。
「もし、ドラゴンを育てたら、その秘密が分かります。どうして、物を消せたり、動かせたり、擦り抜けたりできるのか。全て、教えます……」
「……」千咲は暫く固まって、何も答えることが出来なかった。
別に、誰も見ていないのに、チクチクするような視線を感じた。
千咲は、高校の帰り道、須姪川の橋の下で、アンジェリカと待ち合わせしていた。アンジェリカは、一端、アパートの家に帰って、何かを持ってきている。
(化学実験でもやるのだろうか?あのビーカーは、何だろう?)千咲は訝しがった。
アンジェリカの手には、細長くて大きなビーカーがある。中には、黒い靄のようなものが入っている。「行きますよ、そら!」とアンジェリカ。
「栄養管理は、ドラゴンを育てる上で、とても重要です。食事のメニューは、毎回、私が考えますね」と続けた。少女の手が、びっくり箱の蓋を開けるみたいに、ビーカーの蓋を外している。中から、どろどろと、不思議な生物が溢れ出してくる。
実体のない、煙のような姿だ。それが、醜く潰れた狼みたいな顔をもっており、ふわふわと浮かんでいる。
「ピパラッピは、特定の触手を握ると、力が抜けて、暴れなくなります」とアンジェリカ。
少女は、恐いと思うぐらい、その生物の扱いに慣れていた。ピパラッピの体から生えている、手袋のボンボンみたいな触手の一つを、アンジェリカが捕まえた。
(そんな生態より、まず、その生物が何なのか説明しろよ!)千咲はそう思ったが、どうせ答えを聞いても理解できないと思い、口を噤んだ。ピパラッピの厳めしい顔が、イソギンチャクみたいに引っ込むと、ただの黒い毬藻に変わった。
「ドラゴンは、主人からもらった餌しか食べません。千咲ちゃん、お願いします」
「え、私?」千咲にとってそれは、罰ゲームを受けて下さい、と言われているのに等しかった。酷く身震いする。恐る恐る、アンジェリカから、ピパラッピの触手を受け取った。
あの顔が引っ込んでいれば、何のことはない、高級毛皮みたいな印象である。その向こうで、学者のように本をぱらぱらと捲り、アンジェリカが何かの索引を始めた。
「空を飛べるようになるまでは、少し時間がかかりますね。その間は、出来るだけ、ジャンプさせて、餌を食べさせましょう。空中に、ピパラッピを放って下さい」
千咲は、ゴクンと唾を飲むと、ピパラッピを放り投げた。橋の腹ぐらいまで飛んでいるピパラッピを、イルカの如き驚異的なジャンプを披露し、ドラゴンが食らいついた。確かにまだ、あの翼は使えないらしい。
(本当に食べた……)千咲は少し引いた。
ドラゴンは、土手の芝生をクッションに着地している。ほどんと、子犬同然の仕草で、千咲の足に顔を擦りつけてきた。
太股が、くすぐったい。千咲は、ぎこちなく微笑むと、ドラゴンの頭についているモヒカンみたいな岩の甲羅を、撫でてやった。第一印象は禍々しいが、よく見ると、可愛いらしいドラゴンだ。尻尾と翼、頭の甲羅飾りを除いて、皮膚は小動物の皮を剥いだみたいに、毒々しい赤色である。しかし、猫のように大きな瞳と、犬のように可愛いい鼻のお陰で、まだ見ていられる……。
「ロックファイアー・ドラゴンは、一ヶ月ほどで生態に成長します。ドラゴンの中では、比較的、成長スピードは遅い方ですね」アンジェリカが、観察日記をつけているような口調で言った。
アンジェリカの言っている事(つまり、本に書いてある事)は本当だった。ドラゴンは、二週間も経つと、体長三メートル近くまに成長した。大きくなりすぎて、アパートでは飼えなくなり、飼育場所を、使われていない倉庫に移した。
千咲の生活は、少しづつ、変わっていった。アンジェリカは、千咲の不健康な食事に渇を入れるべく、毎晩、手の込んだ西洋料理をこしらえた。
奇妙な居候に戸惑っていた千咲も、(案外、こんな生活も悪くないかも……)などと思い始めていた。毎朝食べる、温かいスープに、千咲の警戒心は少しづつ解れていった。
二人は、高校が終わると、ドラゴンを飼っている倉庫に必ず寄った。
ドラゴンを飼って、二十一日目。
千咲の手は、鼻水よりもねっとりした液体で、ぐちょぐちょに濡れていた。少女はビーカーから、背びれの生えた、オレンジ色の巨大ナメクジを、引っ張り出している。(早く、一ヶ月、経って欲しい……)千咲は、餌をドラゴンに与える度に、そう感じていた。
蜘蛛の巣が張ったアップリフトの上から、禍々しいシルエットを広げ、ドラゴンが飛び上がる。千咲がナメクジを放ると、ドラゴンがパクリと食べた。
「あと一メートルも成長すれば、生態になります。もう少しですよ」と黄緑色の髪の少女。
アンジェリカは、人差し指をたてると、指揮棒みたいに振った。途端、コンクリートの床上から、例の不気味なリールと首輪が、ふわっと浮き上がった。そして、ドラゴンの首まで飛んでいく……。
「えええええええええー!」千咲はビーカーを落とし、派手に割ってしまった。
「あっ、この能力ですか?すいません、ドラゴンが大きくなりすぎたので、つい、使っちゃいました。手が届かないので」アンジェリカはにこやかに答えた。
なんという、器用なテクニックだろう。ドラゴンの首に、首輪が独りでに巻きついて、バックルで革紐をきつく止めた。リールだけがすーっとアンジェリカの手元まで戻ってくる。
ドラゴンの姿は消えていた。
(あれって、私と同じ能力じゃ……)
千咲の両手が、わなわなと震え、何を掴もうとしているのか分からない。
「この能力。使えるのは、千咲ちゃんだけじゃ、ないんですよ」とアンジェリカ。
「他にもありますよ。今、この部屋に、何が見えますか?」
千咲は、咄嗟に、意識を切り替えた。ある光景が、まるで瞳に焼き鏝を当てるみたいに、刻々と映し出される……。アンジェリカは、自慢げに微笑みながら、千咲と肩を並べた(アンジェリカの頭は、千咲の肩までしかない)。
古ぼけて殺伐とした倉庫に、絵の具で塗り変えてゆくように、別の光景が広がってゆく。埃の舞うコンクリートの床が、火星のように、真っ赤な大地へと変わってゆく。
その上を、漂白剤に漬け込んだような、不気味なまでに白い、体長二十センチほどの蜘蛛たちが、ぞろぞろと這っている。
「統合失調病、幻覚だとか、散々、言われてきたはずです……。そうでしょう?」
アンジェリカは、物怖じもせず、蜘蛛に近づいた。そして、スニーカーで蜘蛛を踏みつける。蜘蛛は、ホログラフィ映像みたいに、スニーカーをすっと擦り抜けた。
千咲には、アンジェリカの周りだけ、うっすらと光が射しているように見えた。そこには、少女が今まで求めてきた、何かがあった……。
黄緑色の髪を揺らし、人形みたいな顔に微笑みを作ると、少女はしゃがみ込んだ。
「幻覚じゃないんです。だから、病気とは違います」
アンジェリカは、右手を伸ばし、掌を地面に置いた。すると、白い蜘蛛が、メスのように鋭い足でかさこそと這ってきた。少女の掌に近づく。
「見てて下さい……」とアンジェリカ。
「な、何、これ?」千咲は思わず、尻餅をついた。
少女の掌から、槍のように巨大な電撃が飛び出し、くるくると回り始めたのだ。
その眩しさに、千咲は一瞬、目がくらんだ。だから、錯覚を見ているんだと思った。
白い蜘蛛が、アンジェリカの体の輪郭をなぞりながら、カサコソと動き回っている……。
アンジェリカは立ち上がると、蜘蛛を肩の上に乗せた。
「ね、幻覚じゃない……」にこやかに微笑むアンジェリカの瞳の中に、尻餅をついて凍りつく、千咲の姿が映し出された。
皮膚の間を刺すように、辺りは肌寒い。千咲は、モミの木を引く狩人みたいに、手綱を引っ張りながら歩いている。
(ああ、なんてことだろう!まさか、こんなことをさせられるなんて……)
朝靄の立ちこめる土手沿いの道を、怪しげな女子高生二人が歩いている。
「今日はようやく、試験飛行です。成功を祈りましょう!」とアンジェリカ。
千咲は、身を前に倒し、重々しく足を運んでいる。少女の数メートル後方には、複雑な紐周りの手綱が、ふわふわと浮かんでいる。
アンジェリカがアパートに居候し、二十九日が経っていた。ドラゴンは、四メートル強にまで成長している。
(試験飛行……。本当に、人を乗せて飛べるんだろうか?墜ちたらどうしよう……)
少女の不安を拭うものは、アンジェリカの笑顔しかない。千咲の目には、あの真っ赤なドラゴンが、まざまざと映っている。頭のモヒカンみたいな甲羅飾りが、少し立派になっていた。何もなかった翼の内側に、剣のように鋭い鋼鉄製の羽が、編み込まれるように生えている。それ以外は、生まれた姿とほとんど変わっていなかった。
川の潺が聞こえてきた。アンジェリカははしゃぎながら、須姪大橋の歩道を走ってゆく。
千咲は鼻息を荒げ、「なんで私が、朝早く、こんな事をしなきゃならないの!」という顔で、ドラゴンを引き連れてくる。欄干では、アンジェリカが鉄棒みたいに身を乗り出して、手を振っている。
「二人乗りで行こう!私、助手席ね!」とアンジェリカ。
千咲は、ドラゴンの真横から垂れている鐙に、清水の舞台から飛び降りる気持ちを早々に使い果たして、足を乗せた。
二人が鞍に跨り、千咲が手綱を握ると、飛行準備は完了した。
千咲は、いざとなって、どうしていいか全く分からない自分に、かなり動揺した。
「これって、どう操縦するんだ?」振り返る千咲の後ろには、アンジェリカの「何が?」的な顔がある。千咲にそう言われて、思案しているような表情に変わった。
「うーん。私、いつもは適当に操縦していたからな。きっと、フィーリングか何かで……」
千咲は、極度の緊張と、アンジェリカの適当さのせいで、感情の抑制がきかなくなった。気がつくと、「もうっ!」と叫び、思いっきり手綱を打ってしまった後だった。途端、ドラゴンは胸を仰け反らせると、欄干を飛び越えた。岩のような翼が、須姪川の上空で広がると、ドラゴンはすいーっと大空へ上昇した。
「えっ。今、飛んでいるの……?」千咲は目をしばたかせた。
雲がうっすらと膜を張る透明な空の中を、ドラゴンと少女達は飛行していた。数分も経つと、東京都近郊の、さほどゴチャゴチャしていない街並みが、細かいパッチワークの模様みたいに、小さくなった。
「すごい……」千咲の髪を、冷気を含んだ高度三千メートルの風が、鋭く揺らしゆく。しかし、千咲は、それですら柔らかく感じるほど、この奇跡に魅了されていた。
十数時間後。再び、大空の夜風が、少女の火照った頬を撫でていた。ドラゴンは、ナイターの野球場で輝く照明みたいに、翼の内側を発光させている。そのまま、空き地に降り立った。
「あれが、アンジェリカの家……」
空き地の隣には、今にもぶっ倒れそうな、年代物の一軒家が建っている。アンジェリカは、育ちのいいお嬢さん風の美麗な容姿をちらつかせ、嬉しそうに民家の引き戸を開けた。黒瓦の屋根には、「栗山古書堂」の黄ばんだ看板が掛かっている。
千咲は、何故か、目の横に涙を浮かべながら、「アンジェリカ、よく分からないけど、あんたを誤解してたよ……」と呟き、少女の後に続いた。
家の中は、ほとんど、本棚で埋め尽くされている。奥には、こじんまりとしたキッチン兼、居間がついているだけだった。千咲は更に涙ぐんだ。
六畳ほどの居間に、異様な存在が腰を下ろしていた。それは、ブラウン管テレビに放映されているお笑い番組を観賞している。千咲は、居間の中を覗き込みながら、驚いた。
薄くなった白髪の下に、岩のような顔と、神秘的な青い目を湛えている。その老人が、徐に千咲達を振り返った。
「おじいちゃん!千咲ちゃん、連れてきたよ!」アンジェリカが、一つ高い敷居を跨いで畳に膝をつけると、大声で言った。
(そうだよな……。アンジェリカは、ハーフだし。おじいちゃんは、ガイジンだよな)
ペールトーンのチェッカー模様が可愛らしいテーブルクロスが、ちゃぶ台に敷かれている。その上に、千咲の知らない、ドイツ料理の数々が並べられている。
童顔美人を地で行く、アンジェリカのお母さんが、優雅な手つきで、次々と料理を運んでくる。美味しくないわけがない魅惑の香りに、千咲はうっとりとした。
千咲は、上座に正座している。ちゃぶ台の周りを、アンジェリカ、老人、四十代くらいの男性が囲っていた。
「私の名前は、クラウス・フランケンシュタイン。よろしく、千咲。会えて、光栄だよ」
老人は、ゆっくりと穏やかな口調で挨拶した。紳士の如き丁寧な振る舞いで、握手を求めてくる。その隣には、黒髪をぺっとりと額に垂した、剽軽そうな男の顔が浮かんでいる。人がよさそうに微笑み、千咲に握手を求めてきた。
「栗山寛です。アンジェリカの父です」と男。
アンジェリカのお母さんは、最後のシュパンフェルケルの皿をちゃぶ台に置くと、アンジェリカの隣に座り込んだ。陶器人形のような手で「ヴェロニカ・フランケンシュタインよ。よろしく」と握手を求め、千咲はそれにも応じた。
アンジェリカのお父さんは、この部屋にぴったり合っている。しかし、他の面々は、どう考えても、不釣り合いに思えた。ワイングラスの中に、赤ワインが踊るように注がれる。老人はそれを、軽く振りながら持ち上げた。
「アンジーが、君の家で、一ヶ月ほど、世話になったみたいだね。礼を言うよ」
千咲は、名前のよく分からない、特別なソーセージをがっつり頬張っている。口をもぐもぐ動かし、老人の話に、耳を傾けていた。
「君を今まで、ここに呼ばなかったのは、徐々に慣れてもらうためだった。我々の世界にね……」クラウスの表情が一変し、残酷な殺し屋のようににやりと笑った。
(我々の世界……。どういうこと?)
ザワークラウトで盛り上がった千咲の喉が、ゴクリと音を立てて、へっこんだ。
殺気とは違う、興奮にも似たヒリヒリとした空気が、千咲の少し黒い肌を撫でた。
千咲は、ゆっくりとナイフとフォークをおろし、アンジェリカの家族を見渡した。
カメラの停止ボタンを押したみたいに、みんな動かなくなっている。そして、その視線を、千咲に注いでいる。クラウスは、突然、ワイングラスを畳に叩きつけた。
「本当は、君がドラゴンの卵を孵したと聞いた時は、直ぐにでも、お祝いのパーティーを開きたかったぐらいなんだ」
巨大なアンテナ帽を乗せる金庫みたいなテレビ、その隣の壁に、千咲はヤモリの如く、ぺったりと貼りついた。
(……まただ!この能力!)
畳に染み込んでいた赤ワインの一粒一粒が、シャワーのように噴き上がった。逆再生映像のように、ガラス片がくっつくと、元のワイングラスに戻った。その中に、再び、赤い液体が飛び込む。クラウスはそれを優雅に振った。
「ご両親が、君をかくまわず、何処かの施設へ入れていれば、我々が、早々に君を探し出し、保護したものを……」とクラウス。
エプロン姿のヴェロニカも、白ワインの入ったワイングラスに両手を添えた。ワイングラスは、グラグラ揺れると、たちまち縮こまった。そして、西洋風の可愛い民家の形に変形した。中のワインは、完全に閉じこめられてしまう。
「だが、こうして、君に出会えた……。しかも、君は、我々よりも特別だ」
クラウスは構わず、話を続けている。ヴェロニカの持っているガラスの家が、ふわりと白い冷気を放った。中の白ワインが、細かい結晶に変わると、雪のように降り始めた。
千咲の興奮は、ピークに達している。自分と同じ能力を使う人間が、ここに三人もいる!
アンジェリカの手が、すっと伸びて、ちゃぶ台の上にかざされた。すると、宇宙船で食卓を広げたみたいに、ドイツ料理の数々が、空中に浮かび始めた。
「いったい、何なの!」千咲は叫んだ。胃の中に入れた食べ物が、ぐるぐると回って、逆流しそうだった。
がらがらと、引き戸の磨りガラスが揺れる音が響いた。クラウスが、徐に腰を上げ、敷居を降りている。ねっとりとした本屋の暗闇に、その背中を浮かび上がらせていた。
「ついてきなさい。君に見せたいものがある」とクラウス。
楽しかった会食の雰囲気が、すべてぶち壊しだった。千咲は、一家団欒の食事という憧れのシチュエーションが崩壊したことや、アンジェリカの家族が、自分と同じ能力が使えることに、相当のショックを受けているようだった。
間もなく、栗山古書堂の隣の空き地に、アンジェリカの家族が集合した。それは、一足早いミニ花火大会のような、いたって平凡な光景に見えた。
「君に、錬金術師の世界を見せよう……」クラウスは、軽やかな口調で言った。
老人は、ポケットに手を突っ込み、裏手で飼っている犬でも迎えに行くように、すたすたと歩いてゆく。古書店の裏には、巨大な車庫が建っている。その頑丈そうなガレージ・ドアと空き地は、入り口を設けて繋がっていた。ガレージ・ドアが、リモコン操作で、自動的に開いてゆく。
ごくごく普通だった。少し高級な、広めのガレージといった印象だ。その中に、アンジェリカの家族が入り、一列に並び始める。そうやって、空き地をぼーっと眺めている姿は、うすら恐くすらあった。すると、千咲の足下が、ぐらぐらと揺れ動いた。
「このガレージは、我がエメラルド・タブレットへの、秘密の入り口になっている」とクラウス。そこにいる全員が、ゆっくりと地面へ沈んでいった。電灯にうっすらと照らされていた空き地が、頭上へ迫り上がってゆく。ドアは折りたたまれ、ガレージは、真っ暗闇になった。すると、千咲の心臓を早鐘のように打つ、飛んでもない光景が、足下から浮かび上がってきた。
(……私、今度こそ、本当に、幻覚を見ているんだ……)千咲は呆然とした。
少女の目の前に、小国の空港よりも巨大な、円形の大広間が広がっていた。ざっと見ただけで五六十人の人達が、様々な格好で、広間を行き交っている。天井からの光が、だだっ広い床を、湖面のようなシルバーブルーに染め上げている。クラウスは、物怖じせず、巨大エレベーターから降りた。アンジェリカ一家も、至極当然のように、その後に続く。
銀色の巨大なカートが、ミニチュアバスのように、大広間を横断している。そぞろ歩いていたクラウスは、その前で立ち止まった。鳥の巣頭の少年に何やら説明して、カートから、巨大な物体を取り出してもらっている。
「これが、ドラゴンの卵だ。君にしか出来ない仕事が、ここにはある」
頑固そうなクラウスの顔が、波のように躍動的な皺を刻んで、微笑んだ。ブルーオパールのような瞳が、千咲の顔を覗き込んだ。その手には、万華鏡のように輝く、ガラス質の巨大な卵があった。