プレゼント・エッグ
第一章 プレゼント・エッグ
春の風は、夜桜から溢れたピンクの花弁を、少女の鼻先まで運び、その色を宝石のように輝かせていた。栗山アンジェリカは、通学鞄を振りながら、家路をとぼとぼと歩いている。
目は虚ろだった。
(家に帰ったら、ソーセージを一ダース食べるんだ)などと考えながら、口から涎を垂らしている。少女は、完璧に仕上げた彫刻作品のように、何処も彼処もすらっとしている。背は低く、ショートヘアは、黄緑色にブリーチングされていた。
アンジェリカはハーフだった。そんな派手な髪の色も、ごく自然と似合っているのは、そのマネキンのように端整な顔立ちのお陰だった。赤みがかったブラウンのブレザーは、公立浦辺高校の制服である。それを着ていると、ますますお人形さんのように見えた。少女は、すたすたと歩き、ビルとビルの隙間にある横丁へ入っていった。そこは、少女御用達の近道だった。
不思議と、店の中に、人影は一つも見当たらない……。
その数秒後……。少女の耳に、巨大怪獣が東京湾から上陸したかの如き、騒々しい叫び声や雑踏が聞こえてきた。炎が、ラーメン屋の暖簾から噴き上がっている。
びくんっと飛び跳ねると、アンジェリカは停止した。
「なんてこと、みんなを助けなきゃ!」突然の状況にも動じず、少女は意気込んだ。
水の入ったバケツが、お客の手から手へ、リレーされてゆく。店主はそれを受け取ると、必死に水掛けを行う。火事は、アンジェリカから十メートルほど離れているが、その肌を、ヒリヒリさせるぐらいの火力は持っていた。
少女は、紺碧の瞳に、炎のめらめらを映し込みながら、淡々と歩いてゆく。
口元は笑っていた。
「お助けしましょうか?」少女は、茫然自失の店主を覗き込みながら聞いた。
「お嬢さん、危ねえから、退いてろ!」店主はがなった。
彼ら以外、狭い通路に、一般客はいないようである。誰も少女の話を聞いていない。黙々と、バケツリレーや水かけに勤しんでいる。
手を後ろに組むと、アンジェリカは肩を竦めた。
もし、この少女の正体を知っていたなら、誰も彼女を無視なんてしなかっただろう。その珍事は、一瞬にして起こり、一瞬にして終わった。
アンジェリカは、飛んで火にいる夏の虫を、奮然と実行に移していた。
スローモーションで見ると、消火活動をしている人達の真上で、少女が両足を広げ、大ジャンプしている様に見える。その数メートル前方には、炎の壁が蠢いている。少女の数メートル後方には、ラーメン屋の箱椅子が置いてあり、それを踏み台にしたと思われた……。
火事を鎮火するどころか、少女の存在が鎮火された。ジャンプから一秒後、少女は炎の中に突っ込み、黒い影と化していた。悲鳴も聞こえず、炎から出てくる様子もない。
ラーメン屋の奧から、更に炎が噴き上がった。
その場にいる全員が、腑の抜けた、お口あんぐり状態で立ちつくし、心の中で「うっそだろー!」を大合唱しているように見えた。
口をわなわなさせると、ラーメン屋の店主は膝を折り、泣き崩れながら喚き始めた。
……その数秒後。炎が鎮火した。
今度は、何人かが、水の張ったバケツを落っことした。
真っ黒に燃え尽きた横丁の通路が、煙を大量に吸い込みながら、冷え冷えと露わになっている。その遙か向こうを、黄緑色の髪の女子高生が、何事もなかったかのように、無傷で歩いてゆく姿が見えた。
「あー、今日はいいことしたから、いいことあるぞ!」アンジェリカの気分はよかった。
焦げ臭い空気を払いのけるように、少女は住宅街の通りへ出ていった。
それから数分間、アンジェリカはお腹をぐーぐー鳴らしながら、家路をひた歩いた。
やがて、少女の鼻先を、素晴らしい香りがダンスして、誘惑し始めた。
少女は、へろへろ引き摺っていた足を、全速力で動かし、歩道を駆けて抜けていく。
まさに、颯のごとし。
「やった!今日はおじいちゃんの得意料理だ!」息を切らしながら、アンジェリカが何かを見つめている。
それは、こじんまりとした古書店だった。
「栗山古書堂」の黄ばんだ看板が、屋根瓦の上に掛かっている。
アンジェリカの鼻先を釣り上げたのは、店の前に置かれている、バーベキューコンロだった。 白髪の老人が、コンロの前で、巨大なソーセージを、次々とトングでひっくり返しながら、滴る肉汁に、火炎を巻き上げさせている。
コンロの周りには、割引の文庫本がカートに積まれ、大量に置かれていた。
「おじいちゃーん!」とアンジェリカ。その笑顔は、無人島から生還して、家族と再会した時のような喜びに溢れている。
アンジェリカは走った。そして、鼻先を、コンロに近づける。
「はあ、どうせ燃やされるなら、このソーセージの油火で燃やされたい……」
テューリンガーと呼ばれる、ドイツ製のソーセージは、こんがりとオレンジ色の焼き目をつけ、網の上で転がっていた。少女の唾液は、中毒性を帯びたスパイスで満たされると、喉奧へゴクリと落ちた。早速、その胃袋をフル回転させる。
アンジェリカは、手近のフォークを掴むと、ソーセージに刺そうとした。しかし、その一撃を、銀色のトングが抑え付ける。
ソーセージの真上で、フォークとトングが、互いにロックを掛けながら、停止した。
彼は、全てを見透かすような、または、単にソーセージを横取りされるのが腹持ちならないような表情を浮かべた。おじいちゃんの顔は、ジャガイモみたいに丸く、年月を経た城壁のように、頑固な皺を刻んでいる。独特の垂れ目を、堀の中に隠し、青い瞳を怪しげに灯している。
「全ての食事の権限は、お前のママにある。つまり、我が娘にだ……」とほくそ笑んだ。
「……アンジェリカ、食べたいんなら、まず着替えて、手を洗ってからにしなさい」
背の高い、西洋人の女性が現れた。古書店の戸口の前で、ソーセージの皿を持っている。
「もう、ママの意地悪!」とアンジェリカ。戸口の前で、親子はじゃれあった。
暫くすると、少女は、空気をおくると飛び跳ねるカエル人形のように、活き活きと踵を返した。が、その顔が、アーガイル模様のカーディガンにぶつかった。
それは、アンジェリカの父親だった。黄緑色の髪を優しく撫で、小さな肩を掴むと、我が娘を借りてきた猫みたいに大人しくさせた。
「丁度よかった。アンジェリカ。閉店の手伝いをしてくれ」
アンジェリカのお父さんの身長は、娘より少し高いぐらいで、かなり小柄だった。剽軽な顔に、ぺったりした黒髪の似合う日本人だ。
「みんな揃って、私に意地悪するのね!」アンジェリカの頬は、ふぐのように膨らんだ。少女は渋々カートを掴む。
埃臭い本の香りが、アンジェリカの鼻をついた。二人は、店頭に置かれているカートを、店の中に、次々としまっていった―が、アンジェリカの押しているカートが、コンロと見事にぶつかった。ソーセージが、家族全員の目の前で、宙に舞い―車道に落ち―自動車が走り抜け―ぺったり潰れた肉片は、ぎざぎざのタイヤ痕を刻んで、無惨にも店明かりに曝されることとなった。
全員が固まった。
それから五分後。少女はお腹が空いて、胃が痛いぐらいになった。
アンジェリカは、唾を飲み込み、後ろを振り返った。明かりの漏れる引き戸をバンバン叩く。
「おじいちゃーん!ママ!ごめんなさい!だから、家に入れてー!」
「……」無反応である。
(なんてことだ!ソーセージ如きで、絆の切れる家族だったのか?)車道でぺったんこになったテューリンガーの姿を、少女はじーっと眺めた。このソーセージは、おじいちゃんとママが、この日のために、わざわざ故郷のドイツから取り寄せた最高級品である。怒るのも無理はない。 アンジェリカは、ぐーと鳴るお腹を叩いた。いつの間にか、車道の残骸に見とれている自分に驚くと、首をブンブン振った。確か、まだ財布に、お小遣いが残っていたはずである。
タバコ屋の前。自販機が、ずらりと並んでいる。
少女は半分、徘徊するゾンビのような足取りで、タバコ屋まで来た。自販機に、ゴツンと頭を打ち、腹持ちの良さそうな、コーンポタージュ、粒入り、ホットを見初めた。
(……いいことすれば、報われるんじゃないの?神様っていないの?)
まだ春先で悴む手を、少女はスチール缶で温めた。すると、アンジェリカのガラスの如きハートが、「羞・恥・心」の三文字によって、ぶるぶると震えた。誰か人が歩いてくる……。
「あわわ」とアンジェリカ。
少女は、耳に手を当て、イヤホンを抑えている風に、ふんふんと鼻歌を歌った。頭の中で、「Rock You Like A Hurricane」を流し、そのリズムに合わせて、体を振っている。
電灯の光に、歩行者が照らし出された……。
ブレザーを着た、少女だった。アンジェリカは、思わず、その少女を眺めた。背は高く、ウェーブのかかった、黒くて綺麗な髪を、首元まで流している。目は鋭く、瞳に芯がある。総合して表現すれば、スレンダー・クール・ビューティーな女子高生だった。そして、アンジェリカと同じ制服を着ている……。
左から右へ、アンジェリカの瞳は動いた。
まるで薬局前に置いてある、ソフトビニールのキャラクター看板みたいに、ぷりっと固まると、アンジェリカは少女を見送った。少女は、「栗山古書堂」の店明かりが照らす、ブロック塀をバック・スクリーンに、颯爽と歩いてゆく。
と、その時。一台の車が走ってきた。まさか、このヘッドライトもつけていない暴走車が、アンジェリカにとって、生涯最高の出来事のきっかけになろうとは、誰も思いもしなかっただろう。自動車の運転手は、携帯電話を掛けている。目の前の少女に、気づいていない……。そのボンネットが、少女の太股裏に、猛スピードで激突した。
アンジェリカは目を瞑った。手で顔を覆い、震えていたので、何が起こったのか分からないが、車は確かに、少女にぶつかっていた。フロントガラス一直線コースだった。
「どうしよう!ナンバーだけでも、見ておくんだった。私って、なんて……」
恐る恐る開かれた指の間から、アンジェリカが見たのは、惨状ではなく、いたって普通の光景だった。さっきの少女が、平然と歩いている。アンジェリカの体に、濡れ猫が、水を飛ばす時のような身震いが走り抜ける。
少女は、何事もなかったかのように、そのまま歩き、闇の中へ姿を消した。
一瞬、安っぽいタバコの臭いや、騒々しい音楽、泥酔した男女がバックシートで騒いでいる様子などが、少女の後方から前方へ、押し寄せる波のように流れていった。しかし、少女の顔は平然としており、別段、怖がっているようにも見えない。
黒衣良千咲は、いつも通り、無粋な顔のまま、帰宅路をすたすたと歩いて行く。
(どうでもいいけど、人にぶつかって気づかないくらい、酔って運転するなよな……)と、運転手にクレームをつけるほどの精神的余裕が、そのウェーブのかかった黒髪や、鷹のように鋭い目鼻立ちの奧に隠れている。
シボレー・インパラの車体が、千咲の体を擦り抜け、車道を走り去っていった事実は、明白な事実だった。しかし、千咲にはそれが、どうでもいいことであり、酷く日常的な出来事の一つという認識で、終始一貫していた。
心細げに、家路を目指す歩が止まると、千咲は鍵を取りだし、それを鍵穴に差し込んだ。彼女の家は、メゾネット式のお洒落なアパートだった。浦辺高校のやや赤みがかったブラウンのブレザーと、非常によく似合っている。千咲は、アメニティ・キットぐらい無駄のない、一人暮らしの1LDKの部屋へ入ってゆく。
(家に帰って、誰かが待っていてくれるって、どんな気持ちだろう?)鞄をカーペットに放ると、千咲は殺伐とした表情で部屋を見渡した。鞄についているキーホルダーの子猫が、寂しげに、少女を見つめている。
この部屋のキッチンが、女性的な暖かさに溢れることは、まずない。鍋が泡を吹いたり、グリルから匂いが漂うなんてことは、皆無である。数分後、千咲はラフな格好に着替え、ローテーブルに、カップラーメンの味違いダブルをセットした。どかりっと座り込み、壮大な三分間を、気長に待つことにした。
もともと少し男気のある千咲は、髪を掻き上げもせず、ラーメンを貪り喰った。その姿は、よもや、散髪代も惜しむ、ドけち大学生の寂しい夕食のように見える。
あっという間に、カップが二つ、面の切れ端やナルトを貼り付けたまま、テーブルに転がった。千咲が、メゾン・ド・浦辺に住むようになり、五年が経とうとしていた。千咲は、直ぐ後ろのベッドに寄り掛かると、テレビを見始めた。もし、母親がいれば、十六歳の我が娘に、こんな自堕落な行動は取らせなかっただろう……。
少女の日常を、すべてドキュメンタリー映画に収めたら、異常なことが、ここかしこと見つかって、ドキュメンタリーにならなかっただろう。テーブルに置いてあるリモコンが、独りでにボタンを押し、テレビのチャンネルを変えてゆく……。
千咲は、昼頃から、何回もスマホの留守番電話に呼びかける声の主に、酷い苛立ちを感じていた。伝言を聞くべきかどうか、アパートに帰ってからも、葛藤を繰り返している。
少女は、腕組みを解くと、鞄からタブレット式携帯電話を取り出した。
『千咲、聞いてるか?これが、最後の通達だ。明日、学校の客間で待っている。職員室の中だ。校長先生と話がある。必ず、私と同伴するように。また、転校したくはないだろう?それじゃ……プツッ』
「馬鹿野郎……」千咲の瞳は、スマホを見もせず、国営のテレビ番組に向けられている。何もない岩砂漠のただ中……。象の親子が、身を寄せ合って歩いている。
〈象はとても愛情深い生き物で、家族の絆が強く、このように、身を寄せ合い、厳しい環境を乗り越えていきます……〉とナレーションが入る。
テーブル上のリモコンが、手裏剣みたいに、独りでに飛んだ。それが、テレビに当たって、乾電池を二本、空中へ投げ飛ばした―ベッドの上に、千咲の黒髪が、ぱさりと広がった……。
「黒衣良千咲さん。今日、あなたがどうして呼ばれたかは、分かりますね?」
無味乾燥……何の匂いもしない。千咲は、ネイビーグレーの、当たり障りのないソファに腰掛けている。その大人しさは、借りてきた猫を更に借りてきたみたいで、少し不自然である。
(私を呼び出すぐらいなら、気味悪がって、さっさと追い出せばいいのに……)
千咲の目が、一瞬、手前のソファに座る人物に向けられた。地味な婦人服を着た、痩せすぎなぐらいの中年女性が、視界の片隅に入る。千咲は直ぐに、自分の膝に視線を落とした。
校長室は、そこら辺のカーテンでも絞れば、この世のつまらなさを凝縮したエッセンスでも採取できるんじゃないかと思うほど、味気なかった。
千咲の隣のソファを揺らすと、スーツを着た男が、前屈みに乗り出した。
「千咲さんが問題を起こしたことを、彼女のご両親も嘆いておられます。しかし、この程度のことで、彼女を退学にして欲しくはない。分かりますね?」
遠藤は、千咲の両親の代わりに、身の回りの世話をしてくれる男だ。頭は良く、どんなことにも機転が利く。しかし、千咲がこの男をいい人間だと思ったことは、一度もない。
校長先生の顔が、むずがゆそうに歪み、千咲の方を見つめた。
(私は守られているのか、手に負えない怪物として、穴蔵の中に閉じこめられているのか、どっちなんだろう?)この少女の疑問は、複雑な波の動きのように揺れていた。そして、大抵は、後者の方に軍配が上がる……。
その封筒は、あまりにも分厚く、何が入っているんだろう?と、疑ってみたくなる見た目をしていた。遠藤は、端正な顔の奧に、清々しいほどの悪意のなさを込めて、懐からそれを取り出している。
校長先生は、遠藤と違い、一定のボーダーラインを踏み倒す勇気が持てないようだ。その顔に、躊躇の色が見て取れたが、誘惑に勝てない、微妙な心境も表れている。
「まあ、これは個人的なものですし、教育者の立場からして、受け取ることは……」
その手は、肘掛けを掴んだが、鷲掴みにも近い指の握力を見せている。―「彼女のご両親が、そうお望みです。どうかお納めに。そして、このことは、どうかご内密に」と遠藤。
校長先生は、ぎこちない手つきで封筒を受け取った。遠藤の唇が歪んだ。
女性の指が、偉人の顔が描かれた紙束を、ざらざらーと捲ってゆく。千咲はその様子を、殺伐とした表情で見つめている。
「それでは、理科室の壁が消えたことは、どうなりますか?」遠藤がとどめの一刺しのように聞いた。
「……あれは、随分、痛んでいたので、工事をさせたということに致します。そう、随分痛んでいたので……」校長先生の声は震えていた。
そこで、少女は立ち上がり、淀んだ閉塞感漂う空間をメスで斬りつけるように、大声を放った。「もう!ふざけないでよね!」
「千咲、止めないか!」と遠藤。
ソファの背を、スニーカーで踏みつけると、千咲は校長室の入り口まで歩いていった。
「校長先生、私が恐いんなら、退学させたら?それとも、こんなゴミのために、私をとどめておくの?」
千咲が、掌をバッと広げ、校長先生に向けた。封筒の中から、お札が一枚、一枚、見えないローラーで導かれるように、宙へ飛んでゆく。それが、茶色に変色し始めた。
(……さあ、この後、どうなるんだろう?あの馬鹿な親は、どんな手を使って、私を閉じこめておくんだろう?)千咲の思考は、酷く冷静であり、退学なんて全く恐れていなかった。校長室中に、カサカサと籾殻が擦り合わさるような、乾燥した音が聞こえた。
千咲は、既に校長室を出ている。校長室の客間には、無数の落ち葉が広がっており、残された二人はその中で、呆然と立ちつくしている。分厚かった封筒の中身は、空になっている。
「申し訳ありません……。これと同額に、上乗せしましょう。明日、お持ちいたします」遠藤が深々と一礼して、校長先生に謝った。
栗山アンジェリカは、鉄板の無骨さと冷たさに我慢しながら、滑り台の頂上で身を潜めていた。息を殺し、虎視眈々と、あるタイミングを見計っている。
少女は、革製の袋を背負い、蹲っていた。
(……大丈夫よね?人にプレゼントする時って、普通、サプライズよね?)
今にもはち切れそうな自問自答は、少女の小さな胸を、ばくばくと動かしていた。
その考えとは、滑り台から下りて、ほぼ初対面の黒衣良千咲に、革袋の中身を渡すという、酷い発想のものだった。アンジェリカは、鋭い眼光で、眼下の砂場を見つめている。少女は、昨日の夜、千咲を尾行していた。そのため、彼女がこの公園を横切ることは、既に確認済みだった。しかし、女子高生が、隠れん坊みたいに滑り台で蹲っている姿は、かなり滑稽である。
そして、少女の視界に、千咲が現れる様子は、一行にない。
「うー、おっそーい!さっき、校門を出る所、確認したのに!」
すると、ここの公園を遊び場にしている、地元の幼稚園達が集まってきた。彼らは、滑り台を遊ぶでもなく、独り占めにしている少女を見つけると、避難罵倒の雨嵐を、可愛らしい言葉で言い始めた。アンジェリカは、千咲に見つかるんじゃないかという恐れから、ひやりと汗をかいている。
「うるさーい!あっちへ行ってなさい!」と、立ち上がって怒鳴るアンジェリカ。幼稚園児達は、純粋無垢な顔で、少女を見上げながら「でも~」と抵抗した。
「お姉ちゃんは、忙しいの!ここは、私の場所!さあ、あっちへ行って!」
「なあ、お前、何やってんだ?」
アンジェリカの真下に、黒衣良千咲が立っていた。黄緑色の髪の少女は、間違って足を滑らせ、そのまま、滑り台を滑走していった。
「大人げないぞ……」千咲は呆れながら言った。
「サ、サプラーイズ!」砂埃に咽せ込みながら、アンジェリカはがむしゃらに叫んだ。
身長百五十センチ強のアンジェリカが飛び跳ねても、身長百七十センチ丁度の千咲には到底敵わない。何だか怖じ気づいたアンジェリカは、しどろもどろになりながら、革袋を千咲に差し出した。
「あ、あの!私、この前、あなたを見て……その、それで、こ、これを渡したくて……」
千咲が札付きの不良で、アンジェリカが気弱なカモの女学生という構図が、どことなく成立していた。千咲は眉を寄せ、ぶるぶる震えるアンジェリカを見つめると、鼻息を漏らした。
「……ごめん。私、友達、作らないようにしてるんだ」と早々にあしらう。
「うわー!」とアンジェリカ。
(何、あの子……)
千咲の両手に、大きな革袋が押しつけられた。突風でも吹くんじゃないかという勢いで、アンジェリカは走り去っていった。
千咲はあまりにも寝付けず、ベッドの中で目を覚ました。枕は羽毛のはずなのに、石みたいに硬く感じる……。少女は暫く、天井を仰いだ。いつもならそのつまらなさに、五分もすれば寝てしまうはずなのに……。見れば見るほど、黄緑色のショートヘアが、映写機のように映し出されて仕方がない。(一体、何をくれようとしたんだろう?)
卵の殻を被ったひよこのキャラクターパジャマに、カーディガンを通すと、千咲はドアを開け、夜の街へ飛び出していった。
少女を動かしていた原動力、それは、「生まれて初めて、プレゼントをもらった」という事実だった。千咲は駆けた。公園を目指している。
夜の公園は、不気味さを絵に描いたように、ひっそりと静まりかえっている。千咲の視線は、公衆トイレの脇にあるくずかごへ、真っ先に向かった。
(私へのプレゼント……。もしそうなら、悪いことをした)
千咲の手は、くずかごの中にあるゴミを掴むと、次々、地面へ落としてゆく。
酷い悪臭……気にするもんか!千咲はようやく、くずかごの真ん中に、あの革製の袋を見つけた。ほっとした表情を漏らす。しかし、袋は、プレゼントにしては、やや大きすぎる見た目だった。直径五十センチの楕円形状の何かが入っているらしく、千咲は何の怪しみも持たず、それを拾い上げた。
玄関に明かりが灯ると、千咲は、息を切らしながら、ベッドに座り込んだ。少女は少し恐くなった。テーブルの上に、袋を置いた。悪戯だったらどうしよう?
千咲と革袋との、言葉のいらない奇妙な会話は、暫く続いた。その手が、恐る恐る、革袋へ伸びる。それはまるで、手の込んだテーマパークの小道具か、ただ単に、何かの生物を包んでいる殻、そう思われた……。千咲は、袋の底を引っ張ると、中身を、テーブルの上にごろんと転がしている。それは間違いなく、高さ五十センチほどの、巨大な卵だった。
「う、うわー!」千咲は叫んだ。
卵の表面は、泥を限りなく高密度に固めたような、ザラザラした質感である。その間に、幅二センチはある太い亀裂が、禍々しく、びっしりと刻み込まれている。亀裂は、溢れ出したばかりの溶岩みたいに、赤色に輝いている……。
中庭沿いにある大窓を開けると、千咲の頬に、夜風がブワッと吹き付けてきた。少女の目はようやく覚めた。千咲は革袋を引っ掴み、卵を覆うと、そのまま袋ごと中庭に放り投げた。
「あー、もう!やっぱり、悪戯じゃない!」
ベッドの隅に、シーツにくるまる少女の体が、不機嫌そうに横たわった。
少女の記憶は、カーテンの隙間から漏れる、眩しい朝日と同じように、真っ白に塗り潰されていた……。
千咲は、いつもよりやや遅く起きると、慌てて制服に着替えて、アパートを出て行った。
二十分後。
(……校長め。結局、私を、この学校に縛り付けておくのね)
いつ、勉強机の中身を引き払おうか、そんなことまで考えていた千咲の目の前に、それは、滑稽なぐらい大まじめに現れた。
理科室の前だった。ただし、「部屋」としての機能を、半分なくしている。廊下を仕切る壁が、数メートル、消失しているのだ。
その手前に、工事をする職人達が、うぞうぞと集まっている。
遠藤がうまいこと言いくるめ、千咲の両親が、たんまりと金を積んだのだろうか……。
千咲はそれを見て、どちらにしろ不機嫌になり、昨夜のことを、いよいよ忘れた。
少女が通り過ぎた際、廊下の隅に置いてあるウォーターサーバーのボトルが、ボンッと爆発し、大量の水が打ち上がった……。
(……次は、トレイの入り口を、塞いだらどうだろう?やり過ぎかな?)
二時間目の授業。黒板の前で、古文の先生が、暗号の如き日本語をすらすら書いているのを完全に無視して、千咲は落書きに勤しんでいた。ノートには、「トイレ封鎖計画」なる、馬鹿らしいイラストと文字が踊っている。教室の中は、窓から注ぎ込む春の陽光に、まどろみの空気を漂わせている。千咲は、シャープ・ペンシルを回す指を止め、教室の中を見渡した。
みんな、真面目に前を向き、ノートと黒板への退屈な視線のラリーをくり返している。
千咲にとっては、ブレザーの制服も、彼女が高校生であるという事実も、全てどうでもいいことだった。自分が、中身の抜けている、間抜けな模造品のような気がした。
普通の高校生活をおくろうという、そんな意欲が、少女にはなかった。彼女を支える人も、何処にもいない。千咲は通学鞄を持ち、帰宅部が下校する足に合わせて、校門から抜け出していった。アスファルトの歩道を踏みしめる一歩先に、普通の高校生らしい自分が待っているんじゃないかと、淡い期待を寄せて、千咲がアパートに帰宅すると……。
自分には欠けている何か、一人暮らしという簡単なシチュエーションでは片付けられない、そんながらんどうが待っている。
ベッドで仰向けになると、少女の視線が、染みがつくぐらい見慣れた、真っ白な天井を捉えた。ここで、千咲の失われていた記憶は、めざましい回復を見せる。
「そうだ、あの卵!」千咲は起き上がった。
天井のスクリーンに、再び、黄緑色の髪の少女が、フィードバックしたのである。
「うそー!」少女は驚愕した。
大窓を開け、そこから覗く中庭を、千咲は覗き込んだ。確かに、あの卵が、草原に横たわっている。しかも、無数の殻をぶちまけて……。
更に追い打ちを掛けるかの如く、千咲の視界が、それを捉えた。少女の体に、熱した針のような汗が、ぞわっと噴き上がる。千咲は、大窓を何度か開け閉めし、ガラス戸を確かめた。ガラス戸の一部が、どろりと溶解し、大穴が開いている……。
「け、警察だ!」千咲は叫んだ。
「卵の中身なわけがない!そうだ、あれは、投げた時に壊れたんだ」
スマホの緊急ダイヤルを押す指は、ぶるぶると震えていた。
(……何だ、あれ?)そこで、千咲の指は震えから、凍結に変わった。
少女は思わず、スマホを床に落とし、部屋の奥を眺めた。
それは、巨大なフジツボだった。岩みたいに大きい……。壁に貼りついている。
千咲は、唾を飲み込むと、脱出経路を確保しようと、後ろの大窓に手を伸ばした。その時、フジツボが、ぱっくりと二つに分かれた。中から、ある生物が現れ、それが床に着地する。フジツボだと思われていた、岩のように甲殻質の翼を、ぐぐぐっーと両脇に広げている。体長四十センチほどの、巨大な蜥蜴だった。
千咲は、へなへなと倒れ込んだ。まるで腰に麻酔を打ち込まれたみたいに、全く立てなくなる。口が無意識の内に、あわあわと震えていた。
「やったー!」
「うわー!」(何、何、何ー!?)
しおれた花みたいに蹲る千咲の隣に、何かが踊り出した。黄緑色のショートヘアを揺らして、大窓から、栗山アンジェリカが飛び込んできたのだ。両手に靴を持ち、黒ソックスでフローリングの床に上がり込んでいる。千咲と同じ、高校からの帰りみたいだ。
現実フルボッコのこの状況に、千咲の体から、汗が止まらなくなった。まるで、その汗で、自分自身を溶かしてしまうかのような、酷く重い汗だった。千咲は、今にも泣き崩れそうな顔で、アンジェリカのにたにた顔を見上げた。
「信じられない!」とアンジェリカ。
そのまま靴を翼にして、鳥みたいに飛行するんじゃないか?という勢いで、少女は跳びはねた。床に貼っている謎の生物は、惚けた顔で、そんなアンジェリカを見つめている。
「凄いよ、千咲ちゃん!ドラゴンが孵ったの!ドラゴンよ、ドラゴン!」とアンジェリカ。
千咲は、思いっきり頭を振ると、「ストーップ!」と大声で叫んだ。
「ああ、分かってる!これは、幻覚なんだ!落ち着け、症状が悪化したんだ」と千咲。
少女は、へっぴり腰ながら何とか立ち上がった。驚嘆と興ざめで口を噤んでいるアンジェリカを横目に、千咲は、品性溢れる淑女の動作で歩いてゆく。慌てず落ち着き、ドラゴンの横も難なく通り過ぎた。そして、玄関近くの洗面所に向かった。
アンジェリカとドラゴンは、互いに目を丸くして、見つめ合う。
暫くすると、千咲が、手に何かを持って、洗面所から出てきた。
「幻覚め、直ぐに消してやる!」と千咲。
少女は、右手に緑色のピル、左手に水の張ったコップを持っている。右手が少女の口を覆うと、左手のコップが、すかさず続いた。
「さあ、いつもの私の部屋よ。戻ってくるんだ!」千咲は叫んだ。
少女の目の前には、相も変わらず、硬直するアンジェリカと、床にちょこんと座るドラゴンがいる。千咲は、コップを握りしめたまま、縮こまってゆく。
「そ、そうね。きっと、薬が効くまでに、時間がかかるのよ……」
千咲は半ば、自分を嘯いた。すると、恐ろしい光景が生まれた。火の粉が、弧を描きながらチラチラと舞っている。大量の赤い光が噴き上がると、それが、天井から大窓までを焼き尽くした。それを見た途端、千咲は気絶して、ぶっ倒れた。
床に這っているドラゴンが、口から火炎放射を吐いている。その炎が、天井を焦がし、サッシだけ残して、大窓のガラスを全て溶かしてしまっていた……。