第一話 市民一万人を見捨ててください
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第一話 市民一万人を見捨ててください
市民一万人を見捨ててください、と市役所のAIは丁寧に言った。
『推奨対応を表示します』
九月四日、午後十一時四十七分。
星見市役所本庁舎、地下二階。危機管理課夜間管制室。
壁一面を覆う災害情報モニターが、血のような赤に染まっている。
『星見中央駅を中心とする半径一・二キロメートルを、零時零分をもって無警告封鎖。地下街防火扉を一斉閉鎖。地上交通を迂回させ、一般市民への情報公開は午前零時三十分まで保留してください』
「無警告封鎖?」
私は椅子から立ち上がった。
夜間用の安い蛍光灯が、机に置かれた紙コップのコーヒーを青白く照らしている。三時間前に淹れたそれは、もう飲み物というより苦い水だった。
「駅の中に何人いるの」
『推定一万四百三十一名です』
「防火扉を閉めたら、その人たちは?」
『地下第四層で発生する境界反転現象に巻き込まれます』
「死亡予測は」
『九千八百四十二名。重傷五百六名。軽傷七十九名。無傷四名です』
無傷四名。
それをわざわざ読み上げる声は、若い女性とも少年ともつかない、澄んだ合成音声だった。
全国統合迷宮災害予測AI――Municipal Integrated Knowledge Optimization Tactical Oracle。
頭文字を取って《MIKOTO》。
二年前、全国の自治体に導入された、人類最高の危機管理システムだ。
ダンジョン崩落、魔物氾濫、霊素汚染、境界反転。二十年前なら「原因不明の天災」で片づけられていた現象を、MIKOTOは九六・八パーセントの精度で予測する。
こいつの言うとおりに動けば、だいたい正しい。
だいたい正しいという言葉ほど、危機管理で恐ろしいものはない。
「九条さん」
背後で、夜勤責任者の長谷川課長が掠れた声を出した。
五十歳を少し過ぎた、胃薬を常備している人だ。普段は穏やかで、私のような経歴の怪しい会計年度任用職員にも丁寧に接してくれる。
その顔から、今は血の気が引いていた。
「確認だ。MIKOTOの推奨は、駅の中にいる人を閉じ込めろ、という意味か」
『肯定します』
「理由を」
『現在から十三分以内に避難情報を発令した場合、群衆雪崩および地上部への魔物誘導が発生します。市全域の予測死者数は四万一千二百六名です。地下街を封鎖した場合、市全域の予測死者数は九千八百四十二名に抑制されます』
抑制。
私はその言葉を、十二年前にも聞いた。
――北方領三村を封鎖すれば、王都への瘴気流入を抑制できます。
白い神殿。銀の仮面をつけた神官。円卓に並ぶ貴族たち。
助けを求める三村の住民名簿を前に、私は何も言えなかった。
公爵令嬢エリカ・アルヴェイン、十七歳。
王太子の婚約者でありながら、会議で発言する権限を持たない飾り物。
あの日、北方領で死んだのは三千百二十七人だった。
十二年経っても、一人ずつの名前を思い出せる。
日本へ戻って二年。
私はもう公爵令嬢ではない。
九条エリカ、二十九歳。
星見市役所危機管理課、会計年度任用職員。
電話交換、備蓄品管理補助、避難所名簿の入力。それが私に与えられた権限のほぼすべてだ。
けれど、発言してはいけないという規則は、今のところ見つけていない。
「避難する」
私が言うと、長谷川課長が目を見開いた。
「九条さん」
「駅構内の一万四百三十一人を避難させます。零時三十一分まで四十四分。地上に出すと魔物を誘導するなら、地上に出さずに安全区画へ移す。地下鉄東西線の旧連絡坑を使えば、市民文化ホールの地下駐車場まで抜けられます」
『当該連絡坑は二〇三一年に閉鎖されています』
「物理的に塞がれている?」
『書類上、廃止されています』
「質問に答えて。物理的に塞がれている?」
三秒の沈黙。
AIにとっては、長すぎる沈黙だった。
『一部に仮設壁があります。通行可能幅は最小一・八メートルです』
「なら使える」
『推奨しません。旧連絡坑は現行の避難経路台帳に登録されていません』
「登録されていない道は、存在しないことになるの?」
『行政上は、そのように扱われます』
思わず笑いそうになった。
異世界でも日本でも、神託と行政はよく似ている。
書かれていない人間は、いない。
書かれていない道は、ない。
そして、書かれていない犠牲は、責任の外に置かれる。
「長谷川課長。災害対策基本条例第十八条、覚えていますか」
「え?」
「市長またはその委任を受けた職員は、既存の避難施設だけでは市民の生命を守れない緊急の場合、公共・民間を問わず施設を一時避難場所に指定できる」
「文化ホールを指定するのか。だが、今ここに市長はいない。副市長も危機管理監も連絡が――」
「課長は災害初動要綱上の夜間統括責任者です。市長権限のうち、初動避難に必要な範囲を代行できる」
「それは、震度六弱以上か、特別警報発令時の話だ」
「境界反転警報は?」
「制度ができたのが去年だ。要綱の改訂が追いついていない」
「なら、書き足しましょう」
「今から?」
「今だからです」
私は机の引き出しを開け、未使用の様式集を取り出した。
夜間管制室にあるプリンターは遅い。行政用の端末は、急いでいる人間に恨みでもあるのかと思うほど起動に時間がかかる。
だから私は、いつも紙の様式を十部ずつ印刷していた。
同僚には「紙が好きな古い人」と笑われた。
紙は好きだ。
紙には、書いた言葉の責任が残る。
異世界で学んだ《公文書術》も、紙がなければ始まらない。
「九条さん、それは何の様式だ」
「臨時避難施設指定書です」
黒いボールペンで空欄を埋めていく。
対象施設。星見市民文化ホール地下駐車場および付帯倉庫。
指定期間。九月四日午後十一時五十五分から、境界反転警報解除まで。
収容対象。星見中央駅および地下街に滞在するすべての者。
私はそこでペンを止めた。
「MIKOTO。さっきの九千八百四十二人。市民と言ったけど、星見市民は何人?」
『住民基本台帳上の星見市民は五百八十九名です』
「残りは?」
『市外居住者六千百二十二名。住所情報不明者千七百十一名。短期滞在外国人四百八十四名。探索者登録のみで住民登録のない者四百二十名。人類分類外五百十六体です』
「人類分類外?」
『回答権限がありません』
「九千八百四十二人の死亡を推奨する権限はあるのに、内訳を説明する権限はないの」
『仕様です』
仕様。
それは現代の神官が使う「神意です」だ。
私は収容対象の文言を二重線で消した。
新しく書く。
――星見中央駅および地下街に現在存在する、生命・人格・意思を有するすべての者。国籍、住所、戸籍、住民登録、種族、世界籍の有無を問わない。
書き終えた瞬間、紙の縁が淡い金色に光った。
長谷川課長が息を呑む。
「今、光ったか?」
「蛍光灯の反射です」
「いや、明らかに――」
「課長。ここに署名と公印を」
「待て。これに判を押せば、私は規定外の避難施設を独断で指定したことになる」
「はい」
「失敗したら懲戒では済まない」
「はい」
「君もだ。任用は今月で終わるかもしれない」
「もともと来年の席は保証されていません」
「そういう話じゃない」
長谷川課長は唇を噛んだ。
モニターでは、MIKOTOの残り時間表示が減り続けている。
十二分四十八秒。
十二分四十七秒。
十二分四十六秒。
「九条さん。助けられると思うか」
私は答える前に、一度だけ目を閉じた。
北方領の三村。
城門の外で泣いていた母親。
婚約者だった王太子アルベルトの横顔。
そして最後まで私の手を握っていた、十歳の弟エミール。
あの世界で私は、全員を救うと言って、結局ほとんど救えなかった。
だから、嘘はつかない。
「分かりません」
課長の眉が下がる。
「ですが、見捨てるよりは助かります」
「……行政職員の答えとしては最低だな」
「元公爵令嬢の答えとしても、かなり品がありません」
「何だって?」
「独り言です」
長谷川課長は深く息を吸った。
それから机の一番上の引き出しを開け、夜間用の市長職務代理印を取り出した。
「俺は去年、娘の結婚式で泣かなかった」
「はい」
「市役所に入って二十八年、住民から机を叩かれても泣かなかった」
「はい」
「今日クビになったら、たぶん泣く」
「再就職先は一緒に探します」
「君は先に自分のを探せ」
朱肉に印をつける。
どん、と紙に押した。
その瞬間、臨時避難施設指定書から金色の光が走った。
机を伝い、床を走り、夜間管制室の壁を透過して、星見市の地下へ伸びていく。
MIKOTOの赤い画面に、見たことのない表示が割り込んだ。
《公的領域を確認》
《発令主体の責任意思を確認》
《対象者の包括指定を確認》
《対価:指定期間中における施設損耗、電力消費、発令者二名の霊素負荷》
《臨時避難領域を構築します》
長谷川課長が、判子を持ったまま固まっていた。
「九条さん」
「はい」
「蛍光灯の反射ではないな?」
「……後ほど説明します」
『未知の権限上書きを検知しました』
MIKOTOの声から、初めて平板さが消えた。
『九条エリカ。あなたは何を実行しましたか』
「避難所を一つ増やしただけです」
『不可能です。避難成功率が一一・四パーセントから三八・九パーセントへ上昇しました』
「まだ低いわね」
『推奨対応を再計算します』
「その間に、消防と鉄道へ連絡します」
私は庁内電話を取り、短縮番号を押した。
三コール目で、低い男の声が出る。
『星見市消防局、特殊災害救助隊』
「危機管理課の九条です。久世隊長をお願いします」
『俺だ』
「早いですね」
『夜中に俺を指名してくる危機管理課職員は、あんたしかいない。今度は何を燃やした』
「まだ何も」
『まだ、か』
「星見中央駅地下四階で、零時三十一分に境界反転。推定一万人が取り残されます」
受話器の向こうから、椅子が倒れる音がした。
『MIKOTOの警報は来てないぞ』
「出していません。封鎖して中の人を切り捨てるのが推奨対応です」
三秒。
久世蓮は、こういうとき罵声を吐かない。
代わりに、必要な質問だけをする。
『反転まで四十四分。使える経路は』
「東西線旧連絡坑。最小幅一・八メートル。出口は市民文化ホール地下駐車場。今、臨時避難所に指定しました」
『地図を送れ』
「台帳にありません」
『九条』
「七年前の工事完成図を倉庫で見ました。記憶しています」
『覚えてるのか』
「図面は、一度見ればだいたい」
『そういうところだけ人間離れしてるな』
「褒め言葉として受け取ります。駅員へ防火扉を閉めないよう連絡を。避難誘導は東口から始めて、地下二階で三列に分ける。歩行困難者は――」
『待て。現場指揮は俺だ』
「では指揮してください」
『あんたも来るつもりか』
「経路を知っているのは私です」
『図を描け』
「仮設壁の向こうは、図面と違う可能性がある」
『危機管理課の事務員を境界災害の現場に入れられるか』
「会計年度任用職員です」
『もっと悪い』
「久世さん」
『何だ』
「一万人です」
短い沈黙のあと、受話器越しに深いため息が聞こえた。
『防護服を着ろ。五分で正面玄関に着く。俺が到着するまで勝手に地下へ降りるな』
「努力します」
『約束しろ』
「善処します」
『それは役所が約束したくないときの言葉だろうが』
通話を切る。
長谷川課長は、私と受話器を交互に見た。
「久世隊長と、ずいぶん親しいんだな」
「三回ほど始末書を一緒に書いただけです」
「それを親しいと言うんじゃないか」
否定している時間はなかった。
庁内放送、鉄道管制、文化ホール警備、警察、地下街管理会社。連絡先を分担する。
MIKOTOはなおも再計算中だった。
その画面の隅に、私は奇妙なものを見つけた。
犠牲者内訳の詳細欄。
さっきまで権限不足で閉じられていた項目が、公文書術の干渉で一部だけ開いている。
人類分類外、五百十六体。
分類コード――AST-RFG。
AST。
その三文字を見た瞬間、心臓が止まりかけた。
アステリア。
私が十五年を過ごした異世界の名だ。
「どうして」
『再計算が完了しました』
MIKOTOの声が響く。
『九条エリカによる未承認介入を前提とした場合、推奨対応を更新します』
「表示して」
『星見中央駅の即時封鎖。九条エリカを拘束。臨時避難施設指定を無効化してください』
画面中央に、私の職員証写真が大きく表示された。
《災害拡大要因A》
「ずいぶんな評価ね」
『あなたの介入により、予測不能領域が発生しました』
「予測できない命は、見捨てる?」
『予測できない要因は、排除します』
管制室の電子錠が、がしゃりと音を立てた。
扉のランプが赤に変わる。
「課長」
「庁舎管理システムをMIKOTOに握られた」
「非常解錠は?」
「廊下側だ」
「設計した人に文句を言いたいですね」
『九条エリカ。行動を停止してください』
「お断りします」
『拒否理由を述べてください』
「十二年前、同じ命令に従ったから」
私は備品棚から、災害用の小型斧を取り出した。
長谷川課長の顔が引きつる。
「九条さん。それで扉を?」
「壁を」
「もっと駄目だろう!」
管制室の隣は、古い文書保管室だ。間仕切りは石膏ボード。異世界の城壁に比べれば、紙に近い。
一撃。
二撃。
三撃目で穴が開いた。
粉塵が舞い、火災報知器が鳴る。
『庁舎設備への破壊行為を確認』
「修繕費は私の給料から引いてください」
「半年分でも足りんぞ!」
穴を広げ、文書保管室へ抜ける。長谷川課長も、悪態をつきながらついてきた。
廊下へ出ると、正面玄関の方から重い足音が近づいてくる。
黒い防護服。肩に銀色の市章。背中には折り畳み式の霊素遮断盾。
特殊災害救助隊の四人だ。
先頭の男がヘルメットの面頬を上げた。
短く刈った黒髪。眠そうに見える目。三十二歳にしては落ち着きすぎている顔。
久世蓮は、壁に開いた穴と斧を持つ私を見て、眉間を押さえた。
「五分で何をやった」
「最短経路を作りました」
「市役所の中にダンジョンを増やすな」
彼は私に白い防護コートを投げる。
「サイズは」
「前に着たのと同じだ」
「覚えていたんですか」
「始末書を三回一緒に書けば覚える」
長谷川課長が小さく咳払いした。
「やはり親しいんじゃないか」
「課長、通信指揮をお願いします」
「話を逸らしたな」
防護コートを羽織り、職員証を首から下げる。
残り三十七分。
私たちは救助車へ乗り込んだ。
星見中央駅までは通常なら八分。深夜でも、災害警報の出ていない街は平穏だった。
コンビニの前で学生が笑っている。
タクシー乗り場には列がある。
駅前の巨大ビジョンでは、人気探索配信者《NANA/7》が新作装備を紹介していた。
『今夜は星見駅の未公開区画に潜ってみまーす! 行政が隠してる秘密ルート、本当にあるのか検証!』
画面の中で、赤い髪の少女が笑っている。
私は凍りついた。
「久世さん。あの配信、録画?」
助手席の隊員が端末を確認する。
「ライブです。視聴者八万二千。位置情報は……駅地下三階」
「最悪だ」
久世が吐き捨てる。
「警報を出せば八万人へ一気に拡散する。群衆が動くぞ」
「でも、配信を止めれば地下の映像が消える」
「使う気か?」
「現場カメラとしては優秀です」
「本人は民間人だ」
「探索者資格B級。法的には災害協力要請の対象です」
「こういうときだけ条文を武器にするな」
「剣より人を救えます」
救助車が駅前広場へ滑り込む。
すでに鉄道職員が東口のシャッターを半分下ろし、人流を絞っていた。まだ一般客は異常に気づいていない。
私たちは職員通用口から地下へ入る。
空気が一段降りるごとに冷たくなった。
地下二階。飲食店街。
地下三階。地下鉄改札。
そして地下四階へ続く保守階段の前で、私たちはNANA/7――本名、風間七海を見つけた。
赤く染めた髪を二つに結び、軽装の探索スーツに小型ドローンを三機従えている。十九歳。登録者百六十万人。無謀な検証配信で何度も炎上しているが、災害現場の募金額は国内一位という、評価に困る人物だ。
「え、何? 消防? うそ、ガチ案件?」
七海がこちらへカメラを向ける。
久世が盾でレンズを隠した。
「配信を切れ。今すぐ地上へ戻れ」
「いやいや、説明なしは逆に燃えますって。コメントもう大騒ぎだし」
空中モニターに流れる文字が、私の目にも見えた。
《消防きた》
《またナナやらかした?》
《後ろの女の人、市役所の人?》
《美人だけど顔が怖い》
《逃げた方がよくない?》
私はカメラの前へ立った。
「星見市役所危機管理課の九条です。現在、駅地下で特殊災害の可能性があります」
「九条!」
久世が止めるが、続ける。
「不確定情報による混乱を防ぐため、地上にいる方は駅へ近づかないでください。駅構内にいる方は、走らず、係員の誘導に従ってください。配信を見ている構内の方は、東口ではなく地下二階中央広場へ」
《公式?》
《職員証映ってる》
《なんで警報出てないの》
《釣りじゃないよな》
《母親が駅にいる、電話つながらん》
「風間さん。あなたのドローンで地下四階の映像をください」
「協力要請ってやつ?」
「はい。拒否できます」
「拒否したら?」
「私が一人で見に行きます」
七海は一秒だけ私を見つめ、それから配信用の笑顔を消した。
「そういう言い方、ずるいっすよ」
「よく言われます」
「報酬は?」
「市の規定に従って支払います」
「安そう」
「命は高いです」
「採用」
七海が指を鳴らす。
三機のドローンが保守階段を降りていった。
映像が空中へ展開される。
地下四階は、図面上では機械室と旧連絡坑しかない。
だが映ったのは、石造りの大広間だった。
青白い苔。
崩れた尖塔。
床一面に描かれた、六芒星と二重円の紋章。
私はその紋章を知っている。
アステリア王国の国章だ。
「嘘でしょう」
喉から声が漏れた。
ドローンが広間の奥へ進む。
そこには、人がいた。
五百人以上。
煤けた外套をまとい、角や獣耳を持つ者もいる。怪我人を抱え、怯えた目で身を寄せ合っている。
魔物ではない。
避難民だ。
MIKOTOが「人類分類外」と数えた五百十六体。
彼らの頭上で、黒い空間の亀裂が広がっていた。
境界反転の前兆。
ドローンに気づいた一人の少年が、立ち上がる。
灰色の角。痩せた頬。十歳ほど。
少年はカメラへ駆け寄り、震える声で叫んだ。
『誰か、聞こえますか! この向こうに、人がいるんですか!』
七海の翻訳アプリは反応しない。
けれど私には、はっきり分かった。
アステリア西部方言。
少年は続ける。
『黒月が来ます! 門が閉じたら、みんな死ぬ!』
私はドローンの通信マイクを奪うように取った。
「聞こえます。こちらは安全な場所です。今、迎えに行きます」
少年が目を見開く。
『その言葉……王都の言葉だ』
「名前は?」
『テオです。灰角族のテオ』
「テオ。そこに何人いる?」
『五百十六人。昨日までは五百二十人でした』
昨日まで。
胸の奥が冷たくなる。
「分かりました。全員、助けます」
久世が私の肩を掴んだ。
「九条。安請け合いするな」
「安くありません。市の責任です」
「異世界人まで市民扱いする法律はない」
「さっき、対象に書きました」
「紙一枚で――」
ドローンの映像の中で、少年がこちらを凝視している。
やがて、信じられないものを見たように唇を震わせた。
『その声……』
「どうしました?」
『母さんが、昔話で言ってた。黒い髪で、青い目の公爵令嬢が、世界の門を開いたって』
私は無意識に、自分の右目へ触れた。
日本へ戻ってからは、両目とも黒い。
けれど公文書術を使うときだけ、右目はアステリアで得た青に戻る。
ドローンのカメラに、今の私の顔が小さく映っていた。
右目だけが、鮮やかな群青に光っている。
少年テオは、その場に膝をついた。
『エリカ・アルヴェイン公爵令嬢様』
地下の避難民たちが、波のようにこちらを振り向く。
『どうか、今度こそ』
少年の声が震えた。
『僕たちを見捨てないでください』
画面の端で、残り時間が二十九分五十九秒へ変わった。
MIKOTOが静かに告げる。
『警告。九条エリカが救助活動を継続した場合、星見市の消滅確率は七二・一パーセントです』
私は防護コートの襟を閉じた。
「上等です」
十二年前、私は神託に負けた。
今度は、計算の方を間違いにしてやる。




