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短編

侯爵令嬢は鮫のような恋人を愛したが、無害なクジラだと思った婚約者に喰われた

作者: マンムート
掲載日:2026/04/17




「お嬢さま」


 長年側仕えをしてくれている侍女が、そっと囁く。


「お相手を美醜だけで判断なさっては……取り返しのつかないことに……」


 どういう意味?


 と訊き返すより前に、侍女は小声では届かない場所へ下がっていた。



 侯爵家の庭。


 ふたりきりのテーブル。


 侯爵令嬢は、婚約者と初めて顔を合わせた。


 相手は子爵令息。


 礼儀作法に則った面倒なやり取りをしながら相手を観察する。


 相手の顔はクジラと似ている。


 低い鼻、大きく張って突き出した顎、離れ気味の小さな目。


 しかも若いのに額の髪はすでに後退していた。


 醜悪だ。


 体は大きいが、手足は短い。


 やはりクジラだ。


 侯爵令嬢は、恋人である男爵令息を思い浮かべる。


 恋人は鮫に似ていた。


 鋭い顎、尖った鼻、吊り上がった切れ長の目。


 彼女が贈ったブルーサファイアよりも美しい青い瞳。


 何もかもが鋭く美しい彼。


 ベッドの中で泳がされる時の、彼の手つき。


 侯爵令嬢としての慎みをたちまち失せさせる甘いささやき。


 彼女は、何もかも捨ててこのひとと、と思ってしまう自分の愚かささえもがいとおしかった。



 唯一、愛しい恋人である鮫が愚鈍なクジラに叶わないのは、爵位。


 このままでは、いくら娘に甘い父でも相手が男爵令息では許してはくれまい。


 出来るとすれば……自分が傷モノになった場合だけ。


 自分が政治に使えなくなれば、相手が男爵でも飲み込まざるを得ないはず。


 その点、目の前の男は、都合がいい。



 クジラの側仕えが、そっと近づいて来て、小さな耳に何かささやいた。


 侯爵令嬢は、ほんのわずかに口角をあげた。


 笑みを、抑えられなかった。


 このために、幾十枚も送られて来た釣り書きの中からクジラを選んだのだ。


 婚約者との顔合わせの度に、病弱な従妹が具合を悪くし、幾度も婚約を解消されているこいつを。


 それを口実に婚約破棄をすれば……彼女は傷モノと――



「ああ、無視して」


 クジラは平坦な声で告げた。


「「は」」


 侯爵令嬢と側仕えは、同時に間の抜けた声を漏らした。


「私は今、婚約者である侯爵令嬢と顔合わせをしているんだ。伯爵令嬢如きの見舞いのために抜けるわけがないだろう?」


「それは、そうですが。ですが、今までは」


「ああ、今までは。今までの相手は皆、子爵令嬢か男爵令嬢だったからね。でも、これからは違う」


「で、ですが、お嬢様がどんなに哀しむか……」


「哀しむほど元気なんだろ? なら問題ない。それに――」


 クジラが侯爵令嬢の背後を見て、軽く目礼した。


 背筋に寒さを感じて、思わず振り返った侯爵令嬢は、


「! お、お父様!?」


 侯爵令嬢の父は、読めない表情で彼女を見ると、


「これ以上、手間をかけさせるな」


 と、いつになく冷淡な口調で突き放してから、クジラに、


「あの器用に具合を悪く出来る御令嬢のところへは、医師たちを派遣した。本当に病気なら療養を勧め、仮病ならそれ相応の処置をとる」


 そのセリフは、事前に打ち合わせたようになめらかだった。


「ありがとうございます」


 侯爵令嬢の父は、少しだけ口元をゆるめ。


「婿殿、礼はいらん。お互いがお互いの問題を片付けただけだからな」


 侯爵令嬢は目を見開いた。


 婿殿。


 すでにこの愚鈍なクジラを、彼女の配偶者と決定しているのだ。


 しかも、その声には、どこか……既に目の前の男と通じ合っているものがあった。


 婚約者の前にも関わらず、彼女は父に食って掛かろうとしたが、


「ああ、実は私、昨日、犯罪者を捕まえましてね。貴女が知る筈がない相手ですが」


 クジラが告げた名前は、彼女の恋人の名前だった。


「……なぜ」


「問題を片付けただけです」


 小さな黒い瞳。


 その奥にひどく冷たい光があることに、侯爵令嬢は今さら気付かされた。


「何人もの貴族の子女をたぶらかして、金銭を毟り取っていた悪党でしてね。巧みに密会の日取りをずらしたりして行動がつかめず、なかなか証拠があがりませんでしたが……さる高位貴族の子女との密会現場を抑えましてね」


 クジラはなぜか、彼女の侍女を見た。


 侍女は、身を縮こませ、怯えた目をして侯爵と……クジラを見て、目を伏せた。




「! お、おまえ!」



 侍女が、侯爵令嬢と恋人が遭っている日を漏らしたのだ。


 侯爵令嬢は裏切りに激昂し立ち上がったが――



「何人もの御令嬢と身体の関係にまでなっていたようですが……男にとっては単なる金ずる金づるだったようで、娼館の高級娼婦にせっせと貢いでましたよ。令嬢達に贈られたものは、全てね」


 その声で、動きを縫い留められた。


「さる御令嬢から贈られたブルーサファイアの指輪など実に高価なものでしたよ」


 振り向きたくないのに、彼女は、操られるように振り向いた。


 クジラは笑っていた。


 突き出した大きな顎、それがわずかに開き、歯が覗いた。


 それは、まるで――


「彼女の家の名誉のために、その件は伏せておきますがね」


 鮫だった。


 黒い瞳の奥には獰猛なものがあった。


 彼女を喰らう相手として見ている目だった。



 侯爵令嬢は、がくり、と椅子に崩れ落ちた。



 この鮫からは逃げられない。


たくさんの作品の中から、本作をお読みいただきありがとうございました。


最後までお付き合いいただけたこと、とても嬉しく思います。


少しでも心に残るものがあったり、何かを感じていただけたなら、


評価や感想をいただけるととても励みになります。


別の物語も書いておりますので、もしよろしければ、そちらも覗いてみてください。


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