侯爵令嬢は鮫のような恋人を愛したが、無害なクジラだと思った婚約者に喰われた
「お嬢さま」
長年側仕えをしてくれている侍女が、そっと囁く。
「お相手を美醜だけで判断なさっては……取り返しのつかないことに……」
どういう意味?
と訊き返すより前に、侍女は小声では届かない場所へ下がっていた。
侯爵家の庭。
ふたりきりのテーブル。
侯爵令嬢は、婚約者と初めて顔を合わせた。
相手は子爵令息。
礼儀作法に則った面倒なやり取りをしながら相手を観察する。
相手の顔はクジラと似ている。
低い鼻、大きく張って突き出した顎、離れ気味の小さな目。
しかも若いのに額の髪はすでに後退していた。
醜悪だ。
体は大きいが、手足は短い。
やはりクジラだ。
侯爵令嬢は、恋人である男爵令息を思い浮かべる。
恋人は鮫に似ていた。
鋭い顎、尖った鼻、吊り上がった切れ長の目。
彼女が贈ったブルーサファイアよりも美しい青い瞳。
何もかもが鋭く美しい彼。
ベッドの中で泳がされる時の、彼の手つき。
侯爵令嬢としての慎みをたちまち失せさせる甘いささやき。
彼女は、何もかも捨ててこのひとと、と思ってしまう自分の愚かささえもがいとおしかった。
唯一、愛しい恋人である鮫が愚鈍なクジラに叶わないのは、爵位。
このままでは、いくら娘に甘い父でも相手が男爵令息では許してはくれまい。
出来るとすれば……自分が傷モノになった場合だけ。
自分が政治に使えなくなれば、相手が男爵でも飲み込まざるを得ないはず。
その点、目の前の男は、都合がいい。
クジラの側仕えが、そっと近づいて来て、小さな耳に何かささやいた。
侯爵令嬢は、ほんのわずかに口角をあげた。
笑みを、抑えられなかった。
このために、幾十枚も送られて来た釣り書きの中からクジラを選んだのだ。
婚約者との顔合わせの度に、病弱な従妹が具合を悪くし、幾度も婚約を解消されているこいつを。
それを口実に婚約破棄をすれば……彼女は傷モノと――
「ああ、無視して」
クジラは平坦な声で告げた。
「「は」」
侯爵令嬢と側仕えは、同時に間の抜けた声を漏らした。
「私は今、婚約者である侯爵令嬢と顔合わせをしているんだ。伯爵令嬢如きの見舞いのために抜けるわけがないだろう?」
「それは、そうですが。ですが、今までは」
「ああ、今までは。今までの相手は皆、子爵令嬢か男爵令嬢だったからね。でも、これからは違う」
「で、ですが、お嬢様がどんなに哀しむか……」
「哀しむほど元気なんだろ? なら問題ない。それに――」
クジラが侯爵令嬢の背後を見て、軽く目礼した。
背筋に寒さを感じて、思わず振り返った侯爵令嬢は、
「! お、お父様!?」
侯爵令嬢の父は、読めない表情で彼女を見ると、
「これ以上、手間をかけさせるな」
と、いつになく冷淡な口調で突き放してから、クジラに、
「あの器用に具合を悪く出来る御令嬢のところへは、医師たちを派遣した。本当に病気なら療養を勧め、仮病ならそれ相応の処置をとる」
そのセリフは、事前に打ち合わせたようになめらかだった。
「ありがとうございます」
侯爵令嬢の父は、少しだけ口元をゆるめ。
「婿殿、礼はいらん。お互いがお互いの問題を片付けただけだからな」
侯爵令嬢は目を見開いた。
婿殿。
すでにこの愚鈍なクジラを、彼女の配偶者と決定しているのだ。
しかも、その声には、どこか……既に目の前の男と通じ合っているものがあった。
婚約者の前にも関わらず、彼女は父に食って掛かろうとしたが、
「ああ、実は私、昨日、犯罪者を捕まえましてね。貴女が知る筈がない相手ですが」
クジラが告げた名前は、彼女の恋人の名前だった。
「……なぜ」
「問題を片付けただけです」
小さな黒い瞳。
その奥にひどく冷たい光があることに、侯爵令嬢は今さら気付かされた。
「何人もの貴族の子女をたぶらかして、金銭を毟り取っていた悪党でしてね。巧みに密会の日取りをずらしたりして行動がつかめず、なかなか証拠があがりませんでしたが……さる高位貴族の子女との密会現場を抑えましてね」
クジラはなぜか、彼女の侍女を見た。
侍女は、身を縮こませ、怯えた目をして侯爵と……クジラを見て、目を伏せた。
「! お、おまえ!」
侍女が、侯爵令嬢と恋人が遭っている日を漏らしたのだ。
侯爵令嬢は裏切りに激昂し立ち上がったが――
「何人もの御令嬢と身体の関係にまでなっていたようですが……男にとっては単なる金ずる金づるだったようで、娼館の高級娼婦にせっせと貢いでましたよ。令嬢達に贈られたものは、全てね」
その声で、動きを縫い留められた。
「さる御令嬢から贈られたブルーサファイアの指輪など実に高価なものでしたよ」
振り向きたくないのに、彼女は、操られるように振り向いた。
クジラは笑っていた。
突き出した大きな顎、それがわずかに開き、歯が覗いた。
それは、まるで――
「彼女の家の名誉のために、その件は伏せておきますがね」
鮫だった。
黒い瞳の奥には獰猛なものがあった。
彼女を喰らう相手として見ている目だった。
侯爵令嬢は、がくり、と椅子に崩れ落ちた。
この鮫からは逃げられない。
たくさんの作品の中から、本作をお読みいただきありがとうございました。
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別の物語も書いておりますので、もしよろしければ、そちらも覗いてみてください。




