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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

石田堤綺譚

作者: Renf
掲載日:2026/01/18

豊臣秀吉が石田三成に忍城の制圧を命じた。

その方法は水責め。忍城の周囲に石田堤を敷設し、城ごと水へ沈めてしまう豪胆な方法だった。

三成は参謀に命じ、現場施工チームを設定した。現場リーダーに任されたのは田中太郎――百姓から身を起こし、土木の現場を渡り歩いてきた男である。

彼は大規模工事の図面を前に頭を抱えた。利根川の水を引き、三里に及ぶ堤を築く。前例のない規模だ。

太郎は十日間、寝ることを忘れた。いや、眠れなかったと言うべきか。図面を広げ、そろばんを弾き、何度も何度も計算をやり直した。人足の数、木材の量、石の調達先、工程の組み方。一つでも狂えば全体が崩壊する。夜が明けても気づかず、気がつけば蝋燭が燃え尽きていた。

手は震え、目は充血し、頭は割れそうに痛んだ。だが止められなかった。

現場の人間たちの顔が浮かぶ。彼らは太郎を信じている。「田中の兄貴が言うなら」と、どんな無理でもついてきてくれる。その信頼を裏切ることはできない。

七日目、太郎は崩れ落ちた。もう無理だ。できない。そう思った。だが翌朝、まだ暗いうちに目が覚めた。体が勝手に図面の前に座っていた。

そして十日目の夜明け前、ついに一つの答えに辿り着いた。

人足三千、木材は近隣の山林から伐採、石は河原から集める。工期は四十日。ぎりぎりの線だが、やれる。いや、やらねばならない。太郎は震える手で最後の数字を書き込んだ。

計画書を書き上げた瞬間、太郎は声を上げて泣いた。安堵か、疲労か、自分でもわからなかった。ただ涙が止まらなかった。

これでいける。この計画なら、忍城を落とせる。

太郎はそう確信していた。

計画書を上長の上田徳和に送った。彼は島左近を通じて三成から依頼された近江屋――正確には京の豪商が興した請負会社――の責任者の一人である。徳和は計画書に目を通すと、顔をしかめた。

「これでは殿の荘厳さが出ないではないか」

一蹴だった。

「砂と石と木だけで済ませるつもりか。天下人の御威光を示す堤である。銀瓦を葺き、金箔を施した櫓を並べ、見る者が震えおののくような美しいものを建てるべきだ」

現場の予算を把握しない彼の意見に、太郎は歯がゆい思いをした。だが徳和は島左近と直に話ができる立場にある。現場の人間が口を挟める余地はない。

「……一度、計画の見直しを行います」

太郎はそう答えるしかなかった。

---

ぞんざいに扱われた計画書を前に、太郎は頭を抱えた。

「荘厳さなど何になるというのだ。とにもかくにも実現せねばならぬというのに!」

だが時間はない。どれほど理不尽でも、上田の言う通りに計画を改定しなければ、工事は始まらない。

太郎は再び図面に向かった。

金箔を施した櫓。銀瓦を葺いた堤。そんなものをどこから調達する? 誰が作る? どうやって運ぶ? 太郎は京、大坂、堺の商人を片っ端から訪ね歩いた。ある者は法外な値を吹っかけ、ある者は工期に間に合わないと断った。

三日目、ようやく金箔職人を見つけた。だが彼は言った。「この量を四十日でか? 職人を十人集めても厳しい」太郎は頭を下げた。「頼む。何としてでも」

五日目、銀瓦を扱う商人と交渉がまとまった。だが輸送費が予算を圧迫する。太郎は自分の報酬を削ることを申し出た。

七日目、木材の手配を変更した。当初の計画では近隣の山林から切り出す予定だったが、装飾用の材木は京から取り寄せねばならない。工程を組み直す。人足の配置を変える。全てが連鎖的に崩れていく。

太郎は再び眠れなくなった。家には帰らなかった。帰れなかった。妻の顔も、子供の笑顔も、今は思い出すことすらできない。ただ数字と、図面と、そろばんだけがあった。

十日目、改定計画がようやく完成した。工期は六十日に延び、予算は倍になった。だがこれしかない。太郎は計画書を抱えて、上田のもとへ走った。

家に帰らずそのまま上田のもとへ。改定された計画書を見て上田は言った。

「ふむ。まぁよかろう。よく頑張った」

太郎の力が抜けた。膝が笑う。視界が滲む。走り回ってよかった。これでようやく、家に帰れる。家族の顔を拝める。

「田中、どうだろう? せっかくだから貴様の苦労を労いたい。このあとどうだ?」

花魁と共に座敷に上がり込んだ二人はバカに騒ぎ始めた。座敷は八畳ほどの広さで、床の間には掛け軸が飾られ、違い棚には青磁の花瓶が置かれていた。畳の上には朱塗りの膳が二つ並び、銚子と杯が光を反射している。花魁は紅絹の打掛を纏い、簪が揺れるたびに小さな鈴の音を立てた。上田は紺地に家紋を染め抜いた羽織を着崩し、太郎は泥と汗に汚れた仕事着のまま、場違いな格好で胡坐をかいていた。

上田は杯を煽ると、急に声を潜めた。

「なあ田中。正直に言うとな、この仕事、ワシにとっては千載一遇の機会なんだ」

太郎は杯を持つ手を止めた。

「殿の仕事に関われば、近江屋での立場が一気に上がる。いや、それどころか独立も夢じゃない。だからな、多少無理を言ったのは済まなかった。だがワシも必死なんだ」

上田は苦笑した。

「社内でな、この仕事の担当を巡って泥沼の争いがあった。佐藤も、山田も、日高も、みんなこの仕事が欲しかった。誰もが殿の名前を自分の実績にしたがっている。結局ワシが勝ち取ったが、あいつらは今も虎視眈々と狙っておる。一つでも躓けば、すぐに引きずり下ろされる」

上田は太郎の肩を叩いた。

「だから頼む。お前の力でワシを勝たせてくれ。そうすればお前にも十分な礼はする。約束だ」

太郎は複雑な思いで頷いた。上田もまた、組織の中で戦っているのだ。

が、急に襖が開いた。

「上田! この計画書はなんだ?」

上がり込んできたのは上田の会社の上長、佐藤一夫である。黒の紋付羽織袴を着込んだ小太りの男で、額には脂汗が浮いていた。懐から取り出した計画書を振りかざす。

「予算がオーバーしておる。作り直させろ」

上田は太郎を見ると言った。

「そういうことだ。作り直してくれ」

太郎の中で何かが切れた。

十日間寝ずに練り上げた最初の計画。涙を流して完成させたあの計画書。それを否定され、さらに十日間走り回って作り直した改定計画。職人に頭を下げ、商人と交渉し、自分の報酬まで削った。家族の顔も見ずに、ただ働き続けた二十日間。

そのすべてが、この男たちの利権争いのために、また無駄になる。

利権など、どうでもいい。太郎が望んでいたのはただ一つ――期限通りに仕事を完遂することだけだった。現場の者たちが信じてついてきてくれる。それに応えたかった。ただそれだけだった。

だがこの男たちは違う。殿の名を自分の箔付けに使いたいだけ。現場のことなど何も考えていない。太郎の二十日間など、何の価値もないのだ。

太郎の視界が赤く染まった。

――こいつらがいなくなれば。

そう思った瞬間、体が動いていた。

太郎は床の間に飾られていた刀をぶんどった。鞘を払うと、刃が蝋燭の灯を受けて鈍く光る。

――こいつらが全員いなくなれば、私の仕事が邪魔されることはない。

そのまま上田の首を薙いだ。

血が噴水のように吹き出した。

最初は天井へ向かって弧を描き、次いで畳を、膳を、花魁の打掛を赤く染めていく。上田の胴体は数秒ほど座ったまま痙攣し、やがて横倒しになった。首は膳の上に転がり、杯を倒して酒と血が混ざり合った。花魁は小さく悲鳴を上げ、両手で顔を覆った。指の間から血飛沫が滴り落ちる。

「なにをしておる!」

佐藤が喚く。彼の羽織の袖にも血が飛んでいた。

「とりあえずワシが貴様の計画を指示する! 急ぎ直せ!」

太郎は返す刀で佐藤の胸を袈裟懸けに斬り下ろした。紋付が裂け、肉が開き、肋骨が砕ける音がした。佐藤は両手で傷口を押さえたが、指の間から内臓が零れ落ちる。彼は膝から崩れ、畳の上に這いつくばったまま絶命した。

奥の襖が開いた。

「佐藤の同僚の山田だ。こうなった以上ワシが貴様に指示を出そう」

山田は灰色の着流しを着た痩せぎすの男だった。眼鏡の奥の目は細く、口元には薄ら笑いが浮かんでいる。

「お前は同僚が死んだことについて何も思わないのか」

その言葉は山田には響いていないようだった。

「殿との仕事をやったとなれば、その報奨金は莫大、そして今後の仕事にもつながるだろう。とりあえずワシの名前がそこにあればいいのだ。上田が失敗したんだ、次はワシの番だ。ケケケ、田中、早く計画書を直せ」

花魁が震える声で笑い始めた。ひひ、と喉の奥から漏れるような笑いだった。

太郎は踏み込むと同時に刀を水平に振るった。山田の首が宙を舞い、眼鏡だけが先に畳へ落ちた。胴体はしばらく立ったまま血を噴き上げ、やがて後ろへ倒れた。

奥襖が開く。

「私は日高明夫。上田も佐藤も山田も死んだ。次は私の番だ」

茶色の商人風の羽織を着た中年の男である。

太郎は返事もせず、喉を突いた。日高は両手で首を押さえたが、気管から空気と血が泡立って噴き出す。彼は膝をついたまま窒息し、顔を紫色に変えて事切れた。

花魁の笑い声が高くなった。ひひひひ、と。

奥襖が開く。

「私は――この仕事、私がやりたかった――」

縞模様の着物を着た若い男だった。

太郎は袈裟に斬り下ろした。男は肩から脇腹まで真っ二つに裂かれ、臓物を撒き散らしながら倒れた。

花魁は笑い続けている。もはや声にならない、喘ぐような笑いだった。

さらに奥襖が開く。開く。開く。

紺、紫、萌葱、鼠色――様々な色の着物を纏った男たちが現れては、太郎の刃に倒れていった。

「この仕事は私のものだ」

「いや、私が」

「殿の名を、私の実績に」

彼らは口々に叫び、そして斬られた。座敷の畳はもはや畳の色を失い、血の絨毯と化していた。天井からは血が滴り落ち、床の間の掛け軸は赤黒く染まって文字が読めなくなっていた。違い棚の青磁の花瓶は血飛沫で赤く塗れ、中の花は萎れて首を垂れている。

花魁は笑い続けていた。最初は恐怖の悲鳴だったものが、やがて引きつった笑いに変わり、今では腹を抱えて笑い転げている。血に濡れた白塗りの顔は涙と血で歪み、口紅が滲んでいた。

座敷の中は血でいっぱいになった。膝の高さまで血が溜まり、波打っている。その血の上を、花魁が紅絹の打掛を広げたままぷかぷかと浮いていた。簪は失われ、白塗りの顔に血が筋を描いている。彼女は笑っていた。狂ったように、けたたましく笑い続けていた。あまりに異常な光景に、彼女の精神は壊れてしまったのだろう。

突如、襖が勢いよく開いた。血の海が堰を切ったように廊下へ溢れ出し、廊下の板張りを赤く濡らしていく。

あらわれたるは島左近その人である。

彼は濃紺の陣羽織を纏い、腰には大小を差していた。血の海を見ても表情一つ変えず、ただ太郎を睨みつけた。

「何をしておる!」

血に染まった肩で息をする太郎は、刀を杖のようについて立ち上がった。刃は刃こぼれし、柄には血が滴っている。

「こんなことしてる場合じゃないのはわかっております。しかし現場がいくら頑張っても、間にいる連中が誰も気にしていないことで仕事を止めるのです」

島左近は血の海を踏み越えて太郎の前に立った。血が彼の草履を濡らし、袴の裾を汚す。

「どうでもよい! お前がやれ!」

---

翌日、太郎が計画した石田堤の施工が開始された。


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