第24話:清冽なる水
歩くたびに、バリバリと嫌な音が鼓膜を打つ。
皮膚の上で乾燥した泥と蜜が、ひび割れる音だ。
関節が曲がりにくい。膝の裏や脇の下、太ももの付け根といった柔らかい皮膚が、固まった汚れの層に挟まれて悲鳴を上げている。動くたびに産毛が引き抜かれるような微細な痛みが走った。
重い。
全身に鎧を一着余分に着込んでいるような重量感。
そして何より、臭い。
腐葉土のツンとする酸味。蜜の甘ったるい腐臭。潰した虫の体液の青臭さ。
それらが体温で温められ、歩くたびに襟元から濃厚な澱となって立ち上ってくる。
自分たちが、歩く汚物そのものになったような錯覚。
肺の中まで泥に侵されたような閉塞感に、気が狂いそうになる。
「……水……」
ミオがうわ言のように呟く。
目は虚ろだ。泥で固まった睫毛が重そうに瞬いている。瞬きをするたびに、目の端から泥のカスがポロポロと落ち、充血した白目を傷つける。
唇は乾いてひび割れ、そこから滲んだ血さえも泥と混ざって黒ずんでいる。
ルナがミオの手を引いているが、その手も泥の塊のようだ。指の境目さえ分からないほど汚れが詰まり、爪の間は真っ黒に染まっている。かつての聖女の面影は、どこにもない。
アリサは先頭を歩くセリアの背中を見つめていた。
艶やかだった黒髪は泥と蜜で固められ、太いロープの束のようになっている。背中の美しい筋肉のラインも、今はただの凸凹した泥壁にしか見えない。
だが、その足取りだけは確かだった。
水を探す。その執念だけで動いている。
一歩踏み出すたびに、内腿から「ネチャリ」と粘着質の音がする。
それが四人の神経を逆撫でする。
本来は清浄であるべき柔らかな場所にまで、泥と蜜が入り込んでいる証拠だ。
一時間ほど歩いただろうか。
湿度が変わった。
ムッとする熱帯雨林特有の熱気が引き、ひんやりとした冷気が足元から漂ってくる。
そして音。
ザー……という、連続した轟音。
風の音ではない。葉擦れの音でもない。圧倒的な質量を持った水流の音。
「……聞こえるか?」
セリアが足を止める。
泥だらけの顔を振り返る。泥のマスクの中で、白目だけが異様に白く、飢えた獣の目のように鋭く光っている。
「水音……です」
アリサが答える。乾いた喉が、木屑が擦れるような音を立てて鳴る。
「それも、大量の」
四人は音のする方へ足を速めた。
棘のある藪をかき分ける。泥がボロボロと落ちる。肌が傷つくことなど、もう誰も気にしていない。
巨大な岩壁が現れた。その裂け目。
そこから、冷たい霧を含んだ風が吹き出している。
中に入る。
暗い。だが、目が慣れると青白い光が見えた。
発光する苔が天井を覆い、天然のプラネタリウムのように輝いている。
そして、その奥に。
「あった……!」
ルナが叫んだ。声が裏返る。
滝だ。
岩壁の高いところから、清冽な水が白い布のように落ちている。
水しぶきが煙のように舞い上がり、マイナスイオンを充満させている。
滝壺は広く、底の小石が見えるほど透明な水を湛えている。
偽物ではない。甘い匂いもしない。ベタベタもしない。
本物の、純粋な水。
神々しいまでの透明度が、四人の汚れた網膜を灼く。
「水だぁぁぁぁ!」
ミオが叫び、走り出した。
泥の人形が走る。
服を脱ぐ手間さえない。すでに服は溶けてなくなっているか、泥の一部になっているのだから。
ミオはそのまま、頭から滝壺に飛び込んだ。
ドボォン!
激しい水音。
透明だった水が、一瞬で茶色く濁る。
だが、滝から注がれる大量の水流が、すぐに汚れを押し流し、透明度を取り戻していく。
「ぷはぁっ!」
ミオが顔を出す。
顔の表面の泥が落ち、白い肌が部分的に覗いている。まだら模様だが、その白さが眩しい。
「冷たい! 気持ちいい! 本物の水だよぉ!」
ミオが水をすくって飲む。ゴクゴクと喉を鳴らす。
涙と共に、目元の泥が洗い流されていく。
それを見て、残りの三人も駆け出した。
アリサも飛び込む。
ザブンッ。
冷たい衝撃。
全身を包み込む清涼感。
虫に噛まれた傷、植物にかぶれた肌、蜜で塞がれた毛穴。
熱を持っていた全ての場所が、一気に冷却される。
細胞が収縮し、そして呼吸を再開する感覚。
泥が水に溶け、重力から解放される。
水中で目を開ける。痛くない。沁みない。ただただ、気持ちいい。
セリアも、ルナも、頭まで水に浸かった。
水中で髪を振るう。固まった汚れが煙幕のように広がる。
全員が顔を上げた。
互いの顔を見る。
まだ泥だらけだ。髪には粘着質の蜜が絡みつき、簡単には落ちそうにない。水で濡れたことで、逆にヌメリが復活している部分もある。
「洗うぞ。徹底的にだ」
セリアが言った。
岸に上がり、マジックバッグから石鹸と硬めのブラシ、粗いスポンジを取り出す。
貴重な消耗品だが、惜しんでいる場合ではない。皮一枚剥いででも、この汚れを落とさなければ気が済まない。
「ミオ、こっちに来い。髪が酷いことになってる」
セリアが手招きする。
ミオが素直に近づく。
セリアは石鹸を泡立て、ミオの頭に乗せた。
ゴシゴシと洗う。いや、それは「洗う」というより「洗濯」に近い荒っぽさだ。
泡が一瞬で茶色くなる。
蜜が固まって櫛が通らない。髪の毛同士が接着剤で固められたようになっている。
「痛い、痛いよセリア」
「我慢しろ。解さないと取れない。……くそっ、しぶといな」
セリアの指が、ミオの頭皮をマッサージするように、強く、丹念に動く。
爪を立てて、頭皮にこびりついた蜜を剥がす。
泥水がミオの顔に垂れる。それをミオが手で拭う。
ようやく、本来の銀色の髪が見え始めた。キュッ、キュッ、と清潔な音が鳴り始める。
アリサはルナの背中を流していた。
豊満な背中。
白い肌に、赤い虫刺されの跡がいくつもある。蜂に舐められた跡が、赤く爛れている。
スポンジで擦る。
ヌルリとした粘液の膜が、なかなか取れない。水を含むとローションのように伸びてしまうのだ。
「ルナさん、少し痛いかもしれません。強く擦ります」
「ええ……お願い。皮が剥けてもいいから、全部落として」
ルナが岩に手をついて、四つん這いになり背中を反らす。
アリサは力を込めた。
キュッ、キュッ。
肌が軋む音。
スポンジが皮膚を強く摩擦する。
泡が茶色から白に変わっていく。
汚れが落ち、本来の透き通るような白さが戻ってくる。そのコントラストが目に焼き付く。
腰のくびれ、そしてお尻の膨らみまで丁寧に洗う。
ルナがビクンと反応する。
「あ……そこ、蟻が……這ったの……」
ルナが恥ずかしそうに呟く。
アリサは指先にたっぷりと石鹸をつけ、太ももの裏から柔らかな膨らみの下をなぞった。
ヌルリ。
滑らかな感触。
中には触れない。けれど、ギリギリの境界線を執拗に洗う。
ルナが腰を震わせるが、拒絶はしない。むしろ、もっと強く洗って、異物感を消し去ってほしいとばかりに体重を預けてくる。
肌に残る虫の足跡を、指紋で上書きしていくように。
汚された記憶を、仲間との触れ合いで塗り替えていく儀式。
一通り汚れを落とすと、滝壺の水が白く濁った。
だが、滝の水流がすぐにそれを浄化していく。
永遠に尽きることのない水。
「次は私の番ね」
ルナが振り返り、アリサの方を向く。
優しい目。でも、その瞳の奥には熱が宿っている。
花粉の影響が、まだ完全には抜けていないのだ。
綺麗になった肌が、血流の良さで桜色に染まっている。
ルナの手がアリサの胸に伸びる。
たっぷりと泡立てた手。
ヌルヌルとした感触。
石鹸の滑りを利用して、胸を包み込む。
洗う、という動作だが、それは明らかに愛撫だった。
指先が円を描くように動く。こびりついた汚れを落とすという名目で、敏感な先端を爪先で弾く。
「んっ……」
アリサの声が漏れる。
洞窟の中は音が反響する。恥ずかしい。
「まだ汚れてるわよ。ここの隙間とか」
ルナの指が、胸の谷間を滑る。
脇の下。二の腕の内側。
敏感な場所ばかりを狙って洗われる。
泡の感触が、無数の虫に這われた記憶を上書きしていく。
「耳も……洗ってあげる」
ルナが囁く。
石鹸のついた指が、耳の複雑な形状をなぞる。
クチュ、クチュ。
水音が耳のすぐそばで響く。
まだ残っていた羽音の幻聴が、ルナの指によって掻き出されていく。
その背徳的な気持ちよさに、アリサは膝が崩れそうになった。
ルナの吐息が首筋にかかる。清潔な石鹸の香りが、甘い蜜の匂いを駆逐していく。
向こうでは、セリアとミオが洗い合っていた。
ミオがセリアの背中に抱きついている。
洗い終わった体同士の密着。
「セリアの背中、きれい……筋肉すごい……」
ミオの手が、セリアの腹筋をなぞる。へその窪みを指でなぞる。
セリアは拒まない。
されるがままになっている。
セリア自身も、ミオの太腿を洗っていた。
内側。股間の近く。
際どい場所を、スポンジではなく素手で。
石鹸で滑りを良くした指が、太腿の付け根を往復する。
「ひゃぅ……くすぐったい……」
ミオが身をよじる。
水面下で、セリアの指が動いているのが分かる。
そこはもう、汚れなどないはずなのに。
セリアの指は止まらない。
蟻に噛まれた痕を探すように、太ももの一番奥、柔らかな内側を指で圧迫し、確認し、そして撫でる。
痛みと快感が混ざり合い、ミオの白い太腿が小刻みに痙攣する。
指が動くたびに、水中で透明な波紋が広がる。
全員が綺麗になった頃には、一時間以上が経過していた。
体は冷えているはずなのに、芯が熱い。
肌が擦れ合う感触。
石鹸の清潔な香り。
そして、互いの裸体を見せ合う開放感。
泥の下から現れた肢体は、虐げられた反動で、以前よりも神々しく、そして淫らに見えた。
水滴を弾く肌の張り。上気した頬。濡れた唇。
四人は浅瀬に移動し、平らな岩の上に座った。
腰まで水に浸かる半身浴の状態。
お湯ではないが、清浄な水に浸かっているだけで心地いい。
セリアがアリサの隣に来た。
濡れた黒髪をかき上げる。水滴が顎から滴り、白い鎖骨へ落ちる。
引き締まった体躯。水に濡れて光る肌。
先日の傷跡――ヒュドラに噛まれた腕の傷も、ルナの魔法で塞がり、薄いピンク色の痕になっている。
アリサは無意識にその傷に触れた。
指先でなぞる。
「……痛みますか?」
「いや。……ただ、疼く」
セリアがアリサの手を握り返す。
強い力。痛いほどに。
「アリサが生きててよかった。……本当に」
セリアが顔を近づける。
青い瞳が、至近距離でアリサを捉える。
キス。
唇が重なる。
冷たい水の味。でも、口の中は熱い。
舌が絡み合う。
チュッ、という水音が洞窟に響く。
「ん……泥の味がしない」
セリアが呟く。
「当たり前です……」
アリサが顔を赤くする。
今まで泥を舐め合っていたのではない。今は、清潔な互いを味わっている。
その事実が、たまらなく嬉しい。
ミオとルナも、抱き合っていた。
ミオがルナの豊かな胸に顔を埋めている。
甘えている。
ルナがミオの頭を優しく撫でる。
白い肌と白い肌が重なり、溶け合うようだ。
ここはダンジョンの深層。
危険な場所。
でも、今だけは。
この水辺だけは、四人の聖域だった。
「……ねえ」
ミオが顔を上げる。頬が赤い。目はトロンと潤んでいる。
「みんなで……温め合おう?」
その言葉の意味を、誰もが理解した。
水が冷たいからではない。
心が寒いからだ。恐怖の記憶を、仲間の体温で溶かしたいからだ。
生きてここにいることを、肌で確認したいからだ。
四人は身を寄せ合った。
アリサを中心にして、団子のように。
セリアが後ろからアリサを抱く。背中に弾力のある胸が押し当てられる。
ミオが前から抱きつく。細い足がアリサの腰に絡まる。ミオの柔らかな場所がアリサの太腿に押し付けられる。
ルナが横から寄り添い、二人の体を包み込む。豊満な太腿が密着する。
肌と肌が密着する。
柔らかい肉の感触。
誰かの手が、アリサの胸を揉む。セリアの手だ。指が食い込む強さが心地いい。
誰かの足が、アリサの足を擦る。ミオの足だ。足の指で弄ばれる。
誰かの唇が、アリサの首筋を吸う。ルナだ。吸い付く音が耳元で響く。
境界線が消える。
四つの体が、一つの塊になる。
不潔な汚れは洗い流された。
残ったのは、純粋な肉体の熱と、生存への渇望。
そして、歪で、深い愛。
「んっ……あぁ……」
誰かの吐息。
水音が激しくなる。チャプン、チャプンと波打つ音。
お互いを洗い合う手つきは、いつしか完全な愛撫へと変わっていた。
石鹸の泡が消え、素肌の摩擦が快感を生む。
指が、熱い場所を探る。
滑らかな肌の上を滑る。
中には入らない。けれど、際どい境界線を何度も何度も撫で上げる。
清潔だからこそ、肌の感触が鮮明に伝わる。
指が動くたびに、透明な水の中に四人の熱が溶け出し、陽炎のように揺らぐ。
アリサは目を閉じた。
世界が回る。
快感が全身を駆け巡る。
ここは楽園だ。
地獄の底にある、秘密の楽園。
虫も、植物も、泥も、もう関係ない。
ここには私たちしかいない。
四人の甘い声が、滝の轟音に混じって消えていく。
清浄な水は、彼女たちの溢れ出る熱を受け止め、洗い流していく。
何度汚れても、何度でも洗い流せばいい。
そうやって、彼女たちは肌を重ね、生きていく。
長い、長い沐浴の時間が、溶けるように過ぎていった。




