第17話:鉄塊の狂戦士
空気が軋む音がした。
それは比喩ではない。目の前の巨漢――『人斬り』ボルドが発する魔力と殺気が、物理的な圧力となって空間を歪めているのだ。
燃え盛るスラムの炎さえも、彼の周りだけは恐れをなして避けているように見える。
身長二メートル超の鋼鉄の巨人。
全身を覆うのは、魔法金属ミスリルをふんだんに使用した特注のフルプレートアーマー。その表面は黒く塗装され、無数の傷跡が刻まれている。
手には、常人なら持ち上げることすら叶わないであろう、巨大な鉄塊のようなグレートソード。
「グルルル……」
兜の奥から、獣の唸り声のような呼吸音が漏れる。
対峙するだけで、肌が粟立つ。生物としての格が違う。
「来るぞ! 散開!」
セリアの鋭い指示が飛ぶ。
瞬間、ボルドが動いた。
あの巨体で、爆発的な加速。
戦車が競走馬の速度で突っ込んでくるような理不尽さ。
「潰れろ」
大剣が横薙ぎに振るわれる。
風圧だけで瓦礫が吹き飛ぶ。
セリアは正面から受けることを避け、地面を滑るように身を低くして懐へ潜り込んだ。
「ハアァッ!」
『炎帝の剣』が下から上へと切り上げる。紅蓮の軌跡。
狙うは鎧の継ぎ目、脇の下。
ガギィッ!
硬い音が響き、セリアの手首が跳ね上げられる。
「なっ……!?」
斬れない。
炎熱を纏った魔法剣の一撃が、黒い装甲に弾かれた。わずかに焦げ跡がついただけだ。
「軽いな」
ボルドが裏拳のように肘を振るう。
セリアは咄嗟に剣を盾にして防ぐが、トラックに衝突されたような衝撃に吹き飛ばされる。
「ぐぅっ……!」
地面を転がり、受け身を取るセリア。
「セリアさん!」
アリサが叫び、側面から斧を叩き込む。
『破壊の戦斧』の重量に、全身のバネを乗せた一撃。
ボルドは避けない。防御もしない。ただ、そこに立っていた。
ゴォォォン!
鐘をついたような音が響く。
アリサの腕に痺れが走る。
鎧が凹んだ。だが、それだけだ。中身には届いていない。
『破壊の戦斧』の能力は「防御無視」だが、それは使い手の魔力と技量が一定水準を超えて初めて発動する。今のただ叩きつけただけの一撃では、ミスリルの装甲を貫けない。
「蚊が止まったか?」
ボルドが首を巡らせる。赤い眼光がアリサを射抜く。
大剣が振り下ろされる。
速い。かわせない。死ぬ。
「プロテクション!」
ルナの悲鳴のような詠唱。
光の障壁がアリサの頭上に展開される。
だが、ボルドの一撃は魔法障壁ごとアリサを押し潰そうとする。
パリンッ!
障壁はガラス細工のように一瞬で砕け散った。
しかし、そのわずかな抵抗が軌道をずらした。
大剣がアリサのすぐ脇の地面を叩く。石畳が爆散し、衝撃波でアリサが吹き飛ばされる。
「がはっ……!」
泥まみれで転がるアリサ。
ルナの障壁がなければ、今頃ミンチになっていた。
「サンダーボルト!」
ミオが杖を突き出す。
紫電一閃。高威力の雷撃がボルドを直撃する。
バリバリバリッ!
鎧全体が帯電し、火花が散る。
しかし――。
「……痒いな」
ボルドは一歩も退かない。ミスリル合金には対魔法コーティングが施されている。
「嘘……私の魔法が、効かない……?」
ミオが絶望に顔を歪める。
物理も、魔法も、通じない。動く要塞。
「ハハハハハ! 無駄だ無駄だ!」
屋上でガルスが高笑いする。
「ボルドの旦那の鎧は、国宝級の代物だ! テメェらごときの攻撃で傷つくもんかよ! そのまま挽肉になっちまえ!」
絶望感が場を支配する。
勝てない。生物としてのスペックも、装備の性能も、桁が違う。
「あはっ。あはははは!」
その絶望を切り裂くように、笑い声が響いた。
カリスだ。
彼女は笑っていた。まるで、壊しがいのある玩具を見つけた子供のように。
ボルドの背後の廃墟の上に、いつの間にか立っている。
「硬いねえ。素敵だよ。……でもさ」
カリスの姿がブレた。
次の瞬間、彼女はボルドの肩に乗っていた。
重力を無視した軽業。
「中身も硬いとは限らないよね?」
カリスが逆手に持った短剣を突き下ろす。
狙うは鎧の隙間――兜のスリット(覗き穴)。
ガキンッ!
ボルドが首を振り、剣先を弾く。
だが、カリスの狙いは剣撃ではなかった。
パリン。
短剣の柄に仕込まれていた小瓶が割れる。
紫色の液体が、スリットから兜の中へ流れ込んだ。
「グオオオオオオッ!?」
ボルドが絶叫する。
猛毒と酸の混合液。目と呼吸器を焼く劇薬だ。兜の中で酸の霧が充満する。
「目ェ! 俺の目がァ!」
ボルドが暴れる。大剣を滅茶苦茶に振り回す。
カリスは蝶のように舞い、嵐のような斬撃を紙一重で回避する。
黒いフリルが揺れる。彼女だけが別の物理法則で動いているようだ。
「こっちだよ、脳筋。捕まえてごらん」
カリスが挑発する。
ボルドが音の方へ剣を振る。
カリスはその剣の背に飛び乗った。
そのままタタタッ、と剣の上を走り、再びボルドの懐へ。
「関節、いただき」
カリスがボルドの肘関節の内側、鎧が薄い部分に短剣を突き刺す。
ザクリ。
肉を断つ感触。
さらに、腱を断裂させるように抉る。
「ガアアアアア!」
ボルドの右腕から力が抜ける。大剣の重みを支えきれず、切っ先が下がる。
「すごい……」
アリサは呆然と見上げた。
力では絶対に勝てない相手を、技とスピード、そして悪辣な手段で翻弄している。これがAランク。これが「人殺し」のプロフェッショナル。
「ボッとしてないで! トドメ刺す準備!」
カリスが叫ぶ。
余裕のある声ではない。必死だ。彼女とて、一発でも掠れば死ぬ。極限の集中力の中で踊っているのだ。
「アリサ! あいつの鎧を割れるのは、あんたの斧だけだ!」
セリアが叫び、走り出す。
ボルドの足元に滑り込み、炎の剣で膝裏を焼く。
熱さでボルドが体勢を崩す。
「そこだァァァァァ!」
カリスがボルドの背中に飛びつき、その首に足を絡めた。
全体重をかけて後ろへ引く。
目が見えず、足をやられ、背中に張り付かれたボルドが仰け反る。
無防備な胸板が、天を仰ぐ。
「今だよ! アリサちゃん!」
カリスが叫ぶ。
アリサは跳んでいた。
屋根の上から。
セリアとカリスが作ってくれた、最初で最後の好機。
アリサの脳裏に、ミオの泣き顔が浮かぶ。
傷だらけのカリス。血を流すセリア。必死に叫ぶルナ。
許さない。私の大切な人たちを傷つける奴は、誰であろうと許さない。
守るんだ。私が、みんなを。
ドクンッ。
心臓が強く脈打つ。
体中の魔力が、怒りと守護の意志に呼応して暴れ出す。限界を超えた奔流となって斧に流れ込む。
漆黒の斧が、闇夜の中で禍々しく、そして神々しく輝く。
「砕けろォォォォォォッ!」
渾身の振り下ろし。
アリサはボルドの鎧ではなく、その「存在」そのものを断ち切るイメージで斧を振るった。
ザンッ……!
金属音ではない。
何か柔らかいものを断ち切るような、静かな音。
『防御無視』
それは物理的な硬度をゼロにする概念攻撃。
国宝級のミスリル合金も、分厚い筋肉も、鍛え上げられた肋骨も。
この瞬間、すべては豆腐と同じ硬さになる。
斧の刃が、兜ごとボルドの頭部に沈み込んだ。
抵抗がない。
そのまま鎖骨を断ち、胸骨を割り、心臓まで達する。
一瞬の静寂。
次の瞬間、ボルドの体から血の霧が爆発した。
鎧が真っ二つに割れ、左右に弾け飛ぶ。
その中身も――綺麗に断面を晒して左右に分かれた。
大量の鮮血と臓物が、スラムの地面にぶちまけられる。
ドォォォォン!
巨体が左右に分かれて崩れ落ちた。
地響き。
『人斬り』ボルド。その生涯の幕切れは、あまりにあっけないものだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
アリサは血の海の中に着地し、肩で息をする。
手が痺れている。斧が鉛のように重い。
全身に返り血を浴びて、真っ赤に染まっている。
「……ナイス。最高の切れ味だねぇ」
カリスがボルドの死体の陰から現れる。
彼女もまた血まみれだったが、その表情は恍惚としていた。ボルドの返り血を浴びて、興奮しているようだ。
「……勝っ……た……?」
ミオがへなへなと座り込む。
ルナが駆け寄り、セリアの肩に回復魔法をかける。
「セリアさん! 傷が!」
「かすり傷だ。……よくやった、アリサ」
セリアが微笑む。誇らしげに。
だが、まだ終わっていない。
セリアが視線を上げる。
廃ビルの屋上。
ガルスが、手すりを掴んでガタガタと震えていた。
顔面蒼白。失禁しているのか、ズボンの股間が濡れている。
最強の用心棒が、少女たちによって解体された光景が信じられないのだろう。
「ひ、ひぃぃ……! ば、化け物……!」
ガルスが背を向けて逃げ出す。
「逃がすか!」
アリサが叫ぶ。
追いかけようと一歩踏み出すが、足がもつれる。魔力を使いすぎた。
「待って、アリサちゃん」
甘い声。
カリスだ。
彼女はボルドの心臓だった肉塊を踏みつけながら、右手には一本のナイフを持っていた。
「最後くらい、私に見せ場ちょうだいよ。……これ以上いいとこ取りされたら、Aランクのプライドが傷つくし」
カリスが笑う。
その笑顔は、今までで一番冷たく、そして美しかった。
「逃げる獲物を背中から狩るのが、私の専門だからさ」
カリスがナイフを構える。
投擲の構えではない。
魔力を込める。ナイフが赤黒く発光する。
「飛んでけ」
軽い言葉と共に、ナイフが放たれた。
それは矢のような速度ではない。光線のような速度だった。
赤い閃光が夜空を駆ける。
屋上の端。隣のビルへ飛び移ろうとしていたガルスの背中。
その右膝を、閃光が貫いた。
「ぎゃああああああああ!」
絶叫。
空中でバランスを崩したガルスは、無様に回転しながら落下した。
四階相当の高さから。
地面へ。
グシャッ。
嫌な音がした。
即死ではない。カリスが狙ったのは膝だ。受け身を取れずに落ちたが、ゴミ溜めのような柔らかい土がクッションになったようだ。
だが、足は変な方向に曲がり、背骨も折れているかもしれない。
アリサたちはゆっくりと、墜落地点へ歩み寄る。
ガルスは汚泥の中で仰向けになり、虫のようにのたうち回っていた。
口から血の泡を吹き、目は焦点が合っていない。
「あ……あ……たす……け……」
命乞い。
数日前、ミオを襲い、嘲笑った男の成れの果て。
カリスが追いついてきた。
ガルスの横にしゃがみ込み、その顔を覗き込む。
「生きてる? ねえ、生きてる? まだ死なないでよ。これからが楽しい時間なんだから」
カリスがガルスの頬を優しく撫でる。
そして、まだ膝に刺さったままのナイフの柄を、コツンと指で弾いた。
「ぎゃああああああ! いだい! いだい!」
ガルスが悲鳴を上げる。
「さあ、どうする? リーダーさん」
カリスがセリアを見る。
「ここで殺す? それとも、私が持ち帰って、一週間くらいかけてじっくり『解体』ショーをする? チケット、特等席用意するよ?」
セリアは冷たい目で見下ろした。
そして、剣を鞘に納めた。
「興味ないな。もう、こいつは『敵』ですらない。ただのゴミだ」
セリアが振り返り、ミオを見る。
「ミオ。あんたが決めな」
「え……」
「あんたが一番怖い思いをした。あんたが望むなら、殺してもいいし、助けてもいい」
ミオが震えながら前に出る。
泥まみれで泣き叫ぶガルス。
かつて自分を見下し、辱めようとした男。
今は、ただの惨めな肉塊だ。
ミオは深呼吸をして、涙を拭った。
そして、アリサの手を握った。
「……もういい。行こう、アリサちゃん」
「いいの?」
「うん。こいつを見てたら……自分が汚れる気がする。こんな奴のために、私の手を汚したくない」
ミオの言葉に、アリサは胸が熱くなった。
強い子だ。守るつもりだったのに、いつの間にか強くなっていた。
「わかった」
アリサはミオを抱き寄せた。
「えー、つまんないの」
カリスが不満げに頬を膨らませる。
「じゃあ、私が預かってもいい? ギルドへの手土産が必要だし。……道中、たっぷり可愛がってあげるから」
カリスの「可愛がる」の意味を理解して、ガルスが絶望の悲鳴を上げた。
「やめろ! 殺せ! いっそ殺してくれぇぇぇ!」
「うふふ。元気でいいねぇ。いいおもちゃになりそう」
カリスはガルスの襟首を掴み、ズルズルと引きずり始めた。壊れた荷物のように。
スラムの火災はまだ続いている。
だが、夜風が少しだけ涼しく感じられた。
長い、長い夜が終わろうとしている。




