第15話:処刑人
鏡に映る自分の肌を見て、アリサは深く溜息をついた。
着替えの途中、シャツのボタンを留める手が止まる。
鎖骨、首筋、そして胸元。
白いはずの肌の至る所に、赤黒い鬱血痕が散らばっていた。
昨夜、セリアにつけられた所有の印だ。
『お前は私のものだ。誰にも渡さない』
耳元で囁かれた掠れた声と、痛みすら伴う激しい愛撫の記憶が蘇る。
一昨日の夜、ミオが触れた場所。それを全て塗りつぶすように、セリアは執拗に唇を押し当て、歯を立て、痕を刻み込んだ。
それは愛情表現というよりは、縄張りを主張する獣のマーキングに近かった。
鏡の中のアリサの顔が、カッと熱くなる。
背徳感と、愛されているという歪んだ充足感。
「……隠さなきゃ」
アリサは慌てて襟の詰まったシャツを選び、一番上のボタンまでしっかりと留めた。
さらにスカーフを巻き、首筋の痕を完全に隠す。
完璧だ。これなら見えない。
深呼吸をして、火照った頬を両手で叩く。
今日はギルドからの呼び出しがある。ゴードンさんが直接話があるというのだ。浮ついた気持ちではいられない。
リビングに降りると、すでに三人が揃っていた。
重苦しい空気。
セリアは窓辺で『炎帝の剣』を磨いている。刃が痩せるほどに研ぎ澄まされた剣身には、彼女の静かな殺意が映り込んでいた。
ルナはキッチンで洗い物をしているが、その背中はどこか強張っている。
そしてミオは、ソファに膝を抱えて座っていた。
「……おはよう」
アリサが声をかけると、ミオが顔を上げた。
目が合う。
ミオの視線が、アリサの首元――スカーフで隠されたあたりに吸い寄せられ、一瞬で凍りついた。
見えていないはずだ。でも、ミオには分かってしまったのだろう。
昨夜、アリサがセリアの部屋に行き、朝まで帰ってこなかったこと。そしてそこで何が行われたのかを。
「……おはよう、アリサちゃん」
ミオの声は震えていた。寂しさと、諦めと、それでも消えない依存心。
その瞳が『私じゃダメだったの?』と訴えかけているようで、アリサは胸が締め付けられた。
「行くぞ。ゴードンが待っている」
セリアが剣を鞘に納める。カチン、という硬質な音が、淀んだ空気を断ち切った。
セリアはアリサの方を見ようとしなかった。昨夜の激情を恥じているのか、それともまだ怒っているのか。その横顔からは読み取れない。
四人は無言のまま、家を出た。
*
ギルドへの道のりは、普段より長く感じられた。
街は朝の活気に満ちているが、アリサたちの周りだけ色が抜けたように静かだ。
数日前のダンジョンでの出来事。
襲撃。ミオへの陵辱未遂。そして、アリサが振るった暴力。
体の傷はルナの魔法と高級ポーションで癒えたが、記憶の傷は膿んだままだ。特にミオは、男性の冒険者とすれ違うたびにビクリと肩を震わせ、アリサの袖を掴んでくる。
ギルドに到着する。
ホールは相変わらずの喧騒だった。昼間から酒を飲む者、依頼を探す者、自慢話に花を咲かせる者。
だが、四人が足を踏み入れた瞬間、その喧騒の質が変わった。
波が引くように道が開く。
ヒュドラ討伐の英雄。Cランクの若き精鋭たち。
羨望、嫉妬、そして畏敬の眼差し。
普段なら誇らしいはずのその視線も、今日のアリサたちには重荷でしかなかった。
奥の執務室へ通される。
重厚なオーク材の扉が閉じられると、外の喧騒は嘘のように遮断された。
張り詰めた静寂。空気が違う。
特注の執務机の向こうで、ゴードンはパイプの紫煙をくゆらせていた。その表情は険しい。昨日まで見せていた好々爺の顔ではない。
かつてSランク冒険者として「鬼」と呼ばれた男の、鋭利な刃物のような眼光がそこにあった。
「来たか。座れ」
ゴードンは短く促すと、机の上に置かれた分厚い羊皮紙の束を、アリサたちの前に放った。
バサリ、と重たい音が響く。
一番上にあったのは、先日遭遇した男たち――『鉄爪のガルス』一味の似顔絵。そして、その横には赤いインクで『抹殺推奨』の判が押されていた。
「単刀直入に言おう。あの日、君たちが半殺しにして突き出した手下ども……あれを地下で拷問した」
ゴードンが低い声で言った。
オブラートに包まない、事実だけの言葉。
ルナが息を飲む。ギルドが法を超えて私刑を行うことは公然の秘密だが、ここまでハッキリと口にするのは異例だ。
「爪を剥ぎ、指を一本ずつ逆に折り、治癒魔法で治してまた折る。水攻め、火攻め、精神魔法による自白の強要。それを三日三晩休まず繰り返した」
ゴードンはパイプの煙を吐き出す。
「最初は虚勢を張っていた奴らも、最後には母親の名前を呼びながら、小便を漏らして全てを吐いたよ」
淡々とした口調が、逆に恐怖を煽る。そこには一切の慈悲がない。
「奴らの口から出たのは、想像以上に胸糞の悪い話だ。奴らは、ただ装備を奪っていただけではない。目星をつけた新人パーティ、特に女性だけのパーティをダンジョンの深層へ誘導し、魔物の群れに突っ込ませる。あるいは罠を作動させて圧死させる……そうやって『不運な事故』を演出し、遺体を損壊して回収していた」
ゴードンはギリと奥歯を噛みしめた。木製の机がきしむ音がする。
「抵抗できないように手足を砕いてから犯し、生きたまま魔物の餌にしたケースもあるらしい。……奴らは冒険者じゃない。シリアルキラーだ。被害者は確認できただけで三十人を超える」
ミオの顔から血の気が引いていく。唇が紫色に震えている。
もしあの時、アリサが助けてくれなかったら。
自分たちは辱められた挙句、あの冷たい石畳の上で、男たちの玩具にされ、最後は生きたまま食われていたのだ。
想像するだけで吐き気がする。
ルナがミオの震える肩を抱き寄せる。ルナの手も、白くなるほど強く握りしめられている。
「……それで、逃げたガルスは?」
セリアが低い、地を這うような声で尋ねる。その青い瞳には、冷たい殺意の炎が宿っている。
「現在、行方を追っているが、地下水道かスラムに潜ったようだ。衛兵隊も動いているが、奴のようなドブネズミを見つけるのは骨が折れる。そこでだ」
ゴードンは立ち上がり、窓の外――北西のスラム街の方角を睨みつけた。
「領主様にも報告済みだ。今朝方、領主直々の命で、ガルスに対する『特例討伐許可』が下りた」
「討伐……許可……?」
アリサが復唱する。
「そうだ。捕縛の必要はない。裁判にかける手間も、税金で飯を食わせるのも惜しい。害獣として駆除せよ――という命令だ。発見次第、殺害して構わない。首を持ってくれば賞金を出す」
部屋の空気が凍りつく。
人殺しの許可証。それは冒険者にとって、最も重く、汚れた切符だ。
だが、アリサの胸中に迷いはなかった。
ミオの涙。夜ごとの震え。汚された尊厳。
それを思えば、慈悲など必要ない。あんな奴らは、生きているだけで害悪だ。
「君たちにも聞こう。この任務、参加する気はあるか?」
ゴードンが四人の顔を、一人ひとりゆっくりと見渡す。
「被害者である君たちには、落とし前をつける権利がある。だが、相手は追い詰められた獣だ。死に物狂いで抵抗するだろう。……断っても、誰も責めんよ」
沈黙は一瞬だった。
セリアが即答する。
「やります。あいつだけは……野放しにしておけません。私が、この手で斬ります」
隣でミオも小さく、けれどしっかりと頷いた。自分の恐怖と決着をつけるために。
アリサも拳を握りしめた。終わらせなければならない。
「そうか」
ゴードンは満足げに頷き、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「いい目だ。君たちならそう言うと思っていた」
ゴードンが視線を、部屋の隅にある重厚なベルベットのカーテンへと向けた。
「実はな、今回のガルス狩りには、専門家を一人雇っている。……おい、いつまで隠れている。出てこい」
「んー……。もう終わった? 長いよ、おっさんの話は」
気怠げで、それでいて脳髄を痺れさせるような甘い声。
カーテンの影から、一人の少女が音もなく姿を現した。
その瞬間、部屋の温度が数度下がったような錯覚を覚える。
ハッとするほど美しい。
年齢はアリサたちと同じ、二十歳そこそこだろうか。
血のように赤い真紅の髪を、高い位置でツインテールに結っている。その幼い髪型が、かえって彼女の持つ残酷さを際立たせている。
瞳は切れ長の翡翠色。長い睫毛がけだるそうに瞬きをするたび、妖艶な光を放つ。
そして何より、その服装が異質だった。
冒険者というよりは、貴族の愛玩人形のような服装。
黒いフリルのついた短いワンピース。ゴシックロリータ風のデザインだが、スカート丈は極端に短い。動くたびに白い太腿と、黒いガーターベルトがチラチラと見える。
背中は大きく開いていて、白磁のような背骨のラインが露わになっている。
腰には、乾いた血の匂いが染み付いたような、二振りの短剣。
「Aランク冒険者、カリスだ」
ゴードンが紹介するが、カリスはゴードンには目もくれず、ふらふらと、まるで重力を感じていないような足取りでアリサに近づいてきた。
甘い、腐った果実のような芳醇な香りが漂ってくる。香水ではない。彼女自身から発せられる、魔性の体臭だ。
「ふうん……。この子が、例のBランク?」
カリスはアリサの目の前、鼻先が触れそうな距離で立ち止まると、不躾な視線で上から下までジロジロと舐め回した。
値踏みする目。商品を品定めするような、冷たくて熱い目。
アリサは動けなかった。蛇に睨まれた蛙のように、体が竦む。本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしているのに、足が動かない。
「かーわいい。……ねえ、君。名前は?」
「あ……アリサ、です」
「ふうん、アリサちゃん。……なんかさ、無茶苦茶にいじめたくなる顔してるね」
「えっ……」
スッ、とカリスの手が伸びる。
避けようとする間もなかった。Aランクの神速。
カリスの細く冷たい指先が、アリサの胸元――服の上から、柔らかな膨らみをムニュリと鷲掴みにした。
「ひゃうっ!?」
アリサが情けない声を上げて飛び退こうとするが、カリスは逃がさない。腰を強く引き寄せる。
それどころか、興味深そうに五指を食い込ませ、その形、弾力、重みを確かめるように、ねっとりと揉みしだき始めた。
「わあ、柔らかい……。すごい詰まってる。マシュマロみたい。……でも、張りがあるね」
指が肉に沈み込む。服の生地が擦れる音が生々しい。
カリスの顔が近づく。瞳孔が開いている。狂気の色。
「ちょ、あの……っ! な、何するんですか……っ!?」
「んー? 挨拶だよ、挨拶。……ねえ、先っぽ、もう硬くなってない?」
親指が、服の上から敏感な一点をコリリと擦る。
正確に頂を捉える指。
「ふあぁっ!?」
背筋に電流が走る。
昨夜、セリアに愛され、その前夜にはミオに触れられたばかりの場所が疼く。体が快感を記憶してしまっている。わずかな刺激にも過敏に反応してしまう。
カリスはクスクスと笑いながら、今度は顔をアリサの首筋に埋めた。
スゥーッ、と深呼吸する音が響く。
冷たい鼻先が、スカーフの隙間から肌に触れる。
「んん……匂いもいい。……甘いミルクみたいな匂いがする。処女特有の、熟れる前の青い匂い……あれ、でも」
カリスの目が細められる。獲物の急所を見つけた猫のような目。
「……誰かの匂いが混じってるね。甘くて、濃い、雌の匂い。それも……一人じゃない」
カリスが鼻をひくつかせる。
「凛とした強い花の香りと……雨上がりのような湿った匂い。昨日、誰かに抱かれた? それとも……二人に愛された?」
アリサの心臓が止まりそうになる。
バレた?
ミオとしたこと。セリアとしたこと。
その背徳的な秘密を、この女は嗅ぎつけたのか。
顔が沸騰し、冷や汗が流れる。
「離れなさい!」
耐えきれなくなったセリアが割って入り、カリスの手を強引に払いのける。
セリアの目は怒りに燃え、剣の柄に手が伸びていた。嫉妬の炎が見えるようだ。
「初対面で失礼でしょう! アリサに何をする気!?」
カリスは悪びれる様子もなく、払われた手をひらひらと振った。
そして今度はセリアの方を向いて、ニタリと三日月のような笑みを浮かべる。
「あら、こっちも美人さん。……へえ、独占欲が強そう。君がつけたの? その匂い」
カリスの視線が、セリアのくびれた腰から太もも、そして怒りで上下する胸元へといやらしい手つきで移動する。視姦だ。服の上からでも裸を見透かされているような気分になる。
「……ふふ、怖い顔。そんなに睨まないでよ。減るもんじゃないし」
カリスは一瞬の隙をついてセリアの顎を指先でクイっと持ち上げ、至近距離で見つめた。
「綺麗な顔。……君みたいな真面目なリーダータイプ、泣かせ甲斐がありそう。ベッドの上でどんな声で鳴くのかな。プライドが高そうな顔が、快楽で崩れる瞬間……たまらないよねぇ」
「っ……! 貴様……!」
セリアが剣を抜こうとする。殺気が部屋に充満する。
「こら、カリス! いい加減にしろ!」
ゴードンが机を叩き、雷のような怒鳴り声を上げた。執務室がビリビリと震える。
「仕事中だぞ。部下をオカズにするなと言っているだろうが! 発情するなら仕事が終わってからにしろ」
カリスはつまらなそうにセリアから離れると、気怠げに伸びをした。
その拍子に黒いワンピースの裾が上がり、白い太腿と、肉に食い込む黒いガーターベルトが見えた。
ミオとルナが目のやり場に困って俯く。
「ちぇ。……だっておっさん、今回の仕事、男殺しでしょ? やる気出ないんだよねぇ」
カリスは腰の短剣を抜き放った。
その刃には、禍々しい紫色の光沢がある。猛毒だ。かすり傷ひとつで大男を絶命させる致死毒。
「男なんてさ、汚いし臭いじゃん? 悲鳴を上げさせて、中身をぶちまけるくらいしか使い道ないし」
その言葉には、一切の感情がなかった。
ただ「今日の天気」を話すような軽さで、猟奇的なことを口にする。
底知れない狂気。倫理観の欠落。この女にとって、男は人間ではないのだ。潰して楽しむ虫ケラと同じ。
ゴードンがアリサたちに向かって苦笑する。
「見ての通りだ。こいつは極度の女好きで、男に対しては異常なほどの加虐趣味を持っている。……だが、人を“壊す”腕だけは、この街で一番だ。拷問と暗殺のスペシャリストだよ。こいつにかかれば、どんな口の堅い男も一分で全てを喋る。あるいは、喋る前に発狂するかだ」
カリスはナイフを収めると、再びうっとりとした目でアリサを見つめた。舌なめずりをする。濡れた舌が赤い唇を舐める。
「安心してよ、アリサちゃん。君たちのことは守ってあげる。……君、すっごく私のタイプだし。壊れそうで、でも強くて……美味しそう」
そして、アリサの背後に音もなく回り込むと、腰に手を回し、耳元で甘く、粘つくように囁いた。
「その代わり、終わったらご褒美ちょうだいね? ……一緒にお風呂入るとかさ。全身、隅々まで洗ってあげる。……指で、中までね」
スルリと、カリスの手がアリサのお尻を撫で上げ、太ももの内側を這う。
スカートの中に入り込もうとする指。熱くて、ぬるりとしている。
「ひゃぅっ……!」
アリサはセリアの背中に隠れながら、涙目で首を振った。
(この人……敵より怖いかもしれない……!)
セリアも青筋を立てながら警戒しているが、Aランク特有の圧倒的な「圧」に、容易には動けない。隙がないのだ。ふざけているようで、いつでも喉を掻き切れる体勢をとっている。
しかし、これ以上ない戦力であることは間違いない。
美貌と狂気、そして歪んだ愛欲を孕んだAランク冒険者。
最強で最悪の追跡部隊が、ここに結成された。
「じゃ、行こっか。……男どもの悲鳴、早く聞きたいしね。内臓の色、楽しみだなぁ」
カリスは軽い足取りで扉へ向かう。スカートのフリルが揺れ、甘い毒の香りを撒き散らす。
その背中からは、先ほどまでのふざけた雰囲気とは違う、冷たく鋭利な、本物の殺気が滲み出していた。
これから始まるのは冒険ではない。
一方的な、狩りだ。




