第13話:悪意
ダンジョンの入口に立つと、死に絶えた空気特有の、湿った冷気が肌を撫でた。
周囲の冒険者たちから突き刺さる視線は、羨望と嫉妬、そして畏怖。
無理もない。四人が身につけているのは、国宝級と謳われる伝説の装備なのだから。
セリアの『炎帝の剣』、ミオの『賢者の杖』、ルナの『聖女の首飾り』、そしてアリサの『破壊の戦斧』。
「行くぞ。装備の慣らし運転だ」
セリアの号令と共に、四人は闇の奥へと足を踏み入れた。
一階層から五階層までは、冒険ではなく蹂躙だった。
ミオの放つ極大魔法は通路ごと敵を消し飛ばし、セリアの剣は触れることなく魔物を灰に変え、ルナの加護は疲労という概念を無効化した。
そしてアリサの斧は、物理法則を嘲笑うかのように、鋼鉄の装甲を薄紙の如く断ち切った。
「強すぎるな、私たち」
セリアが呆れたように苦笑する。
「これなら十階層までは散歩コースだ」
慢心ではない。事実としての隔絶した実力差。
四人の歩みは順調だった。
七階層の奥、人気の絶えた広場に出るまでは。
*
「おや、噂の英雄サマたちじゃないか」
物陰から、ぬらりと人影が滲み出た。
四人の男たち。手入れのされていない武器と、薄汚れた革鎧。そして何より、その眼球が腐った魚のように濁っている。
『鉄爪のガルス』とその取り巻きたち。悪評高いハイエナどもだ。
「何か用か?」
セリアが剣の柄に手をかけ、双眸を鋭く細める。
「挨拶をしただけさ。……いいモン持ってるなぁ」
ガルスが下卑た笑みを浮かべ、セリアの剣を、次いでその豊かな肢体を舐めるように見回した。
男たちが半包囲の陣形をとる。
「通行料を払ってもらおうか。その装備だ。全部置いていけ。ついでに服もな」
粘つくような視線が、四人の肌にまとわりつく。
「ふざけたことを。ギルドに報告するぞ」
「報告? ハッ、死人に口なしだろ」
ガルスが指を鳴らした。殺気が膨れ上がる。
「本気か……! みんな、構えろ!」
セリアが剣を抜く。
だが、彼らの狙いは正面ではなかった。
隊列の最後尾。もっとも警戒の薄い、魔法使いのミオ。
天井の岩陰から、五人目の影が落ちてきた。
気配遮断スキルを持つ盗賊だ。
「えっ——」
ミオが杖を構えるより早く、男が背後に着地した。
泥と脂の臭いがする腕がミオの細い首に巻きつき、悲鳴を封じる。
冷たい刃物が、脈打つ喉元に食い込んだ。
「動くなァ! 動くとこいつの喉笛をかっ切るぞ!」
男の絶叫が広場に反響する。
世界が凍りついた。
「ミオ!」
アリサが叫ぶ。
「動くなと言ってるんだよ!」
盗賊が短剣に力を込める。ミオの白磁の首筋に赤い線が走り、血の珠が滲んだ。
「んぐっ……!」
ミオの手から杖が滑り落ちる。カラン、と乾いた音が絶望的に響く。
動けない。人質がいる。
「へっへ、近くで見ると上玉だな」
ミオを捕らえている盗賊が、耳元でねっとりと囁いた。腐臭のような口臭。
男の空いている手が、ミオのローブの上を這い回る。
「ひっ……!」
ミオが身をよじる。
「動くんじゃねえよ」
男の手が、ローブの合わせ目から強引に侵入した。
薄いシャツの下に、汚れた手が直接潜り込む。
ザラついた指が、ミオの柔らかな腹部を無遠慮にまさぐる。
「や、やめて……っ! さわらないで……っ!」
ミオが涙声で懇願する。だが、その拒絶すら男を興奮させる餌だった。
「いい声だなぁ」
男の手が這い上がり、ミオの胸を鷲掴みにした。
素肌を。乱暴に。まるで肉塊でも掴むように。
「ぎぃっ……! 痛いっ、痛いよぉ……!」
ミオが悲鳴を上げる。
蹂躙される感覚。大切な尊厳が、汚泥にまみれた手で汚されていく。
「おい、こいつの服、邪魔だな」
盗賊がミオのローブを掴み、力任せに引き裂いた。
ビリッ!
布が悲鳴を上げ、ミオの上半身が露わになる。
「いやぁぁぁっ! 見ないでぇっ!」
ミオが泣き叫ぶ。顔を真っ赤にして、恥辱に震えている。
「いい眺めだ。皆で見物といこうぜ」
ガルスたちが下品な口笛を吹き、ニヤニヤと舌なめずりをする。
盗賊の手が、今度はスカートの裾へ伸びた。
「やだ、やだ、そこはダメ……っ!」
ミオが必死に足を閉じるが、男は膝を割り入れ、強引に太ももの内側へと指を這わせる。
最も柔らかな場所へ、汚らわしい指が触れようとした——その時。
「やめてぇぇぇっ! アリサちゃん! 助けてぇぇっ!」
ミオの絶叫。
恐怖と屈辱で顔が歪み、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった、妹のような少女の顔。
大切な家族が。
汚い手で。汚い言葉で。衆目の前で壊されようとしている。
プツン。
アリサの脳内で、理性の弦が焼き切れる音がした。
視界が赤く染まる。
熱い。全身の血液が沸騰する。
許せない。絶対に、許さない。
「……離して」
地獄の底から響くような声だった。
「あ? なんだって? 聞こえねえよ」
ガルスが耳に手を当てる。
次の瞬間、アリサの姿が消えた。
ドッ!!!
爆発音。
床の黒曜石が踏み込みだけで粉砕される。
アリサは一発の弾丸となって空間を跳躍した。
「なっ……」
盗賊が反応する時間など、一秒たりともない。
目の前に、鬼の形相のアリサがいた。
斧ではない。ミオを巻き込むから。使うのは、殺意を込めた拳。
「離せぇぇぇぇぇっ!」
アリサの拳が、盗賊の顔面にめり込んだ。
ドゴォッ!
肉と骨が砕ける鈍い音が響き、男の体が紙屑のように吹き飛ぶ。
十メートル後方の壁に激突し、ぐたりと崩れ落ちた。ピクリとも動かない。
解放されたミオが崩れ落ちる前に、アリサが抱きとめた。
「ミオ! 大丈夫!?」
「あ……アリサ……ちゃん……うあぁぁぁん!」
ミオがしがみついてくる。小刻みな痙攣が止まらない。服は乱れ、首からは血が流れている。
「てめえっ! やりやがったな!」
残りの四人が我に返り、殺到してくる。
アリサはミオを背中にかばい、戦斧を引き抜いた。
手が震える。人を殴った生々しい感触が残っている。
怖い。
だが、ここで引けばミオがまた汚される。
「来ないで!」
アリサは斧の「峰」を叩きつけた。
刃ではない。殺人は怖い。だが、二度と立てないようにしなければならない。
ドゴォォォン!
振るわれた衝撃波だけで先頭の男が弾き飛ばされる。
肋骨が砕ける音がして、男が白目を剥いて倒れた。
二人目の男が剣を振り下ろす。
アリサはそれを斧の柄で受け止め、蹴り飛ばした。
ドガッ!
男が腹を押さえてうずくまり、嘔吐する。
セリアも動いていた。
「よくもミオを!」
炎の剣の「腹」で、男の腕を打ち据える。
「ぎゃあああ! 熱い!」
骨の髄まで熱が通り、男が剣を取り落としてのたうち回る。
残るはリーダーのガルスのみ。
ガルスは顔面蒼白になり、後ずさっていた。
「ば、化け物……! Cランクじゃねえのかよ……!」
「逃がさない!」
ルナが杖を突きつける。
「バインド!」
光の鎖がガルスの足元から伸びる。
だが、ガルスは歪んだ笑みを浮かべた。
懐から赤い水晶玉を取り出す。
「へっ、この借りは必ず返すぜ!」
ガルスが水晶玉を地面に叩きつけた。
カッ!
強烈な閃光と爆音が炸裂した。
高価な使い捨て魔道具、『爆炎の宝珠』。
煙幕と衝撃波が四人を襲う。
「きゃあ!」
ルナが腕で顔を覆う。
アリサも咄嗟にミオを庇って伏せた。
煙が晴れた時、そこにガルスの姿はなかった。
ただ、気絶して動けなくなった手下たちだけが残されていた。
「逃げられた……!」
セリアが悔しげに唇を噛む。
アリサは斧を下ろした。
手が震えている。怒りと、恐怖で。
振り返り、ミオを見る。
ミオは座り込んだまま、ルナに抱きしめられていた。
「怖かった……怖かったよぉ……」
子供のように泣きじゃくるミオ。
引き裂かれた服の隙間から、無惨な赤い手形が覗いている。
白い肌に残された、明確な汚辱の痕跡。
アリサも抱きつく。
「ごめんね……ごめんね……」
冷え切ったダンジョンの床で、四人は身を寄せ合った。
勝利の凱歌などない。
あるのは、逃がしてしまった男がいつか復讐に来るかもしれないという不安と、心に刻まれた深い傷だけだった。
*
事後処理は苦いものだった。
手下たちをギルドへ突き出したが、反応は事務的だった。
ゴードン支部長は「手配しておく」と言っただけ。
ガルスがいつ捕まるのか。本当に捕まるのか。
見えない脅威が、街の闇に溶けてしまった。
帰路、誰も口を開かなかった。
夕暮れの街が、不気味な影絵に見える。物陰に誰かが潜んでいるんじゃないかという疑心暗鬼が、心を蝕んでいく。
家に着き、厳重に鍵をかけ、防犯結界を最大強度で展開する。
それでも、家の中の空気は鉛のように重かった。
ミオはずっと震えていた。
風呂場からは、執拗に体を擦る音と、押し殺した嗚咽が聞こえてきた。
夕食も喉を通らず、早々に解散することになった。
アリサは自室のベッドに横になっていた。
目を閉じると、男の汚い手がミオの胸を弄ぶ光景がフラッシュバックする。
そして、自分が男を殴った時の、嫌な肉の感触。
眠れない。
コンコン。
控えめなノックの音がする。
ビクリと体が跳ねた。
「……入っていい?」
細い、消え入りそうな声。
ミオだ。
「うん、いいよ」
アリサが答えると、ドアが少しだけ開き、ミオが入ってきた。
大きめのシャツ一枚だけの姿。髪は濡れたまま、肩に張り付いている。
目は泣き腫らして赤く、唇が震えている。
「ミオ……ルナさんと一緒じゃなかったの?」
「……ルナ、疲れちゃって先に寝ちゃった。でも私、一人が怖くて……」
ミオが俯く。
「アリサちゃんのところに……来ちゃった」
アリサはベッドの端を開けた。
「おいで」
ミオがおずおずとベッドに潜り込んでくる。
シングルベッドの狭い空間で、二人の体が密着する。
ミオの体は氷のように冷たく、小刻みに震えていた。石鹸の匂いがきつい。肌が赤くなるほど洗った証拠だ。
「……アリサちゃん」
ミオがアリサの胸に顔を埋めてきた。
「なあに?」
「私……汚いかな」
その言葉に、アリサの胸が締め付けられた。
「そんなことない。ミオは綺麗だよ」
「でも……あいつらに触られた。胸も、足も……ベタベタして、洗っても洗っても、手の感触が消えないの……」
ミオが自分の腕を爪で引っ掻くように抱く。
「汚い……私、汚されちゃった……」
熱い涙がアリサの寝間着を濡らす。
アリサはミオの背中を優しく撫でた。
「大丈夫。私がついてる」
すると、ミオが顔を上げた。
潤んだ瞳が、すがるようにアリサを見つめている。追い詰められた、ギリギリの瞳。
「アリサちゃん……お願い」
「え?」
「上書きして」
ミオの手が、アリサの頬に触れる。冷たい手。
「アリサちゃんの綺麗な手で、あいつらの感触を消して。私を……綺麗にして」
ミオの顔が近づいてくる。
そして——。
ミオの唇が、アリサの唇に重なった。
んっ。
柔らかい感触。石鹸と涙の混じった香り。
アリサは硬直した。
友達としてのキスじゃない。これは——。
ミオが唇を離す。荒い息を吐いている。
「……嫌?」
「嫌じゃ……ないけど……」
アリサは戸惑った。
脳裏にセリアの顔が浮かぶ。
昨夜、心を通わせたばかりの愛しい人。彼女を裏切るわけにはいかない。
「ごめんね、ミオ。私、セリアさんと……」
拒絶の言葉を紡ごうとした。
けれど、ミオの目から大粒の涙が決壊した。
「わかってる……わかってるよぉ……! でも、どうしようもないの! 怖くて、気持ち悪くて、頭がおかしくなりそうなの!」
ミオがアリサにしがみつく。
「アリサちゃんじゃなきゃダメなの……私を助けてくれたアリサちゃんの手じゃなきゃ……お願い、一度だけでいいから……私を助けて……」
悲痛な叫び。
あんなに明るかったミオが、壊れそうになっている。
ここで突き放したら、この子は恐怖に飲み込まれてしまうかもしれない。
守れなかった自分の責任。
セリアさん、ごめんなさい。
でも、今は——この子を放っておけない。
「……わかった」
アリサはミオを抱きしめ返した。
「泣かないで、ミオ。私が……忘れさせてあげる」
「ありさ……ちゃん……」
ミオが震えながら、再び唇を求めてきた。
今度は深く。貪るように。
アリサはそれを受け入れた。
不慣れな舌が入り込んでくる。必死に体温を求めるような口づけ。
ミオの手が、アリサの寝間着のボタンを外していく。
「触って……私に触れて……」
ミオが自分のシャツを捲り上げる。
月の光に照らされた白い肌。胸元には、男に掴まれた赤い痕がまだ残っている。
痛々しい暴力の爪痕。
アリサはそっと、その赤い痕に指を這わせた。
「痛かったね……」
「んっ……」
ミオが体を跳ねさせる。
「アリサちゃんの手……あったかい……」
アリサは赤い痕をなぞるように、優しくキスを落とした。
熱で穢れを溶かし、吸い出すように。
ちゅ、ちゅ、という水音が響く。
「んぁ……くすぐったい……でも、嬉しい……」
ミオの表情から、恐怖の色が薄らいでいく。
「もっと……もっと強くして……あいつらの記憶が消えるくらい……」
ミオがアリサの頭を胸に抱き寄せる。
アリサはミオの柔らかな膨らみに顔を埋めた。
舌でなぞり、甘噛みする。痛みを与えない、慈しみの愛撫。
「ひゃあ……っ! あっ、んんっ!」
ミオが背中を反らし、吐息を漏らす。
アリサの手が下へ伸びる。
ミオの太ももを撫でる。
男に触られそうになった場所を、丁寧に、執拗に撫で回す。
「ここは……誰にも触らせない」
アリサが耳元で囁く。
「うん……アリサちゃんだけ……私の全部、アリサちゃんのものにして……」
指が内ももの一番奥、秘められた場所に触れる。
熱い。
恐怖ではなく、安心と甘い痺れで濡れている。
アリサはそこを掌で覆い、ゆっくりと圧をかけた。
侵入はしない。ただ、密着させ、温もりを伝える。
あいつらとは違う。
優しくて、温かい手。
「ふぁ……っ! あ……っ……」
ミオがアリサの肩に爪を立てる。
「汚くないよ、ミオ。こんなに熱くて、可愛い」
「あ、あっ、あぁ……! アリサちゃん……!」
アリサはミオの唇を塞ぎながら、太ももを擦り合わせた。
舌が絡み合い、肌と肌が擦れ合う摩擦熱が、二人の境界を溶かしていく。
ミオの体が弓なりになる。
快感という名の熱病が、恐怖の記憶を焼き尽くしていく。
「だめ……っ! アリサちゃん、おかしくなるぅ……!」
「いいよ。全部出して、楽になって」
ミオが声を上げる。
ビクンビクンと体が痙攣し、アリサを強く抱きしめる。
絶頂ではない。けれど、張り詰めていた糸が切れ、感情が奔流となって溢れ出す瞬間。
アリサもミオを抱きしめ返す。
壊れそうなほど強く。
……。
…………。
荒い息が、やがて穏やかな寝息へと変わっていく。
ミオはアリサの腕の中で、とろんとした目をしていた。
涙はもう乾いている。
怯えていた表情は消え、憑き物が落ちたような安らかな顔。
「……ありがとう、アリサちゃん」
ミオが消え入るような声で呟く。
「なんか……すっきりした。悪い夢、消えたみたい」
ミオがアリサの胸に頬ずりする。甘える猫のように。
「よかった……」
アリサはミオの汗ばんだ髪を撫でる。
これでよかったのだろうか。
セリアさんへの裏切りではないか。
胸の奥に小さな棘が刺さる。
でも、ミオの笑顔を見て、今はこれでいいのだと言い聞かせた。
「今日は、このまま寝よう」
「うん……おやすみ、アリサちゃん……大好き」
ミオは安心しきって、すぐに深い眠りへと落ちていった。
アリサは眠れなかった。
腕の中のミオの柔らかな温もりと、隣の部屋にいるセリアのこと。
そして逃げたガルス。
様々な思いが交錯する中、アリサは天井を見つめ続けた。
夜はまだ、長い。




