第11話:新たな日々
『銀の薔薇亭』の重厚なマホガニーの扉を押し開ける。
途端、世界が切り替わった。
高い天井から吊るされた巨大なシャンデリア。幾千ものクリスタルが蝋燭の火を乱反射させ、黄金の雨を降らせている。
磨き抜かれた大理石の床が、ブーツの踵をコツコツと小気味よく響かせた。壁には優雅な装飾画、テーブルには雪のようなクロスと、冷ややかな輝きを放つ銀食器。
甘美なソースと香ばしい肉の匂い。そして、鼻腔をくすぐる熟成されたワインの香り。
「いらっしゃいませ」
黒燕尾の給仕が影のように音もなく現れ、恭しく一礼する。
洗練された所作だ。
「本日はご予約を……」
「してない。四人だ」
セリアが短く告げる。
給仕の視線が一瞬、彼女たちの薄汚れた旅装に向けられ――眉が動きかけた刹那、その目が釘付けになった。
揺らめく炎を宿した魔剣。紫電を纏う杖。血の匂いが染み付いた漆黒の斧。
そして胸元で鈍く光るギルドカード。Cランクと、Bランクの証。
「……これは、失礼いたしました。高名な冒険者の方々とは知らず。どうぞ、こちらへ」
給仕の態度が一変する。媚びではない、力ある者への純粋な敬意。
通されたのはテラスに面した特等席だった。窓の向こうには、茜色に染まる王都の空と、宝石を撒いたように灯り始めた街の光が広がっている。
「メニューでございます」
渡された革張りのブックはずっしりと重い。
開いた瞬間、アリサは息を呑んだ。
前菜一皿で、村人の日給が消える。メイン料理に至っては半月分だ。数字の桁が、世界の違いを突きつけてくる。
「え、えっと……」
アリサの指先が震えた。メニューを持つ手がじっとりと汗ばむ。
「大丈夫だ、アリサ。好きなものを頼め」
セリアがふっと口角を上げ、緩やかに微笑む。戦場では見せない、余裕ある大人の顔。
「でも……こんな……」
「今日は特別な日だ。金なら腐るほどある。遠慮するな」
結局、給仕が勧める最高級のフルコースを注文した。一人前、金貨六枚。
最初に運ばれてきたのは前菜の盛り合わせだ。
宝石のように煌めく魚介のカルパッチョ。見たこともない色彩の野菜たち。
震える手でフォークを運び、口に含む。
途端、舌の上で食材がとろけた。酸味と甘味の爆発的な調和。
「んんっ……!」
アリサの喉から甘い声が漏れる。脳髄が痺れるほどの美味。
「美味しい……こんなの、初めて……」
「だろ? ここの料理は評判なんだ」
セリアがワイングラスを傾け、満足げに目を細める。グラスの縁に残る紅の跡が、妙に艶めかしく見えた。
次々と料理が運ばれてくる。
濃厚な黄金色のポタージュ。湯気を立てる焼きたてのパン。肉厚な白身魚のソテー。
そしてメインディッシュ。
厚切りの最高級フィレステーキ。ナイフを入れる抵抗すらなく、溢れ出した肉汁が皿を汚す。口に運べば、噛む必要すらないほどの柔らかさと、脂の甘みが口いっぱいに広がった。
生存本能が満たされていく快感。空腹という最高のスパイスが、味覚を極限まで研ぎ澄ませる。
「アリサ。口についてるぞ」
不意に、セリアが身を乗り出した。
ナプキンではない。彼女の親指が、アリサの唇の端を無造作に拭う。
戦ダコのある、硬く、温かい指の感触。
ソースを拭い取ったその指を、セリアは自身の唇へと運び、ちゅ、と音を立てて舐め取った。
一瞬見えた赤い舌先。
「……ん。甘いな」
料理の感想なのか、それとも。
熱を孕んだ声音に、アリサの下腹がきゅんと縮んだ。食事の席だというのに、胃袋とは別の空腹感が疼きだす。
「アリサちゃん顔真っ赤だよー」
ミオがニヤニヤと笑いながらパンを頬張る。
「ち、違いますっ! ワインのせいです!」
アリサは慌てて水を煽った。冷たい水ですら、火照った体には焼け石に水だった。
デザートのケーキを食べ終わる頃には、幸福感で指一本動かせないほどになっていた。
心地よい重みと、微酔い。
「お会計を」
セリアが涼やかに指を鳴らす。
「四名様で金貨二十四枚でございます」
村人なら卒倒しかねない金額。
「釣りはいらない」
セリアが無造作に革袋を置く。ジャラリ、と重く鈍い音。
アリサたちの懐には、今回の報酬である金貨一万二千枚がある。二十四枚など端金だ。
金銭感覚が崩壊する音が聞こえる。だが今は、それが誇らしかった。命を懸けて勝ち取った対価なのだから。
*
レストランを出ると、夜の帳が完全に降りていた。頭上には満天の星。
「さあ宿だ。一番いいところに行くぞ」
「あそこは?」
ルナが指差したのは、貴族の別邸かと見紛う壮麗な建物。『白鳥の館』。
「最高級宿ね。決まりだ」
ロビーは宮殿そのものだった。
深紅の絨毯は足首まで埋まりそうなほど毛足が長く、大理石の柱が天井を支えている。
「いらっしゃいませ。四名様ですね」
受付の女性が完璧な笑みで迎えた。
「一番いい部屋を頼む。セキュリティが万全なところだ」
「かしこまりました。最上階のロイヤルスイートをご用意いたします。専用の護衛魔法と大浴場付きの特別室です」
「いくらだ?」
「一泊金貨五十枚でございます」
「構わん。一週間分前払いする」
通された部屋は、アリサの生家が五つは入りそうな広さだった。
リビングには革張りのソファセット。寝室は二つ。天蓋付きのキングサイズベッドが鎮座している。
窓からは街の夜景が一望できた。地上の星空を独り占めするような贅沢。
「すごい……お城みたい……」
ミオが絨毯の上ではしゃぎ回る。
「お風呂もすごいわよ! プールみたい!」
ルナの声が浴室から響く。
「部屋割りだが……私とアリサ、ミオとルナでいいか?」
セリアが何食わぬ顔で言った。だが、その耳朶は微かに朱に染まっている。
「うん! 賛成!」
ミオとルナが即答し、顔を見合わせてクスクスと笑った。あからさまな気遣いだが、今はそれがありがたい。
「じゃあ私たちは先にお風呂いただくわね!」
二人が浴室へ消えていく。キャッキャという声と水音が、遠く微かに聞こえてきた。
リビングに残された二人。
急に訪れた静寂。窓の外の輝きだけが、二人を照らしている。
セリアがソファに深く腰掛け、ふぅ、と長い息を吐いた。
そして、隣の座面をポンポンと叩く。
「おいでアリサ。こっちへ」
導かれるまま、隣に座る。肩と肩が触れ合う距離。
セリアの体温が伝わってくる。甘い香油の残り香と、微かな汗の匂い。生きている証の香り。
自然な動作で腰に手が回され、引き寄せられた。
柔らかな衝撃と共に、体が密着する。
「疲れたか?」
「少し……でも夢みたいです。こんな素敵な部屋に泊まれて……」
「夢じゃない。現実だ」
セリアがアリサの手を取り、指を絡ませる。恋人繋ぎ。
掌が熱い。指の腹で甲を優しく撫でられるたび、背筋に甘い電流が走る。
「アリサ……身体、痛まないか?」
「はい。ルナさんの魔法のおかげで。セリアさんは……?」
アリサは視線を落とした。セリアの右腕。ヒュドラの牙に貫かれた場所。
傷は塞がっているが、まだ新しい皮膚の色をしている。
そっと、恐る恐る指先で触れた。
「……っ」
セリアの肩が微かに跳ねる。
「痛みますか?」
「いや……あんたに触れられると、奥が熱くなるんだ」
セリアが熱っぽい瞳でアリサを見つめる。
逃げ場のない視線。
顔が近づく。睫毛の数さえ数えられそうな距離。
唇が、重なった。
レストランでの食事の味がする。芳醇なワインの香り。
深く貪るような口づけではない。唇を食み、形を確かめ合うような、慈しみに満ちたキス。
ちゅ、という水音が、静かな部屋に不釣り合いなほど大きく響く。
「ん……」
唇が離れると、銀色の糸が引いた。
セリアが切なげに眉を寄せ、アリサの頬を撫でる。
「あの時……あんたが死ぬかと思った」
声が震えていた。
「私も……セリアさんが死んじゃうかと……」
「生きててよかった。こうして、触れ合える」
セリアが強く、骨がきしむほど強く抱きしめてくる。
豊かな胸の感触。トクトクと速いリズムを刻む心臓の音。
アリサも背中に手を回し、しがみついた。
浴室からはまだ水音が聞こえる。
壁一枚隔てた向こうの日常音が、かえって今の二人きりの空間の背徳感を際立たせた。
しばらくの間、二人は言葉もなく互いの体温を貪っていた。
匂いを吸い込み、鼓動を確かめ合う。
これから始まる夜への予感に、下腹が疼いて止まない。
「……そろそろか」
セリアが顔を上げた。浴室の水音が止んでいる。
名残惜しそうに腕を解く。
ガチャリとドアが開いた。
白い湯気が溢れ出す。
「あがったよ〜! 次どうぞ!」
ミオたちが上気した顔で出てくる。濡れた髪から滴る雫。清潔な石鹸の香り。
「……じゃあ、行くか」
セリアが立ち上がり、手を差し伸べる。
その手のひらに自分の手を重ねた瞬間、心臓が早鐘を打った。
一緒に入る。裸で。
脱衣所。
服を脱ぐ。冒険者の象徴だったボロボロの服が床に落ちていく。
一糸纏わぬ姿になったセリア。
月の光を吸ったような白い肌。しなやかに引き締まった筋肉。豊かな胸の膨らみと、くびれた腰のライン。
所々に残る古傷が、戦士としての歴史を物語っている。
さっき触れた右腕の傷跡が、痛々しくも、どうしようもなく愛おしい。
浴室へ入る。
広い。石造りの浴槽には並々と湯が張られ、湯気が視界を白く染めていた。水面にはバラの花びらが浮き、甘美な香りを放っている。
二人で湯に身を沈めた。
チャプン、と湯が溢れる音。
肌が触れ合う。お湯の滑らかな感触と、セリアの肌の弾力。
「……はぁ」
セリアが長く息を吐き、浴槽の縁に頭を預けた。
無防備に晒された喉元。お湯に揺れる胸の頂。薄いピンク色が、熱気でさらに鮮やかに色づいている。
アリサは目のやり場に困り、視線を彷徨わせた。
「こっちに来い」
セリアが腕を広げる。
逆らえるはずもない。アリサはおずおずと近づき、セリアの足の間に背中を預けた。
背中全体に感じる、セリアの柔らかな胸の感触。トクトクという心音が、背骨を通して直に伝わってくる。
「背中、流してやる」
セリアの手がスポンジを取り、泡立てる。
円を描くように、優しく、丁寧に。
首筋、肩、背骨のライン。
単に洗われているだけのはずなのに、指先が触れるたびに痺れるような感覚が走る。
「ん……っ」
堪えきれず、吐息が漏れた。
「……感じるか?」
耳元で囁かれる。濡れた唇が耳殻に触れそうな距離。熱い吐息が鼓膜をくすぐる。
「は、はい……」
「可愛いな」
ふ、と笑う気配。
セリアの手が前に回る。
泡に塗れた手が、アリサの胸を包み込んだ。
ビクリと体が跳ねる。
「ひゃっ……!」
「じっとしてろ。洗ってるだけだ」
嘘だ。指先があまりにも優しすぎる。
掌で包み込むように撫で上げ、親指が、硬くなった先端を意地悪く掠める。
くすぐったさと、甘い痺れ。
アリサは力を失い、頭を後ろに反らしてセリアの肩に預けた。
「セリアさん……んっ……」
隙だらけになった首筋に、セリアが顔を埋める。
チュッ、という音。柔らかい唇が吸い付く感触。
「……いい匂いだ」
「あ……セリアさん、そこ……」
「部屋に戻ろう。……続きはベッドで」
セリアが耳朶を甘噛みした。
アリサはコクコクと頷くことしかできない。足に力が入らず、立ち上がれるかどうかも怪しかった。
*
部屋に戻ると、ミオとルナはすでに夢の中だった。
アリサとセリアは寝室に入り、静かに鍵をかける。
世界から切り離された密室。
窓から差し込む月明かりだけが、二人を青白く照らし出していた。
ベッドに倒れ込む。
ふかふかのシーツ。羽毛布団。そして、愛しい人の匂い。
セリアが覆いかぶさってきた。
濡れた黒髪がカーテンのように垂れ下がり、アリサの視界を遮断する。
青い瞳が潤んで光っていた。昼間の凛々しさとは違う、甘く、蕩けるような情欲の色。
「……アリサ」
名前を呼ばれただけで、下腹が疼く。
「好きだ」
唇が重なる。
今度は優しくない。貪るような、深いキス。
舌が侵入し、絡み合う。唾液を交換し、互いの息すら奪い合う。
ちゅ、じゅ、と濃厚な水音が静寂に響き渡った。
セリアの手が、アリサの浴衣をはだけさせる。
帯が解け、前が大きく開いた。
露わになる肌。月光の下、白磁のように浮かび上がる。
恥ずかしくて腕で隠そうとすると、セリアがその手首を掴み、シーツへと縫い付けた。
「隠さないで。全部、見たい」
熱い視線が肌を舐めるように這う。
見られている。ただそれだけで、全身が粟立つほどに感じてしまう。
セリアが首筋に顔を埋め、強く吸い付いた。
「んぁ……っ!」
甘い痛み。赤い痕が残る。消えない所有の印。
手が胸を愛撫する。
揉むのではなく、掌で形を確かめ、慈しむように。
やがて唇が降りてくる。先端を口に含み、舌先で転がされる感触。
「ひゃあ……っ! セリアさん、だめ……っ」
腰が勝手に浮いた。シーツを握りしめ、背中を弓なりに反らす。
熱い。身体の奥底に火がついたようだ。
セリアの手が、太ももの内側をなぞる。
指先が、最も熱い場所へと近づいていく。
だが、触れない。
ギリギリの場所を焦らすように撫でられ、アリサは涙目でセリアを見上げた。
「セリアさん……」
「欲しいか?」
「……いじわる……」
セリアが嗜虐的に微笑み、自身の体をアリサに密着させた。
柔らかいもの同士が押し合い、形を変える。
肌と肌の摩擦。熱の交換。
直接的な行為などなくても、全身が溶けてしまいそうだった。
「アリサ……こっちを見て」
セリアが囁く。
目が合う。その瞳に、自分だけが映っている。
「愛してる」
再び唇が重なる。
深く、どこまでも深く。
二人の身体がシーツの上で絡み合い、一つになっていく。
互いの体温で火傷しそうだ。
「あっ、んっ……セリアさん、セリアさん……っ!」
快感と幸福感が脳を焼き尽くす。
アリサはセリアの背中に爪を立て、強く抱きしめ返した。
もう、どこへも行かないで。このまま私を壊して。
言葉にならない想いを込めて、身体を預ける。
セリアの吐息が荒くなる。
熱い肌が擦れ合う音と、甘い水音だけが、夜明けまで部屋を満たし続けた。
*
長い、長い余韻。
激しい鼓動だけが、二人の生を証明していた。
セリアがアリサの汗ばんだ額に、優しく口づける。
「……大丈夫か?」
「は、はい……」
声が掠れている。身体の芯まで蕩かされた感覚。
セリアが横に転がり、アリサを腕の中に抱き寄せた。
汗ばんだ肌と肌が密着する、不快さとは無縁の粘度。
絶対的な安心感と、満ち足りた幸福感。
窓の外には満月。
明日は何をしようか。どんな冒険が待っているだろうか。
でも今は、この温もりの中にいたい。永遠に。
アリサはセリアの胸に顔を埋め、鼓動を数えながら深い眠りに落ちていった。
悪夢はもう見ない。
ここには、確かな愛があるから。




