目
ユウキは平凡なサラリーマンだった。
毎朝同じ時間に満員電車へ押し込まれ、窮屈さに息苦しさを覚えながらも、耐えるしかない日々。会社では成果を出しても褒められることはなく、ミスをすれば叱責だけが飛んでくる。心の奥底では「こんな毎日を続けて、俺は何になるんだろう」と自問しながら、それでも日々を消費していた。
あの日の夜も同じだった。疲れ切った足を引きずりながら、横断歩道に足を踏み出した瞬間──視界を覆ったのはトラックのヘッドライト。脳裏に浮かんだのは「明日も仕事か……」という諦めにも似た思考だった。そのまま意識は途切れた。
次に目を開いたとき、ユウキは見知らぬ森の中に倒れていた。
木々のざわめき、土の匂い、鳥の鳴き声。あまりに鮮烈な感覚に、まず夢だと思った。だが冷たい土の感触と服の違和感がそれを否定する。スーツではなく、見知らぬ服を着ている自分を見下ろした瞬間、全身に寒気が走った。
「ここは……どこだ……?」
不安が胸を締めつける。だが、小川の水面に映った顔を見た瞬間、その不安は絶望へと変わった。そこにいたのは、かつての自分ではない。名もなき青年、凡庸な顔つきの「誰でもない者」。この世界での自分の名は「アレン」だと、直感のように理解してしまった。
「……俺、主人公ですらないのか」
勇者でも賢者でもなく、ただのモブ。心の奥でくすぶっていた「せめて異世界に行けたら主人公になれるかも」という淡い願望が粉々に砕け散る。胸に広がるのは虚無感。生まれ変わっても平凡で、役割もなく、誰にも注目されない存在。サラリーマン時代と何も変わらないではないか。
だがそのとき、ポケットに硬い感触があった。取り出したのは、かつての世界で使っていたスマートフォン。懐かしさと安堵が一瞬胸をよぎる。しかし画面を点けた瞬間、その感情は驚愕へと変わった。
ホーム画面には見慣れたアプリはなく、ただひとつ「万能解析機」と書かれたアイコンが輝いている。試しに草にかざすと──画面に詳細な情報が現れる。「薬草:体力を小回復」。石に向ければ「鉄鉱石:鍛冶素材」。
「……これは、ゲームか? いや、違う。……チートだ」
心臓が高鳴る。絶望に沈んだはずの心が、わずかに光を取り戻していた。自分はモブだ。物語の主人公ではない。それでも、この「万能解析機」があれば──この世界で生き残り、もしかしたら新しい居場所を見つけられるかもしれない。
ユウキではなく、モブの「アレン」として。
胸の奥に芽生えた小さな希望を、彼は無意識に強く握りしめていた。