母犬のもとへ
二年後、わたしは受験という桎梏の鎖を振り解いて遠方の大学に入学した。ある年の三月末に帰省し、木戸門のところでガウ君の名前を呼んだが、犬小屋にはいる気配がなかった。なぜか庭で放し飼いにされていて、キャインキャインと弱々しく鳴いて庭の一隅から出て来た。しゃがんで待っているわたしのところまで尻尾を振りながら近寄って来る。
「おー、ガウ君は元気じゃったかあ」
薄茶の頭を何度も撫でた。すると、ガウ君は嬉しそうに尻尾を振ってわたしに首を寄せたあと、一通りの儀式が済んだかのようにゆっくりと元の場所に戻って行った。もう行ってしまうのか、とがっかりしてガウ君の名前を再度呼んでみた。いま会ったばかりなのを忘れたかのように、嬉しそうに鳴いて再びそばに来た。また同じように頭を撫でる。首を寄せてくる。機能しない脳みそに翻弄されるかのようにまた戻って行く。その繰り返しだった。ガウ君の後を辿ると、そこはイチジクの木の下だった。なんの賑わいもない木だったが、その根元に愛おしそうに鼻をこすりつけて体を丸めているのが見えた。
いったいどうしたんだと首を傾げながら家の中へ入り、母に「ただいま」を言ったあとで最近のガウ君の様子について尋ねた。
「ここんとこ、意識が混濁しちょるようなんよ。夜になると、あのイチジクの木の下で、ワオーン、ワオオーンちゅうて寂し気に鳴くの。こっちまで切のうなってやれんわ」
その場所を母が口にした時、何か含みがあるような顔つきをした。ガウ君はお腹が異様に膨れている。母も体の異変には気付いていた。
「餌を食べる時もゼイゼイ言うし、心臓でも悪いんかもしれんね」
二人して窓から庭に目をやった。わたしはとても心配だったのと同時に、雑種犬を動物病院に連れて行くほどの余裕など、我が家にないことも受け入れていた。
その晩、母が餌を持って行くとガウ君は食欲もなく重苦しい息をしていたそうだ。多分、自分でも死期を悟っていたに違いない。母はそのまま放って置くのも忍びなく、玄関の内側にガウ君を入れ、上がり框の上の板間で添い寝した。
夜中の二時頃になって急に辛そうな声を出したので、
「どうした?うん?苦しいかね?」
優しく背中や頭を撫でたところ、少しは落ち着いたが、
「ウ~、ファッファッ、ハッハッハッハッ」
急に速い息をしたあとで目がうつろになり、最期は
「クウ~~~ン」
と高い声で鳴いて旅立った。
朝起きてガウ君の死を知らされたわたしは、涙声で口唇を震わせた。
「なんで呼んでくれんかったんか」
「ごめん、ごめん、あの場を離れられんかったもんじゃけえ」
母はガウ君の最期の様子を説明しながら、首を傾げた。
「それにしても、なんじゃろうね。頭を撫でるとわたしの手元に首輪を寄せてきて、嬉しそうに手のひらをペロペロ舐めてくれたんよ。まるでいつもそうしとるみたいに」
山の草むらでガウ君を鎖に繋ぐ場面が目に浮かんだ。あの時、本当に喜んで繋がれていたのだと確信して涙が止まらなくなった。白い毛で覆われている足の先に優しく触れてみた。もう、一緒に山道を駆け上がったあの日のように動くことはない。言い得ぬ寂しさがこみ上げ、わたしの胸を締め付けた。
「山へ持って行って埋めて来りゃあええわ」
朝刊を読みながら無造作に言った父の一言が虚しく響いた。
わたしはガウ君が入ったダンボールの箱を自転車の荷台に括り付け、平坦な道を選んでいつもの山へと向かった。山道の入口に着いて、荷台から箱を大事に降ろしていたとき、懐かしい声が聞こえた。
「早田君じゃない?お久しぶりじゃね」
ドキッとして振り向くと、中学の時に同じクラスで片思いだった花野智子がニッコリ微笑んでいた。上下オレンジのジョギング姿で、以前と同じ丸顔におさげ髪が可愛い。
「そんな所で何しよるん?」
「何って、飼っとった犬が死んだけえ埋めに来たんじゃ」
小さな声で答えた。憧れの彼女を前にして目も合わせられない。箱の中のガウ君が、ワンワンと吠えてわたしをけしかけた気がした。
「えー、そうなん。そりゃあかわいそうじゃねえ」
ありきたりな返事だけど、悲しい心を慰撫してくれているように聞こえた。
「じゃけど、ペットの死体を山とかその辺に埋めるんは、いけんらしいわよ」
彼女は段ボール箱をじっと見つめて、手を合わせている。少なからず好意を持っている人にそう言われれば、埋めて帰るわけにはいかない。わたしはコックリと頷いてガウ君の入った箱を荷台に戻した。別に彼女の歓心を買おうとしたわけではなかったが、つい本心が口から出た。
「花野さんは、中学ん時から、かわいいまんまじゃのう」
早口で、しかも藪から棒の台詞だった。やはり国定忠治のようにはいかない。こんな時にいったい何を言っているのかと顔が熱くなった。キョトンとしている彼女とそれ以上の会話が弾むはずも無く、後ろを振り返らずに渾身の力で自転車を漕いだ。
ガウ君は、もうすぐ桜が満開になる山に埋葬されるはずだったのに、わたしの恋心が災いして、また家に戻ってきた。母はそれを見て開いた口が塞がらなかった。
「しょうがない子じゃねー」
困った顔をしてイチジクの木の下を指さしている。母はわたしにそこを掘らせたあとで、ポツリと言った。
「昔、お父さんに黙って、この犬の母犬をその穴の横に埋めたんじゃ。お父さんには、山で埋めたことにしときなさいよ」
わたしはガウ君を箱から出して、掘った穴に丁寧に寝かせた。体に土をかけようとした瞬間、赤い首輪が目に入った。そうか、これがお前のシンボルだったよな。さあ、これで完全に自由だよ。お母さんのところへ行きなさい。もう二度と繋がれないようにするから。
首輪を外しながら、「ガウ君、ガウ君、ガウ君」と名を呼ぶと、感慨無量で大粒の涙が溢れた。土をかけ終わり、両手を合わせて哀愁に浸っているところに、夢と現実が渾然一体となって元気なガウ君が現れた。ワンワンッと吠えて、左後ろ足で首元をシャシャシャシャッとかいている。尻尾を振りながらわたしの手を舐めたあと、ク~ンと鳴いた。首輪を外されているにもかかわらず、ガウ君は初めて鎖を外してあげた時と同じように自分のそばから、いや、母親が眠る木の根元からいつまでも離れようとはしなかった。
その年の秋、イチジクの葉は鮮やかな赤い実を愛おしそうに抱いた。
わたしは、どうしても、その葉から実を切り離して食べることができなかった。