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ガウ君との絆

 勾配のきつい坂を勢いよく駆け上がって行く。ガウ君は舌を出して激しく息をしながら、わたしをハゲ山の中段まで一気に引っ張った。誰が作ったか小石と土が混ざり合った険阻な坂道。幅の狭い道を少しでも踏み外せば、十メートル下の地上に転がり落ちる。

 当時、高校二年生だったわたしの実家は山口県の岩国市にあり、週末に運動と飼い犬の散歩を兼ねて尾津の山に行くことが受験勉強の癒しになっていた。

 山の高台に着くまでまだ三十分はかかるのに、道順を心得ているガウ君は白と薄茶の混じった毛をなびかせながら、常に先を歩いた。道端にスミレの咲く土の道からアスファルトの舗道に出ると、五階建ての社員住宅が現れる。そこを抜けて山道にさしかかった地点でお座りをさせて頭を撫でた。そのまま両手を赤い首輪に回し、カチャッと鎖を外して草むらに隠した。鎖を外すのは考えようによっては危険な行為だ。自由を束縛されることが大嫌いな犬は、二度と飼い主のところには戻って来ない虞がある。しかし、わたしはいつも鎖に繋がれているガウ君を解放してやりたくてたまらなかった。


 生まれて初めて鎖を外されたガウ君は、怪訝な顔をしたまま動こうとしない。ただ、急に首が軽くなったことだけは実感したようで、頭をブルブルと振った。それから恐る恐る横に二歩三歩と歩いてわたしから距離を取った。まるで、飼い主が自分を捕まえに来るかどうかを確かめるかのように。だが、それは杞憂だった。

 ガウ君は自由の身になったことを悟って縦横無尽に走り回った。右に十メートル走って後ろを振り返り、また戻って来てわたしの前を通り過ぎ、左に十メートル走る。その繰り返しで目の前を走り過ぎたとき、わたしはとっさに反対方向へ走った。ガウ君はその足音を聞くなり、振り返ってキャンキャン、キャンキャンと鳴いて急旋回で追い掛けて来た。あっと言う間に追い付いた後は、鎖に繋がれているかのように足下でじゃれながら付いて来た。わたしは自分のそばから離れようとしない忠実な仕草が嬉しくて仕方がなかった。


 高台までのラスト五十メートルは、いつも全速力で走る。多少は緩やかな傾斜になるのだが、やはり坂道はきつい。到着するやいなや、両膝に手を当てて前のめりになった。中学時代に軟式テニス部で鍛えた体力はどこへやら。ガウ君は舌を大きく出してハッハッハッハッと荒い息をした。鼻を湿らせて唾液が滴り落ちている。

 その場所でしか感じない静謐な空気に包まれて、雑種犬一匹と高校生が眼下に広がる瀬戸内海を眺めた。暮色が迫る中、左前方には倉橋島があり、西に目をやれば周防大島の薄い影が、赤い光線のカーテンの向こうに薄っすらと見えた。

 わたしが顔を向ける方にダウ君も頭を動かしているのが分かった。そんなところまで気にしなくていいのにと思って笑ってしまう。一人と一匹が黙って同じ方向を見ているのは、他人からすればさぞかし不思議な光景だったに違いない。


 わたしはやにわに長い枝を拾って腰に差し、忠義を尽くすガウ君を従えた。

「赤城の山も今宵限り。かわいい子分のガウ君とも別れ別れになる門出だ……」

 調子っ外れの台詞が終わらないうちに、ガウ君はワンワンッと大きな声で吠えて前足の肉球で飛びかかってきた。

「こら、やめんか。ズボンが泥だらけになるじゃろうが。ようし、犬相撲なら負けんぞ」

 ガウ君の前足を両手で握って二本足で立たせ、後ろ足を払ってこかした。ガウ君はドサッという音を立てて草むらに倒れたあと、すぐに起き上がって、ウ~、ガウッとわたしの手に嚙みついてきた。けれども、怒った振りをしただけで、歯は立てなかった。そのあとは、犬相撲の再戦を避けるかのようにわたしの手の届かない所に離れ、木の根元にオシッコをかけて回った。犬小屋に繋がれたまま用を足す時より、余程爽快な顔つきをしている。用を足している間も、チラッチラッとこちらを振り返って見るのがいじらしい。トイレの締め括りは、雑草が繁茂している土を後ろ足で蹴散らかす。これもお決まりだが、必ずウウ、ウウッと唸った。


 山から下りて鎖を外した場所に近づくと、ガウ君は何やら察知したらしく、逃げるように先の方まで走って行った。ときどきこちらをうかがっているが、なかなか戻りそうな気配を感じさせない。それでも優しく名前を呼ばれて観念したのか、柔和な目をしてわたしの手の届くところに近付いてきた。その瞬間、赤い首輪に再び鎖が繋がれた。一抹の不安はあったものの、必ず戻ってくると信じて放した身からすれば、ほっとしたのと同時に嬉しかった。ヨシヨシと頭を撫でると、ガウ君はわたしの手をペロペロ舐めて小さく鳴いた。そこからの帰り道は、来た時と同じように鎖をグイグイと引っ張って先導してくれた。

 その次の週末も同じ場所で鎖を外して山に登った。その次も、またその次のときもそうした。ガウ君は山の高台まで行った帰りにその草むらに戻ってくると、当たり前のようにわたしの手元に首輪を寄せて、温かい舌で手を舐めてくれた。


 あれは、七月の期末テストが終わった日のことだった。その日はいつもより早めに高校の門を出た。自宅近くまで帰って来たところで、ガウ君の荒々しく吠える声が聞こえてきた。近所にも犬を飼っている家はあったが、自分の犬の声を聞き間違う飼い主はいない。いったい何があったのかと訝しい気持ちで家に着いた。そこで見たのは、ガウ君が牙を剥き、鎖をちぎれんばかりに引っ張って興奮している姿だった。

 どうした?と言って近くに寄ったが、わたしに頭をなでさせようとする隙も見せない。後ろを振り返ったとき、ガウ君が吠えている方角から、キャンキャンと鳴き声がするのに気が付いた。ガウ君は、犬の鳴き声一つで事の重大さが分かるのだろう。人間には理解できない犬語の世界か。

 わたしはかばんを家に置くだけのわずかな時間も惜しんで、泣き声のする方へ急いで足を向けた。そこでは、保健所の職員二人が、太い針金でできた輪っかのようなものを野良犬の首や胴体に引っ掛けて捕まえ、トラックの荷台の檻に放り込んでいた。

「犬捕りだ!」

 わたしが叫んだところに、いつの間にか同級生の数男と栄吉が来ていた。

 野良犬の捕獲は大切な仕事だが、その現場は悲惨だ。

「ぶちかわいそうなんど。はあ、見ちゃあおられん」

 そう呟いた数男も狂犬病の怖さは十分承知していた。嚙まれまいとして、一定の距離を置いている。他の犬が職員に捕まらないように逃げ惑っている中で、勇敢にも体当たりせんばかりに職員に激しく吠えて、トラックの荷台にガリガリと爪を立てている犬がいた。

「あれは、自分の子犬を捕られたけえ、取り返そうと思うて気が立っちょるんよ」

 栄吉が教えてくれた。

「ぼくは、あの犬と子犬がいつも一緒におるのを学校帰りによう見かけたもんじゃいね。近くを通りかかっても尻尾を振るだけで、噛みつくような真似をするこたあ、いっそもなかったんじゃがねえ」

 栄吉に助けてあげたい気持ちはあっても、どうすることもできなかった。

 職員たちは荒れ狂う親犬を捕まえようとしたが、噛みつかれそうになって諦めた。

「もう、これくらいでおしまいにしとこうや」

 捕獲道具を荷台に投げて、親犬には目もくれずトラックのドアを開けた。黒い煙を出して動き出したトラックの荷台に向かってワンワンと吠えて、いつまでも追いかける親犬を目で追うのは辛かった。

「あれであの犬の親子は二度と会えん。一生の別れじゃ。人間のことで考えてみんさい。知らん奴らに子供が連れて行かれよるのんを見て、泣き叫ばん親がこの世におるじゃろうか」

 数男の目から涙がこぼれていた。


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