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黒鶴の取引

 私たちは倉庫街を後にし、夜の静寂に包まれた街路を歩いていた。空には満天の星々が瞬き、冷たく澄んだ夜風が頬を撫でていく。その美しい景色に、胸が不思議と軽くなったような気がした。


「なんだか、大変なことになっちゃったね」


 私がぼんやりと呟くと、ヴィルはけらけらと笑い声を上げる。


「まあ、いい稼ぎにはなったし、結果良ければ万事良しだ。だが、まさかあんな法外な値で売れるとは思いもしなかった」


「双星の翡翠姫……そんなに貴重な魔石だったなんて、本当にびっくりしちゃった。でも……」


 私は言葉を濁した。


「ん?」


 ヴィルが首をかしげる。


「あれ、とっても綺麗だったし、売らなくてもよかったかな、ってちょっと思ってね」


 ヴィルは歩くペースを崩さず、一瞬だけ横目で私を見た。その視線は闇の中でも鋭さを保っているけれど、どこか穏やかな温もりが潜んでいる。


「下手に持ち歩いて無用な騒ぎに巻き込まれるよりも、適切な場所で役立てられたほうがいいだろう」


 彼の声は淡々としていたが、その冷静さにはどこか諦めにも似た響きが混じっていた。


「……そっか、そうだよね」


 私は、納得したように小さくうなずいた。


《《うむぅ……それにしても金貨四十枚だなんて、まさに富豪になった気分。これでリーディスに着いたら食の祭典は確実だね。うふへへへ……》》


 茉凜の調子に乗った声が脳裏に響き、私は思わず苦笑した。


「もう、茉凜ったら。今からそんな気分になっちゃってるの?」


 私が毒づくと、ヴィルが興味深そうに剣の方を見つめる。


「マリンが、何か言ってるのか?」


「ええ、大金せしめたから、これで美味しいものをいっぱい食べようってね。いい気なものだわ」


 ヴィルはクスリと笑い、肩をすくめた。


「いい相棒じゃないか」


「そうかしら?」


 私はわざと嫌味っぽく返すけれど、自然と笑みがこぼれてしまう。


 双星の翡翠姫――あの翡翠色の魔石が私たちの手にあった時間はあまりにも短かった。でも、その短い間にさえ、魔石の異様なまでの存在感は私を強く引き寄せていた。

 私の異能において、魔石は必要がないものだけど、あの石の輝きは私を虜にして止まなかったからだ。目に焼き付くほど美しく、同時に言い知れぬ恐ろしさも秘めているようだった。


 でも、茉凜が喜ぶ顔を想像すると、私の心は蜜のように甘い喜びで満たされる。それを思えばどっちが大事かなんて考えるまでもない。


◇◇◇


 ヴィルが用心棒の傭兵二人を瞬く間に片付けると、取引相手の男は満足げに笑い、取引に応じる様子を見せた。


 さらに狭い奥の部屋へと案内されると、私は緊張で胸がぎゅっと締め付けられるようだった。それでも、茉凜はいつでも予知視を発動できるよう準備を整えていてくれたし、何より私のそばには心強いヴィルがいる。そのおかげで、不安はあまり感じなかった。


 部屋の中央に置かれた商談用のテーブルにつくと、男は部屋の隅にある大きな宝箱へ向かい、その中から布袋を取り出した。袋が動くたび、硬貨がじゃれ合う音がして、重厚な金貨の存在を匂わせる。


 男は袋に手を入れ、一枚の金貨を取り出すと、それをテーブルの上に置いて見せた。


「これはリーディス王国で鋳造された、正真正銘本物の【メービス金貨】だ。あんたたちが持ってきた魔石――“双星の翡翠姫”に対して、こちらから提示できるのは、金貨二十枚というところだ」


 それは、私にとってこの世界で初めて目にする金貨だった。それも、母さまの故郷であるリーディスで鋳造されたもの。


 私は手のひらに乗せた金貨をじっと見つめた。表面には細かな彫刻が施されており、中央には長い髪をたなびかせた女性の顔が精巧に刻まれている。彼女は剣を抱いており、その彫りの美しさから、素人目にも技術の高さが伝わってくる。


「この女の人……」


 思わず、そんな言葉が口をついて出た。


 それを聞いたヴィルが、ちらりと金貨に目をやってから答える。


「これか? リーディスに伝わる伝説の人物だ。世界を救うために戦った、別名――精霊の巫女と呼ばれた女性だ」


「ふーん……」


 私はそう軽く相槌を打ったものの、心はどこか別のことに囚われていた。金貨の伝説の話は耳をかすめる程度に流し、目の前の状況に意識を戻す。


――そう、今は交渉が優先だ。


 リーディスの金貨に刻まれた神話の巫女が、どれだけ壮大な物語を抱えていようとも、現実はもっと生々しくて、計算高いもの。いま私が目を向けなければならないのは、交渉相手の態度、わずかな表情の変化、そしてこちらがどう優位に立つか――そういうことだ。


 私は気持ちを切り替え、相手の目をじっと見据えた。


「二十枚ってずいぶんと軽く見られたものね。私、安売りするつもりはないんだけど?」


 もちろん、私もヴィルも魔石の相場など知る由もない。


「小娘にしては、言うじゃないか。そこのでかいの、お前は交渉に加わらないのか?」


 ヴィルがにやっと笑う。


「あんたが自慢する傭兵どもを片付けたこの俺が任せるというんだから、その意味はわかるよな?」


 もちろん、これは彼の心理的な揺さぶりだ。


 取引相手の男の表情がわずかに引きつったのが分かった。私の中で緊張が再び走るが、それは表には出さない。今のこの場では、私たちが主導権を握っているかのように振る舞うことが肝心だった。


 男はしばらく私たちの様子を観察し、次にどう出るかを考えているようだった。狭い部屋の空気はぴりぴりと張り詰め、互いの駆け引きが静かに火花を散らしている。


「ふむ、なかなか度胸がある」


 男は鼻先をぴくりとさせ、薄笑いを浮かべたけれど、その目は笑っていない。


「だが、この商談に乗るも乗らないも自由だ。俺が提示できるのは二十枚――それ以上を求めるなら、他の買い手を探すことだ」


 私の指が金貨の縁を軽くなぞる。重みはしっかりと感じられたけど、それでも私の内心は揺るがない。焦らず、挑発に乗らず――それが、ここで生き残るための鉄則だ。


 ヴィルは隣で静かに見守っている。彼の存在がどれだけ心強いことか、今改めて思い知らされた。彼の鍛えられた鋭い感覚は、たとえ商談であっても隙を与えない。私はもう一度呼吸を整え、ゆっくりと視線を男に向けた。


「そうね、他の買い手を探すのも一つの手だわ。でも、きっとあなただって分かっているはず。これほどの魔石は滅多にお目にかかれない。二十枚で済むと本気で思っているなら、楽観的すぎるんじゃないかしら?」


 男は口元を歪めて笑みを作る。その奥に潜む計算の色が一層濃くなった。


「小娘、そこまで言うなら少しばかり条件を見直してやれるかもしれん……が、それにはまだ確かめたいことがある」


 男の視線が鋭く光る。私は背筋をぴんと伸ばし、視線を逸らさずに彼を見つめ返す。交渉はまさに心理戦――揺らぎを見せたら、負けだ。


「具体的には、何のことかしら?」


 私が意識して冷静な声を保つ一方、男は肩をすくめ、意味深に笑った。


「俺も馬鹿じゃない。こんな高価な品を持ち込んだんだ。何かの裏があるんじゃないかと疑いたくなるのも仕方がないだろう。たとえば……」


「たとえば?」


「盗品である可能性。さらには、パーティーメンバーを裏切って持ち逃げした。そんなところだ。こちらとしては、面倒事に巻き込まれるのは御免だ」


 その言葉に、私は瞬時に反応を抑えた。どこまでこちらの事情を疑っているのか、まだ測りかねる。ヴィルも同様に、男の発言を一語一句聞き逃さないように注意を払っているのが分かる。


「へえ、私たちのこと、まだ信用してくれないんだ?」


 私は軽く肩をすくめてみせた。


「すまんが、それが生き延びるコツなんでな」


 男は、しばし沈黙を保ったままこちらを見つめた。


「じゃあ、私の力を少し見せてあげようか? どうしてグラウクス・ボアを倒せたのか、その理由が理解できると思うわ」


 男は眉をひそめ、わずかに興味を引かれたような表情を見せた。その目には、用心深さと好奇心が入り混じっている。


「それが本当なら……確かに見てみたいものだ」


 男は、言葉の端に疑いを込めつつも、私の次の行動を期待しているようだった。


 私はヴィルの方に一瞬だけ目をやった。


 彼は黙って頷く――私が力を使うことに対する了解のサインだ。その視線には、万が一に備えるという鋭い決意も含まれていた。ヴィルがいてくれるだけで、背中に支えがあるような安心感が生まれる。


 私は静かに息を整え、胸の奥に眠る異能を呼び覚ます。茉凜の存在が、暖かく心を包み込んでくれる感覚が広がる。


《《美鶴、サポートは私に任せて。ちょっと派手にいこうか?》》


 茉凜の声が脳裏に響き、私は小さく笑みをこぼした。


「じゃあ、ほんの少しだけ」


 そして、私は心を深淵への闇へと沈めていく。


「来いっ、黒鶴っ!!」


 私の呼びかけに応じて、胸の奥底で眠っていた力が目覚める。空気が重く淀み、部屋の温度が一気に下がったかのように冷たく感じられる。私の背後に、黒く揺らめく影が現れた。影は瞬時にして形を変え、翼のように広がっていく――それは漆黒の鶴が翼を広げるかのような姿だ。


 私の異能が発現する瞬間、部屋にいる全員の視線が一斉に私に集中する。息を呑む音が聞こえ、取引相手の男は無意識に後ずさりした。彼の目には恐怖と驚愕が浮かんでいる。


 黒い翼の幻影は威圧感と共に神秘的な銀色の燐光を放ち、その存在は視覚だけでなく、空気の流れさえも圧倒するようだった。だが、その奥には――自由を求める私の強い願いが込められている。


「場裏、解放……」


 私がその言葉を放つと同時に、部屋の空間が歪むように変化し始めた。四つの異なる色彩に包まれた薄い繭状の球体が、次々と虚空から現れ、揺らめきながら無数に浮遊する。白、青、黄、赤――それぞれが異なる属性を象徴するように輝いていた。


「うおっ!? なんだこれは!?」


 取引相手の男は恐怖に目を見開き、椅子を倒して立ち上がった。彼は壁際まで後ずさり、背中をぴったりと壁に押し付けながら、全身を震わせている。汗が額を伝い、喉が何度も音を立てて嚥下しているのが見て取れた。


「お、お前、一体何をした!? これはなんなんだ、おいっ!?」


 彼の声は明らかに怯えていた。


 私はその様子を冷静に見つめ、氷のように冷徹な表情を浮かべる。まるでかつて“氷の王子様”と呼ばれた記憶を彷彿とさせるように―― 心を氷の玉のように冷やしつけ、静かに答えた。


「これが私の力よ。魔獣を翻弄し、切り裂き、貫き、そして燃やし尽くす――四つの属性すべてを操る術。風、水、土、火……どの属性も私の思考の中で思うがままに形を変え、敵を跪かせるために存在する。

 私たちがいるこの建物なんて、いえ下手したらこの街ですら、跡形もなく吹き飛ばせるわ。やってみせようか?」


 言葉を吐き出した瞬間、胸にきりりと痛みが走った。

 威嚇のための演技にすぎない――けれど、口にした内容は紛れもない事実だった。


 周囲に浮かぶ球体がわずかに震え、空気がびりびりと揺れる。頬をかすめる風が温度を奪い、まるで私の意志に同調するかのように球体は脈動した。

 膨れあがる圧力が室内を覆い、男の喉元へ冷たい重みを押しつけていく。その表情に走った微かな動揺を、私は見逃さなかった。


 ヴィルはその様子をじっと見守りながら、ゆっくりと口角を上げた。


「これで分かっただろう。俺たちに下手な真似をしようものなら、次にどうなるかは想像に任せる」


 男はもう、完全に恐怖に支配されていた。頷くことさえできず、ただ息を荒げていたが、やがてなんとか絞り出すように言葉を発した。


「わ、わかった……! お前たちの言う通りにする! もう交渉の余地はない……! 三十枚、いや……三十五枚だ! それで、それで手を打ってくれ!」


 私は冷徹な表情を崩さぬまま、彼の怯える顔を見下ろしていた。だが、心の奥底で茉凜の存在が優しく語りかける。


《《あらら、怖がらせすぎちゃったかな? でも、これで私たちの勝ちだね》》


 私は胸の中で茉凜に微笑みかけ、球体たちを徐々に消し去っていった。部屋の空気がやっと落ち着きを取り戻し、男はその場にへたり込むように崩れ落ちた。


 こうして私たちは、双星の翡翠姫の売却に成功した。金貨三十五枚に加えて、迷惑料五枚を上乗せするという、少し強引な取引になったしまったけれど。


 外に出ると、夜風が熱をさらっていった。星の光が石畳に薄い銀を流し、息は白く、胸の鼓動はようやく静けさの拍に重なる。

 私は金貨の重みを確かめ、隣を歩くヴィルの横顔を盗み見る。闇に溶ける輪郭は鋭いのに、どこか柔らかい。


 外に出ると、夜風が熱を攫っていった。石畳に星の光が薄く流れ、吐く息は白く、胸の鼓動もようやく静けさを取り戻す。


 私は金貨の重みをそっと指先で確かめる。隣を歩くヴィルの横顔を盗み見ると、闇に溶け込む輪郭は鋭さを帯びて、それでもどこか柔らかい。


《《ね、今夜はさっそく一品だけでも……》》


「……ひとつだけ、ね」


 思わず笑いがこぼれた。

 勝ち取ったのは金ではなく、明日へつながるささやかな温度――そんな気がして、胸が少しだけ温かくなる。

 今回のストーリーの肝は、「主人公が異能を使って交渉相手を圧倒し、心理戦を制して取引を有利に進める」という点にあります。

 交渉が成功し、大金を得たことで、物語が次の舞台リーディスへと進展するための準備が整いました。ここでの成功は、今後の旅路や新たな冒険の始まりを予感させ、物語全体における「資金の確保」としても重要な役割を果たしています。

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