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双星の翡翠姫

 倉庫街に足を踏み入れた瞬間、空気が一層重く変わった。湿った冷気が肌にまとわりつき、腐った魚のかすかな匂いが鼻を刺す。影の奥から視線が張りつくようだ。

 私たちは一歩ずつ、靴音を殺し、神経を尖らせて進んだ。


 雑踏の中、不意に甲高い声が跳ねる。


「おい、そりゃあどこで仕入れたもんだ。ああ?」


 別の場所から、かすれた笑い声。


「そいつはご想像にお任せってやつさ、フヒヒッ! ここで聞くのは野暮ってもんだろ?」


 笑いと物音が混じり、闇に反響する。背筋に冷えが走り、私は目だけを巡らせた。

 道の角に潜む人影。微動だにせず、こちらを見る。その静けさが不気味で、思わずヴィルに目を向ける。

 彼は「問題ない」と視線を返すが、体は警戒を解いていない。


 やがて市場の芯に近づく。木箱が組まれ、翡翠色に光る魔石、異国風の彫りの短剣、魔力を帯びた古びた巻物が積まれていた。売人たちの目は鋭く、声は低い。値踏みと駆け引きの匂いが漂う。


 私はポーチを握り、ある露店の前で立ち止まる。膝丈の薄汚れたコートを着た肥えた男。欠けた金歯が薄く光り、細めた目がこちらを撫でた。


「お嬢ちゃん、こんな危ないところに何しに来たんだい? 遊びに来たんなら命を賭けることになるぜ」


 男の口元に、薄い嘲りが浮かぶ。

 ヴィルが一歩前へ出て、低く睨みを落とした。


「遊びじゃない。取引しに来ただけだ。それも“魔石”のな」


 短い間。周囲のざわめきが一瞬やみ、遠くで木箱の軋む音が響いた。

 男は一度たじろぎ、すぐに薄笑いで肩をすくめる。


「ほう、そうか」


 唇の端を歪め、鼻で息を鳴らす。


「ただし、ここは生き馬の目を抜く連中ばかりでな。油断は禁物だぜ」


「それは理解している」


 ヴィルの声は低く、揺らがない。

 男は目を細め、手を差し伸べる仕草をした。


「なら、まずはその魔石とやらを見せてくれよ」


 私はポーチをわずかに開き、翡翠色の魔石をちらりと覗かせた。

 かすかな輝きに、男の目が細くなる。


「こりゃまた……たいした代物じゃねえか」


 伸ばしかけた手がぴたりと止まり、瞳の色が変わる。

 私も握る手に力を込めた。


「そう簡単には渡さないわ。私たちも、できるだけ良い取引をしたいんだから」


 舌打ちが闇に響く。男は肩をすくめ、指で奥を示した。


「なら、裏手の商談部屋に行きな。だが注意しろよ。“奴”は気難しいことで有名だからな。下手を打てば商談どころか、最悪川に骸を浮かべることになるぜ」


 指差す先。倉庫の奥に、闇へ溶ける扉。

 湿った空気がそこだけ重く、何かを飲み込もうとする口のように冷たさを漂わせていた。


 ヴィルが低く囁く。


「行くのか?」


 私は息を詰めて頷く。


「ここで引くわけにはいかないわ」


 二人で短く視線を交わす。

 その瞬間、胸の中で声が弾んだ。


《《おおお……なんだか、わくわくしてきたーっ……!》》


 茉凜は、こんな時でもドキドキハラハラのサスペンス気分。危機感の薄さが、いかにも彼女らしくて、私はくすっと笑ってしまう。


 ヴィルも私を見て、にやっとした。


「じゃあ、行くか」


「うん」


 意を決して歩き出す。裏手の扉を押すと、湿った板がぎしりと軋む。中には淡いランプが数個、揺れるだけ。薄暗い光が壁をかすめ、空気はよどみ、古い鉄の錆の匂いが鼻を掠めた。


 扉の向こうで待っていたのは、先ほどの売人とは別の男。痩せた体に黒いマント。氷のような瞳。無言で椅子を示す。


 胸の鼓動を抑え、私は腰を下ろす。ヴィルは隣に立ったまま、男から目を離さない。張り詰めた空気が、薄い膜のように肌に張りつく。


 痩せた男が、ぼそりと切り出す。


「……見慣れない顔だな。誰の紹介でここに来た?」


 一瞬、息が止まりかける。平静を装って答える。


「街の魔道具屋の店主からよ。名前は、たしか……」


 言いかけて、はっとする。――名前を聞いていない。焦りが胸を締めつける。言葉を探す私に、男の目が鋭く射す。


「ギースか?」


 あっさり言い当てられた。


「ギース・クロットのことだろう?」


「ああ、そう、その人よ! 細身で片眼鏡を掛けた人」


 私は慌てて相槌を打つ。


 男はじっと見据え、口角を薄く持ち上げた。動揺を楽しむような、意地の悪い笑み。


「ふ、そうか……奴がここに行けと言ったか。ということは持ってきたのは魔石。それも奴の鑑定眼に敵う、価値ある代物ということだな……」


 胸の奥で緊張が増す。実のところ、私もヴィルも魔石の相場に明るくはない。もし適当に回されたのだとしたら――。


「へえ、それは知らなかったわ」


 できるだけ自然に返す。自分の声が上ずっていないか、少し気になる。


 男は顎を指先で撫で、促した。


「まあいい。さっさと物を見せてくれ」


 私は小さなポーチを取り出し、呼吸を整える。ヴィルが横で視線を張ったままなのを確認し、そっと口を開く。翡翠色の光が淡く立ち上がる。男の目がわずかに光った。


「ほう……」


 口元に、かすかな興味。


「これはこれは……取引をするだけの価値がありそうだ」


 小さく息をつき、すぐ気を引き締める。ここからが本番だ。


 男は椅子に深く腰掛け、わずかに身を乗り出した。


「まず、あんた達に尋ねたい。これをどうやって手に入れた?」


 私は短く考え、視線を受け止める。


「半月くらい前、ここへ来る途中の山岳地帯、たしか『ナルド』山地ってところで出くわした魔獣を倒してね」


 男の目が鋭くなる。


「どんな魔獣だ?」


 ヴィルが静かに口を開いた。


「グラウクス・ボアだ……」


 その名に、男の瞳が一瞬、刃のように光る。表情がわずかに動き、興味が深まるのがわかる。


「グラウクス・ボアだと?」


 押し殺した声。驚きと興奮が混じる響きに、私は身を固くした。


 ヴィルは淡々と続ける。


「単眼が特徴の巨大なイノシシ型の魔獣だ。突進力が尋常じゃない。真正面から受ければ、どんな堅牢な防御もひしゃげる。牙は大樹を砕き、表皮は鉄の鎧。下手に剣を振れば刃こぼれするだけだ。

 ただし、巨体ゆえに動きは鈍い。直線的で単調だから、かわして隙を取ればいい。だが一度でも油断すれば命取りだ。暴れるたびに地形がめちゃくちゃになる」


 フードの影で、男の顔がわずかに強張ったように見えた。


 ヴィルは、過ぎてきた戦いの記憶で、既存の魔獣の種類と核の位置を体に刻んでいる。それが彼の強さの土台だ。


 男は唇を歪め、せせら笑った。


「……ずいぶんと饒舌だが、知識をひけらかすくらいは、誰にでもできる」


 軽蔑の響きに、眉がぴくりと動く。


「どういう意味よ?」


 男は挑発的に目を細めた。


「お前たちが、その魔獣を本当に倒せたとは到底思えない、ってことだ」


「なんですって?」


 喉までこみ上げる悔しさ。椅子から立ち上がりかけた肩に、ヴィルの大きな手がそっと触れた。


「落ち着け……」


 驚くほど温かい掌。波立つ怒りが、声と温度で静まっていく。


 男は魔石を指さす。


「なぜそう断言できるか、教えてやろう。その魔石は特別すぎるんだ」


「どこが特別だっていうの?」


 ため息まじりに、男は続けた。


「この翡翠色の魔石は、その特異性から希少な宝物とされている。通称――『双星の翡翠姫』……そう呼ばれている」


 その名を口にした瞬間、翡翠の輝きがわずかに揺らぎ、壁に映る影まで淡く染めた。胸の奥がかすかに詰まり、息が乱れる。

 あの骸から掬い上げた時の、目を奪う色。手放さずに残そうかと迷ったのは、その美しさのせいだ。


「通常の魔石は単一属性にしか応じない。だが、これは二属性を抱き、組み合わせた術を起動できる。翡翠の輝きは、内部の濃い魔素が脈打つように反射している証だ。目を奪われるのも道理だな」


 男はゆっくりと身を乗り出した。


「しかも純度が高い。伝導率が段違いで、出力そのものが強化される。さらに内包する魔素は規格外だ。熟練の大魔術師や名工が、喉から手が出るほど欲しがるのも当然だ」


 私は魔石へ視線を落とす。翡翠の光が表面を揺れ、胸がきゅっと締めつけられる。――この石は、戦いの戦利以上の意味を抱えている。そんな重さが、静かに沈んでいく。


「これを内包していた魔獣が、どれだけの強さかは想像に難くない。ましてやグラウクス・ボアだと? それを倒しただと? 笑わせる。そんな与太話、誰が信じられるものか」


 私は大きく息を吐き、胸のわだかまりを沈めにかかる。


「倒したのよ、私たち二人だけでね……」


 フードの影を射るように睨む。試すように、わざと上目に視線を突き刺した。


 男は一瞬、目を見開き、すぐに大袈裟な笑い声を上げる。


「あっはっはっはっ! こいつは痛快だ。お前さん、作り話にしちゃ上出来じゃないか!」


 あまりにも鼻につく笑い。こめかみがぴくりと跳ねる。感情に任せれば交渉が壊れる。唇を噛み、堪える。


 男は気づかぬまま、肩を揺らして続けた。


「ナルド山地のラウクス・ボアと言えば、ここいらの冒険者でもおいそれと手を出せない怪物だ。一体相手するのに、五十人、いや百人は必要だと言われてる。それをたった二人だと? 小娘、冗談も大概にしろ」


 それがこの界隈の常識。年端もいかない私が、裏の商談場にいること自体、奇異に映るのだろう。


「仕方ないわね……」


 私はため息とともに、首の認識票をつまみ上げる。光の下に差し出した。


「私の名は、ミツル・グロンダイル。エレダンの魔獣狩り、“黒髪のグロンダイル”と呼ばれているわ」


 名を告げた瞬間、男の表情が固まった。ほんの僅かな変化――それで十分だった。

盛り込んだ点

空気の重苦しさと不安感

「倉庫街に足を踏み入れた瞬間、空気が一層重苦しく変わった」

 場の不気味な雰囲気を感じさせるために「湿った冷気」や「腐った魚のかすかな匂い」といった感覚的な描写を用います。これにより、舞台がただの市場ではなく、危険で不穏な場所だと暗示させます。


会話の駆け引き

「おい、そりゃあどこで仕入れたもんだ、ああ?」

 倉庫街の治安の悪さが伺えます。売人たちのやり取りは、この場が犯罪の温床であることを示します。


 ミツルと露天商の男の会話は、威圧と挑発が交錯するやり取りです。男が「笑わせる」と馬鹿にすることで、ミツルの怒りや焦りが露わになります。ヴィルの存在が彼女の冷静さを保つ重要な役割を果たし、二人のチームワークを示します。


ヴィルの威厳と冷静さ

 ヴィルは常に冷静で、ミツルが感情を爆発させないように支えています。彼の言葉がミツルの怒りを和らげる描写は、彼の信頼感と保護者的な役割を強調します。

 また、グラウクス・ボアの説明をヴィルにさせることで、彼がどれほどの戦闘経験を持つかが伝わり、ただの武闘派ではない彼の冷静で知識豊富な一面を見せています。


魔石の特異性と価値

 男が翡翠色の魔石について語るシーンは、今話の中核にあるアイテムの価値を引き立てるための情報が組み込まれています。

 また、ミツルが魔石の力に無知である描写は、彼女が冒険の中でまだ学ぶべきことが多いことを示し、キャラクターの成長する余地を期待させます。


ミツルの内心の葛藤と覚悟

 「倒したのよ、私たち二人だけでね……」 と言い放つシーンでは、ミツルが男に対して強がりを見せている一方で、内心では怒りと焦りが交錯していることがわかります。上目遣いで睨む仕草は、少女らしい可愛らしさと強がりを同時に表現しています。

 一方で、男がミツルを馬鹿にする態度は、彼女の自尊心を傷つけますが、それを理性的に抑える前世のミツルが制御しています。


ミツルの正体の明かし方

 ミツルが最終的に認識票を見せ、「ミツル・グロンダイル」の名を名乗る場面は、物語の転機となる重要な要素です。男がその名を聞いて表情を凍りつかせるのは、彼女の正体がどれほど知られているか、また彼女がいかに重要な存在かを暗示しています。

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