旅立ちの日と温かなパン
出発までの数日は、本当に目が回るようだった。街の人たちへの挨拶を済ませるよりも、片付けなきゃいけないこの部屋が大問題だったのだ。半年以上も暮らしてきたけれど、荷物はすでに棚を埋め、床の上には色とりどりの小箱が影を落としていた。何から手をつければいいのか、しばらく立ち尽くした。
私は物にこだわらない主義だ。元々素朴な生活で十分だと思っていたし、そもそもこの世界で贅沢を望むなんて無理だと分かっている。
でも、茉凜は全然違う。彼女は何でも興味津々で、小さな髪留めから光るアクセサリー、可愛いぬいぐるみまで、見るたびに《《あ、これ欲しい!》》などと言うのだ。私が「そんなもの無駄。いらない」って言っても、茉凜は《《気持ちが明るくなるじゃん!》》って笑う。
机や棚の上には、彼女が集めた宝物みたいな小物がどんどん積み上がっていった。夢のように見えても、どこか、まだ自分には馴染まない色だった。
だけど、不思議なことに、茉凜の声を聞いていると、その思い込みが少し揺らいでしまう。彼女の喜びを知るたび、喉の奥がすうっと和らぎ、「案外、いいかも……」とつぶやいてしまうのだ。
もっとも前世での私たちは、価値観の違いと、私が弟に憑依していたという特殊な事情から、互いの気持ちを理解できず、すれ違ってばかりだった。わかりあえたのは、取り返しのつかない、ほんの一瞬だけ。今思えば、静かな後悔が胸に降り積もっている……。
美鶴として生きていた頃、もし彼女に出会えていたなら――どんな未来を歩けただろう。ふと、そんな夢を見てしまう。
◇◇◇
窓辺から差し込む淡い朝の光が、埃を纏った小物たちの上にやわらかな影を落としていた。
半年という時が染み込んだ部屋は、思い出の欠片で静かに満たされている。
手近な机の端に置かれた小さな飾りに、そっと指先を伸ばす。すぐに茉凜の声が心の奥で跳ねる。
《《ちょっと待って! それ、捨てるのは絶対にダメ!》》
「これ?」
私は小さな木彫りのうさぎを持ち上げ、問いかける。細やかな木目をなぞるたび、茉凜が《《可愛い!》》と嬉しそうに手に入れた日のことを思い出す。
《《そう、それ!》》
弾む声が心の膜を打つ。
《《これがないと落ち込む気がするんだ……》》
私は短く息を吐く。
「茉凜、私たちはこれから長旅に出るんだよ。大事に思うのは分かるけど、全部は無理だって。荷物はできるだけ軽くしないと」
《《でも、でも……!》》
拗ねた響きが返る。
《《思い出が詰まってるんだよ? 捨てたら全部消えちゃうみたいで……嫌だ》》
「あのね……」
私は額に手を当てる。たしかに、小さな物たちは彼女の心を彩ってきた。それでも、旅の現実は甘くない。
「茉凜、どうしても捨てられないものだけ厳選して? 全部は無理だから」
なるべく柔らかな声で伝える。
沈黙が降り、拗ねた気配が漂う。
《《分かった……少しだけ妥協する……けど!》》
急に明るくなる。
《《超厳選するから、それだけは持ってってくれるよね?》》
「う、うん。ほんとに厳選してよ?」
私は木彫りのうさぎを小箱に納め、静かに肩の力を抜いた。
そうやって茉凜とやり取りをしながら、荷物整理は少しずつ進んでいった。
指先でひとつずつ、埃を払うたび、微かな甘い匂いが立ちのぼる。必要な物だけを選び、茉凜の記憶も、そっと箱の奥にしまうように――この部屋を出る時、すべてを持っていけるわけではないけれど、思いだけは決して手放さない。
一日かけて部屋は片付き、茉凜の宝物も結局はかなりの量になった。それでも、一つ一つが思い出深く、箱に収めて抱きしめると、胸の奥が少し温かくなった。
◇◇◇
そして、旅立ちの朝。宿のおかみさんは、いつもと変わらぬ温かい朝食を用意してくれた。これが最後だと思うと、当たり前の光景が急に特別に見える。パンの香ばしさも、スープの温もりも、一口ごとに心に染みた。
席を立つと、おかみさんが真剣な眼差しで私を見つめる。
「本当に、行っちゃうのかい?」
胸の奥がきゅうと波立つ。ここでの笑顔が一瞬にして浮かび、言葉が詰まる。
「はい……。いままでほんとうにお世話になりました」
ようやく口に出す。涙が滲んだが、唇を噛んで笑顔に変えた。
おかみさんは多くを聞かず、優しく笑んでくれる。
「……そうかい。なら身体にだけは気をつけてね」
母のような声に背を押される。
「はい、ありがとうございます」
私は深くお辞儀した。その姿に、おかみさんはふっと笑った。
「あんたね、そんなにかしこまる必要ないよ。前にも東の大陸から来た客がそうしてたけど、ここじゃ珍しいんだよ。ほら、肩の力を抜きな」
軽やかな笑みに救われ、息を吐いた。
「おっと、忘れてた」
おかみさんが厨房へ走っていく。その姿に思わず微笑む。戻ってきた手には二つの紙袋。
「これを持っていきな。今朝焼いたばかりのパンだよ。数日分にはなるからさ、旅の糧にしておくれ」
袋はまだ温かく、口を絞る紙の隙間から甘い湯気がふわりと立ち上る。喉の奥がほころび、肩の力がそっと抜ける。
「私、また必ずここに帰ってきます」
おかみさんは目尻を細め、静かに頬をゆるめた。
「ああ、必ず戻ってくるんだよ」
湯気のように優しい声が、じんわりと体の奥に染みた。ここは私にとって第二の故郷だ。だから「さよなら」ではなく――
「それじゃ、行ってきます」
おかみさんも笑顔で返す。
「ああ、行ってらっしゃい」
その言葉が背を押す。振り返らず歩き出すと、紙袋から立つパンの匂いが、歩き出す背中にそっと灯をともすようで、振り返らぬ道の先まで、ぬくもりが途切れなかった。
茉凛の「かわいいもの好き」や、何でも欲しがる子どもみたいな物欲――それは、単なる性格や趣味というより、“身体を持たない魂が、現実の触感や色彩に飢えている”ことの、静かな現れのようです。
目で見ることも、手で触れることも、本当はできない。でも、ミツルの五感を通じて、少しだけ世界に触れていられる。だからこそ、「小さな髪飾り」や「木彫りのうさぎ」みたいな、何気ない物にも、強く心が引き寄せられてしまうのだと思う。
それは「穴埋め行動」でありながら、同時に、生きている実感そのものへの執着でもあって。
ミツルが何気なく触れた感触、部屋の中の光の具合、埃の匂い、パンの湯気――そういった一瞬一瞬が、茉凛にとっては“世界に繋がる数少ない窓”なのかもしれません。
だから「捨てないで!」「これがなくなったら、落ち込む」という訴えも、単なるワガママではなくて――「自分の存在が、この世界から薄れてしまう」ことへの小さな恐れが、そこに滲んでいる。
ミツルの「いらない」「無駄だよ」という合理的な声と、茉凛の「でも、ほしい」「かわいいものがあれば生きていける」という祈るような欲望――二人の価値観が交差するこのやりとりは、“身体がある者と、ない者の世界の違い”を、とても繊細に映し出しているようです。
だから、ミツルが最後に「思いだけは決して手放さない」と受け止めることで、茉凛の“小さな物欲”が、“失われた身体性”を埋めるささやかな幸せ”へと、そっと昇華されるのかもしれません。




