リーディスの風に抱かれたい
「マウザーグレイルか……なかなかいい響きだ。なんとなくだが、この剣に相応しい名だと感じる」
「うん、私も気に入っている」
その名前に込めた願いは、私と茉凛、そしてこの世界で出会ったかけがえのない家族をつなぎ、今ではヴィルとも結びつけるおまじないとなった。
《《ちゃりーん! “つよいけんしがなかまにくわわった”。ほらね、悩むことなんて何もなかったでしょ? さすがはヴィルだよね!》》
部屋の少しひんやりとしていた空気が、その明るい響きにふわりと温められたような気がした。茉凛の無邪気な笑い声が響く。
その明るい響きは、耳の奥深くまでしみわたり、心をそっとほぐしていく。彼女がこんなにも楽しそうに、心の底から幸せそうに笑っていると、自然と私の頬も緩んでしまう。
「茉凛、本当に楽しそう……。これでヴィルも仲間だって」
そう言いながら、胸に溜まっていた重いものが少しずつ解けていくのを感じる。
長い間、この秘密を抱えたまま一人で生きるのは、まるで果てしない旅路を孤独に歩んでいるようだった。けれど、ヴィルと出会い、彼がそばにいてくれることで、少しずつ変わり始めている。
秘密をすべて語れるほどの強さはまだ持てないけれど、それでも彼の存在が私を確かに支えてくれていると感じる。それに、これからはヴィルの前でも気兼ねなく茉凛と話せることで、どれほど心が軽くなるだろう。
私はそっとマウザーグレイルを抱きしめる。頭の中に茉凛の姿を思い浮かべ、彼女と目を合わせる。茉凛は太陽のように輝く笑顔を浮かべて、「そうだよ」と囁くように頷いている気がした。
そんな時、ヴィルが私の持つ剣をじっと覗き込む。
「その“マリン”ってやつは、俺が話している声も聞こえているのか?」
「うん。正確に言うと、私の耳を通してね。私が見ているものも、一緒に見ているよ」
そう言って、自分の耳と目を指さしてみせる。
「ほう……」
ヴィルは少し驚いたように目を見開き、再びマウザーグレイルに視線を戻す。彼の顔には半信半疑な表情が浮かんでいたが、その中には好奇心が輝いていた。
《《ヴィルったら、まだ狐につままれたような顔してるね》》
茉凛の明るい声が私の中で跳ねるように響き、新しい仲間に出会えたことへの喜びが伝わってくる。
「茉凛はね、私以外の誰かに直接話しかけることはできないけど、ちゃんとこの中で生きているの。
私が感じるものを一緒に感じて、風の匂いや食べ物の味だって分かるのよ。もちろん、お酒を飲めば一緒に酔うんだけど……悪酔いすると都合よく感覚を切って逃げちゃうの。ひどいよね?」
私は、うれしくて仕方なく話し続けた。
「ははは、そいつはひどいな。だが面白いじゃないか」
ヴィルは笑いをこらえながら、肩をすくめる。
「面白くないよ。私だけ二日酔いだなんて、ずるいんだから」
「まあまあ、そう言うな」
ヴィルはなおも可笑しそうに、その目尻を和らげている。彼の笑顔に、私もつられて小さく笑った。
「……でもね、茉凛は私が傷ついたときも、痛みを分け合ってくれるの。
胸が締めつけられるような苦しさや、心臓が止まりそうな驚き、胸が高鳴る瞬間も……全部、同じように私の気持ちを一緒に感じてくれてるの」
その言葉に込めた思いが、静かに心に広がっていく。ヴィルはじっと私を見つめて、何かを考えるように目を細めた。
「茉凜はね、私にこう言ってくれたの。
“わたしたちはふたつでひとつのツバサ”なんだって。
辛いことや悲しいことがあっても、“ふたりではんぶんこ”にしようって……」
誰かに向かって、この話をするのは初めてだった。ヴィルはくすっと笑ってこう言った。
「それは一心同体ってやつだな。いい友達じゃないか」
《《ブーッ!!》》
「違うよ!」
私たちは二人同時に反論した。
「じゃあなんなんだ?」
そう問われると、私は急に落ち着かなくなった。どうにも恥ずかしくなってしまったからだ。
「……と、とにかく、茉凜は私の一番で、とても大切な人の。うまく言えないけど……」
「そうか……聞くだけ野暮だったか」
ヴィルの低く含みのある声に、なぜか心が揺れた。
彼の言葉には、表面的な軽さの裏に、何か見透かしているような響きがあった。気づかれたくない感情が知らず知らずに表に出ていたのだろうか。
私は視線をそっと反らし、静かにマウザーグレイルを見つめた。
ヴィルの小さな咳払いに、張り詰めていた空気がふっと和らいだ気がした。
「それはいいとして、話を本題に戻そう。最初に向かうべき目的地をどこにするかだ」
ヴィルが話題を変えてくれたことに、ほっと胸を撫で下ろす。これ以上茉凛との関係について突っ込まれたら、自分でもどう説明していいか分からなくなってしまいそうだったから。
「そ、そうだね」
私は照れ隠しのように小さく頷いて、手元の地図に目を戻した。指先に触れる羊皮紙のざらついた感触と、インクの乾いた匂いがかすかに鼻をくすぐる。粗く描かれた線と記号が旅路の険しさを物語っていた。
けれど、私の心には既に一つの目的地が決まっていた。地図の中でひときわ大きく描かれた中央大陸。その南にそびえる険しい山脈を越えた先に広がる、果てしない平原と海岸線を持つ国。
――その名は「リーディス王国」。
その言葉が胸の中で響くたび、どこか懐かしく切ない感情が込み上げてきて、伝えようと口を開きかけたけれど、思いが強すぎて声が細る。ヴィルは、私が迷いを抱えていることに気づいたのか、黙って待っていてくれる。
「わたしね、リーディスに行ってみたいの……」
私は少し戸惑いながらも、決意を込めて口にした。
「うむ……」
ヴィルは腕を組み、険しい表情で深く考え込んでいる。長い沈黙の後、彼が重々しく口を開いた。
「行ってどうするんだ?」
その問いには、以前の記憶が滲んでいた。
あの時、私は「乗り込んで濡れ衣を着せられた父さまの無実を証明する」と息巻いて、リーディスへの思いを語ってしまった。ヴィルはそのことを気にしている。
「ああ、誤解しないでね。別に何かしでかそうだなんて思ってない。ただ……」
自分でも上手く説明できなくて、言葉がだんだんと弱々しくなってしまう。
「ただ?」
ヴィルが首を傾げて問い返す。そのまっすぐな視線に、私は自分の理由の頼りなさを痛感した。こんな理由で本当にいいのだろうかという不安が、ふいに心の中を掠めた。
それでも、この気持ちはどうしても抑えられない。胸の奥で募る想いが、どうしても言葉としてあふれ出てしまう。
「……笑わないでよ?」
「笑うものか」
「その……一度でいいから、母さまの故郷を、この目で見てみたいの……」
その言葉を口にした瞬間、ヴィルの眉がわずかに動いたのを見て、私は反射的に体をこわばらせた。みぞおちのあたりが急にざわめき、不安が広がる。彼はきっと反対するに違いない――そんな予感がした。
しかし、ヴィルは私の心配を裏切るように頬を緩ませた。それは柔らかく、どこか安心させてくれるものだった。
「それがお前の願いなら止めはしない。むしろ、俺は行くべきだと思う」
彼の言葉に驚いて、私は思わず顔を上げる。ヴィルの眼差しは穏やかで、私の想いをそっと受け止めてくれるような温かさがあった。
「ありがとう、ヴィル。私、母さまが見ていた景色や感じていた風……それをこの目で確かめたいって、ずっと思っていたの」
言葉が震えたのは、心の底からの想いがあふれ出たからだった。何年も胸に秘めた願いが、ようやく形を持ち始めた瞬間だった。
ヴィルは穏やかに頷くと、静かに言葉を紡いだ。
「……その気持ちを大切にしろ。母親の生まれ故郷を知ることは、きっとお前自身を知ることにも繋がるはずだ」
「えん……」
私の返事は自然と小さな声になったけれど、そこには確かな決意が宿っていた。ヴィルの言葉が、心の中の曇りをすっと晴らしてくれるような気がした。
「リーディスに行けば、この先どうしていけばいいか、その何かが見つかるような気がするの」
私の視線は遠く、まだ見ぬ母の故郷を想像していた。青く広がる空や海、そよ風に揺れる草原。母が同じ風景を眺めていたのだと思うだけで、胸が熱くなる。
ヴィルは腕を組みながら、理路整然と話を続けた。
「よかろう。それなら賛成だ。リーディスは大陸一の先進国であり、海に面した王都は交易の中心地だ。世界中から集まる物産や、情報だって容易に手に入る。港からは他の大陸への船便もある。旅を進める上で、最初の目的地としては最適だろう」
彼の説明は、まさにヴィルらしい冷静かつ論理的なものだった。なにより、願いに賛同してくれたことが嬉しくて、私は小さく頷いた。
「そうだね……何か手掛かりが見つかるはず」
彼の言葉を心に刻みながら、これから始まる新たな旅路に胸が高鳴るのを感じた。母さまの故郷への旅は、私にとってただの目的地ではなく、ずっと求めていた答えに繋がるかもしれない。
ふと、開かれたままの地図の上を乾いた風が通り抜け、紙の端をかすかに揺らした。
「だが――」
ヴィルの表情が急に引き締まり、私の胸の高鳴りが少しだけ収まる。彼の言葉が続くたびに、心の中に小さな不安が生まれた。
「――ひとつだけ問題がある」
彼の声は落ち着いていたけれど、そこにはいつものように鋭い洞察が含まれているようだった。私は思わず彼を見つめ、次の言葉を待った。
「リーディスは栄えた国だが、それゆえ警備や監視も厳重だ。特に王都は、外からの侵入者や旅人に対して敏感だ。無計画に入り込むのは危険だし、不審者扱いされる可能性だってある。それと――」
ヴィルの言葉が途中で切れ、私は思わず続きを促した。
「それと?」
彼は少し眉を寄せて、私の顔を真剣に見つめた。
「お前のその漆黒の髪が問題になる可能性がある……」
「えっ?」
不意に指摘されたことで、私は自分の髪を手でそっと撫でた。指の間を滑り落ちる絹のような感触は、母から受け継いだ誇りでもあるのに。長く真っ直ぐな黒髪――この世界では珍しい色だった。人目を引くことはこれまでもあったけれど、そんなに問題になるとは思っていなかった。
「リーディスでは、特定の髪の色に対して強い偏見があるんだ。特に黒髪は、古い伝説や忌まわしい神話に絡んでいることが多くてな……。特に王都近辺では、黒髪を持つ者が何かしらの災厄をもたらす、と今でも信じられているんだ」
その説明に、胸の奥が冷たく締めつけられるような感覚が走った。予期せぬ障害に、わずかに戸惑いを覚える。けれど、ここで怯んではいられない。
「そう……でも、それでも私は行くよ」
私の決意に、ヴィルは静かに頷いた。その眼差しは、私の覚悟をしっかりと見定めているようだった。
「よかろう。それについては、リーディスに入るまでに手段を考えよう」
ヴィルは落ち着いた声でそう言うと、思案するように腕を組んだ。
「黒髪を目立たなくする方法や、髪を隠すための工夫を考えればいい。変装用の道具や、現地で使える小細工だって準備できるだろうからな」
彼の提案に、私の心の中に一筋の希望が差し込んだ。
「そうだね。ありがとう、ヴィル」
私が礼を言うと、彼はわずかに口角を上げて微笑んだ。その表情は、どこか頼もしくて温かく、緊張していた心が少し和らいだ気がする。
ヴィルは少し楽しそうに続けた。
「俺の役目は、お前を無事に目的地まで連れて行くことだ。それとだ、リーディスはなんといっても飯がうまい。新鮮な魚介に、肉汁溢れる肉料理。世界中のありとあらゆる土地から集められた調味料や香辛料。それに、酒だって最高のものが手に入るんだ。どうだ、悪くないだろう?」
ヴィルの言葉に、私は思わず笑顔を浮かべた。彼の楽しげな口ぶりには、守護者としての責任感だけではなく、旅を共にする仲間としての温かい思いが感じられた。
「もう……結局、お酒の話になるんだから」
からかうように言うと、ヴィルは少し肩をすくめてみせた。その仕草があまりに自然で、私の緊張していた心がさらに和らいでいく。
《《それよそれ! 美食がわたしたちを待っている! あー、楽しみでしかたない》》
茉凜の声が心の中で跳ねるように響いた。彼女はすっかりご機嫌で、食べ物の話題にすっかり乗り気になっている。茉凜がこんなに楽しそうだと、私までつられて笑いたくなってしまう。
「じゃあ、リーディスに着いたら、美味しいものをいっぱい食べようね」
私は満面の笑みでヴィルに言うと、彼も「そうしよう」と頷いて、いたずらっぽく目を細めた。その表情に、どこかくすぐったい気持ちになった。
旅の先に何が待ち受けているかは分からないけれど、ヴィルや茉凜と一緒にいると、不思議と未来に対する不安が和らぎ、代わりに小さな希望が胸の中で灯る。
「きっと楽しい旅になるよ」
私の声には自然と明るさが込められていた。期待に胸を膨らませながら、これから始まる新たな冒険を思い描く。未知の景色、母さまの故郷、そしてそこで出会う人々――すべてが私たちを待っているのだと思うと、心が躍るような気持ちになった。
ヴィルはそんな私の様子に気づいたのか、目を細めて微笑む。
「俺も楽しみにしている」
彼の言葉に力をもらい、私はさらに強く頷いた。隣で茉凜の陽気な声が心の中で弾け、胸の高鳴りがどんどん増していく。新たな地平がすぐそこに待っている。
私はもう一度、テーブルの上の地図に視線を落とす。そこに引かれた一本の線が、私たちの未来へと続く道のりのように輝いて見えた。
私たちの旅は、今まさに幕を開けようとしていた。
「ふたつでひとつ」「はんぶんこ」という茉凛の“祈り”
● 物語構造での「継承」の意味
第二章 茉凛がミツルに与えた“最大の武器”
「どんな痛みも、二人でなら“はんぶんこ”できる」という、分かち合いの感覚。
「ふたつでひとつのツバサ」「一緒に背負えば、怖くない」。
これは、茉凛という存在が“救済の王子様”として与えてくれた、“生きていくための最初の魔法”でした。
一九一話でのヴィルとの“継承”
茉凛とのやり取りで、「一緒に感じる/分け合う」ことが、初めて“第三者”(ヴィル)へと輪を広げていく。
台詞にも、「茉凛はね、私にこう言ってくれたの。“ふたつでひとつのツバサ”なんだって」「“ふたりではんぶんこ”にしようって……」と、明確に茉凛の言葉を口移しにして伝えている。
ヴィルはそれを「一心同体ってやつだな。いい友達じゃないか」と受け止めつつ、まだ理屈としてしか分かっていないが、これがのちの“魂の契約”の原点になる。
この「分け合う」「はんぶんこ」という価値観は、以降のヴィルとの関係性に
「痛みも、弱さも、罪も、全部二人で半分ずつにしよう」
「ふたつでひとつのツバサで飛ぶ」
「どちらか一人では立てない。二人で初めて、“選び直す未来”を持てる」
という物語全体の“核”になっていきます。
● 演出的なポイント
ここでミツルが自分の「孤独」を語れるようになるのは、茉凛から“二人なら強くなれる”という肯定をもらったから。そして、その“武器”を次にヴィルに手渡す=“分け合う力”のバトンを繋ぐ瞬間。
ヴィルは最初、「一心同体」「友達」とだけ受け止めるが、将来的には、彼自身が「痛みもはんぶんこ」「理不尽も二人で背負う」ことを選び、それが魂の半身としての誓いへと昇華していく。
「孤独を共有することが最大の武器になる」というテーマは、作品全体を貫く根幹
ミツル個人の救済で終わらず、家族、夫婦、国家、そして未来へと“共苦”と“はんぶんこ”の輪が連鎖していく。
この回は「比喩や大仰な決意」ではなく、日常会話の中でそっと“核心”が語られる。誰かと“はんぶんこ”したい――その一言が、すべての自己犠牲・赦し・生存の物語に直結していくという、少女的な弱さこそ最大の力となる。
まとめ
この一九一話は、「ふたつでひとつ」「はんぶんこ」という最大の武器を、ミツルが茉凛から受け取り、ヴィルに手渡す“最初のバトン”――それが、やがて未来への承継となる起点です。




