二つの心
ヴィルと並んで歩く静かな時間は、不思議な安心感を運んでくる。けれど、先ほど胸に生まれたもやもやは、夜風に吹かれても消えなかった。
街灯が足元に淡い影を落とし、小石を踏む靴音と衣擦れが重なって響く。冷えた風が裾を揺らし、肩にひやりと降りてきた。
見上げれば、雲間からのぞく星々が絵画のように散らばり、煌めきはかすかに瞬いている。その光を見上げるヴィルの横顔は穏やかで、遠いものを見守るような眼差しを湛えていた。
私は一瞬その横顔に見惚れる。けれどすぐに、心の中の違和感に引き戻される。吐いた息が白く、夜気にほどけて消えていった。
「寒くはないか?」
ふと、ヴィルが目を向けてきた。
「ううん、ぜんぜん」
笑って応じる。けれど、その笑顔がぎこちないのを自分でも感じていた。ヴィルは小さく眉をひそめる。
「さっきから気になっていたが、何か心配事でもあるんじゃないのか?」
心の奥を撫でるような声音。私は視線を逸らす。遠くで誰かの笑い声が夜気に溶けていった。
答えなくては――けれど、形を持たないもやもやは言葉にならない。彼の優しさは確かに温かいはずなのに、どこか満たされない感覚があった。その理由は、自分でも掴めない。
沈黙に耐えかねて、小石をつま先で蹴った。
「……そういえば、さっきの料理、本当においしかったね。あんな味付け、私も作れるかな?」
無理に笑みを浮かべる。風が髪を揺らし、頬に冷たさを残した。
ヴィルは一瞬だけ表情を和らげ、わざとらしく首を振った。
「そいつは無理だろう」
「むぅ……」
「同じ材料を揃えたからといって、そう簡単に真似できるものじゃない。あれは職人の研鑽があってこそだ。剣でも料理でも、結局は積み重ねた手の数がものを言う。お前が作れるようになるには……相当な修行が要るな」
その真面目な口ぶりに、私は思わず肩をすくめて笑った。
「修行か……じゃあ、旅に出なきゃいけないね」
「旅か……悪くないかもしれんな」
ぽつりと落とされた声は遠い響きを帯びていて、星明りが彼の頬を照らしていた。横顔に、ほんの一瞬、寂しさが浮かんだように見えた。けれど次には、いつもの穏やかな瞳に戻っていた。
私は視線を星空へ戻し、散らばる光を辿りながら、自分の胸の奥をそっと探っていた。
私たちは市場の近くにある、こじんまりとしたバーに立ち寄った。
扉を押し開けると、木の香がふわりと広がる。淡い琥珀色の魔道ランプが天井から吊るされ、カウンターやテーブルを優しく照らしていた。外の冷気とは対照的に、室内はぬくもりに包まれている。
ヴィルは奥の隅にある空席を見つけ、私を促して座らせた。私は彼の隣に腰を下ろし、背もたれにそっと身を預ける。カウンター越しには無口そうな初老の男がいて、黙々とグラスを磨いていた。布がガラスをなぞる音だけが、静けさの中に細く響く。
「何を飲む?」
ヴィルが尋ねる。声には優しさがにじんでいたが、さっき星空の下で聞いた寂しげな響きがまだ残っているように感じた。
私は棚に並ぶグラスをしばらく眺め、照れくさく首を傾ける。
「うーん……ほんのり甘くて、口当たりのいいのがいい。私、強いお酒は苦手だから」
ヴィルは小さく頷き、バーテンダーに声をかける。
「この子のイメージに合った軽めのカクテルを、二つ頼みたい」
バーテンダーは一瞬だけ私の顔を見て、短く頷く。奥から数本のリキュールを取り出すと、氷を落としたシェイカーを優雅に振りはじめた。氷がカランと鳴り、液体が混ざり合う音が、柔らかい光の下で心地よく響く。
やがて注がれたカクテルは、淡い緑色に揺らめき、そこに黒いシロップが一滴だけ落とされた。沈む黒が光を透かし、幻想的な陰影を作る。まるで自分自身の揺れを映すように思えて、私は目を奪われた。
ヴィルがグラスを差し出し、少し照れたように笑った。
「どうだ? お前に似合う一杯だと思うが」
私は両手でグラスを受け取り、そっと口に運ぶ。鼻先をかすめたのはフルーティーな甘さ。氷が小さく揺れ、口に含めば柔らかな甘味と、わずかなハーブの苦味が広がった。
「……不思議な味。優しくて……でも繊細で、少しだけ切ない」
私の言葉に、ヴィルは満足げに目を細めて笑った。
「お前らしい感想だ」
胸の奥がじんわりと温かくなる。けれど同時に、カクテルの淡い甘さがどこか心の奥を刺激し、切なさを滲ませていた。
ヴィルはグラスの縁を指でなぞりながら、沈黙に沈んでいた。間が重たく感じられ、私は氷を揺らして音を立てる。琥珀色の光が液面を跳ね返し、微かな煌めきが胸に刺さる。
やがて、彼は息を整えるようにして口を開いた。
「ミツル、俺はお前を守る……何があっても」
思いのほか真剣な響き。手にしたグラスが小さく震える。氷が触れ合い、控えめな音を立てた。
彼の瞳がまっすぐに私を見据えている。薄い微笑みの奥に、隠し切れない真剣さと、不安の影が揺れていた。
「……どうしたの、そんなこと急に?」
なんとか軽い声を出そうとしたが、かすれが混じってしまう。胸の内で鼓動が強く跳ね、音が自分にだけ響いている気がした。
ヴィルは視線を逸らさず、息をひとつ飲み込むようにして続けた。
「お前は……ユベルが遺した娘だ。親代わりなんてできる柄じゃないが、そんな気持ちで見守りたい。そう思っている……」
言葉が胸にずしりと落ちる。私は思わず視線を伏せ、グラスを見つめた。氷がゆっくりと溶け、かすかな音を立てる。外から差し込む風に扉の鈴が揺れ、微かな余韻が店内に広がった。
親のように見守りたい――その想いは、優しくて切実で、真摯だった。けれど同時に、心の奥には違和感が渦を巻いていた。温かさを受け入れたいのに、素直に抱きしめられない自分がいる。
グラスを持つ手が震え、胸の奥の揺れと重なった。
「……私は、そんな守られなきゃいけないような子供じゃ、ないよ……」
小さな声で吐き出す。氷がまた、ちいさく音を立てた。
「こうして、お酒だって飲めるんだからね……」
ヴィルの目がわずかに驚いたように見開かれる。けれどすぐに柔らかな表情に戻り、私の言葉をそっと受け止めてくれる。
「そうか……」
苦笑と共に肩をすくめる仕草。
「確かに、お前は優れた魔術師としての才を持っているし、実際にとんでもなく強い。とても大人びた言葉遣いをするし、年上のハンター連中にだって臆することがない。だが……時々、そんなふうには見えなくなる……」
「それがなにか?」
思わず問い返す。グラスの中で氷が揺れ、胸の鼓動と重なる。
「年相応の子供らしさ……無邪気に笑ったり、怒ったり、泣いたり、そんな純粋な喜怒哀楽が見えてな……」
その言葉は、心の奥深くまで届いてしまう。私は息を詰め、グラスを指先できゅっと掴んだ。大人びようと必死に強がってきた。けれど、子供のような感情がふと零れてしまう。その矛盾を指摘されると、隠していたものを暴かれるようで、胸がきゅっと痛んだ。
「……そうかな」
笑みを作ろうとする。けれどぎこちなさは隠せない。視線をグラスへ落とし、氷の角を数える。頭の中では話題を変えようと必死だった。自分の中の乖離を知られるのが怖い。
ヴィルの目に、一瞬だけ問いかけの色がよぎった。けれど言葉にはせず、ただグラスを傾けた。
そのまましばらく私を見つめていたが、やがてふっと息を吐き、柔らかく笑った。
「まあ、俺が言いたいのは、無理をする必要はないということだ。お前は自分の気持ちに素直であればいい」
その言葉に胸が締めつけられる。彼の優しさが、守りたいという真剣な気持ちが、言葉の端々ににじんでいる。けれど私は、すぐに受け入れられない。甘えたいのに、甘えるのが怖い。強くありたいのに、本当は弱い。
グラスを握りしめた手に力がこもる。氷がカランと鳴り、揺れた。その一瞬に救われた気がしたが、また迷いに戻される。私はヴィルの視線を避け、淡い緑の液面を見つめた。
ヴィルの優しさは変わらない。父のように、兄のように、時には仲間のように――常にそばにあってくれる。けれど、その温もりに触れるたび、なぜか泣きたくなる自分がいる。
本当に無理しなくてもいい。そう思えたら楽になれるのに。けれど心はふたつに裂かれていて、どちらを選んでいいのかわからない。
「……ありがとう、ヴィル」
かすかな声を絞り出す。響きはグラスの中に落ち、氷と一緒に静かに揺れた。
ヴィルは優しく微笑んだ。その笑みは、心に沁みて温かい。けれど同時に、切なさも増していった。
心配されることに甘えてしまえば、今の自分が崩れてしまいそうで怖い。だから、強がりを手放せない。
カクテルの甘さが喉を過ぎ、胸に広がった。その余韻は温かく、それでいてほんの少し切なかった。
心のどこかで――もう少しだけでいい、この強さを保っていたいと願っていた。
【ヴィル回想手記抜粋】
あの夜、問いただそうと思えばいくらでもできた。
「どうしてそんなに大人びているのか」「本当にユベルの子なのか」と。
だが、それを口にした瞬間、この娘の均衡は壊れてしまう気がした。
だから黙っていた。違和感ごと抱きしめて受け入れるのが、俺の役割だと思った。
本当に、この娘は底知れない。
ミツルの心の中には、ヴィルに甘えたいという少女らしい気持ちと、強くあらねばと自分を律する大人びた自意識が共存しており、その二つの感情が絶えずぶつかり合っています。
特に、ヴィルの優しさに触れるたびに「自分が崩れてしまう」という恐れを抱く部分は、誰かに心を預けることの怖さや、心を許せない切なさが表現されています。カクテルの味に対する反応も、甘くて優しいけれど少しだけ切ないという感覚が、ミツルの感情そのものを反映しています。
ミツルの心の中にある複雑な葛藤は、彼女の12歳の純粋な感情と21歳の前世の記憶が交錯して生じています。この二重の感情は、彼女のアイデンティティを常に揺れ動かし、自分が本当はどちらの存在なのか分からなくさせる要因となっています。
12歳の感情
ミツルの現在の12歳の自分は、まだ幼く、誰かに守られたいという気持ちを無意識に抱えています。家族以外の誰とも触れ合わず、ずっと山奥で育ちましたから、世間知らずで純粋で子供っぽいです。
そして、ヴィルは彼女にとって父親や兄のような存在であり、その優しさや包容力に触れるたびに、甘えたくなる純粋な感情が湧き上がります。父を失った寂しさや不安もあって、彼の温かさに寄りかかりたいと思うのは自然なことであり、特にヴィルが彼女に寄り添ってくれると、無防備にその安心感に浸りたくなります。しかし、そうした甘えたい気持ちが彼女の表情や仕草に無意識に表れるたび、自分で気づいてしまい、それが恥ずかしさや不安へと変わっていくのです。
21歳の感情
一方で、21歳の記憶と感情は、自分を強く保とうとする意識を与えています。前世の彼女は成熟した大人の女性としての誇り(そう思い込んでいるだけの未熟)を持っており、「誰かに甘えてはいけない」「もっと強くならなければ」という思いが根付いています。
さらに、21歳の意識がヴィルを年上の男性として無意識に認識しているため、甘えたくなる気持ちを抑えるように働きかけ、彼に対して少し距離を置きたくなることもあります。ヴィルの優しさに触れるたび、彼を異性として意識してしまうことがあり、彼の目を見るのが少し恥ずかしくなったり、大人の自分を装いたくなったりするのです。
心理的な揺れと不安定さ
この二重の感情がミツルの心に生み出すのは、常に揺れ動く心理的な不安定さです。12歳の子供らしい自分は、甘えたくて仕方がないのに、21歳の記憶がそれを否定しようとする。強く大人びて見せたいのに、無意識に出てしまう子供らしい反応が嬉しくても恥ずかしく感じられる。そうした葛藤は、彼女の言動や態度に微妙な違和感をもたらし、ヴィルの優しさにどう応えるべきか分からなくなる原因となっています。
ヴィルにとって、ミツルはまだ若くて守るべき存在ですが、ミツル自身はそう思われたくないと強く感じることが多い。しかし同時に、ヴィルの優しさに触れると無意識に頼りたくなってしまう。それは、彼の温かさが彼女の内にある孤独や不安を優しく溶かし、それを受け入れてしまえば自分が崩れてしまうような気がするからです。
このように、ミツルは12歳の甘えたい気持ちと21歳の自立したい思いとの間で絶えず揺れ動きながらも、どちらに重心を置くべきか迷い続けています。その心理的な葛藤が、彼女の複雑で繊細な内面を作り上げているのです。
 




