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温かさの中の違和感

 次の日、街全体が祝祭の風に包まれていた。ゴードンが運んだ物資が市場の棚を埋め、商人たちの声は陽光に弾けている。色とりどりの野菜や肉が並び、香辛料の瓶が光を返す。炭火と香ばしい匂いが漂い、人々は笑顔を交わし、足取りも軽やかだった。


 露店の並ぶ通りでは、子どもたちが歓声を上げて走り回る。パン屋の屋台からは焼きたての香り、肉屋では滴る脂が音を立て、行き交う人が思わず立ち止まる。異国の香辛料の匂いが鼻先をかすめ、通りすがりの者はその匂いに導かれるように振り返っていた。


 目に留まった串焼きを一本。噛むと舌先にスパイスが踊り、炭火の香りが鼻腔に広がる。肉汁がじゅわりと溢れ、喉を熱で満たす。心の奥にまでじんわりと温かさが届くようだった。


《《わぁ、これ、とっても美味しいね!》》


 マウザーグレイルに宿る茉凜の声が、すぐに心に響く。同じ串焼きを隣で頬張っているかのような親密さがあり、その喜びを分かち合えることに胸が弾んだ。


《《もう一本食べたくなっちゃうよ。これに冷たいエールでもあったら最高》》


「そうだね」


 彼女の囁きに誘われ、私はうなずく。味わいを分け合いながら、祝祭のひとときを共有していた。


 中央広場からは音楽が届き、人々は輪を作って踊っている。楽師の奏でるリズムに若者が身を任せ、大人も足を鳴らしていた。笑顔と歓声が重なり、夕暮れの空気は柔らかく揺れていた。


 市場の片隅にゴードンの姿がある。人々は感謝を告げ、彼の手を握り、礼を述べる。そのたびに彼は照れた笑顔を浮かべていた。街に運ばれた豊かさが、彼の姿ににじんでいるようだった。


 祭りの熱気は夕暮れになっても衰えず、街全体を包み込んでいた。


◇◇◇


 その夜、私はヴィルと合流し、街外れの小さなレストランへ向かった。ゴードンが運んだ食材を使い、ひそかに扉を開く店だ。店主はかつて王都で名を馳せた料理人で、今は故郷の街で趣味のように店を営んでいる。


 居酒屋の喧噪に惹かれかけていたヴィルを、少し強引に誘った。戦いのとき、私は足を引っ張ってばかりだった。その罪滅ぼしがしたかったのだ。


 小径を抜けると、灯りに照らされた店が静かに佇んでいた。夜空は澄み、風が木々を揺らす音が耳に届く。時間が緩やかに流れているような安らぎがあった。


 革鎧姿のままの自分を意識する。もっと華やかな服があれば、と一瞬思う。けれど装いよりも、共に過ごす時間こそが尊いと自分に言い聞かせた。


 店先で振り返ると、ヴィルは少し戸惑いを含んだ瞳で立っていた。子供にしか見えない私がこんな店へ案内するとは思わなかったのかもしれない。


「ヴィル、どうしたの?」


「いや、なんでもない。せっかくのご招待だ。楽しませてもらおうじゃないか」


「うん」


 彼の微笑みに、私もつられて顔がほころぶ。その照れと誇らしさが、心に優しく響いた。


 メニューには贅を尽くした料理が並んでいた。ヴィルが選んだ品は、私の嗜好に近いものばかり。配慮か偶然かはわからないが、心がほどける気がした。


 注文を終えたとき、ヴィルが私をちらりと見た。――何か、言いたげな気配。けれど彼は何も尋ねない。ただ、静かに微笑むだけだった。


 やがて瓶詰めのワインが運ばれる。ガラス瓶は光を受けて宝石のようにきらめく。グラスに注がれる所作は、儀式のように優雅だった。


「では、互いの無事の帰還に」


「勝利の美酒に」


 静かにグラスを合わせる。その音が、遠い祝福の響きのように耳に残る。ひと口含めば、芳醇な香りが広がり、心の奥に温かさが沁みた。


《《なんか物足りないー。できればボトル全部飲みたいな……》》


 茉凜の囁きに、思わず笑みがこぼれる。大人びた味わいと無邪気な欲求。その対比が微笑ましかった。


 次に運ばれてきたのは、色鮮やかなサラダだった。緑や紅の葉が小さな庭のように盛られ、ひと口ごとに水分が弾け、自然の恵みが舌に広がる。冷たい清らかさが心の奥まで澄んでいくようだった。


 荒涼としたエレダンには存在し得ない豊潤な彩り。噛みしめるほどに、この一皿がどれほどの労と恵みを重ねてここにあるのかを思い、静かな感謝が胸に満ちる。赤いワインの深みに溶けるように、爽やかな味わいが魂をほぐし、静かに満たしていく――そんな豊かなひとときを、私はヴィルや茉凜と分け合っていた。


「生野菜の味など忘れかけていた。舌が驚いている」


 ヴィルが低く呟く。その声に普段は見せぬ弾みがあり、私は自然に小さく頷いた。


 次に運ばれたのは根菜と豆のスープ。陶器の碗から立つ湯気は、焚き火のような温もりを漂わせる。ルナパッタをはじめとする根菜は柔らかく、豆のほっくりとした食感が舌に心地よい。旨味と塩気、やわらかなハーブの余韻がじわりと沁み、冷えた身体を内側から解かしていくようだった。


 続いて骨付きのラムチョップ。香草とスパイスでマリネされた肉は美しい焼き色を纏い、香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。ナイフを入れるときめ細やかな繊維が覗き、赤ワインのソースが深い余韻を残す。表面は香ばしく、中は柔らか。骨の周りに宿る甘みとソースの酸味とが重なり、噛むたびに至福が波のように広がった。


「いい仕事ぶりだ。ソースとの相性も抜群だし。さすがはリーディスで鍛えられた腕前だ」


 驚き混じりの声が彼の心情を伝え、私の胸にも温かさが広がる。剣士としての顔しか知らなかった彼が、料理を楽しみ、的確に言葉を選ぶ。その姿に私は少し驚き、思わず見入ってしまった。


「意外ね。ヴィルが料理をこんなに語るなんて」


「王都には無駄に長く居た、というだけの話だ。俺に美食とやらは似合わんさ」


 軽く言うと、彼は照れ隠しのように視線を逸らした。その仕草に、私はまた新たな一面を見つけ、頬に熱を覚える。


 この晩餐は特別だった。贅沢な料理、静かな店内、そして彼と過ごす空気が胸を柔らかく包み込む。


 デザートには果実のコンポート。シナモンとナツメグが香り、甘さは深く、一口ごとに幸せが広がる。ヴィルは満足げに笑った。


「それにしても、こんなに心落ち着く晩餐は、久しぶりだ」


 その言葉に私は静かに頷き、胸の奥に温かい光が灯る。剣の中の茉凜も心の中で《《美味しい》》と声をあげ、その純粋な響きが微笑ましく、思わず返事をしたくなる。


 食後の茶を口に含む。ヴィルと過ごす時間は、失われた家庭の温もりを思わせた。彼の表情には親が子を見守るような優しさが漂う。


「美味かったか?」


 身を少し乗り出して尋ねるその声には、厳しさの奥に柔らかさが揺れていた。私は微笑んで頷く。


「うん、とても美味しかった。普段は食べられない料理ばかりで、とっても新鮮な気分」


「そうか。招かれた身で言うのもなんだが、お前が満足そうでよかった」


 彼は安堵の息を吐き、微かな笑みを浮かべる。その表情に、私の喜びを自分のもののように感じている優しさがにじむ。胸の奥がほろりと温かくなった。


 茶の温もりが晩餐の余韻を締めくくる。ヴィルが言う。


「しかし、まだ物足りないんじゃないか? お前は育ち盛りだろう」  


 子を気遣うような声音に、私は笑みを返す。


「……ありがとう。でももう十分満足したわ」  


 その答えに彼は静かに息を吐き、安心の色を浮かべた。重さのない安堵だった。


 席を立つとき、彼は決めたように手を差し伸べる。その手の温もりが胸を締めつける。闇に溶ける灯りの中で見た彼の眼差しは、親のような庇護に満ちていた。


 けれど、包まれるほどに胸の奥に小さな雲が立ちこめる。優しさを拒みたい自分がいて、その理由はまだ言葉にならない。雲は胸にしとしとと雨を落とし、指先の震えに変わっていた。


「どうした?」


 短い沈黙が落ちる。喉がかすかに鳴り、呼吸は浅い。裾をつまんだ指が震え、靴先は床を探るように動いた。

 窓の外で風が葉を揺らし、その音ばかりが胸に沁みる。言葉を探しても、唇はわずかに開きかけて閉じるだけ。守られたい自分と、拒みたい自分。ふたつの気持ちがせめぎ合う。


 私は作り物めいた笑顔を浮かべ、視線を少し落とした。

 本当は、笑えなかったのかもしれない。


「ううん、なんでも……」


 声がかすかに上ずる。誤魔化すように軽く肩をすくめ、陽気さをまとった。


「それじゃ、腹ごなしに散歩して、洒落たバーにでも行こうか?」


「よかろう。ただし、調子に乗って飲みすぎるなよ」


 父のような響きに胸の奥で別の波紋が広がる。守られている喜びと、わずかな窮屈さ。その狭間で言葉にならない感情がふわりと立ち上がり、私は小さく頭を振って振り払う。


 闇に溶ける街角へ歩み出すとき、胸の奥は奇妙な温度に満たされていた。


 今回の場面では、読者が「なんで?」「どうして?」と思うような違和感を、登場人物にそのまま台詞で代弁させることはしませんでした。


 ラノベ的な文法では、キャラ同士がなんでも問いかけ、互いに説明し合うことで物語が進んでいきます。それはテンポがよく、わかりやすさの利点もあります。けれど、この物語で描きたいのはそれとは少し違います。


 言葉にならない違和感や沈黙、視線や仕草ににじむ感情を読者自身に感じ取ってもらうこと。説明されないままに残る「余白」こそが、二人の関係性の呼吸であり、微妙な距離感の証なのだと思っています。


 だから、ヴィルは問い詰めず、ただ観察し、沈黙のまま受け止める。その「問わない」こと自体が彼の誠実さであり、物語全体を少女漫画的な呼吸に近づける選択でした。


 もうひとつは、作品の文体を少女漫画的な呼吸に寄せたかったからです。ラノベ的な掛け合いはテンポがよく、読みやすい魅力があります。ただ、台詞の説明で全てを回収してしまうと、行間に漂う「不安」や「もどかしさ」が消えてしまう。私は今回、そうした“言葉にならない余白”を読者に感じ取ってほしいと思いました。


 だからこそ、彼の違和感は観察と沈黙に留め、彼女の無意識の仕草や表情に託しました。問いかけない優しさと、答えられない彼女。その間に漂う緊張と温かさが、二人の距離をもっともよく物語ると考えています。


【後年のヴィル手記】

 思えば、俺自身、リーディスの王都でずいぶん長く暮らした。名のある店も、それなりに見知っている。だからこそ、ふとした瞬間に、妙な違和感が胸を掠めた。


 森の奥で隠れ住み、外界の風習も知らなかったはずの子供が、なぜ、こうも自然に店を選び、料理の味わいを知っているのか。

 テーブルマナーや所作が整っているのは納得できる。母親がメイレア王女なら、教養も身についていただろう。


 だが、それだけでは説明のつかないものがある。

 あまりに堂に入った振る舞い。食器を持つ手の無駄のなさ。

 ワインを口にした時の、ほんのわずかな溜息――どれもが、年端もいかぬ少女のものには見えなかった。


 本当に、これが十二歳なのか。

 酒場で「私は二十一なの」と言い返したあの夜の台詞が、ふいに脳裏をよぎる。


 ……馬鹿な。

 そんなはずはない。ただの背伸び――。

 そう思いながらも、どこかで言い切れずにいる自分がいる。


 問いただす気はなかった。

 この違和感ごと、丸ごと受け入れてしまうのが、俺の役割のような気もしていた。

 問いただして壊すよりも、沈黙のまま護る方が、この娘にはふさわしいと直感していたのだ。


 本当にこの娘は底知れない。この時そう思った。

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