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英雄の余韻

 風が吹き抜け、煙幕が徐々に薄れていく中、景色が少しずつ明るさを取り戻していった。

 その時、目の前に現れたのは、無力に地に伏せた巨大なオブシディアン・アラクニドだった。体表を覆う荒々しい黒紫の甲殻が怪しく輝き、冷ややかに光を反射する鋭い尾が、見る者に威圧感を残している。今は動かないものの、かつて命を奪おうとしたその威圧感がまだ空気に残っているかのようで、背のうちに冷えが一筋、這い上がった。


 赤く不気味に光っていた側眼は、今はその輝きを失い、虚ろな暗闇が広がっている。圧が消え、ただ冷たく乾いた殻だけが残されている。


 そんな怪物を打ち倒したヴィルの真の力を思い知らされ、私は思わず息を詰めた。どうやって、あの強大な怪物を屈服させたのだろうか――それよりも、彼の安否が気がかりだった。喉が乾き、足が勝手に動く。


「ヴィル……」


 名を呼んだ時、冷たい風が私の声をさらっていく。けれど、胸の奥の不安は消えず、彼の無事を確かめたい衝動が背中を押した。


 煙がすっかり晴れ、視界が開けたとき、瓦礫の向こうにようやく彼の姿が見えた。崩れた土のレンガの間にうずくまる彼は、今にも崩れ落ちそうで、全身埃まみれ。皮の鎧で覆われていない場所には擦り傷と、所々から滲む血が見えて、とても痛ましかった。


「ヴィルーっ!」


 気づいた時には叫んでいた。急いで駆け寄ると、荒い息遣いが聞こえ、肩が微かに上下している。その顔は土と血に汚れていたけれど、私を見ると、ヴィルは微笑んでみせた。


「よう、無事だったか……?」


 喉の奥で声が掠れ、息だけがほどける。その問いかけが、なぜだかとても愛おしく、胸にじんと響いた。


「何を言ってるの? 私の心配なんかより、あなたの方が問題よ……」


 手を差し出しながら、抑えきれない不安と切なさが混じった言葉が漏れる。彼はためらうように私の手を掴み、ゆっくりと立ち上がる。


「大丈夫だ。このくらい何ともない」


「こんなにぼろぼろになってて、言うこと……?」


「だが、言った通りちゃんと勝てただろうが。ん?」


「そうだけど……」


 ヴィルは微笑みながら気丈に言ったが、瞳の奥には深い痛みと疲れが滲んでいた。

 彼がこのわずかな一瞬にどれほどの力を投じ、どれだけの負担を背負ったのか、その表情が如実に物語っていた。


 私は彼の隣に立ち、無言で支え続けようとした。本当は彼にいろいろ尋ねたい。けれどその想いは胸の奥にしまい、今はただ、この英雄に感謝の気持ちを伝えたかった。


「……あーっ……」


「ど、どうしたの?」


 尋ねると、彼は苦笑しながらぼそりと呟いた。


「いや、これだけの仕事をしたら、そりゃあ酒が欲しくなるってものだろ?」


「もう、ヴィルったら……」


 思わず笑いがこみ上げる。まったく、彼はどこまでもヴィルらしい。


 ようやく息を整えたところで、後続のカイルたちが駆け寄ってきた。息を呑む彼らの視線の先には、静かに横たわる巨大な魔獣の亡骸があった。まるで一つの山が倒れてしまったように、その影は地面に長く広がり、不気味な沈黙が漂っている。


「おいおい……本当にこんな魔獣がいたのかよ……」


 カイルは驚愕と恐怖が入り混じった表情で、エリスの方を見る。エリスもその光景に言葉を失い、ただ頷いた。


「なんて凄まじい……。これだけのサイズの魔獣なんて、目にするのは生まれて初めてだ……」


 フィルの声には、かすかな恐れと畏敬が混じっていた。レルゲンも、魔獣の硬い表皮にそっと手を当て、その感触に驚嘆するように目を細める。


「ふぅ……いかん、つい見惚れてしまうところだった。こんなものを前にしては、胸がざわめくのも仕方がない。まずは、儂の本分を全うせねばな」


 そう言って、レルゲンはようやくヴィルの方を見て歩み寄ってきた。その様子を一目みて言う。


「手ひどくやられたものだな、雷光の」


「この程度、俺にとってはかすり傷みたいなもんさ」


「強がりはいかんぞ? ほれ、ミツルも心配しておるだろうが」


 レルゲンは笑みを浮かべ、肩から提げたバッグの中から、複雑な香りを放つポーションの瓶を取り出す。布に薬液を含ませ、こめかみにそっと当てる。草いきれが淡く立ち、赤みがゆっくり引いていく。レルゲンの手は驚くほど静かで、痛みだけが後から遅れてほどけた。


 私はこの世界の「回復術師」と呼ばれる存在について、まだよく理解していない。ただ一つ分かるのは、彼らが万能の存在ではないということだ。

 彼らができるのは、医術の知識に基づく診断と施術、薬草の調合、そして術者自身の生命力を転じて疲労や軽い傷を癒すこと――それだけだ。聖なる力で、一瞬にして肉体の欠損部を再生するような奇跡は、この世界には存在しない。


 それでも、回復術師が傍にいるというだけで、継戦能力は驚くほど高まる。わずかな傷でさえ命取りになるこの世界で、レルゲンのような人材は、まさに命綱とも言える存在だ。 

 傷を癒すその手は、魔法ではなく祈りに近い。布に染みる薬液の冷たさや、ほんの少し残る痛み――それすら、この世界の現実なのだと思い知らされる。


「レルゲン、彼のことは任せるわね。私はゴードンの様子を見に行くから」


 そう告げ、指先が彼の外套の端を探しかけて、空を掴んだ。そのまま、そっとヴィルのそばを離れる。なぜだか心が妙に騒いで、言葉が喉に詰まる。感謝も労いも、もっと伝えたい想いはあったのに、今はただ、この場を去ることだけができることだった。


 得体のしれない衝動と、恐れと、気づかないほどの高鳴りが胸の奥でせめぎ合っていた。

 

 指先の温度だけが、しばらく残っていた。


◇◇◇


 隊商を率いるゴードン・ハワネルが笑顔を浮かべて、私を迎え入れる。恰幅のいい体格に口ひげをたくわえた丸い顔。いかにも気さくで優しそうな人物だけれど、私はその笑顔の裏の「営業スマイル」を知っている。それは計算高い商人の顔だ。


「おーっ、やはりミツルではないか! きっと来てくれるものと信じておったぞ」


 彼の言葉は嬉しそうだけれど、その裏にはしっかりとした計算がある。荷物を無事に守り、商売の損失を避けることができたからこその笑顔だ。


「信じていてくれてありがとう。今回の食材も期待しているわ」


 その一言を、私は心から伝えた。けれど、裏に隠された思いが少しあることも自覚していた。何よりゴードンが届けてくれる食材への期待だ。


「うむ、今回はかなり力を入れて揃えたからな、楽しみにしていてくれ。特に目玉は超級ランクの牛肉だ。それこそ舌の上でとろける美味さだぞ?」


 本当に楽しみだと思う。食材の話になると、気が楽になり、心が軽くなる。


「本当? それは楽しみ。ねぇ、ゴードン?」


「何かね?」


「いつも危険を冒してまで来てくれてありがとう。あなたのお陰で、エレダンの人たちはものすごく助かってるし、喜んでいる」


 ありがとう、と言ったとき、少しだけ戸惑いを感じた。感謝がどれほど素直に伝わったか自信がない。笑顔を浮かべたけれど、それは食材に対する期待感の方が大きかった気がした。


 でも、ゴードンが照れ笑いをしたのを見て、少し心が落ち着いた。


「いやいや、私は一介の商売人にすぎんよ。あくまでリスクに見合う稼ぎがあるからこその選択だ。だがしかし、君のように喜んでくれる人たちがいるからこそやめられないのかもしれんな」


 損得第一の商人に過ぎなくても、彼の存在がどれだけ助けになっているのか。その無邪気な笑顔とともに、心の奥に刻まれる。


「そう……。これからもよろしくね。美食の祝祭のために」


「そうだな。わっはっはっ」


 ゴードンの豪快な笑い声が響く。その気質が悪くないことは分かっている。どこか憎めない人物だと、心から思っていた。



 このシーンは、ヴィルとミツルの感情の交流を通じて、二人の絆が深まる瞬間が描かれています。特に、ヴィルが戦闘後の傷ついた姿を見せることで、彼の強さだけでなく、その背後にある脆さや弱さが浮き彫りになります。ミツルがその姿を見て心配し、支えようとする姿勢が温かさと優しさを感じさせ、彼女の人間味を強く印象づけます。


 ヴィルの無理をしない強がりは、彼がどれだけ周囲に気を使い、また戦士としての誇りを持っているかを示しています。それを察し、心配するミツルは、彼の気持ちを理解しつつ、冷静さを保ちながら支えようとする姿勢が見受けられます。このようなやり取りは、二人の関係が単なる仲間以上であることを強く印象付けます。


 レルゲンの登場とその治療は、物語に現実的な側面を加え、戦闘の後の冷徹な現実を浮き彫りにします。回復術師であっても万能ではないという制限を示すことで、物語のリアリズムが増し、キャラクターたちの戦いの厳しさと向き合う力強さが強調されます。


 ゴードンとの対話では、ミツルが慎重に言葉を選び、相手の裏にある計算や意図を読み取る場面が描かれます。21歳の冷静で計算高い美鶴としての姿勢が、ゴードンに対する警戒心や計算された期待感に表れています。この部分では、自分の感情をうまく整理しながら、冷静に外部の現実に対処していく様子が描かれています。


 特に主人公が12歳のミツルとしての純粋な心情と、21歳の冷静な判断力(ひねくれた素直ではない)を持つ美鶴としての姿勢の間で揺れ動くその感情の変化が印象的です。

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