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黒髪のグロンダイル  作者: ひさち
第一章
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繋がれた命

 目の前に置かれた白い剣、マウザーグレイル。

 刀身は月光を閉じ込めたように淡く輝く。

 その冷ややかな光が私の心に触れるたび、無意識に背筋が伸びた。だが、私には剣を扱う自信がない。


「私は父さまから剣を教わっていないのよ……。触れることさえ許されなかったのだから……」


 口にするたび、封じ込めていた悲しみがじわりと染み出す。声がどこか遠くから届き、他人事のようだった。

 ヴィルはしばらく黙し、深く溜息をつく。その音には懐かしさと苦さが滲んでいた。


「あいつらしい……」


 その一言に、父をよく知る者ならではの確信が込められている。


「剣を取ることは覚悟がいる。前に立つ者は、敵の矢面に立たされ、傷つくことを恐れてはならない。あいつは、その厳しさを嫌というほど味わってきた。だからこそ、娘のお前にはそんな思いをさせたくなかったんだろう」


 ヴィルの言葉が、胸の奥深くまで響く。

 そして、ヴィルの手を見やる。無数の傷跡が刻まれた手。それは幾多の修羅場を潜ってきた証であり、言葉の重みを一層増していた。


「父さまは、私が傷つくことを怖れていた……」


 心の中で呟いた思いが、今さらながら胸を締め付ける。目の前の剣が、父の優しさを鋭く突きつけてきた。

 ヴィルは再び剣に視線を戻し、じっくりと観察する。


「それに、これは斬るための剣じゃないな。あいつがこれを実戦で使うなどありえん。戦場に立つ者は、剣が折れれば次の剣を拾う。それを繰り返さねば、生き延びることは難しい」


 私は黙って頷くしかなかった。


「だが、ついには全ての剣が折れたんだろう。そして最後に、この剣を手に取らざるをえなかった――ただ、お前を守りたいという一心でな」


 返す言葉は見つからず、私はもう一度小さく頷いた。


「この剣には刃がない。見たところ、おそらく魔道具だろう。それも魔術師専用の個人兵装、【魔導兵装】……そう呼ばれる類いのものだ」


 ヴィルの洞察力に驚かされる。


「ええ、その通り……」


 静かに答える声が、空気に溶けた。


「何もかもお見通しということね」


 私がそう言うと、ヴィルは目を細め、懐かしむような声を漏らす。


「ああ、あいつとは長い付き合いだ。剣に命を託してきた男が、これを大切にしていた以上、そこに深い理由があるはずだ」


 父への深い理解が滲む言葉が、逆に私の心をざわつかせる。


「それが分かっていて、どうして? この剣を見れば、私が魔術師で、剣士ではないことくらいわかるでしょう?」


 この剣は、私にとってあまりに重い。私の力は、この世界の魔術理から外れている。


「そんなことは承知の上だ」


 ヴィルの声は静かで揺るぎない。


「……無茶苦茶よ……」


 どうして彼は、私にこんな要求をするのだろう。頭の中で問いがぐるぐる回り、答えの見えない迷路を彷徨うように息苦しい。


「そうでもない」


 ヴィルの落ち着いた声が、私の混乱を断ち切った。


「お前はずっと親父を見てきたんだろう? あいつが剣を握る姿を。日常の何気ない仕草や癖、身体の使い方――そういったものは、自然と子に受け継がれる。結局、親と子はどこかで繋がっている」


 その言葉が、深く胸に染み入る。

 幼い頃の記憶が、心の奥底から浮上してきた。

 父の鋭い眼差し、骨ばった大きな手、そして流麗な剣筋。

 小さな木刀を握りしめ、影から隠れるようにして素振りを繰り返した日々。父の動きを頭に描き、自分もその一部になりたいと、何度も何度も振り下ろした。

 そして今、前世の記憶を取り戻してからのこの一年、私は自分なりの形を探り続けている。父の残像を追い、少しでも近づこうとしてきた。


 けれど──。

 未熟さは否定できない。手には違和感が残り、思うように体は動かない。それでも、剣を握るたびに感じる。この行為そのものが、私を父と繋いでいるのだと。


「確かに、見てきた。でも、それだけじゃなにも……」


 自分の声は弱々しく、不安に揺れていた。


 だが、ヴィルの声が再び、私の迷いを一刀両断する。


「それで十分だ。特にお前のように強い意志を持っているならなおさらな」


 彼の視線は鋭く、一片の迷いもない。その眼差しに、心の奥まで見透かされているようだった。


「お前の中には、あいつの血が流れている。俺が見たいのは、そんな“繋がれた命”なんだ」


 その言葉が、私の心を深く揺さぶった。胸の奥底に眠らせていた何かが、静かに呼び覚まされる。

 父が託した命の意味。その重み。その価値。もし本当に私の中に生きているのなら、証明したい。


 ヴィルの言葉は、試練の合図だった。

 心の奥に、新たな決意の芽が息吹く。


「いいわ……。その申し出、受けようじゃない!」


 自分の声が思いのほか力強く響き、私自身が驚いた。胸の奥から溢れ出した意志が、言葉となって具現化したのだ。

 ヴィルは微かに口元を緩め、静かに頷く。その瞳は依然鋭く、私をまっすぐ見つめ続けている。


「そう来なくちゃな」


 彼の一言に、私の中の緊張がさらに高まる。

 不思議と、怖くはない。胸の奥で、炎が燃え上がった。

◆テーマ 剣とは何か ―― 遺されたものの意味

冒頭から、白く刃のない剣〈マウザーグレイル〉が中央に据えられています。しかしそれは単なる武器ではなく、“問いそのもの”として描かれている。


「その刀身は、まるで月光を閉じ込めたように淡く輝いている」


ここで剣は、実体というよりも「意志」「証」「遺志」を象徴する存在です。

ミツルにとっては、剣を扱った記憶がなく、「触れることさえ許されなかった」存在――つまり“自分には与えられなかった父の一部”。そのコンプレックスは、「継承者」としての不完全感にも繋がっています。


◆構造 葛藤 →受容 → 証明への移行

この章の構成は、三段階で描かれています。


●第一段階:自己否定と隔たりの告白

「私は父さまから剣を教わっていないの……」

「この剣を見れば、私が魔術師で、剣士ではないことくらいわかるでしょう?」


ここでは、ミツルが「自分は剣を振るう資格がない」と思い込んでいる状態が強調されます。

彼女は“自らの不在の記憶”に苛まれ、父の残した象徴マウザーグレイルを「受け取る資格のない贈り物」として認識しています。


●第二段階:ヴィルの言葉による“承認”

「親と子というものはどこかで繋がっている」

「見てきた。それで十分だ」


ヴィルはここで、ミツルの「経験や技能」ではなく「記憶と眼差し」こそが“継承”の本質であると伝えています。

これは非常に美しい転換点であり、ミツル自身が「剣の技術」によってではなく、「意志と記憶」によって〈剣を受け継ぐ者〉として認められる第一歩です。


幼い頃の影練、父の剣筋の残像――

それは“血より深い模倣と願望”であり、すでに彼女の魂に刻まれていた。


●第三段階:覚悟の自覚と口上

「私を父さまと繋いでいるのだと」

「父さまが託した命の意味。その重み。その価値。もし本当に私の中に生きているのなら、証明しなければならない」


ここでついにミツルは、“剣を振るう”という行為の意味を身体ではなく、精神で受け止めます。

それは単なる技の発露ではなく、「意志の体現」。

父の名を騙るでもなく、ただその魂を“継ぐ”という行動への移行です。


◆対話の美学:ヴィルの在り方と導き

ヴィルの存在は、まさに“導き手”として機能しています。


責めず、ただ問いかける。

否定せず、記憶を肯定する。

試さず、信じて見守る。


彼はユベルの戦友でありながら、ミツルを“過去の残滓”としてではなく、“未来の継承者”として見ているのが重要です。


「俺が見たいのは、そんな“繋がれた命”なんだ」


この台詞は、まさにこの章のすべてを象徴しています。

ヴィルが剣を通して見たいのは、剣の技術ではなく、意志と血が結ばれた“生の証明”なのです。


◆鍵となる象徴:刃のない剣=宿命の試金石

「これは斬るための剣じゃない」

「全ての剣が折れたとき、最後に手に取ったのがこれだった」


マウザーグレイルの本質は、“攻撃”ではなく“選択”です。

ユベルが「戦士としての終点」でこの剣を選んだ意味は、

剣による破壊の限界を悟った者が、“次世代を託す器”としてこれを託した、という深い意志の現れです。


◆物語的転換点:剣の継承=意志の自立

この章のラストでミツルはついに、自らの口で「手合わせを受ける」と言い切ります。


それは、「誰かに託された力」ではなく、「自分が使うと決めた力」。

それは、ユベルの娘であることの証明ではなく、「ミツルとして生きるための一歩」。


この瞬間、彼女は“過去の受動的継承者”から、“未来を選ぶ主体”へと明確に変貌します。

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