思うままに、自由に飛ぼう
階下から、焼きたてのパンの香りがゆるやかに立ちのぼってきた。眠気を引きずる身体を起こし、白きマウザーグレイルを手にして階段を降りる。
剣の中の茉凛と私は、いつも一緒だ。私の五感を通して、彼女にも食事を楽しんでもらう――それが、ささやかな約束になっている。
扉を開ければ、古びた木の梁の間から朝の陽光が差し込み、食卓には色とりどりの料理が並んでいた。中央の大皿に積まれたパンは、黄金色の外皮をきらめかせ、ひび割れから湯気を吐き出している。まるで小さな炎の精霊が宿っているような温かさが漂っていた。
「わおっ……」
《《わーっ、おいしそう……!》》
二人の声が重なった。手に取れば外は軽やかに弾け、指先に伝わる内側の柔らかさが心地よい。割った瞬間、立ちのぼる蒸気が甘い香りを運び、外気の冷えを包み込む。
大鍋をかき混ぜながら、おかみさんが振り向き、目元に笑みを浮かべて声をかけてくる。
「さあ、召し上がれ。今朝のパンは焼き立てだからね。今日は特別に、ハーブの香りも加えてみたんだよ」
席につき、パンを手に取る。鼻をくすぐる草花の芳香が、野に咲く花畑を思わせる。
ひと口含むと、外皮の軽やかな歯ごたえのあとに、グラム(※)のもっちりとした柔らかさが広がった。じわりと滲む甘みとわずかな酸味が重なり合い、自然の恵みが口いっぱいに広がっていく。
《《美鶴、これ本当においしい。涙が出ちゃいそう……》》
茉凛の声が胸に沁みる。――たかがパンとあなどるなかれ。元の世界の豊かさを思えば、この世界の食卓は質素にすぎる。けれど、エレダンの過酷な環境では、こうした温もりこそが何よりの贅沢なのだと痛感させられる。
《《こんなこと言っても仕方ないけど、日本の食べ物が懐かしいよ……。
石与瀬はよかったなあ。海に囲まれた街で、魚介類が美味しくて、どの食べ物屋さんもそれぞれの味があって素敵だった。ああ、クルクルのオムライス、また食べたいな……》》
彼女の声は、波打ち際の潮風を思わせる懐かしさを帯びていた。胸の奥に、その街並みの青さと香ばしい匂いがよみがえる。
だから私は、彼女のために文化も料理も豊かな大国リーディスへと足を運びたいと願うのだ。けれど、ヴィルから「それはまずい」と釘を刺されている。今はその思いを胸に沈めたまま。
やがて宿の食堂は、人の声で温もりを増していく。吟遊詩人が眠たげにパンをかじり、魔術師の青年が小さな魔法を披露して仲間を笑わせていた。食卓にはハーブスープやベリーのジャム、チーズが並び、どれも手作りの温かみを帯びている。おかみさんの笑い声が混じり合い、ここは確かに「心の安らぎの場所」になっていた。
焼きたての香りと共に、新しい一日が始まろうとしていた。
◇◇◇
その日も私とヴィルは愛馬スレイドに跨がり、エレダン周辺の荒れ地を駆け抜けた。魔獣の出現しやすい場所を結びながら進む、いつもの巡回路だ。
無理をしない程度の狩り。緊張感には欠けるけれど、日々の仕事は案外そういうもの。もちろん油断は禁物だ。
予定の三箇所の湧き場を片付けて、途中の水場で昼の休憩を取る。
私はおかみさんから分けてもらったパンにチーズと酢漬け野菜を挟み、簡単なサンドイッチを作った。昨夜の残りのワインを水で薄めて革袋に入れ、携えてきた。
布を草地に広げて腰を下ろし、並べたサンドイッチを眺める。ヴィルは木陰に座り、深く息を吐くと水筒の蒸留酒をぐいっと煽った。昼間からのその癖も、もう見慣れてしまった。
「今日は静かだな」
ぽつりと洩らす声に、私は頷く。
「うん、普段は魔獣の気配がするのに、今日はないね。それはそれで安心だけど」
パンにかぶりつく。噛み応えのある生地に、チーズの塩気と野菜の酸味。素朴なのに滋味深く、口いっぱいに広がる。
《《うん、おいしい。シンプルだけど、こういう味が一番安心するよね》》
茉凜の感想が胸に広がり、自然と笑みがこぼれた。その顔を見たヴィルが首をかしげる。
「どうした、面白いことでもあったか?」
「んーん、ただね、このサンドイッチが思ったよりおいしくて。それだけ」
軽く肩をすくめる。彼には茉凜の声は聞こえないけれど、私が彼女と分かち合う感覚が、表情に滲み出てしまうのだ。
「だな。冒険者の食事なんて、そういうのが一番だ」
飄々とした口調の奥に、穏やかな光が瞳に宿っている。
彼は放浪の剣士からリーディスの騎士団に加わり、数えきれない戦場をくぐってきた人だ。だからこそ、食には淡泊なのかもしれない。
「それはそうだけど、たまには新鮮なお肉や野菜が食べたいわ。肉といえば燻製や干し肉ばかり、野菜といえば塩漬けや酢漬け。あとはイモくらい。味付けも単調で薄いし、これじゃあ物足りないのよ」
小さな不満に、ヴィルは笑いながら頷いた。
「それが冒険者の宿命だな。お前が望むような食材が手に入る日が来るといいんだが」
その声には、不器用ながらも確かな気遣いが滲んでいた。
「うん、確かに。でも今はこのサンドイッチを楽しむよ。……これはこれで、悪くないしね」
もう一口頬張ると、胸の奥がほどけていく。
薄めたワインを少しだけ口に含む。甘さと酸味がやわらかく広がり、冷えた喉をなだめてくれる。昼に飲むには贅沢すぎる味だった。
「ねえ、ヴィル。こういう日もいいよね……」
私の言葉に、ヴィルは少し黙り、青空を仰いだ。
「そうだな……。だが、それがいつまでも続くとも限らん。だから大切にしないといけないんだろうな」
その声に私は頷く。冒険者の暮らしは常に危険と隣り合わせ。今日の静けさも、明日には崩れるかもしれない。けれど、この一瞬があるだけで、少し強くなれた気がする。
せせらぎと風の音が、二人の間を満たしていた。
「なあ、ミツルよ?」
「ん、どうしたの?」
「ここのところ、お前と付き合ってきて、エレダンでの狩り事情がわかってきたんだが」
「うん」
「お前の実力なら、もっと高難易度の狩り場を目指してもいいんじゃないのか?」
「ああ、そのこと?」
ギルドの壁には、毎日更新される魔獣の出没地図が貼られている。白紙に黒字で印刷された地図を、誰もが覗き込み、自分に合う狩り場を選ぶ。色分けで難易度が示され、高難度の地には強大な魔獣が潜む。勝てば、大きな魔石が手に入る。ハンター稼業は、実力でしか測られない世界だ。
「そのことなんだけど……私も最初にここに来た時は、とにかく強い魔獣を倒したくて。高難易度の狩り場だけじゃなく、根こそぎ狩るようなことまでしていたのよ……」
ヴィルが口をあんぐり開ける。その顔に呆れられたかと思ったが、すぐに腹の底から笑い声が響いた。
「はっはっはっ。それで噂が立ったのか。一晩で森ひとつを狩り尽くしたとか、通った跡には消し炭すら残らないとか」
頬が一気に熱くなる。指先まで火照り、思わず視線を落とした。
「噂なんて大げさよ。尾ひれがついて広がるだけだから」
「はは、俺も最初は疑ったさ。だが実際にお前の実力を見れば、誰もが納得するしかあるまい」
その瞳が真剣で、喉がつまって、否応なく認めざるを得なかった。
「だとしても、私はやりすぎたのよ……」
「やりすぎた? どうしてだ?」
「だって、ぽっと出の、しかも小さな私が現れて片っ端から魔獣を倒したら……やっぱりよくは思われないでしょ?」
ヴィルは少し考え込み、風が草を揺らす音が間を埋めた。
「軍隊じゃあるまいし、ハンターは実力がすべてだ。周りの目を気にしていたらやっていけん。そうじゃないか?」
彼の言葉は正論だ。軍隊は規律に縛られるが、ハンターはその逆。生き馬の目を抜く世界だ。
「それはそうなんだけど、違うのよ……」
「何がだ?」
彼の視線が興味深そうに揺れる。思い切って、私は正直に答えた。
「最初はひたすら嬉しかった。自分の力を、怒りを、ただぶつけることしか考えていなかった。だけど、そうやって力を振るいまくっていたら、急に虚しくなってきたの」
「虚しくなった?」
「私の力がとんでもないってことは、あなたもわかってるでしょ?」
「まあな……」
前世から受け継いだ“深淵の黒鶴”は、この世界の魔術の枠を逸脱した力だ。魔石を要さず精霊子を集め、疑似精霊体との契約で現象を具現化する。あまりに純粋で、あまりに強すぎる。安全装置である茉凜が心を繋ぎ止めてくれるけれど、狂気の波は絶えず押し寄せ、呑み込まれそうになる。――この過剰な力は、いったい何と戦うために授けられたのだろう。
「この辺りにいるような魔獣じゃ、私の敵にもならない。父さまを殺した魔獣ですら、そうだったし。その時のことは混乱していてよく覚えていないけれど……。
それに、魔獣はいくら倒しても湧いてくる。いつまで経っても終わりが来ない。私が求めている答えっていうのは、それとは……」
そこまで言いかけて、言葉を飲み込む。喉が詰まり、思いが言葉にならない。
「それって? 答えってなんだ?」
私は首を横に振って、問いを遮った。今は話せなかった。
「それはどうでもいいとして、私が稼ぎを独り占めしていたら、みんなの生活が成り立たなくなる。そういうの、よくないって気づいたのよ」
ヴィルは小さく頷いた。真剣な視線がこちらに注がれている。
「ある日、一人のハンターが高ランクの狩り場にいて、危険な目にあっていたの。私はその人を助け出したんだけど、どうしてそんな無茶をしたのか尋ねてみたら、家族が病気で、どうしても急にお金が必要で、それで仕方なく踏み込んだんだって……」
その場面を思い出すと、胸の奥がきしんだ。涙混じりの訴えが、鋭く突き刺さったのだ。嘘ではないと直感し、その人の家を訪ねて現実を見た。
「私がやりすぎたせいで、その人は命を賭けることになったのかなって……」
「うーん……」
「ここには魔獣狩りで暮らしを繋いでいる人が大勢いる。それを私は自分勝手に壊そうとしていた。それでやめたの……。
でもね? 中級クラスでも何箇所か回れば、それなりに稼ぎになるし。……それに、あまり目立ちたくないっていうのもある」
言葉を吐いた瞬間、自分の肩が重くなった。力の大きさへの畏れと、調和を望む気持ち。その両方が胸を圧していた。ヴィルは黙って見つめてくる。
「目立つ目立たないは勝手だが、お前には特別な力があるんだから、それを有効に使えばいい」
思いもよらぬ言葉に心が揺れた。――特別? その意味をすぐには呑み込めない。
「それは……怖いから。強すぎる力に私自身戸惑っていて、このままじゃどうなるのか、分からないから……」
答えると、ヴィルは眉をひそめて考え込んだ。
「だが、どんな力であろうとも、お前が大切にしたいと思うものは守れるだろう? その力を使って、他の誰かの役に立てることだってできるんだ」
その言葉に背を押され、少し前にカイルの一行を助けた場面が浮かぶ。
「うん……。私も、そうしたいと思ってる。まあ、今は模索中ってところね……」
ヴィルは満足げに頷き、口元をほころばせた。
「そういうことなら安心だ」
「安心? どこが?」
問い返すと、彼は微笑を含ませて言った。
「いやな、子供の割によく周りを見て考えているんだとわかったからさ」
「子供っていわないで……」
思わず頬をふくらませる。けれど内心では、その言葉が嬉しかった。
「ああ、悪かった。まぁ、一匹狼も悪くないが、周りと良好な関係を築いて共に生きる意識も大事だ。救けた相手にいつか救われることだってある。仲良くなって酒を酌み交わせるなら、なお楽しいがな」
不器用な言葉に、胸がじんわり温かくなる。風が草を揺らし、空には白い雲が流れていた。
「そうだね」
父さまを失ってから、私は視野を狭めていた。けれどエレダンで人と関わるうち、少しずつ変わってきた。ヴィルと出会ったことで、その変化はさらに大きなものになる予感がする。
問題は山のようで、答えはまだ霞の向こう。それでも進むしかない。風の匂いと陽の光の中で、茉凜がいてくれる。ヴィルも支えてくれる。
《《ヴィルって、案外いいこと言ってくれるね。うん……美鶴はありのままで、思うままに自由に飛べばいいんだよ》》
茉凛の声は、焼きたての香りみたいに胸の奥をあたためた。
けれど、「自由に」という二文字が喉の手前で小さく引っかかる。指先に残ったパンくずをそっと摘み、掌でこすり合わせると、粉のざらりが皮膚に移って、そこだけ現実の温度に戻る。
風が頬を撫で、草の匂いが呼吸の浅さをほどいていく。それでも胸の底には、見えない錘が一粒だけ残っている気がした。わたし“らしさ”という檻を、いまここで全部外せるほど、まだ強くはないのかもしれない。
それでも——彼女の声に背を押されて、肩の力がほんの少しだけ抜けた。ほんの少し、なら飛べるかもしれない。
※ライ麦に似た、中央大陸北方で栽培されている穀物。
【黒髪のグロンダイル」第三章 登場キャラクター】
主要キャラクター
ミツル・グロンダイル
主人公。前世の記憶と強大な異能「黒鶴」を持つ少女。父の死と母の失踪の謎を追いながら、ヴィルと共に旅をし、多くの葛藤を経て成長していく。
ヴィル・ブルフォード
ミツルの保護者であり師匠のような存在。元銀翼騎士団副長「雷光」の異名を持つ凄腕の剣士。無骨で不器用だが、ミツルを深く気遣い、守ることを誓っている。酒好き。
茉凜
ミツルの持つ白き剣「マウザーグレイル」に宿る魂(?)。ミツルの前世からの親友であり、彼女の精神的な支え。五感を共有し、異能の制御を助ける。明るく前向きだが、食いしん坊。
主な登場キャラクター
バルグ・キーン
北方の少数部族「バーバリアン」の青年。豪快な巨漢で、風を操るような斧技を使う。美食を求めてリーディスを目指し、一時的にミツル達と同行する。泳げない。
ミース
商業都市クワルタの人形職人。若い女性。卓越した技術を持ち、ミツルのウィッグとドレスを制作。ミツルの美しさと境遇に心惹かれ、親身になる。
エレダン宿屋のおかみさん
エレダンでミツルが定宿にしていた宿の女将。年配の女性で、母親のようにミツルを心配し、温かく送り出す。
ベルデン
エレダンのハンターギルドマスター。細身で厳格だが、ミツルの実力と人柄を認め、ギルドの一員として彼女の旅立ちを後押しする。
カイル・レドモンド
エレダンのハンター。大剣使い。陽気で真っ直ぐな性格。護衛隊ではリーダー役を務め、仲間思いな面を見せる。
エリス・ケールス
エレダンのハンター。弓使いの美女。綺麗好きで、湯浴みが欠かせない。貴族の出だが家を飛び出した過去を持つ。ミツルと親しくなり、妹のように可愛がる。
フィル・ラマディ
エレダンのハンター。風魔法の使い手。リーディスの王立魔術大学出身。冷静で知的な青年。ミツルの特異な魔術に興味を持つ。
レルゲン
エレダンのハンター。回復術師の老人。白髪と髭が特徴。穏やかで酒好き。ヴィルと意気投合する。
マティウス・ロックガル
エレダンのハンター。罠職人。雷のトラップを使う。
アレックス・ボッツーリ
エレダンのハンター。両刃斧使いの巨漢。
マーク
エレダンのハンター。槍使い。(登場は比較的少ない)
ゴードン・ハワネル
隊商を率いる恰幅の良い商人。エレダン出身。陽気に見えるが計算高い。ミツルたちの護衛に感謝する。
ギース・クロット
交易都市コマドの魔道具技師。片眼鏡の老人。魔石鑑定眼があり、裏取引の情報を提供する。
コマド裏取引の男
痩身で黒マントの男。魔石のバイヤー。冷徹で疑り深く、ミツル達を試すが、彼女の力に恐怖し取引に応じる。
コマド裏取引の傭兵
バイヤーの護衛。戦槌の大男と槍の女の二人組。ヴィルにあっけなく倒される。
クワルタの女性
ピンク色の髪の女性。ヴィルがウィッグの情報を得るために話しかけた相手。
言及のみのキャラクター
ユベル・グロンダイル
ミツルの父(故人)。元銀翼騎士団リーダー。ヴィルの親友。伝説的な剣士。
メイレア・グロンダイル
ミツルの母(行方不明)。元リーディス王家の姫? 黒髪緑眼。
デルワーズ
精霊器。ミツルや茉凜の運命に深く関わる存在。
弓鶴
ミツル(美鶴)の前世の弟。
高岸 (Takagishi)
ミツル(美鶴)の前世の同級生(演劇部)。
他
鳴海沢洸人、真坂明、曽良木新十郎: ミツル(美鶴)の前世で異能に関わった人物たち。
メービス
リーディスの伝説の姫。ミツルが纏う衣装のモチーフ。
ヴォルフ
メービスと共に戦った伝説の騎士。
ゾイダス・キーン
バルグの叔父。ヴィルの元飲み仲間。




