繋がれた命
目の前に置かれた白い剣、マウザーグレイル。
刀身は月光を閉じ込めたように淡く輝く。
その冷ややかな光が私の心に触れるたび、無意識に背筋が伸びた。だが、私には剣を扱う自信がない。
「そんなこと言われても、私は父さまから剣を教わっていないのよ……。触れることさえ許されなかったのだから……」
口にするたび、封じ込めていた悲しみがじわりと染み出す。声がどこか遠くから届き、他人事のようだった。
ヴィルはしばらく黙し、深く溜息をつく。その音には懐かしさと苦さが滲んでいた。
「なるほど、あいつらしい……」
その一言に、父をよく知る者ならではの確信が込められている。
「剣を取り前に立つ者は、敵の矢面に立たされ、傷つくことを恐れてはならない。あいつは、その厳しさを嫌というほど味わってきた。だからこそ、娘のお前にはそんな思いをさせたくなかったんだろう」
ヴィルの言葉が、胸の奥深くまで響く。
そして、ヴィルの手を見やる。無数の傷跡が刻まれた手。それは幾多の修羅場を潜ってきた証であり、言葉の重みを一層増していた。
――父さまは、私が傷つくことを怖れていた……。
心の中で呟いた思いが、今さらながら胸を締め付ける。目の前の剣が、父の優しさを鋭く突きつけてきた。
ヴィルは再び剣に視線を戻し、じっくりと観察する。
「それと、見たところこいつには刃がない。すなわち斬るための剣じゃない。あいつがこれを実戦で使うなど。考えにくい」
私は黙って頷くしかなかった。
「戦場に立つ者は、剣が折れれば次の剣を拾う。それを繰り返さねば、生き延びることは難しい。だが、ついには全ての剣が折れたんだろう。そして最後に、こいつを手に取らざるをえなかった――ただ、お前を守りたいという一心でな」
返す言葉は見つからず、私はもう一度小さく頷いた。
「こいつは、おそらく魔道具だろう。それも魔術師専用の個人兵装、【魔導兵装】……そう呼ばれる類いのものだ」
ヴィルの洞察力に驚かされる。
「ええ、その通り……」
静かに答える声が、空気に溶けた。
「何もかもお見通しということね」
私がそう言うと、ヴィルは目を細め、懐かしむような声を漏らす。
「ああ、あいつとは長い付き合いだ。剣に命を託してきた男が、これを大切にしていた以上、そこに深い理由があるはずだ」
父への深い理解が滲む言葉が、逆に私の心をざわつかせる。
「それが分かっていて、どうして? この剣を見れば、私が魔術師で、剣士ではないことくらいわかるでしょう?」
この剣は、私にとってあまりに重い。私の力は、この世界の魔術理から外れている。
「そんなことは承知の上だ」
ヴィルの声は静かで揺るぎない。
「……無茶苦茶よ……」
どうして彼は、私にこんな要求をするのだろう。頭の中で問いがぐるぐる回り、答えの見えない迷路を彷徨うように息苦しい。
「そうでもない」
ヴィルの落ち着いた声が、私の混乱を断ち切った。
「お前はずっと親父を見てきたんだろう? あいつが剣を握る姿を。日常の何気ない仕草や癖、身体の使い方――そういったものは、自然と子に受け継がれる。結局、親と子はどこかで繋がっているものだ」
その言葉が、深く胸に染み入る。
幼い頃の記憶が、心の奥底から浮上してきた。
父の鋭い眼差し、骨ばった大きな手、そして流麗な剣筋。
小さな木刀を握りしめ、影から隠れるようにして素振りを繰り返した日々。父の動きを頭に描き、自分もその一部になりたいと、何度も何度も振り下ろした。
そして今、前世の記憶を取り戻してからのこの一年、私は自分なりの形を探り続けている。手慰み程度の古流を基礎に父の残像を追い、少しでも近づこうとしてきた。
けれど──。
未熟さは否定できない。手には違和感が残り、思うように体は動かない。それでも、剣を握るたびに感じる。この行為そのものが、私を父と繋いでいるのだと。
「確かに、見てきた。でも、それだけじゃなにも……」
自分の声は弱々しく、不安に揺れていた。舌裏が乾き、胸の奥で鼓動がひとつ跳ねる。
だが、ヴィルの声が再び、私の迷いを一刀両断する。
「それで十分だ。特にお前のように強い意志を持っているならなおさらな」
彼の視線は鋭く、一片の迷いもない。灯の白が瞳に細く差し、見透かされるような冷たさと温度が同居する。
「お前の中に、あいつの血が流れているというなら、確かめてみたい。“繋がれた命”ってものをな。どうだ?」
その言葉が、私の心を深く揺さぶった。胸の奥底に眠らせていた何かが、静かに呼び覚まされる。
父が託した命の意味。その重み。その価値。もし本当に私の中に生きているのなら、証明したい。
ヴィルの言葉は、試練の合図だった。
心の奥に、新たな決意の芽が息吹く。
「いいわ……。その申し出、受けようじゃない!」
自分の声が思いのほか力強く響き、私自身が驚いた。胸の奥から溢れ出した意志が、言葉となって具現化したのだ。
ヴィルは微かに口元を緩め、静かに頷く。その瞳は依然鋭く、私をまっすぐ見つめ続けている。
「そう来なくちゃな」
彼の一言に、私の中の緊張がさらに高まる。
不思議と、怖くはない。胸の奥で、炎が燃え上がった。




