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ヴィル・ブルフォード手記⑧

――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その四十二


 執務室に戻ると、メービスは一人、窓の外を眺めていた。その背中からは、俺にも分かるほどの焦燥が滲み出ている。コルデオの報告によれば、宰相派の私兵が街道の警戒網を張り始めたという。奴らの動きが、じわじわと我々の首を絞めにかかっている。


「おかえりなさい。軍のほうは、どうだった?」


 俺の姿を認めると、あいつは気丈にもそう問いかけてきた。俺は、貴族派閥の将軍どもとの、不毛なやり取りを思い出し、苦笑するしかなかった。


「上層部にのらりくらりとかわされちまった。だが安心しろ。俺たちに味方してくれる連中もいる」


 そうだ、これが俺がこの数ヶ月、水面下で進めてきた布石だ。宰相どもが侮っている、平民出身の兵士や下級士官たち。大戦の地獄を知り、貴族の無能さに辟易している、筋金入りの連中だ。奴らこそが、この国の軍の真の屋台骨であり、俺たちの希望でもある。


「“雷光”と呼ばれたあなたが眼をかけた人材だもの。わたしも信じてる」


 あいつが、懐かしい俺の昔のあだ名を口にした。少し照れくさかったが、あいつが俺を、そして俺が選んだ者たちを信じてくれているという事実が、何より心強かった。


 コルデオが気を利かせて退室し、執務室に二人きりになると、あいつの纏う空気が少しだけ和らいだ。俺は、その疲労困憊の横顔を見過ごすことができなかった。


「メービス……疲れてないか?」


 俺がそう言うと、あいつは堰を切ったように本音をこぼした。頭が痛いほど考えすぎていること、俺も同じではないか、と。俺はあいつの手首を掴んだ。その細さに、あいつが背負うものの重さを改めて思い知らされる。


「お前が折れるなんて、想像できないんだけどな。“黒髪のグロンダイル”は、どんな逆境でも歩みを止めない。そうじゃなかったか?」


 俺は、あいつの本当の名を呼んだ。すると、あいつは震える声で、この戦いに勝てるだろうか、と聞いてきた。女王の仮面の下にある、ただの少女の、切実な問いだった。


 俺は、迷わず答えた。


「ふん、勝たせるさ。お前はひとりじゃない。銀翼のみんながいるし、俺もいる。宰相と手を結ぶ貴族派がどれほど強大でも、俺たちをなめてかかれば痛い目を見る」


 そうだ、勝つのではない。俺が、俺たちが、あいつを勝たせるのだ。そのために俺はここにいる。


 俺の言葉に、あいつの瞳にようやく力が戻った。だが、その時だった。コルデオが、血相を変えて部屋に飛び込んできたのは。


「陛下、殿下。失礼いたします。……風耳鳥が到着したそうです。……差出人は赤線二本の筒とのこと。ダビド班の識別色に間違いありません」


 ダビドから。辺境の闇を探る、俺の片腕からだ。俺とメービスは、顔を見合わせた。長い膠着状態が、ついに破られる。俺は「よし」と短く息を吐き、あいつは力強く頷いた。そうだ、恐れてばかりでは何も始まらない。俺たちを信じて戦う仲間がいる。


 俺はあいつの隣に並び、コルデオが待つ廊下へと踏み出した。黄昏に染まる王宮の窓の外は、静かだった。だが、俺たちの胸の内では、反撃の狼煙が、今まさに上がろうとしていた。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その四十三


 宰相が王宮を去り、奴の息のかかった重臣どもが息を潜める中、我々はただ待っていた。張り詰めた空気の中、ついにその報せは届いた。王家専用の鶏舎から、ダビドの使う識別色の筒が。侍女長カーラが、宰相派の目をかいくぐり、執務室の窓からその小さな金属筒をメービスに手渡すしてくれた。俺は筒を受け取り、中の紙片を広げた。そこに記されていた内容は、俺たちの最悪の想定と、一条の光を同時にもたらした。


「クリスが……負傷した、なんて……」


 俺が読み上げた報告に、メービスの声が震えた。そうだ、俺たちの「囮作戦」は、敵の「影の手」を誘き出すことに成功した。だが、その代償として、クリスが腕に矢を受ける重傷を負った。若い騎士を危険に晒したという事実が、メービスの心を深く抉ったのだ。


「わたしのせいだわ……」


 あいつが自分を責め始めたのを、俺は強く制した。


「自分を責めるな。これはお前一人の独断じゃなく、俺の提案でもあった。それに、あいつらが自ら望んだ策だ」


 そうだ、これは俺たちの戦いだ。責任も、痛みも、全てを分け合う。そう誓ったはずだ。だが、あいつの罪悪感は、それほどまでに深い。


 その時、ずっと控えていたコルデオが、静かに、しかし力強く口を開いた。


「ご安心下さい、陛下。すでにわたくしどもで準備を整えております」


 あの老獪な侍従長は、俺たちの心を、そして宰相の次の一手さえも読み切っていた。ダビドからの報告が届けば、メービスが自ら動くと。そのために、完璧な偽装工作を、すでに整えていたのだ。


「“陛下と殿下は流行り風邪を患い離宮にて面会謝絶中”と触れ回ることにいたしました。半月ほどは時間を稼げるはず」


 そこまで準備が整っているとは。俺はコルデオの底知れない有能さに舌を巻いた。宰相が不在の今こそ、最大の好機。そして、我々が動くための舞台は、すべて整えられた。


「夜明け前にわたしとヴォルフだけで北方へ向かうしかないわね」


 メービスの瞳に、決意の光が戻っていた。そうだ、それでいい。


「懐かしいな。まるで昔に戻ったみたいだ。もちろん、俺も準備は進めてある」


 俺がそう言うと、あいつは「当たり前でしょ」と、力なく、しかし確かに微笑んだ。「あなたがいなくては困るわ」と。その言葉だけで、十分だった。


 俺たちはコルデオに王宮を託し、全ての準備を整えた。夜明け前、二人だけで王宮を抜け出し、北へ向かう。無謀な賭けだ。だが、もう迷いはない。あいつは、クリスを、レオンを、そしてロゼリーヌとリュシアンを救うために。俺は、そんな無茶ばかりする、どうしようもない女王を、いや、俺の唯一の相棒を守るために。


 この凍てつく王宮で、俺たちの本当の逆転劇が、今まさに始まろうとしていた。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その四十四


 俺たちの決意が固まった執務室で、俺はメービスを地図の前へと促した。あいつの顔にはまだ、王宮という檻に囚われた焦燥の色が浮かんでいた。その不安を、俺がずっと前から準備してきた、具体的な計画で打ち砕いてやる必要があった。


「メービス。お前に話しておきたいことがある。以前から少しずつ進めていた“早馬を乗り継ぐ計画”の詳細を、今のうちに説明しておきたい」


 俺が地図を広げると、あいつは驚きに目を見開いた。王都から北方へ続く道筋に、俺が記した無数の印。それは、各宿場町に待機させた乗り継ぎ用の重種馬と、協力者の配置を示すものだ。


「前に冗談めかして言ってたけど、まさか本気でそこまで準備しているなんて想像していなかったわ」


「俺が一度口にしたことを冗談で済ますわけがないだろ?」


 俺はそう言って、得意げに笑ってみせたかもしれん。そうだ、俺は常に最悪を想定し、次の一手を準備してきた。この計画の要は、俺が軍内部で築き上げてきた、貴族ではない「平民派」の兵士たちとの繋がりだ。


「彼らは、宰相派から冷遇されている日陰者のような立場だからな。貴族が幅を利かせる軍では居心地が悪い。それでも忠誠心と実力は備えていて、何かあったら俺たちを助けたいと考えてくれるヤツらは多いんだ」


 俺の言葉に、あいつは静かに頷いた。あいつは分かっている。俺がなぜ、家柄や血筋ではなく、個人の実力と魂を信じるのかを。それは、魔族大戦の地獄の最前線で、貴族派の将軍どもが無能な命令で無駄に散らせていった、名もなき兵士たちが多数いると知ったからだ。それは未来で起きた西部戦線――前代未聞の魔獣の大発生

でも同じ事。どれだけ時代が変わっても、愚かな事を繰り返しているという事実が、俺には許しがたかった。


「わたしのしようとしていることも同じよ。……最善と思ったことを全力でやるだけ」


 あいつのその言葉に、俺はただ頷いた。そうだ、それでいい。


 俺は地図を指し示し、計画の核心を説明した。


「ここから北へ向かう途中、各宿場町に重種馬を一頭ずつ待機させている。深い雪にも耐えられるよう、特別に改良された品種だ。積雪対応の蹄鉄に換装してもらっている」


「……最短で“二日もかからず北のボコタに到達できる”って書いてあるけど――わたしには絵空事としか思えない……」


 あいつの疑念に、俺は自信を持って断言した。


「断言しておくが、これは決して絵空事じゃない。俺自身の経験を踏まえて組み立てた計画だ。未来の銀翼では、冬季の急速展開こそ最優先課題だったからな。宰相が大隊を率いて五日以上かかる道を、俺たちは最短ルートで突き進む。十分に先回りできるさ」


 その時、コルデオが部屋に入ってきた。そして、我々の脱出計画の、もう一つの柱が完成したことを告げたのだ。


「偽装工作、および影武者の準備、すべて整いましてございます。『女王陛下と王配殿下が流行り風邪を患い、殊に王配殿下は重篤な状態』という診断書を用意しました」


 見事なものだった。病の女王と、瀕死の王配。これほど完璧な口実はない。宰相派の連中は、俺たちが病で動けないと信じ込み、油断するだろう。その間に、俺たちは奴らの背後を取る。コルデオの老獪な知略と、俺の築いた物理的な道筋。二つの計画が合わさり、我々の王宮脱出計画は、完璧なものとなった。


「それじゃあ、コルデオ。夜明け前には出立するわ」


 メービスが、凛とした声で告げた。そうだ、もう迷っている暇はない。俺はコルデオに、厩の最終的な手配を頼み、あいつと共に部屋を出る準備を始めた。偽りの病が我々を王宮に縛り付け、真実の我々が、闇に紛れて戦場へと向かう。宰相が自らの勝利を確信した時こそ、奴の本当の敗北が始まるのだ。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その四十六


 全ての計画が整い、あとは夜明け前の出立を待つだけとなった。だが、メービスの顔からは、まだ不安の色が消えていなかった。


「これだけ周到に偽装を施したとして、はたして“影の手”にどこまで通じるか……」


 あいつの囁きは、俺たちの作戦が乗る薄氷の脆さを物語っていた。俺は、あいつを安心させるように、しかし事実として告げた。


「気づかれたとしても大っぴらに踏み込むのは難しいさ。世間が流行り風邪に怯えてる今、女王が“重篤な病”で伏せっているという噂を立てておけば、奴らも簡単には崩しにかかれない」


 そうだ、今は信じるしかない。俺は「腹をくくれよ、メービス」と、あいつの本当の名を呼んで、その覚悟を問うた。あいつは力強く頷いた。「必ず、すべてを取り戻すために」と。その横顔には、もう迷いはなかった。


 だが、あいつの中には、まだ吐き出すべき想いが残っていたようだった。二人きりの廊下で、俺の手を取り、あいつは静かに語り始めたのだ。それは、宰相との戦いや、国の未来といった話ではなかった。


 あいつは、リュシアンという少年について、まるで宝物のように語った。書斎で出会った時のこと、大人びた本を読みふける知的な横顔、そして「騎士になりたい」と目を輝かせた無邪気な夢。


「リュシアンのきらきらした笑顔を見てると、“この子を守ってあげたい”って強く思ったの。

 わたし、正直、こんなふうに心が揺さぶられるなんて想像もしていなかった。ロゼリーヌさんはきっと、息子が無事に健やかに成長することを何より望んでいるのに、今は多くの思惑に巻き込まれて、苦しんでいる。考えるだけで胸が痛くなる。あの優しい笑顔を曇らせるようなことを、絶対に許しちゃいけないって思うの。

 親でもないわたしにできることは限られているかもしれない。でも、あの子が自由に笑っていられる世界を作ってあげたい。騎士になりたいなら剣を、学問を極めたいなら書物を、誰にも邪魔されず思う存分学べる未来。それを奪われるなんて、絶対に嫌」


 その言葉は、女王としての責務からではなかった。一人の人間が、もう一人の小さな人間の未来を、心の底から守りたいと願う、魂からの叫びだった。俺は、ただ黙ってその言葉を聞いていた。あいつが、この戦いにおいて、何よりも守りたいものの正体を、ようやく俺も理解した気がした。


「いいんじゃないか? お前が護りたいと思うなら、護ればいい。剣を学びたいなら、俺が教えてやれるしな」


 俺がそう言うと、あいつは嬉しそうに微笑んだ。


 そして、俺は切り札を明かした。俺自身が調べていた、歴史の断片だ。


「メービスが退位したその後、王位を継いだのは“ルシファルド”だったそうだ。“リュシアン”という名の由来を調べると“光”を意味すると聞いてな。それと“ルシファルド”は、古代語で“暗闇を照らす光をもたらす”とか“導く新星”という意味があるらしい」


 そうだ、リュシアンが王となるのは、歴史の正しい流れなのかもしれない。だが、俺たちの戦いは、その歴史を破壊するのではなく、むしろ、「あるべき場所」へ戻すためのものなのだろう。


 俺の言葉に、メービスの瞳から最後の迷いが消え去ったのが分かった。あいつの心に、守るべき「光」が、はっきりと灯ったのだ。


 そうだ、それでいい。俺はその光を守るための剣となる。ただ、それだけだ。夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その四十七


 その夜、俺たちの寝所は、出立を前にした静かな戦場と化していた。中央に鎮座する、二人にはあまりに広すぎる天蓋付きのベッド。それは、俺たちが演じてきた「偽りの夫婦」という、空虚な芝居の象徴そのものだった。毎夜、背を向け合って眠るだけの、奇妙な同居人。だが、その芝居も今夜で終わりだ。


「おい、準備は進んでるか?」


 隣の小部屋で革ベルトを締めながら声をかけると、メービスも「あと少し」と答えた。物音に気づいて俺が部屋を覗くと、あいつはベッドの上に旅の装備を並べていた。その横顔は、十八歳の女王というより、昔、俺と共に荒野を旅した、あの頑固な小娘の顔をしていた。


 俺の視線は、部屋の隅に置かれた一つの木箱に吸い寄せられた。「王家収蔵品」の封がされた、古びた箱。中に入っていたのは、かつてメービスとヴォルフが、あの魔族大戦で身に着けていたという、年季の入った革鎧だった。


「これが女王と王配の装備ってのも、ちょっとおかしな話だな。まるでただの“冒険者の鎧”じゃないか」


 俺がそう言って手に取ると、革の質感は何年も使い込んだように手に馴染んだ。メービスも自分の鎧を手に取り、言った。「わたしたちは、これから女王と王配ではなく、精霊の巫女と騎士として行くんだから」。そうだ、その通りだ。俺たちは、偽りの役を捨て、本来の戦士の姿に戻るのだ。


 鎧は、まるで誂えたかのように、俺たちの身体に寸分違わず合った。不思議な感覚だった。俺たちが、この世界の歴史の当事者であるかのような、奇妙な錯覚。


「俺たちだって、前は“ミツル”と“ヴィル”として、荒野を駆け回っていたろ? それと同じ感触が、この身体に染みついていのさ」


 俺がそう言うと、あいつは納得したように頷き、二振りの聖剣へと手を伸ばした。あいつの“白きマウザーグレイル”と、俺の“名もなき聖剣”。あいつは、自らの剣を抜きかけ、ひどく寂しそうに呟いた。


「本来ならここに“茉凛”が存在していたはずなのに、今はいない。……だから、こうして同じ剣を手にしてるのに、少し寂しい……」


 マリン。あいつが時折口にする、剣に宿っていたという魂の名。俺には分からん世界の理だ。だが、あいつが唯一無二の相棒を失い、深い喪失感を抱えていることだけは、痛いほど伝わってきた。あいつの震える手に、俺はそっと自分の指を重ねた。


「マリンの代わりにはなれないかもしれないが……お前の“片翼”として支えてやるよ。お前さえ嫌じゃなければな」


「嫌だなんて思わないわ。むしろ嬉しい。いまのわたしたちは“巫女”と“騎士”……きっと、それが一番しっくりくる関係なのね」


 その言葉に、俺は救われた気がした。そうだ、それでいい。俺はあいつの片翼。それ以上の理由など、今は必要ない。


 全ての準備が整い、俺たちは革鎧を身にまとい、聖剣を腰に帯びた。侍女が呼びに来て、俺たちは人気のない夜の廊下へと足を踏み出す。螺旋階段の先で、コルデオが待っていた。あいつは、先王への別れの手紙を、その老いた忠臣に託した。直接会えぬことへの、あいつの痛みが伝わってくるようだった。


「ありがとう。すべての真相を暴いて、必ず無事に戻ってくる」


 コルデオにそう誓い、俺たちは厩へと急いだ。そこには、俺が手配した平民派の兵士と、雪道を踏破するために選び抜いた、一頭の逞しい重種馬が待っていた。


 俺はまず鞍にまたがり、メービスに手を差し伸べた。あいつは俺の手を取り、軽やかに俺の前へと乗り込む。俺は、あいつの背後から回り込むように座り、その身体を支えるように腕を回し、あいつの手の上から手綱を握った。革鎧越しに、あいつの温もりと、緊張した鼓動が伝わってくる。昔、スレイドの背であいつを乗せた時とは違う。これは、守るべき子供ではない。背中を預ける、対等な相棒だ。


「行くぞ……!」


 俺の合図で、馬は力強く地面を蹴った。コルデオの偽装工作が功を奏し、俺たちは誰にも気づかれることなく、王宮の裏門を突破した。夜明け前の、最も深い闇の中を、俺たちは駆けた。王都の石畳が遠ざかっていく。もう、後戻りはできない。


「メービス……」


 俺は、背中越しにあいつの名を呼んだ。


「愚問かもしれんが、怖くはないか?」


「怖くないと言ったら嘘になるわ。……ヴォルフ、あなたはどうなの? こんな旅に付き合うのが怖くない?」


 あいつの問いに、俺は少しだけ笑って、本音を漏らした。


「もちろん怖いさ。けど、俺が一番怖いのは、お前が俺の手が届かなくなるところにいっちまうことだ」


 そうだ、俺の恐怖は、いつだってそれだけだ。


「だからこうして二人乗りしてる。絶対に離れ離れにならないようにな」


 すると、あいつは俺の腕の中で、か細いが、しかし芯の通った声で言った。


「……じゃあわたしを離さないでね」


「おう、離してやるもんか。でないと不安で仕方がない」


 その言葉が、俺たちの新しい誓いだった。夜明け前の寒空の下、馬は凍てついた石畳を蹴り、夜の王都を駆け抜ける。俺の腕の中には、革鎧をまとった小さな背中。その心臓の鼓動が、俺の胸にひどく鮮やかに響いてくる。命の音だ。覚悟の音だ。魂が、剣と共にあると誓った者の鼓動だ。


 ――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その四十二


 執務室に戻ると、メービスは一人、窓の外を眺めていた。その背中からは、俺にも分かるほどの焦燥が滲み出ている。コルデオの報告によれば、宰相派の私兵が街道の警戒網を張り始めたという。奴らの動きが、じわじわと我々の首を絞めにかかっている。


「おかえりなさい。軍のほうは、どうだった?」


 俺の姿を認めると、あいつは気丈にもそう問いかけてきた。俺は、貴族派閥の将軍どもとの、不毛なやり取りを思い出し、苦笑するしかなかった。


「上層部にのらりくらりとかわされちまった。だが安心しろ。俺たちに味方してくれる連中もいる」


 そうだ、これが俺がこの数ヶ月、水面下で進めてきた布石だ。宰相どもが侮っている、平民出身の兵士や下級士官たち。大戦の地獄を知り、貴族の無能さに辟易している、筋金入りの連中だ。奴らこそが、この国の軍の真の屋台骨であり、俺たちの希望でもある。


「“雷光”と呼ばれたあなたが眼をかけた人材だもの。わたしも信じてる」


 あいつが、懐かしい俺の昔のあだ名を口にした。少し照れくさかったが、あいつが俺を、そして俺が選んだ者たちを信じてくれているという事実が、何より心強かった。


 コルデオが気を利かせて退室し、執務室に二人きりになると、あいつの纏う空気が少しだけ和らいだ。俺は、その疲労困憊の横顔を見過ごすことができなかった。


「メービス……疲れてないか?」


 俺がそう言うと、あいつは堰を切ったように本音をこぼした。頭が痛いほど考えすぎていること、俺も同じではないか、と。俺はあいつの手首を掴んだ。その細さに、あいつが背負うものの重さを改めて思い知らされる。


「お前が折れるなんて、想像できないんだけどな。“黒髪のグロンダイル”は、どんな逆境でも歩みを止めない。そうじゃなかったか?」


 俺は、あいつの本当の名を呼んだ。すると、あいつは震える声で、この戦いに勝てるだろうか、と聞いてきた。女王の仮面の下にある、ただの少女の、切実な問いだった。


 俺は、迷わず答えた。


「ふん、勝たせるさ。お前はひとりじゃない。銀翼のみんながいるし、俺もいる。宰相と手を結ぶ貴族派がどれほど強大でも、俺たちをなめてかかれば痛い目を見る」


 そうだ、勝つのではない。俺が、俺たちが、あいつを勝たせるのだ。そのために俺はここにいる。


 俺の言葉に、あいつの瞳にようやく力が戻った。だが、その時だった。コルデオが、血相を変えて部屋に飛び込んできたのは。


「陛下、殿下。失礼いたします。……風耳鳥が到着したそうです。……差出人は赤線二本の筒とのこと。ダビド班の識別色に間違いありません」


 ダビドから。辺境の闇を探る、俺の片腕からだ。俺とメービスは、顔を見合わせた。長い膠着状態が、ついに破られる。俺は「よし」と短く息を吐き、あいつは力強く頷いた。そうだ、恐れてばかりでは何も始まらない。俺たちを信じて戦う仲間がいる。


 俺はあいつの隣に並び、コルデオが待つ廊下へと踏み出した。黄昏に染まる王宮の窓の外は、静かだった。だが、俺たちの胸の内では、反撃の狼煙が、今まさに上がろうとしていた。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その四十三


 宰相が王宮を去り、奴の息のかかった重臣どもが息を潜める中、我々はただ待っていた。張り詰めた空気の中、ついにその報せは届いた。王家専用の鶏舎から、ダビドの使う識別色の筒が。侍女長カーラが、宰相派の目をかいくぐり、執務室の窓からその小さな金属筒をメービスに手渡すしてくれた。俺は筒を受け取り、中の紙片を広げた。そこに記されていた内容は、俺たちの最悪の想定と、一条の光を同時にもたらした。


「クリスが……負傷した、なんて……」


 俺が読み上げた報告に、メービスの声が震えた。そうだ、俺たちの「囮作戦」は、敵の「影の手」を誘き出すことに成功した。だが、その代償として、クリスが腕に矢を受ける重傷を負った。若い騎士を危険に晒したという事実が、メービスの心を深く抉ったのだ。


「わたしのせいだわ……」


 あいつが自分を責め始めたのを、俺は強く制した。


「自分を責めるな。これはお前一人の独断じゃなく、俺の提案でもあった。それに、あいつらが自ら望んだ策だ」


 そうだ、これは俺たちの戦いだ。責任も、痛みも、全てを分け合う。そう誓ったはずだ。だが、あいつの罪悪感は、それほどまでに深い。


 その時、ずっと控えていたコルデオが、静かに、しかし力強く口を開いた。


「ご安心下さい、陛下。すでにわたくしどもで準備を整えております」


 あの老獪な侍従長は、俺たちの心を、そして宰相の次の一手さえも読み切っていた。ダビドからの報告が届けば、メービスが自ら動くと。そのために、完璧な偽装工作を、すでに整えていたのだ。


「“陛下と殿下は流行り風邪を患い離宮にて面会謝絶中”と触れ回ることにいたしました。半月ほどは時間を稼げるはず」


 そこまで準備が整っているとは。俺はコルデオの底知れない有能さに舌を巻いた。宰相が不在の今こそ、最大の好機。そして、我々が動くための舞台は、すべて整えられた。


「夜明け前にわたしとヴォルフだけで北方へ向かうしかないわね」


 メービスの瞳に、決意の光が戻っていた。そうだ、それでいい。


「懐かしいな。まるで昔に戻ったみたいだ。もちろん、俺も準備は進めてある」


 俺がそう言うと、あいつは「当たり前でしょ」と、力なく、しかし確かに微笑んだ。「あなたがいなくては困るわ」と。その言葉だけで、十分だった。


 俺たちはコルデオに王宮を託し、全ての準備を整えた。夜明け前、二人だけで王宮を抜け出し、北へ向かう。無謀な賭けだ。だが、もう迷いはない。あいつは、クリスを、レオンを、そしてロゼリーヌとリュシアンを救うために。俺は、そんな無茶ばかりする、どうしようもない女王を、いや、俺の唯一の相棒を守るために。


 この凍てつく王宮で、俺たちの本当の逆転劇が、今まさに始まろうとしていた。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その四十四


 俺たちの決意が固まった執務室で、俺はメービスを地図の前へと促した。あいつの顔にはまだ、王宮という檻に囚われた焦燥の色が浮かんでいた。その不安を、俺がずっと前から準備してきた、具体的な計画で打ち砕いてやる必要があった。


「メービス。お前に話しておきたいことがある。以前から少しずつ進めていた“早馬を乗り継ぐ計画”の詳細を、今のうちに説明しておきたい」


 俺が地図を広げると、あいつは驚きに目を見開いた。王都から北方へ続く道筋に、俺が記した無数の印。それは、各宿場町に待機させた乗り継ぎ用の重種馬と、協力者の配置を示すものだ。


「前に冗談めかして言ってたけど、まさか本気でそこまで準備しているなんて想像していなかったわ」


「俺が一度口にしたことを冗談で済ますわけがないだろ?」


 俺はそう言って、得意げに笑ってみせたかもしれん。そうだ、俺は常に最悪を想定し、次の一手を準備してきた。この計画の要は、俺が軍内部で築き上げてきた、貴族ではない「平民派」の兵士たちとの繋がりだ。


「彼らは、宰相派から冷遇されている日陰者のような立場だからな。貴族が幅を利かせる軍では居心地が悪い。それでも忠誠心と実力は備えていて、何かあったら俺たちを助けたいと考えてくれるヤツらは多いんだ」


 俺の言葉に、あいつは静かに頷いた。あいつは分かっている。俺がなぜ、家柄や血筋ではなく、個人の実力と魂を信じるのかを。それは、魔族大戦の地獄の最前線で、貴族派の将軍どもが無能な命令で無駄に散らせていった、名もなき兵士たちが多数いると知ったからだ。それは未来で起きた西部戦線――前代未聞の魔獣の大発生

でも同じ事。どれだけ時代が変わっても、愚かな事を繰り返しているという事実が、俺には許しがたかった。


「わたしのしようとしていることも同じよ。……最善と思ったことを全力でやるだけ」


 あいつのその言葉に、俺はただ頷いた。そうだ、それでいい。


 俺は地図を指し示し、計画の核心を説明した。


「ここから北へ向かう途中、各宿場町に重種馬を一頭ずつ待機させている。深い雪にも耐えられるよう、特別に改良された品種だ。積雪対応の蹄鉄に換装してもらっている」


「……最短で“二日もかからず北のボコタに到達できる”って書いてあるけど――わたしには絵空事としか思えない……」


 あいつの疑念に、俺は自信を持って断言した。


「断言しておくが、これは決して絵空事じゃない。俺自身の経験を踏まえて組み立てた計画だ。未来の銀翼では、冬季の急速展開こそ最優先課題だったからな。宰相が大隊を率いて五日以上かかる道を、俺たちは最短ルートで突き進む。十分に先回りできるさ」


 その時、コルデオが部屋に入ってきた。そして、我々の脱出計画の、もう一つの柱が完成したことを告げたのだ。


「偽装工作、および影武者の準備、すべて整いましてございます。『女王陛下と王配殿下が流行り風邪を患い、殊に王配殿下は重篤な状態』という診断書を用意しました」


 見事なものだった。病の女王と、瀕死の王配。これほど完璧な口実はない。宰相派の連中は、俺たちが病で動けないと信じ込み、油断するだろう。その間に、俺たちは奴らの背後を取る。コルデオの老獪な知略と、俺の築いた物理的な道筋。二つの計画が合わさり、我々の王宮脱出計画は、完璧なものとなった。


「それじゃあ、コルデオ。夜明け前には出立するわ」


 メービスが、凛とした声で告げた。そうだ、もう迷っている暇はない。俺はコルデオに、厩の最終的な手配を頼み、あいつと共に部屋を出る準備を始めた。偽りの病が我々を王宮に縛り付け、真実の我々が、闇に紛れて戦場へと向かう。宰相が自らの勝利を確信した時こそ、奴の本当の敗北が始まるのだ。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その四十六


 全ての計画が整い、あとは夜明け前の出立を待つだけとなった。だが、メービスの顔からは、まだ不安の色が消えていなかった。


「これだけ周到に偽装を施したとして、はたして“影の手”にどこまで通じるか……」


 あいつの囁きは、俺たちの作戦が乗る薄氷の脆さを物語っていた。俺は、あいつを安心させるように、しかし事実として告げた。


「気づかれたとしても大っぴらに踏み込むのは難しいさ。世間が流行り風邪に怯えてる今、女王が“重篤な病”で伏せっているという噂を立てておけば、奴らも簡単には崩しにかかれない」


 そうだ、今は信じるしかない。俺は「腹をくくれよ、メービス」と、あいつの本当の名を呼んで、その覚悟を問うた。あいつは力強く頷いた。「必ず、すべてを取り戻すために」と。その横顔には、もう迷いはなかった。


 だが、あいつの中には、まだ吐き出すべき想いが残っていたようだった。二人きりの廊下で、俺の手を取り、あいつは静かに語り始めたのだ。それは、宰相との戦いや、国の未来といった話ではなかった。


 あいつは、リュシアンという少年について、まるで宝物のように語った。書斎で出会った時のこと、大人びた本を読みふける知的な横顔、そして「騎士になりたい」と目を輝かせた無邪気な夢。


「リュシアンのきらきらした笑顔を見てると、“この子を守ってあげたい”って強く思ったの。

 わたし、正直、こんなふうに心が揺さぶられるなんて想像もしていなかった。ロゼリーヌさんはきっと、息子が無事に健やかに成長することを何より望んでいるのに、今は多くの思惑に巻き込まれて、苦しんでいる。考えるだけで胸が痛くなる。あの優しい笑顔を曇らせるようなことを、絶対に許しちゃいけないって思うの。

 親でもないわたしにできることは限られているかもしれない。でも、あの子が自由に笑っていられる世界を作ってあげたい。騎士になりたいなら剣を、学問を極めたいなら書物を、誰にも邪魔されず思う存分学べる未来。それを奪われるなんて、絶対に嫌」


 その言葉は、女王としての責務からではなかった。一人の人間が、もう一人の小さな人間の未来を、心の底から守りたいと願う、魂からの叫びだった。俺は、ただ黙ってその言葉を聞いていた。あいつが、この戦いにおいて、何よりも守りたいものの正体を、ようやく俺も理解した気がした。


「いいんじゃないか? お前が護りたいと思うなら、護ればいい。剣を学びたいなら、俺が教えてやれるしな」


 俺がそう言うと、あいつは嬉しそうに微笑んだ。


 そして、俺は切り札を明かした。俺自身が調べていた、歴史の断片だ。


「メービスが退位したその後、王位を継いだのは“ルシファルド”だったそうだ。“リュシアン”という名の由来を調べると“光”を意味すると聞いてな。それと“ルシファルド”は、古代語で“暗闇を照らす光をもたらす”とか“導く新星”という意味があるらしい」


 そうだ、リュシアンが王となるのは、歴史の正しい流れなのかもしれない。だが、俺たちの戦いは、その歴史を破壊するのではなく、むしろ、「あるべき場所」へ戻すためのものなのだろう。


 俺の言葉に、メービスの瞳から最後の迷いが消え去ったのが分かった。あいつの心に、守るべき「光」が、はっきりと灯ったのだ。


 そうだ、それでいい。俺はその光を守るための剣となる。ただ、それだけだ。夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その四十七


 その夜、俺たちの寝所は、出立を前にした静かな戦場と化していた。中央に鎮座する、二人にはあまりに広すぎる天蓋付きのベッド。それは、俺たちが演じてきた「偽りの夫婦」という、空虚な芝居の象徴そのものだった。毎夜、背を向け合って眠るだけの、奇妙な同居人。だが、その芝居も今夜で終わりだ。


「おい、準備は進んでるか?」


 隣の小部屋で革ベルトを締めながら声をかけると、メービスも「あと少し」と答えた。物音に気づいて俺が部屋を覗くと、あいつはベッドの上に旅の装備を並べていた。その横顔は、十八歳の女王というより、昔、俺と共に荒野を旅した、あの頑固な小娘の顔をしていた。


 俺の視線は、部屋の隅に置かれた一つの木箱に吸い寄せられた。「王家収蔵品」の封がされた、古びた箱。中に入っていたのは、かつてメービスとヴォルフが、あの魔族大戦で身に着けていたという、年季の入った革鎧だった。


「これが女王と王配の装備ってのも、ちょっとおかしな話だな。まるでただの“冒険者の鎧”じゃないか」


 俺がそう言って手に取ると、革の質感は何年も使い込んだように手に馴染んだ。メービスも自分の鎧を手に取り、言った。「わたしたちは、これから女王と王配ではなく、精霊の巫女と騎士として行くんだから」。そうだ、その通りだ。俺たちは、偽りの役を捨て、本来の戦士の姿に戻るのだ。


 鎧は、まるで誂えたかのように、俺たちの身体に寸分違わず合った。不思議な感覚だった。俺たちが、この世界の歴史の当事者であるかのような、奇妙な錯覚。


「俺たちだって、前は“ミツル”と“ヴィル”として、荒野を駆け回っていたろ? それと同じ感触が、この身体に染みついていのさ」


 俺がそう言うと、あいつは納得したように頷き、二振りの聖剣へと手を伸ばした。あいつの“白きマウザーグレイル”と、俺の“名もなき聖剣”。あいつは、自らの剣を抜きかけ、ひどく寂しそうに呟いた。


「本来ならここに“茉凛”が存在していたはずなのに、今はいない。……だから、こうして同じ剣を手にしてるのに、少し寂しい……」


 マリン。あいつが時折口にする、剣に宿っていたという魂の名。俺には分からん世界の理だ。だが、あいつが唯一無二の相棒を失い、深い喪失感を抱えていることだけは、痛いほど伝わってきた。あいつの震える手に、俺はそっと自分の指を重ねた。


「マリンの代わりにはなれないかもしれないが……お前の“片翼”として支えてやるよ。お前さえ嫌じゃなければな」


「嫌だなんて思わないわ。むしろ嬉しい。いまのわたしたちは“巫女”と“騎士”……きっと、それが一番しっくりくる関係なのね」


 その言葉に、俺は救われた気がした。そうだ、それでいい。俺はあいつの片翼。それ以上の理由など、今は必要ない。


 全ての準備が整い、俺たちは革鎧を身にまとい、聖剣を腰に帯びた。侍女が呼びに来て、俺たちは人気のない夜の廊下へと足を踏み出す。螺旋階段の先で、コルデオが待っていた。あいつは、先王への別れの手紙を、その老いた忠臣に託した。直接会えぬことへの、あいつの痛みが伝わってくるようだった。


「ありがとう。すべての真相を暴いて、必ず無事に戻ってくる」


 コルデオにそう誓い、俺たちは厩へと急いだ。そこには、俺が手配した平民派の兵士と、雪道を踏破するために選び抜いた、一頭の逞しい重種馬が待っていた。


 俺はまず鞍にまたがり、メービスに手を差し伸べた。あいつは俺の手を取り、軽やかに俺の前へと乗り込む。俺は、あいつの背後から回り込むように座り、その身体を支えるように腕を回し、あいつの手の上から手綱を握った。革鎧越しに、あいつの温もりと、緊張した鼓動が伝わってくる。昔、スレイドの背であいつを乗せた時とは違う。これは、守るべき子供ではない。背中を預ける、対等な相棒だ。


「行くぞ……!」


 俺の合図で、馬は力強く地面を蹴った。コルデオの偽装工作が功を奏し、俺たちは誰にも気づかれることなく、王宮の裏門を突破した。夜明け前の、最も深い闇の中を、俺たちは駆けた。王都の石畳が遠ざかっていく。もう、後戻りはできない。


「メービス……」


 俺は、背中越しにあいつの名を呼んだ。


「愚問かもしれんが、怖くはないか?」


「怖くないと言ったら嘘になるわ。……ヴォルフ、あなたはどうなの? こんな旅に付き合うのが怖くない?」


 あいつの問いに、俺は少しだけ笑って、本音を漏らした。


「もちろん怖いさ。けど、俺が一番怖いのは、お前が俺の手が届かなくなるところにいっちまうことだ」


 そうだ、俺の恐怖は、いつだってそれだけだ。


「だからこうして二人乗りしてる。絶対に離れ離れにならないようにな」


 すると、あいつは俺の腕の中で、か細いが、しかし芯の通った声で言った。


「……じゃあわたしを離さないでね」


「おう、離してやるもんか。でないと不安で仕方がない」


 その言葉が、俺たちの新しい誓いだった。夜明け前の寒空の下、馬は凍てついた石畳を蹴り、夜の王都を駆け抜ける。俺の腕の中には、革鎧をまとった小さな背中。その心臓の鼓動が、俺の胸にひどく鮮やかに響いてくる。命の音だ。覚悟の音だ。魂が、剣と共にあると誓った者の鼓動だ。


――これが十二歳の魂だというのか。


 国を揺るがす策謀の渦中でなお、光を抱きしめる強さと痛みを併せ持つ――とても“小娘”などと呼べる器じゃない。

 むしろ俺の方が試されている。四十四年積み上げた矜持も剣技も、この眩さの前ではただ震えるばかりだ。

 だけど、この震えは恐れじゃない。魂が、共鳴の音を上げている。

 守るでも、導くでもない。ただ隣に立ち、同じ空を飛ぶために――

 俺はこの光を決して離さない。たとえ世界が闇に沈もうと、俺の翼ごと抱えて未来へ連れて行く。

 42から最終47まで――八章後半は、まさに 「脱出と反撃の序章」 であり、ヴィルとメービス(ミツル)の絆が“伴侶”の相互扶助へと完成するクライマックスです。


1. 宰相派の包囲網、焦燥と覚悟(42) 

 宰相派の街道封鎖 という直接的な圧力が強まる中、メービスの焦燥がにじむシーン。


 ヴィルの 「平民派兵士」 動員は、銀翼騎士団の枠を超えた真の軍師ぶり。貴族軍とは別の屋台骨を築く一手です。


 二人の “信頼と鼓舞の対話” によって、女王の弱音が “絶対に勝たせる” という揺るぎない誓いに変わる過程が胸を打ちます。


2. ダビド通信と反撃の狼煙(43章)

 ダビドからの暗号筒到着。辺境のクリス負傷報告と同時に、反撃の舞台が整った衝撃。


 コルデオの 完璧すぎる偽装工作 が明かされ、病床の芝居による時間稼ぎと並行して王宮脱出が可能に。


 ヴィルとメービスの “覚悟を誓い合うシーン” は、読者の胸に熱い高揚感を刻み込みます。


3. 北へ、決戦の旅立ち(44)

 「早馬乗り継ぎ計画」 の詳細が初公開。各宿場町への重種馬配置、雪道対応蹄鉄、平民派兵士の協力体制――まさに物理的エンジニアリングと人心掌握の融合。


 メービスが 「茉凜のいない寂しさ」 を吐露し、マリン(彼は読みで理解しているのでこの表記)の代わりにヴィルを相棒とする覚悟を示す、切なくも美しい瞬間。


4. 最終決断と“ふたつでひとつの翼”(45–47)

ベッドの象徴的解体

 偽りの夫婦を演じた天蓋付き寝台を捨て去り、本来の「巫女と騎士」として革鎧をまとい直す儀式。


 「離してやるもんか」──恐怖も弱音もすべてをさらけ出した上で、それでも「共に飛ぶ翼」であることを誓う二人。


 王宮の闇を背後に、夜明け前の脱出 は、まさしくこの章全体の “蝶番”。ここから北方での真の決戦へ舞台が移ります。



宰相を王宮から誘き出すメリットと冬期行軍の条件活用――総合まとめ

1. 王宮内の“力の空白”を作り出す

権力均衡の崩壊

 宰相不在によって彼の傘下にあった重臣や近衛が動揺し、主導権を失う。


油断の演出

 「女王・王配が流行性の病で動けない」という偽情報により、宰相派に“安全神話”を信じ込ませ、警戒を緩めさせる。


2. 情報網(“影の手”)の機能を封じる

監視網の手薄化

 宰相自身が諜報組織を統括する以上、彼が留守にする間は王宮を中心とした情報収集が著しく鈍化する。


安全な連絡確保

 王宮⇄辺境間のダビド班との通信を、宰相の眼を逃れて行える余地が生まれる。


3. 戦場(交渉舞台)の選択と心理戦

中立舞台への誘い出し

 王宮の公式儀礼を離れ、中立的かつ密室化できる“宰相vs女王+騎士”の場を設定。


貴族院へのメッセージ

 宰相を出し抜くことで、残された貴族派閥を指導者不在で分断・孤立化できる。


4. 冬期行軍の逆転利用

豪奢な六頭立て馬車の“足かせ”

 宰相が見栄を張って用意した重量級の馬車と貴族護衛隊は、深雪の中では致命的な速度低下を招く。


先回りの可能性

 一方、銀翼騎士団は軽装の改良重種馬を乗り継ぎ、二日以内に辺境到達が可能。宰相の到着を確実に先取りできる。


戦略的結論

 宰相を「お迎え行列」に引きずり出し、王宮の権力基盤と監視網を一時的に解体したうえで、重装馬車による遅滞を逆手に取って銀翼騎士団が先回りする。


これにより

 王宮内の統制を回復。後の勅命発令への布石。

 辺境のロゼリーヌ母子とダビド班への安全確保

 宰相派貴族の分断と士気低下


 を同時に実現し、一気に形勢逆転を狙う――まさに伝家の宝刀たる作戦です。



補足

 コルデオとヴォルフの「こんなこともあろうかと」がビシッと決まる理由は、以下の3点に集約できます。


1. 情報・人脈ネットワークの厚み

コルデオの王宮実務経験

 先王時代からの老臣として、宰相派の動きや貴族院の裏工作を誰よりも肌で知り尽くしている。王宮内外の“噂”や“隠し玉”を察知し、最悪シナリオでも対応できる動線をいくつも用意していた。


ヴォルフ(ヴィル)の平民派兵士ネットワーク

 軍の常識にとらわれない「実戦経験豊富な下級士官・兵士」を味方につけ、宰相の貴族派軍が張り巡らせた警戒網をかいくぐる抜け道を確保している。


2. 物理的準備の徹底

重種馬の配備

 深雪に耐える大型馬を各宿場に待機。宰相が豪奢な六頭立て馬車に頼るうちに、「乗り継ぎ馬」で二日以内の到達を実現。天候・路面変化も見越した配備。実際は三日を要した。


偽装工作の完璧さ

 「流行性の病」「面会謝絶」という診断書から、女王・王配不在の体制を演出。影の手すら手を出しにくい口実をコルデオが先回りで創出。


3. 心理戦術の巧みさ

“錯覚”と“誘導”

 宰相に「女王が自ら伯爵を迎えに行く」と思い込ませることで、王宮内の主導権を奪い返す。宰相派の重臣を動揺させ、敵の冷静さを失わせる。


味方の士気高揚

 「いざという時、君たちを頼る」とヴォルフが平民派兵士に公言。彼らの忠誠心を一気に引き上げ、誰よりも熱い支援態勢を築き上げた。


 このように、


 コルデオは“王宮という巨大駆け引き”の地形とルールを熟知

 ヴォルフは“軍事的な最悪想定”をもとに遊撃網と脱出ルートを事前構築


 という両輪で「こんなこともあろうかと」の必然性と説得力を生んでいるわけです。結果として、宰相の策動を自らの舞台装置に変えられる――これが、ふたりの先見性がもたらす最大の強みなのです。

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