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ヴィル・ブルフォード手記⑤

――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その二十三


 王都への帰還は、静かな凱旋のようでもあり、嵐の前の不気味な静寂のようでもあった。我々が馬車を降りるや否や、コルデオが血相を変えて駆け寄ってきた。「先王陛下のご容体が――」その一言で、全てを察した。宰相たちが牙を剥く、その刻限が迫っているのだと。


 先王の寝所は、死の匂いが満ちていた。薬草の香りと、どうにもならぬ無力感が重く垂れ込めている。天蓋付きの寝台に横たわる王は、もはや一国の主とは思えぬほど痩せ衰え、その息遣いは今にも消え入りそうだった。


 俺の隣で、メービスが静かに膝をついた。この男は、その魂であるミツルにとっては本当の父親ではない。その事実は、この世界で俺とあいつだけが知る秘密だ。だが、彼女が父と慕うこの男へ向ける眼差しに、嘘は一切なかった。あいつは、かつて自分が失った家族の面影を、この孤独な王に重ねていたのかもしれない。


「父上……ただいま戻りました」


 その声は、女王としてではなく、ただの娘としての響きを持っていた。彼女は、辺境での出来事を、一言一句丁寧に、しかし力強く報告し始めた。ロゼリーヌの気高さ、リュシアンの無邪気さ、そして母子が王家を拒む、あまりに正当な理由。俺はただ、その背後で聞き役に徹した。


 王はもはや声も出せぬほどの状態で、それでも必死に娘の報告に耳を傾けていた。そして、途切れ途切れに、感謝と後悔の念を口にする。ギルクを戦地へ送ったこと、ロゼリー-ヌを苦しめたこと。その全てを、この死にゆく王は一人で背負っていた。


「……それが……そなたの……選んだ道か……よい……」


 王はメービスが母子の意志を尊重し、盾になると誓ったことに、安堵したようにそう言った。そして、最後の力を振り絞るように続けたのだ。


「そして……そなたは……自由の身となり……いつか……」


 その先の言葉は、激しい咳に掻き消された。だが、俺にはそしてメービスにも、その言葉の意味は痛いほどわかっていた。「いつか子を成し、幸せになれ」という、父親としての最後の願い。王家の血筋のためではない、ただ娘の幸福を願う、純粋な祈りだった。


 あいつは涙を堪えながら、ただ父の手を握りしめていた。王が眠りに落ちた後も、彼女はその場を動こうとはしなかった。「今夜はここで父上に付き添います」――その横顔は、悲しみに打ちひしがれながらも、揺るぎない決意に満ちていた。

 

 俺は黙って部屋を辞した。あいつには、一人で父と向き合う時間が必要だ。だが、決して独りにはさせない。この王宮という戦場で女王の背後を守るのが、俺の唯一の役目なのだから。俺は扉の外で、静かに夜が明けるのを待った。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その二十四

 辺境から帰還して三週間が経った。王宮の空気は日に日に重くなり、まるで水底に沈んでいくようだった。ロゼリーヌからの返書はなく、先王はかろうじて命を繋いでいるだけ。その二つの事実が、宰相という名の獣を檻の内で苛立たせているのが、肌で感じられた。


 メービスは、公務と看病の合間を縫っては、焦燥に駆られたように廊下を歩いていた。俺はあえて声をかけなかったが、あいつがどれほど自分を責め、無力感に苛まれているかは痛いほどわかっていた。


 そんな中、報せは俺の元に先に届いた。辺境からではなく、王都近郊の街道から。銀翼の息がかかった見回りの兵からだ。「モンヴェール男爵家の執事が何者かに襲われ瀕死」――その一報を聞いた瞬間、俺は全てを察した。宰相の、あるいは「影の手」の仕業だろう。奴らは、我々と男爵家との繋がりを、物理的に断ち切るという最も卑劣な手段に打って出たのだ。


 俺は即座に動いた。信頼できる部下に命じ執事を確保させ、用意していた隠れ家へと移送させるよう指示した。幸い、命に別状はない。だが、この一件をメービスにどう伝えるかだ。あいつはここ数週間、ろくに眠れてもいない。今この事実を伝えれば、あいつのことだ、激情に駆られて夜通しでも駆け出すに決まっている。俺は、あえてこの情報を胸の内に秘めた。


 案の定、どこから聞きつけたのか、夜更けにコルデオが血相を変えて飛び込んできた。緊急の報せだ、と。扉を開けたメービスの顔が、みるみるうちに蒼白になっていく。


「なんですって⁉」


 動揺を隠せず声を張り上げるあいつを見て、俺は静かに隣室から姿を現した。


「落ち着け、メービス。その件なら、もう把握済みだ」


 俺の言葉に、あいつは驚きと、そして詰るような視線を向けてきた。「どうして黙っていたのか」と。その問いに、俺はありのままを答えた。ろくに寝てもいないお前にこんな話を聞かせれば、どうせ無茶をするだろう、と。図星だったのだろう、あいつは悔しそうに唇を噛んだ。


 まったく、昔から変わらない。一度決めたら聞かない、とんだじゃじゃ馬だ。


 案の定、あいつは「どうしても今夜会いに行きたい」と言い張った。俺の制止も聞かず、自分の耳で執事の言葉を聞かなければ落ち着かない、と。やれやれだ。だが、その燃えるような瞳を見てしまえば、俺に頷く以外の選択肢はなかった。


 それが、あいつの強さなのだから。


 俺たちはコルデオに馬車を手配させ、深夜の王宮を秘密裏に抜け出した。宰相の目が光る中での行動は危険極まりない。だが、あいつの決意を無駄にはできない。ロゼリーヌが託したであろう言葉を、そしてあいつが守ろうとするものを、俺もまた、守り抜くと決めているのだから。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その二十四


 王宮を抜け出す馬車の中は、刺すような冬の夜気と、それ以上に張り詰めた沈黙に満ちていた。メービスは窓の外に広がる闇を見つめ、何を考えているのか、その横顔からは読み取れなかった。だが、あいつの指先が小さく震えているのを、俺は見逃さなかった。恐怖か、怒りか、あるいはその両方か。


 こんな時、昔の俺なら「大丈夫だ」と肩でも抱いてやっただろう。だが、今は違う。俺たちの身体は、もはや壮年の剣士と十二歳の少女ではない。女王と王配という、奇妙で、息苦しい役割を背負っている。下手に触れれば、それは別の意味を持ってしまう。俺はただ、正面の座席からあいつの姿を見守ることしかできなかった。


 隠れ家は、王都から少し離れた寂れた屋敷だった。俺が息抜き目的のために確保しておいた場所だ。銀翼の中でも特に信頼のおけるダビドが、部下と共に警護にあたっていた。俺たちの姿を見るなり、あの赤髪の若者は心得たように頷き、奥の部屋へと案内する。


 部屋の空気は、血の匂いと薬草の匂いが混じり合って重かった。ベッドには、顔色の悪い執事が横たわり、浅い息を繰り返している。メービスがその傍らに駆け寄り、かすれた声で言葉をかけると、執事はうっすらと目を開けた。


 そして、彼の口から語られたのは、俺の予想を遥かに超える、陰湿で狡猾な陰謀の全貌だった。


 レズンブール伯爵が、「ギルク王子との旧交」を盾に、リュシアンを王都の名門校へ入学させるという「支援」を執拗に申し出ていたこと。ロゼリーヌがそれを宰相派による“取り込み”と疑い、助けを求めるためにメービスへ手紙を送ろうとしたこと。そして、その道中で襲われ、書状を奪われたこと。


 全てが繋がった。奴らは、ただ我々と男爵家の連絡を断つだけでなく、リュシアンという「正統な血筋」を自らの手中に収め、メービスを一気に追い落とすための駒にしようとしていたのだ。


「どうか……ロゼリーヌ様と、リュシアン様を……」


 執事の懇願に、メービスは力強く頷いた。


「必ずわたしが守ります」


 その声には、もはや震えはなかった。怒りが、恐怖を焼き尽くしたのだろう。その横顔は、まさしく国を背負う女王のそれだった。


 屋敷を出て、夜明け前の冷たい空気を吸い込んだ時、あいつは俺に言った。


「わたしは、甘かった」と。


 「五年は王位を保てる」などという自分の分析が、いかに机上の空論であったかを、あいつは痛感していた。敵は、正面からのクーデターなどという愚直な手は使わない。周囲から、最も弱いところから、じわじわと締め上げてくる。その狡猾さを、俺も、そしてあいつも見誤っていた。


 だが、あいつはそこで折れなかった。


「でも、わたしは負けるつもりはないわ。こんなやり方……絶対に許せない」


 その言葉を聞いた時、俺は確信した。宰相も伯爵も、そして「影の手」も、とんでもない女を敵に回したのだと。あいつは、ただのお飾りで収まるような姫ではない。自らの意志で立ち上がり、理不尽に牙を剥く、誇り高き女王なのだ。俺はその隣に立ち、共に戦う。ただ、それだけだ。俺たちの反撃は、この凍えるような夜明け前から、静かに始まっていた。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その二十五


 王宮へ戻る馬車の中、俺の頭はこれからの戦いのことで一杯だった。敵は、宰相と伯爵、それに与する貴族院多数派。そして正体不明の「影の手」。対する我々は、女王であるメービスと俺、そしてまだ生まれたばかりの銀翼騎士団。戦力差は歴然だ。後手に回っている今、ただ守りに徹するだけではじり貧になる。


「まずは男爵家周辺の警戒を固めようと思う。銀翼騎士団から選りすぐりを極秘裏に派遣する」


 俺は、頭の中で組み立てていた策をメービスに伝えた。公には「地方視察と人材発掘」という名目で、ステファンのような信頼できる者を少数ずつ送り込む。同時に、ダビドに伯爵と宰相の金の流れを探らせる。まずは守りを固め、敵の情報を集める。それが定石だ。


 だが、メービスは首を横に振った。


「それだけだと守勢に回るばかりだわ。わたし、囮作戦を考えているの」


 囮作戦。あえて守りが薄いと見せかけ、敵が動くのを誘い出す。危険極まりないが、劣勢を覆すには有効な手段だ。彼女は、ただ守られるだけの存在ではない。戦況を読む目は、下手に経験を積んだだけの指揮官よりよほど鋭い。その大胆さは、どこか俺の親友であり、あいつの父親でもあったユベルを彷彿とさせた。


「……面白い。やってみる価値はある」


 俺がそう言うと、あいつは少しだけ安堵したように息をついた。だが、その瞳の奥には、まだ拭いきれない恐怖が揺らめいていた。無理もない。俺だって同じだ。得体の知れない時代の、得体の知れない権力争い。何が正解かなど、誰にも分かりはしない。


 俺は、初めてあいつに弱音を吐いたかもしれん。


「俺だって怖いんだ。おまえがそばにいるから戦える。守るなんて言ったけど、本当はそうじゃない。おまえと一緒だから、やってやろうと思えるだけさ」


 我ながら情けない言葉だと思った。だが、嘘ではなかった。すると、あいつは驚いたように俺を見つめ、それから、こう言ったのだ。


「……わたしもあなたを守るから。それが一緒にいるってことだと思うの」


 その言葉に、俺は返す言葉を失った。ずっと、守るべき存在だと思っていた。親友から託された、危なっかしい娘だと。だが、違ったのだ。あいつは、とっくの昔に俺と対等な場所に立ち、共に戦う覚悟を決めていた。


 馬車が王宮の門をくぐる。俺たちは、女王と王配という仮面を再び被る。だが、その仮面の下で、俺たちの魂は固く結ばれていた。もはや、ただの主従でも、守る者と守られる者でもない。共に戦い、共に生きる。ただの「相棒」として。宰相の企みも、影の手の脅威も、今の俺たちにとっては乗り越えるべき試練でしかなかった。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その二十六


 王宮に足を踏み入れた瞬間から、戦いは始まっていた。夜通しの移動の疲労を癒す間もなく、侍従長のコルデオが駆け寄り、宰相たちが「王位継承会議を早急に」と騒ぎ立てていることを告げる。奴らの焦りが手に取るように分かった。


 執務室の扉を閉め、人払いをすると、そこは司令室と化した。俺とコルデオを前に、メービスは椅子に深く腰掛け、ここまでの“現状”を自らの言葉で整理し始めたのだ。


「まず、わたしが即位して最初の頃……宰相に指図されるまま公務をこなしていた」


 あいつは、驚くほど冷静に、自らが当初「無知で無力な小娘」として、宰相の完全な傀儡であったことを認めた。俺は「無知って言い方は腹が立つ」と口を挟まずにはいられなかったが、あいつは苦笑して首を振る。


 そして、状況がどう変わったかを続けた。あいつが提案した「食糧難の改善策」。俺が設立した「銀翼騎士団」。それらが徐々に成果を上げ、宰相の息のかかっていない貴族や民衆の支持を集め始めたこと。結果として、「ただの傀儡」が、宰相にとって無視できない「脅威」へと変わったのだと。


「わたしたちは、やりすぎたのかもしれない」


 その言葉に、俺は奴らの焦りの理由を正確に理解した。奴らは、自分たちの操り人形が意志を持ち始めたことに気づき、慌てて次の手を打ってきたのだ。それが、「ギルク王子の遺児」という切り札。


 あいつは、宰相と伯爵がリュシアンを王都へ取り込み、意のままに操ろうとしていること、そのためにロゼリーヌからの書状が奪われ、彼女が孤立させられていることまで、全ての構図を完璧に看破していた。


 一通り説明を終えたあいつの顔には、もう迷いはなかった。


「――でも、わたしは退位するにしても、リシュアン殿とロゼリーヌさんの意志を無視してまで王位を押しつける気はないの。これは先王も、わたしも強く願っていること。宰相がどんなに急ごうと、わたしは彼らの思い通りにはならないわ」


 その声には、怒りに似た熱が宿っていた。それは、ただ守られるだけのか弱い少女の声ではない。自らの信念を貫き、理不尽と戦うことを決意した、真の女王の声だった。俺とコルデオは、ただ黙ってその言葉を受け止めた。


「――それじゃ、まずは今日も閣議に出席して、宰相たちの様子を探ってみましょう」


 そう言って、あいつは戦場へ向かう指揮官のように立ち上がった。そうだ、それでいい。敵の懐に飛び込み、その腹の内を探る。それが今の我々にできる最善手。


 俺は、この揺るぎない決意を固めた女王の隣に立ち、共に戦えることを、誇りに思った。黒髪の女王は、決して退かない。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

その二十七


「閣議では、おそらく宰相派が騒ぎ立てるだろう」


 会議室へ向かう冷たい廊下で、俺はメービスにそう囁いた。あいつの顔には夜を徹した疲労と、それ以上の緊張が浮かんでいた。無理もない。これから向かうのは、老獪な狐たちが待ち構える巣穴だ。「わたしがもし我を忘れそうになったら、止めてちょうだい」と、あいつは言った。俺は短く「心配するな」と返したが、本当に心配だったのは、俺自身の我慢が続くかどうかだった。


 会議室の扉が開くと、案の定、宰相とその配下どもが待ち構えていた。伯爵本人はおらず、代理の男が代わりに座っている。その全てが、こちらを値踏みするような、不快な視線を向けてくる。


 宰相は、先王の危篤を盾に、矢継ぎ早に畳みかけてきた。「国の民を安心させるため、早期にご決断を」――その言葉の裏に、「さっさとリュシアンを後継者と認め、お前は玉座から降りろ」という本音が透けて見えて、俺は奥歯を噛みしめた。


 伯爵の代理を名乗る男もそれに続く。「リュシアン殿こそ正統なお血筋」だと。奴らが口にする「正統」という言葉が、暗にメービスの出自を蔑んでいるのは明らかだった。俺の隣で、メービスの拳がドレスの下で固く握りしめられるのを、俺は感じていた。


 だが、あいつは決して感情的にならなかった。


「ご本人たちの意志を無視して呼び寄せるのは、いかがなものでしょうか」


 その声は、女王として、驚くほど冷静で、穏やかだった。だが、宰相どもは聞く耳を持たない。「そこをまとめるのが我々の務め」だと、伯爵の代理は言い放った。まるで、ロゼリーヌ母子の意志など、初めから存在しないかのように。


 メービスは、一歩も引かなかった。かといって、正面から衝突することもない。


 「適切な時期に改めてご提案をさせていただきます」と、巧みに結論を先延ばしにしたのだ。あれだけの圧力の中で、あの判断を下せる冷静さ。俺はただ、背後からあいつの背中を見つめることしかできなかったが、その小さな背中が大きく見えた。


 だが、敵もさるものだ。伯爵の代理は、メービスのその言葉を逆手に取り、「では、準備が整い次第、王都へ来てもらいましょうか」と、あたかも我々が承諾したかのような既成事実を作り上げようとした。


 会議が終わった後、メービスは言った。「あれは嵐の前兆ね」と。その通りだ。奴らは、我々の同意など形式だけのものと見なし、遠からず男爵領へ直接乗り込むだろう。


「まずは、ロゼリーヌさんと直接連絡が取れるルートを確保しないと」


 あいつは、即座に次の一手を口にした。銀翼騎士団を動かす、と。俺は「もちろん可能だ」と答えた。そうだ、このために俺は、身分も経歴もバラバラな、だが腕と忠誠心だけは確かな連中を集めたのだ。


「少数精鋭と言ったろ? ただの腕自慢の“均質な集団”じゃ、閉塞感が生まれるし、予想外の事態に柔軟に対応できない」


 俺がそう言うと、あいつは納得したように頷いた。宰相どもが侮る、あの「寄せ集め」の騎士団こそが、この膠着した戦況を覆す、我々の唯一の刃となる。奴らが玉座の前で言葉遊びに興じている間に、我々は影の中から、静かに、そして確実に、反撃の準備を始めていた。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)**

その二十八


 宰相どもが去った後の執務室は、静かだが、まるで戦いの後のように空気が張り詰めていた。メービスは時間を稼ぐため、「疲れている」とコルデオに伝えさせたが、あれは半分以上が本音だっただろう。夜通しの移動と、あの神経をすり減らす会議だ。無理もない。


「“女王は疲弊しきっていて、強く出られない”と思わせることが肝要だ」


 俺がそう言うと、あいつは机に突っ伏したまま、力なく同意した。俺たちの作戦は、ステファンたちが辺境で、ダビドが王都の裏で動く間、メービスがここで敵の油断を誘い、時間を稼ぐこと。あいつのその弱々しい姿すら、今は武器なのだ。


 だが、その武器は、使い手であるあいつ自身の心を削っていく。窓辺に立ち、夜明け前の空を見つめるその横顔は、ひどく危うげだった。俺は、気づけばあいつのそばに立ち、その肩に手を置いていた。


「やれるさ。なにせおまえは“ミツル・グロンダイル”なんだからな」


 つい、昔の名で呼んでしまった。今のあいつは女王メービスだ。だが、俺の中では、あの無鉄砲で、一度決めたら決して諦めない生意気な小娘のままなのだ。


「危なっかしいところはあるし、そこが放っておけないんだけどな」


 俺の言葉に、あいつは「褒めてるんだか貶してるんだか」とぼやいた。そのやり取りが、ひどく懐かしい。そして、俺は言ってしまった。自分でも驚くほど、自然に。


「俺はおまえのそういうところが好きだ。見ていて飽きないからな」


「す、好きって……⁉」


 あいつの声が上ずり、顔が真っ赤に染まった。しまった、と思った。だが、今さら取り繕うのも俺らしくない。


「まあ、安心しろ。宰相や伯爵なんて思い上がった連中は、驚くほど脆いもんだ。……おまえの隣でしっかり支えるさ」


 そう言って誤魔すのが精一杯だった。あいつはまだ何か言いたげだったが、気を取り直して机の上の書状の山に向き直った。「あなたも手伝ってくれる?」と。俺は「得意じゃないんだがな」と返しつつ、その隣に腰を下ろした。


 そうだ、今は感傷に浸っている場合ではない。俺たちは戦いの最中にいる。だが、あの時あいつに向けた言葉に、嘘はなかった。あいつの危なっかしさも、無鉄砲さも、その全てをひっくるめて、俺は――。いや、今は考えるのはやめよう。


 俺たちはただ、夜が更けるまで、山積みの書類を黙々と片付けていった。あの“小さな好き”という言葉が、重苦しい執務室の空気の中に、ほんの少しだけ温かい灯りをともしているような気がしながら。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)**

その二十九


 翌朝の執務室は、書類のインクの匂いと、張り詰めた沈黙で満ちていた。朝日が差し込んでいるというのに、少しも暖かく感じられない。俺の隣で、メービスは山と積まれた書状に目を通していた。その横顔には、隠しきれない疲労が浮かんでいる。


「まったく貴族連中の文書ってのは、無駄に飾り立てるだけで回りくどい」


 俺は、読んでいた報告書を閉じて、思わず悪態をついた。奴らの文章は、どれもこれも言い訳と自己保身の匂いしかしない。言いたいことがあるなら、はっきり言えというんだ。男爵家の執事が襲われた一件が、奴らの仕業であることなど明白だというのに。


「とりあえず、ダビドとステファンが“決定打”を掴むまでは我慢だな」


 俺がそう言うと、メービスは「彼らを信じるしかない、ということね」と、不安げに呟いた。無理もない。相手は海千山千の宰相派だ。俺はあいつを安心させるように、仕掛けておいた策の一端を明かした。


「実はな、最初に送り出したのはブラフだ」


 ステファンの本隊とは別に、陽動の部隊を先に動かしてある。敵の注意を引きつけ、その目を欺くための策だ。昔、カテリーナという女傑から教わった手口だ。あいつは、こういう裏の掻き合いが得意だった。そして、その根底にある考え方は、俺の親友であり、メービスの父親でもあったユベルに教わったものだ。奴は、ただの猪武者ではなかったからな。


 俺たちの会話を遮るように、コルデオが険しい顔で入室してきた。王宮内に不審者がいた、と。やはり、奴らは俺たちの動きを嗅ぎまわっている。俺はコルデオに、侍従や衛兵の背景を洗い直すよう命じた。この王宮は、もはや敵の庭だと思わねばならん。


 コルデオが去り、再び静寂が戻ると、メービスは弱音を吐いた。「少し怖いわ」と。眠っている間に何か仕掛けられるかもしれない、と。その声は、女王のものではなく、ただの怯える少女のものだった。


「心配するな。俺がいる限り、誰にも指一本触れさせやしない」


 俺は、気づけばそう口にしていた。そうだ、そのために俺はここにいる。


「もっとも、王国最強の騎士の寝込みを襲おうなんて気骨のあるやつはいないだろうが」


 俺がそう嘯くと、あいつは「獣みたいな人だし」と、少し意地悪く笑った。その顔にいつもの覇気が戻ったのを見て、俺は少しだけ安堵した。


 だが、安寧の時は短い。宰相が昼前に来るとの報せ。あいつは「仕方ないわね」と、再び疲弊した女王の仮面を被ろうとする。その額に浮かぶ汗を見て、俺は懐から紙包みを取り出した。食える時に食っておかなければ、戦は乗り切れん。


「あなたって、いつだって唐突で荒っぽいわね」


 そう文句を言いながらも、あいつは俺が差し出した焼き菓子を、小さな口で頬張った。その仕草が、ひどく無防備に見えた。


「俺だって、無理ばかりするおまえを見てると気が気じゃないんだ」


 俺はあいつの手を握った。その手は、ひどく冷たかった。


「おまえがどれだけ強がっても構わんさ。その強さも脆さもまるっと含めて、俺は隣にいるって決めてるんだ」


 俺の言葉に、あいつは驚いたように目を見開き、それから、照れくさそうに視線を逸らした。口の中に広がる甘さが、少しはあいつの心を温めてくれただろうか。宰相との戦いが、もうすぐ始まる。俺は、握った手に少しだけ力を込めた。

 「その二十三~二十九」の手記群は、まさに“静かな戦い”の始まりであり、政治の毒と精神の疲弊の中で、ヴォルフとメービスの関係が「共闘者」から「無意識の伴侶」へと深化していく過程が繊細に綴られています。


◇“静けさ”の中に仕込まれた戦いの構図

 どの手記にも、「表向きは静かだが、実際は戦いの只中にいる」という二重構造が貫かれています。


対話(その二十三)

 「虚偽」を盾とした王宮の囮戦術(その二十四・二十六)

 「会議室という戦場」での応酬(その二十七)


 この静けさは、“剣を交える”という露骨な戦争ではなく、制度・言葉・疑念といった目に見えない武器で挑む、王宮という冷戦状態の比喩です。


◇ヴィルの視点だからこそわかる、ミツル=メービスの“壊れかけの強さ”

 この章で特に心を打つのは、ヴィルの視線が一貫して、メービスの「壊れそうなほどのまっすぐさ」に向いていることです。


 「女王という仮面の下で泣けないこと」への理解(その二十三)

 「知らせたら絶対に走る」と見抜いたうえでの情報制御(その二十四)

 「眠ってる間に何か仕掛けられるかも」と弱音を吐いた彼女への寄り添い(その二十九)


 どれも、「弱さ」に対して無遠慮に“慰め”を与えるのではなく、“理解”という形で支えようとする姿勢が感じられます。


 ヴォルフは、メービスを「危うくて、放っておけない女」ではなく、「その危うさを背負ってでも支えたい存在」だと捉えている。これはすでに守護ではなく、選択です。


◇「おまえがそばにいるから戦える」――無意識の告白たち

 この章の密かな主題は、ヴィルの“自覚なき愛の表現”の連打です。


 「俺はおまえのそういうところが好きだ。見ていて飽きないからな」(その二十八)

 「その強さも脆さもまるっと含めて、俺は隣にいるって決めてるんだ」(その二十九)

 「俺も怖い。だけどおまえがいるから戦える」(その二十五)


 いずれも、明確な“愛してる”の言葉は使われていないのに、「戦う理由」や「隣にいる動機」としての“彼女の存在”が明確に語られている。


 これは、彼にとっての愛が行動と覚悟で示されるものであることを象徴しており、同時に、「告白できない騎士」が「隣にいること」で全部を語ろうとしている、不器用さでもあります。


◇触れられぬ距離と、温度の記憶

 特に象徴的なのは、次のような微細な身体感覚描写。


 「あいつの指先が小さく震えているのを、俺は見逃さなかった」

 「俺は、気づけばその肩に手を置いていた」

 「俺はあいつの手を握った。その手は、ひどく冷たかった」


 触れようとするたび、“触れてしまえばすべてが変わってしまう”という無意識の戸惑いと背中合わせになっている。


 そしてその距離感の中で「小さな焼き菓子」「肩に触れる手」「握った手の冷たさ」といった微細な温度が、愛の代わりに記憶されていく。


◇ふたりはもう、誰の目にも夫婦

 この章に入ると、他者の視線も次第に“ふたり=公的な組”として認識してきます。

 つまり、ふたりが無意識のうちに「夫婦のように」振る舞い始めたのではなく、すでに誰の目から見ても“伴侶”になっているという事実が静かに浮かび上がってきています。


◇ 結語

 この手記は、恋文ではありません。あくまでも、“戦いの記録”であり、“心の記録”です。


 だがその中に、


 「戦う理由が彼女である」

 「隣にいることがすでに誓いである」

 「ふたりで家族になろうとしている」


 という事実が、行動と沈黙と吐息の隙間から漏れ出ている。


 これは告白ではなく――すでに始まってしまっている、ふたりの「生涯の結び目」の描写なのです。

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