聖性を棄て、灯を抱く
夜明けまで、あとわずか。星影と月光がせめぎあう、深い瑠璃色の帳のなか、河川敷へと向かう馬車の幌布を、霜混じりの灰が音もなく撫でてゆく。夜の冷気はもう剣のような鋭さを失い、代わりに火の気を奪われた瓦礫の匂いが、胸の奥深くへと静かに沈み込んできた。
幌の隙間から覗く盆地は、かつて“黄金の穀倉”と謳われた頃の面影をどこにも残してはいなかった。市壁も、街路も、かつて壮麗を誇った宮城さえも、爆圧によってことごとく砕かれ、すべてが等しく灰色の平面へと還っていた。
わたしは息をひそめ、残像のように胸にまとわりつく鐘の余韻を耳で探す。けれど聞こえるのは、外郭を固める銀翼騎士団の揃った呼吸と、馬の蹄が潰えた瓦礫を踏み砕く、乾いた音ばかり。都市を彩ったはずの無数のざわめきは、もう風の届かぬ時の彼方に沈み、二度と返ることはない。
それでも、灯は絶えていなかった。人々が必死に掲げた緋色の狼煙が、灰白色の糸となって焦土を健気に縫い、生存者を旧首都中心へ導いている。
けれど、その光条が示す現実はあまりにも残酷だった。首都総人口二十万のうち、生存が確認された命はわずか一万一千――。その数字を脳裏で認めた瞬間、心臓の脈がひとつ、重く抜け落ちるような感覚に襲われる。十九万の沈黙が、肺腑を凍らせた。
馬車の向かいで、アウレリオ枢機卿が硬く拳を握りしめている。指に食い込む革手袋の皺が、付着した灰で痛々しいほど濃く見えた。彼の視線は幌の隙間を越え、仮設陣地――あの臨時の「灰光の議場」へと向かっているのだろう。
そこでは不足する薬と食糧、そして日々膨らみ続ける避難者の行列が、刻一刻と砂時計の砂を削っているのだ。
わたしはそっと息を継ぎ、掌でお腹を守るように、外套を静かに合わせた。
「……冷えるな」
不意に、ヴォルフが自身の外套の裾でわたしの肩を覆った。甲冑越しのその手つきは、いつもよりずっと慎重で、けれど揺るぎない脈の熱を宿していた。
彼にそっと寄り添う瞬間、遠くで白い狼煙が一筋――いや、二筋に分かれて揺らぐのが見えた。風が変わったのだ。
火床の数が想定より多い可能性を示すその揺らぎに、彼は低く呟いた。
「生き残った灯は、思ったより――いや、もっといるかもしれん」
その言葉は希望というより、これから背負うべき責務の重みを帯びて、わたしの胸へとずしりと沈んだ。十九万の沈黙が、一瞬、呼吸を浅くさせる。
わたしは零してしまった過去ではなく、今この腕の中に宿る未来へと、強く意識を繋ぎ留めた。
――次は、決して。
馬車は瓦礫の撤去が終わった迂回路を抜け、ゆるやかに高度を下げる河岸へと降りていく。車輪が湿った泥を踏むたび、籠の内に微かな揺さぶりが伝わり、胎内で小さく脈打つ鼓動が、それに呼応した気がした。
「女王陛下」
アウレリオが静かに名を呼ぶ。彼の瞳には、焦土に残された民への祈りと、かすかに赦しを請うような影が重なっていた。
「あなたのお力で、彼らは夜より深い絶望を越えられる。――どうか、その翼で“希望”を運んでください」
わたしは、彼の言葉に静かに頷いた。
飛翔の準備は、もう整っている。けれど、人知れずこの地を飛び立つ前に、この車内で交わすべき言葉がある。ハロエズの再生を誓うのは、神でも聖女でもない。同じ重さの血を流す「ただの人」なのだと、伝えなければならない。
馬車が、小さな橋を渡る。月光が川面に砕け、その白銀の瞬きが幌布の影を透かして、わたしたちの掌を淡く照らした。揺らぐ光の粒は、瓦礫の下でまだ息を繋ぐ人々の眼差しのように滲み、そして、切々と呼びかける。
――行こう。
河川敷の冷たい土を踏み、白銀の翼が霜を散らす時、旧首都の空はようやく夜の闇を振り払うだろう。そこに集う灯火を、ひとつ残らず掬い上げるために。
◇◇◇
そもそも――わたしたちがいたのは、瓦礫の議場で、祈りがそのまま手当てに変わるような場所だった。
あの人いきれの中心で、もしわたしが白銀の翼を広げたなら、人々は畏怖と崇拝の眼差しを向け、やがて熱狂し、わたしを偶像へと仕立て上げてしまうだろう。
わたしの逡巡を、アウレリオはすぐに察してくれたらしかった。議場の外、砕けたモニュメントの陰でわたしたち三人が短く言葉を交わした直後、彼は兵を走らせたのだ。
「馬車を回します。人目を避け、川まで下れば視界は半分になります。河岸に出てからならば、光り輝く翼を拡げても、民衆には流星か、あるいは目の錯覚で通せましょう」
灰に染まったマントを翻し、彼はそう言った。無用の注目を浴びないように――それが、サニルの枢機卿としてではなく、ひとりの人間としての彼の気遣いだと、痛いほど理解できた。
議事堂の前を離れた瞬間、背後からどっと押し寄せる喧噪が耳朶を打つ。狼煙の残照を背に、避難民の列はどこまでも長く、そして絶えることなく続いていた。
――そんな高みは、わたしには要らない。
ヴォルフの手に助けられ、幌付きの馬車に乗り込む。車内の木枠は軋み、埃にまみれた干し藁が、くすんだ甘い匂いを放っていた。けれど、この狭く揺れる揺り籠のほうが、あの無数の視線が突き刺さる場所より、ずっと楽に呼吸ができた。
馬車が動き出すと、外のざわめきはすぐに遠ざかり、代わりに、風が運ぶ瓦礫の軋む音が、微かに追いかけてくる。崩れた礼拝堂の鐘楼が、今なお時を告げようとしているのだ。
――こんな時、誰かが「神の声」とやらを担がねばならないのだろうか。
一時的にでも、傷ついた民の心を支えられるのなら、それは正しいことなのかもしれない。けれど、わたしにはそうは思えない。
ふと、そんな直感が胸を掠めた。戦場では、祈りは武器になり、慰撫にも、そして足枷にもなる。それがどれほど効果的で、かつ恐ろしいことか、わたしは骨身に沁みて知っている。
アウレリオはそれを熟知したうえで、わたしに“飛び立つ自由”を与えてくれたのだ。
議事堂跡に残してきた人々が見上げる空は、深い紫の傷痕を抱えている。矛先の見えない恐怖の中で、彼らは“神”ではなく、“隣人”の背中に灯を探そうとするだろう。ならばわたしも、この地を離れる前に、彼らと同じ高さで決意を刻む必要があった。
それが、この移動の持つ意味。
目につかない河岸から、静かに翅を開き、王都へ向かって真っ直ぐに飛ぶこと。焦土に残した灯を、偶像の影で覆ってしまわぬように。
◇◇◇
馬車は河岸へ向かう坂をゆるく下りはじめた。車輪が凍えた泥に沈むたび、微かな揺れが藁の匂いとともに腹の奥へと伝わり、わたしは無意識のまま、そこを庇うようにした。
月明かりが滲む窓越しに、焦土の焚き火が遠ざかっていくのを見届けてから――わたしは正面に座るアウレリオへ、そっと頭を下げた。
「“アウレリオさん”。あなたのお気遣いがなければ、わたくしたち、あの場で翼を拡げてしまうところでしたわ。本当に、ありがとうございます」
あえて肩書を外して呼びかけた。それが“人”としてわたしを扱ってくれる彼への、せめてもの礼儀だと思ったから。
外套の襟を正したまま、彼はわずかに眉を揺らした。
「……礼には及びません、陛下。あの時あなたが差し伸べてくださった御手が、妻と子を救ったのです。こちらこそ、この感謝をどう捧げればよいか……」
「救っただなんて、大袈裟です。わたしはただ、目の前にあった灯を守ろうとしただけ。女王だとか巫女だとか、そんな立場は関係ありません。そうしなければ、我慢ができなかったのです。おかしいかもしれませんけれど、わたしは、どうしようもなく、そういう性分で……」
わたしの視界に映るのは、幌布の縫い目ばかりだった。
灰を吸った糸が淡い銀色に変わり、ところどころが焦げ茶にねじれている。その小さな痛々しさに、指先がすっと重なった。
「あの場所で祈ったのも、今思えば軽率だったと思います。
ただ……救えなかった方々に申し訳なくて、そうでもしなければって思ってしまった……それだけで……」
言葉はそこで途切れ、闇に沈む。
細雪のようにこぼれ落ちた響きは、藁に埋もれた床板へと吸い込まれて消えた。胸の奥で、古びた鈴の音のような余震が、いつまでも鳴り止まない。
アウレリオが、わたしの沈黙ごと包み込むように、静かに頷いた。肩口の灰がほろりと落ち、ランタンの光にひと瞬き、きらりと舞う。
「けれど……あなたが難民の方々の前でおっしゃってくださったでしょう? 『舟に共に乗る者だ』と。
あの言葉にどれだけ救われたか……」
囁きよりも静かな声。ランタンの火は応えるようにふっと揺れ、彼の頬をあらわに照らす。そこに刻まれた煤は、祈りの痕跡ではなく、瓦礫をその手で担いだ者だけが纏う色だ。
「無礼は重々承知しておりましたが、あの場で私には他の言葉がどうしても浮かびませんでした。“神意”や“奇跡”などの大仰な語を借りれば、人々の痛みも汗も、まるで遠い幻のように霞んでしまう。
それより――砕けた船底で同じ冷たい水を掻き、凍える指で互いを支える仲間として、ただ真っ直ぐに名を呼び合う方がどれほど温かいか……そう思えたのです。」
彼は言い淀み、視線を膝へと落とした。革手袋の縫い目が、爪の白さに負けじと硬く膨らんでいる。馬車の軋みが一拍、わたしたちの呼吸と重なった。
「……本来ならば、私は枢機卿として“奇跡”を宣言すべき立場にあります。
白銀の翼を神の徴として語れば、民心は一挙に結束する。それこそ国益にも適う。ですが――」
彼の唇が、震えを飲み込み、言葉は低い霧のように揺れた。
「ですが?」
自分でも驚くほど柔らかな響きだった。わたしの声は、震えながらも彼に橋を架ける。彼はそっと息を吐き、その吐息が曇った窓に淡い奔流を描いた。
「……あのとき陛下は“聖女”などではありませんでした。
瓦礫のただ中で、泥と血とを纏いながら――けれど、誰よりも凜々しく立っておられた。
その姿に触れた瞬間、胸を満たしたのは畏敬であって、奇跡ではございません。もし私が軽々しく“神意”などと飾れば、あの尊さを逆に穢してしまうと悟りました。
だからこそ私は枢機卿の冠をひとまず棚に置き、同じ舟底で足を濡らす隣人として手を差し伸べる道を選んだのです。
――それが、メービス様。あなたへの、わたしにできるいちばん率直で、いちばん誠実な敬意だと思っております」
言い終えた瞬間、車輪が小石を踏み、馬車が軽く跳ねる。吊り灯が鳴り、灯芯が心細く震えた。
わたしはそっと目を閉じ、胸に残る灰を深い呼気で吐き出す。
――隣人。なんてあたたかな言葉だろう。遠くから神の声を借りて祈るより、同じ舟板に膝をつき、互いの手を濡らす方が、どれほど灯を近づけるか。
夜気が黒曜石のように冴え、遠い稜線で東雲がほころび始めている。まだ星屑を抱えた空が、ほのかな金を滲ませる――夜と朝とが混ざり合う、その脆い境目。
車輪の微かな揺れに合わせ、馬の吐息が白い羽毛のように窓辺を掠めるたび、胸の奥に凍てついていた何かがゆっくりほどけていくのを感じた。わたしはその黎明の色を確かめ、そっとアウレリオへ微笑む。
「ありがとう……。――これからも“同じ舟”の隣席に、どうかいてください」
言葉は藁の甘い匂いの中で静かに溶け、灯芯の火が小さく瞬いた。胸の奥へ、氷解するような温度が広がる。
だがすぐ隣で、甲冑が硬い混じり気を帯びて軋む。金属板が触れ合う低い響きは、言葉より先に決然とした意思を告げていた。
「俺は神だの聖女だのを妻に持った覚えはない。メービスは俺のものだ」
ヴォルフの声は夜明けの湖に沈む石のように低く、揺るぎない。長い腕が背から回り、わたしの肩へ落ち着く。鎧の冷たさの下で脈打つ体温が、鼓動の速さを惜しまず伝えてくる。
「――もう。わたしを家財目録にでも載せるおつもり?」
呆れと愛情を半分ずつ溶かした声で肩を小突く。藁がぱらりと落ち、彼は照れ隠しのように口角を引きつりながら、鋼の瞳をわずかに伏せた。
「悪かった。ただ――お前が祀り上げられれば、俺はその重さを奪ってやれないかもしれん。だから嫌なんだ」
言葉は粗削りなのに、肩へ置かれた掌は、まるで割れ物を扱うように繊細で、わたしの背を柔らかく包んだ。
その慎ましい愛おしさに、思わずまぶたを閉じる。
闇に沈んだまつげの裏で、火の粉のような記憶がぱらりと舞う。
祈りの光が偶像へ変わり、人を遠ざけ、義務と称賛の檻を編む――歴史の端で幾度も見聞きした悲劇。もしもわたしが“聖女”へ祀り上げられれば、きっと同じ鎖が生まれるだろう。
政治の駒として、宗教の旗として、誰かの望む理想像を演じ続ける生涯。わたし自身の喜びも悲しみも、肌で感じた朝の冷たさも、胎内に宿るこの命の温もりさえも、“役柄”の裏へ隠されてしまう。
そんな偽りを掲げて、民はほんとうに幸せになれるのだろうか。
――いいえ、
と胸の奥で即答する。
誰かの痛みに手を伸ばしたいのは、女王だからでも巫女だからでもない。わたしというただの一人の人間だから。
だからこそ、ヴォルフの粗削りな宣言が愛おしい。
「神でも聖女でもなく」――その直情は不器用で、けれど真実だけを選び取る。わたしの背を支える腕の重みがそれを物語っていた。
ランタンの火が静かに呼吸し、揺れる影が幌布へ淡墨の模様を描く。
アウレリオが衣擦れを響かせ、小さく肩をすくめたとき、影絵の輪郭がほろりとほどける。
「ヴォルフ殿下のお気持ちは痛いほど察せられます。
十字架というものは、その重みを負う者のみならず、傍らで支えようとする者の肩までも容赦なく押し潰してしまう――そういう厄介な代物ですからな。」
彼の苦笑は煤に染まりながらも、炭火の芯のような赤を宿している。
言葉の余韻が幌布に吸い込まれるあいだ、わたしは外套の胸紐を握り、喉奥で脈打つ呼吸を揃えた。
「血を流し、泥に膝をついて、それでも灯を守りたいと願う。
――ただの人として在りたい。聖女という讃辞は過ぎた飾りです。わたしにはふさわしくない」
吐き出した言葉は夜気に染み込み、凪いだ水面へ落ちた露のように淡い波紋を置く。ランタンの火が一度だけ細り、息を吸い込むように膨らんで、再び柔らかな光を放った。
「そうおっしゃると思っていました」
アウレリオは手袋を外し、煤と血の跡が絡む掌を静かに重ね合わせる。爪の隙間に入り込んだ灰が白く浮き、灯火の下で小さく震えた。それは礼拝の仕草にも似ていたが、祈りより覚悟を孕む微かな震動だった。
「――ですから、どうかおふたりには、なるべく人目を避けて旅立っていただきたいのです。河岸の闇を抜けて飛び立てば、その白銀の翼も夜空に溶け込み、一条の流星としか映るまい。
“神の御使い”ではなく、王都へ帰還するただの夫婦として――」
帆布越しの月明かりが言葉の輪郭を淡く縁取り、宙へ送られた小さな祈りは朝の端色と溶け合う。
わたしは静かに頷き、ヴォルフと指ごと手を絡めた。甲冑の冷えの奥で脈が跳ね返り、掌へ伝わってくる。
わたしの鼓動と重なり合う拍動が、未来と過去を区切る境目を静かに震わせる。藁と焦土の甘苦い匂いが溶け、灯芯の炎が二人の影をゆるやかに重ね合わせた。
――見ていて。お父さんとお母さんは、人としてこの空を翔ぶから。
腹へそっと囁くと、ぬくもりの波がひとつ胸郭を撫で上げた。
窓辺では東雲がさらに淡くほどけ、夜と朝の境目が透紙のように薄らいでゆく。微かな風が幌布を揺らし、夜露と野苺に似たほの甘い匂いを車内へ送り込んだ。新しい時間の気配を孕んだその風は、まるで「行きなさい」と背を押す母の掌のようだ。
やがて馬車がぬかるみに沈み、車輪が泥を啜る低い音を引き伸ばす。遠心の振動が床板を伝い、藁の山がほこりを小さく舞わせる。
外では馬の吐息が白を増し、遠空で渡り雁がひと声、かすれた音色を落とした――夜気を切り開く道標のように。旅立ちの刻が、確かに近づいている。
飛翔の刻は、もうすぐ。
沈黙の中、車輪の律動だけが脈拍のように響く――と、その拍がふいに僅かな捩れを帯びた。
アウレリオの隣席から革鞄の留め具が外れる乾いた音。燻った鉄の匂いをまとった羊皮紙の束が取り出され、ランタンの光が煤膜を透かして黄に滲む。
「本当は、もっと早くお渡しするべきでした」
差し出された手は冷えて青白く、それでも指先には確かな震えがあった。血と灰の痕が点描のように残り、それぞれが誰かの名もなき痛みを語る。
ヴォルフが警戒の色を潜めきれぬまま眉を寄せたが、わたしはそっと受け取り、頁を繰った。
不鮮明な印影の端に辛うじて浮かぶ王印――灰と涙とで濁った紋章が、かろうじて威信の輪郭を留めている。
「これは……物資移送と越境の許可証、ですか?」
「はい。――議事堂そのものは瓦礫と化しましたが、幸いにも公印だけは地下金庫に無事残っておりました。急ぎそれを用い、新たに認証文書を起案・発行いたしました。
これがあれば少なくとも三十日のあいだ、国境を越える補給隊の通行と物資輸送を正式に保証できます」
言い終えた彼の肩が、安堵とも決意ともつかない呼吸でわずかに落ちる。薄紫の夜明けがその横顔を撫で、白い煤の筋を柔らかい桜色に染め替えた。
ヴォルフの表情が僅かに和らぐ。鋼色の睫が伏し、拳に込められた力が指の関節へゆるやかに溶けてゆく。
「なるほど。この書類を携えて戻れば、こちらの両院も動きやすい」
その一言が藁の匂いに重なり、車内の空気がわずかに膨らむ。アウレリオは頷き、炎のちらつきで濡れた瞳を細めた。
「陛下に“御使い”の衣を着せずとも、条約という現実の枠組みで民を護れるのだと……その道筋を、どうしてもお示ししたかったのです」
しわがれた声の奥に、長い夜を渡ってきた礫混じりの祈りが潜む。
胸の奥で、濁った泥が一滴ずつ澄んでいく。わたしは手帳を閉じ、深く息を吸った。咽喉を満たす空気は冷たく、それでも花蜜のような淡い甘さを帯びている。芽吹きの季節が、瓦礫の下で呼吸しているのだ。
「……ありがとう。あなたが背負った重さ、たしかに受け取りました」
言葉を置いた瞬間、馬車はわずかに揺れ、革綴じの羊皮紙が膝の上でからんと転がる。ヴォルフが照れ隠しのように咳払いをし、横顔をわずかに背ける。その睫が震え、鎧の下で握られた拳が開きかけてはまた閉じた。
東雲はさらに薄く伸び、窓辺に月最期の光屑を散らす。遠くで雁が二度目の声を上げ、わたしたちの影を長く追い越してゆく――夜を超え、朝へ向かう道の先触れのように。
「であれば」――ヴォルフは低く続けた。
声はまだ夜露を帯びた鉄のように重く、けれど言葉の縁には朝の光を探る静かな期待が滲む。
「補給線は即刻組み直す。北はアルバートに睨みを残すしかないが、南東と中央で穴埋めは可能だ。――問題は物と金だが」
鎧袖の継ぎ目がわずかに鳴り、ヴォルフの肩甲がランタンの火を薄く弾く。影は車内の幌布に映り、地図の上で鷹が羽ばたくように揺れた。
「その件は、わたしにまかせてちょうだい。
王都へ戻り次第、両院を臨時招集。現状を余すことなく叩きつける。彼らが“国益” を秤に掛けるのは目に見えているけど、大義名分の一つや二つ、捻り出すことなど造作もないわ」
わたしが応じると、アウレリオが微かに眉を上げる。けれど否定ではなく、半ば呆れた敬意が混じる穏やかな眼差し。
「相変わらずだな。だが、お前のその強がりが、何度も戦場を動かした」
ヴォルフの口元に、闘い明けの兵が見せる静かな笑みが浮かぶ。
「本気だからよ」
わたしたちの声は、かつて夜営で火を分け合った晩と同じ調子で交わった。
――……ほんとうは怖い。でも、怖いと言える暇があるなら、先に旗を立てる。
計算と祈りを溶かしたような、静かで熱のある小さな焔。その温度は、凍えた夜気の中でささやかに膨らみ、ランタンの炎と重なって車内をほのかに温めた。
「あの」
遠慮がちな声がその焔を包む。アウレリオが膝の上で組んでいた指をほどき、そっと視線を挙げる。幕の外から差し込む黎明色が、彼の瞳の琥珀を淡く染め替えた。
「ひとつだけ、個人的な願いを聞いていただけますでしょうか?」
その響きには教会の鐘より深い真摯さがあった。わたしは頷き、衣擦れが静かに重なる。
「何でしょう?」
「次に陛下がこの盆地へ戻られるときは、“白銀の翼”という奇跡に頼らずとも、ここに踏みとどまった者たち自身の力で胸を張り、誇りをもって陛下をお迎えできるよう、わたしも全力で地固めをしておきたいのです。
ですから、その……」
言葉が帆布の中でつまずき、息が白く止まる。ヴォルフが片眉をわずかに上げ、護衛としての本能が外気を探る。わたしはその緊張を指先でやんわり拭い、微笑んでみせる。
「“また舟に共に乗る者”として迎えてくださる、と?」
月の名残光が揺れ、アウレリオの頬に潜んでいた煤の下で朱がひときわ濃くなる。実直な横顔の輪郭が、ランタンの火で金の線を帯び、わたしはそこにこの国の“舟守”の意志を見た。
「――ええ、必ずや。我が国は、もはや偶像の庇護など借りずとも、自らの足で立ち上がれるのだという事実を――この大地に、そして世界に、はっきりと証明してみせましょう」
その宣言は揺るぎなく、しかし舟板を打つ静かな潮音のように穏やかだ。
胸骨の奥で胎内の鼓動が柔らかく跳ね、二重の心音が和音を編む。紙束を抱き寄せる腕へと力を込めた――と、馬車が急に速度を落とした。
外から馭者の短い掛け声。車体が斜面を下り、砂利と水が混ざる踏音が底板をくぐる。河岸に着いたのだ。
幌が捲られる。夜気が刃のように頬を撫で、すぐに霜を帯びた川面の冷気が肺の奥まで澄んだ痛みとともに流れ込んだ。焦土の金属臭はもう遠く、代わりに水面を割る小さな氷片の、澄んだ硝子の匂いが胸を洗う。
外に降り立つと、空は雲一枚無く澄み、藍の深処で満ち欠け途上の月がしろがねの環を引く。河岸の草には粉砂糖のような霜が降り、歩みのたびに淡く星屑めいた光をこぼした。そこだけ時が研ぎ澄まされ、翼を広げるための白紙の舞台が静かに整えられている。
ヴォルフが剣帯を締め直す音が、遠い鐘の余韻のように低く澄む。灯りの届かぬ鎧板が月光を受け、冷たい鏡のごとく淡く輝く。そのままわたしの前に立ち、外套の留紐を整え、大きな手が喉元のリボンを結び終えると、そっと額に触れた。
金属の冷たさはなく、火床の名残を宿すかすかな温もりが肌に降りる。
「無理はするな」
凍れた空気を割る低音が、胸壁に素直に沁みた。
「あなたこそ」
囁き返す声は自分でも驚くほど微温で、白い吐息とともに宙へほどける。
ヴォルフは黙って頷き、指を絡めてくれた。氷点の暗がりに、二人の掌だけが薪火のような温かさを帯びる。
アウレリオが月影の中で膝を折り、胸元で指を組む。法衣の裾が霜に触れて薄い音を奏で、その音さえ祝詞のように静かだ。
「どうか、あなたの翼に風の祝福を」
祈りの言葉が夜気を震わせ、わたしは肺いっぱいに冷えた空気を抱え込む。
胸骨の内側で鼓動がひときわ強く跳ね、冷たさが熱へ転じる。
その瞬間――白銀の数式が視界の縁で淡く瞬き、世界がひと呼吸で澄明へと折り返した。
「レシュトル。
システム・ドゥ・レペ・サクレ:プレトレス・エ・シュヴァリエ(“Système de l'Épée Sacrée : Prêtresse et Chevalier”――巫女と騎士のシステム)、起動を申請」
言霊が夜気に溶けるやいなや、胸骨の奥で小さく鐘が鳴る。星屑の粒が肺の裏側へ降り、ひそやかな震動を残した。
≪――申請承認。起動フレーズ確認。拘束索、全解除。
詠唱権限をメービス・マティルデ・アデライド・フォン・オベルワルト=リューベンロートへ≫
月明かりが刃のように地表を撫で、霜を帯びた草葉が淡い音で砕ける。その冷たさごと深く吸い込み、わたしは静かに口を開いた。
「我が器に集え――精霊子よ」
意識を深い湖底へ沈める。黒い水面の中央に、逆さ星空を綴った透き玻璃の杯が浮かぶ。周囲から奔流となった精霊子が縁を越えて注ぎ込み、無数の光露が水面へ虹の同心円を描く。
満ちた杯がわずかに傾き、溢れた光が薄金の雨となってわたしの胸郭へ降りそそいだ。肌理の下で星々が弾け、とろりとした熱が血路を満たす。
脳裏を白銀の数式――魂魄そのものへ刻んだ起動シークエンスが一行ごとに駆け抜ける。視界は朝露で磨かれた水晶のように澄み、風の粒子までも輪郭を帯びはじめた。
その瞬間、わたしとヴォルフ、二つの脈拍がひとつに融け合い、魂の膜越しに“共鳴律動”が火花のように走る。細い痛みと熱が刹那に交わり、心臓の奥でさらに深い拍動を生む。
求められるのは膨大な量の精霊子ではない。ただ――
「大切なものを護りたい」という折れぬ意志と、巫女と騎士の絶対的な信頼。
それこそが、このシステムを開く唯一の鍵。
骨の髄で小爆発のように熱が弾ける。細胞のひとつひとつが星明かりを飲み込み、金と銀の燐光が皮膚の下を奔る。毛細血管が夜空の星図へ変わり、身体の輪郭が光の胎衣に包まれていく。
《精霊子収束率――臨界点突破。システム、可動域へ移行》
レシュトルの乾いた告知が耳朶の奥で澄んだ鈴のように鳴る。外からの衝撃や炎熱を完全に遮断する零重力の聖域――“完全物理保護領域”が、わたしたちを中心に半径六メートルを円に包み込み、風も匂いも外側へと押し退けた。
ひと息ごとに空気は透きとおり、ここはわたしたちのためだけに隔てられた聖域となる。
わたしは、世界に向けて静かに宣言する。
「おいで――白銀の翼」
肩甲の芯が震え、純白の光弁が花開く。光結晶が結露の粒のように宙へこぼれ、虹霧を纏うたび世界は一瞬、静謐な聖堂に姿を変えた。
同じ刹那、ヴォルフの体内を駆け上った奔流が剣帯を打ち、聖剣ガイザルグレイルへ導線のように注ぎ込む。刃が吸い上げた燐光は脈動し、護るための獣の息づかいを持った。
《情報共有プロトコル〈Z-Φ〉起動――双方向思考バス確立》
頭蓋の奥でヴォルフの声にならない声が重なり、思考と思考が澄んだ泉水で溶け合う。互いの視界と感覚が二重写しになり、世界は一層ぶれない輪郭を得た。
霜を帯びた草原がひと息で遠ざかり、凍った川面が淡い薔薇色の鏡となって割れる。
そして――夜の空気を切り裂きながら、金と銀の燐光を散らして白い翼が無音のまま拡がった。
遠い星々がその軌跡を追い、川面へ無数の光屑を落とす。翼の風圧に解けた霜が粉雪のように舞い、焦土の匂いを洗い流す新しい風が生まれる。
――行こう、リーディスへ。
焦土で汲み取った灯を胸に抱え、未来の灯を迎えに行くために。
わたしたちはただひとつの律動で呼吸し、夜明け前の空高く――王都リーディスへ向け、光の塔を描きながら飛翔した。
「神の御使い/聖女」を拒むという選択
――第七百四話の核心を読む
1. 物語的コンテクスト
旧首都ハロエズは焦土と化し、生き残った人々は〈奇跡〉を飢えるように待っている――そんな極限状況で、メービスは白銀の翼をもつ“巫女”として崇められることをあえて拒む。
ここには大きく二つの力学が交差している。
宗教的
市民は“神の徴”としての 奇跡 を望む
メービスは「舟に共に乗る者」として隣人の位置に降りる
政治的
聖女を掲げれば、民心操作も外交カードも容易になる
王国の主権者として 制度的保障(条約・補給線)を用意する
彼女は 超常のカリスマではなく、制度と連帯で希望をつくる 道を選ぶ。
2. 「聖性の拒否」が持つ三層の意味
倫理層──〈奇跡〉と依存の鎖を断つ
奇跡は救いと同時に“従属”を生む。民が祈りに酔えば、主体性は麻痺し、次の災厄で再び崩れる。
メービスは「同じ血と泥を流す人間」として隣に立ち、痛みの等価性を担保しようとする。
政治層──カリスマの私物化を防ぐ
歴史的に“聖女”はしばしば権力者の正統性を補強する碑文となり、本人は道具へ堕す。
ヴォルフが言う「祀り上げられれば、その重さを奪えない」は、偶像化→不可逆の拘束という構造批判。
彼女が求めるのは、同盟条約や補給線といった可視化できる合意であり、これは誰もが検証でき、世俗法で修正可能。
物語層──“神話”ではなく“連帯”のヒーロー像
ファンタジーでは「異能の救済者」が物語を駆動するが、本話はそれを 共同体的アクション に翻訳する。
銀翼騎士団、アウレリオ、避難民――多主体が並列で灯を繋ぐ構図が強調され、読者は“自分も舟底に膝をつく一員”として物語へ参加できる。
3. システム起動シークエンスとの対照
白銀の翼=絶対的力 を持ちながら「隠れて飛ぶ」。
スーパーヒロインの発動場面をカタルシスとして消費させず、
人目を避ける
双方向思考バスで騎士と等価リンク
――という演出で、力を神秘ではなく協調の回路へ接続し直す。
4. 『否定』がもたらす物語の緊張
崇拝を拒む行為は、短期的には民心の“即効薬”を断ち、物語に 不安定さ を残す。
しかしその不安定こそ、サニルが 他律→自律 へ移行する“産みの苦しみ”を読者に体感させる。
今後、彼女が再来した時に「もう神の翼はいらない」と胸を張るサニルの姿が描かれれば、この否定は長期的回収として大きなカタルシスを生む。
5. まとめ 人間中心神話の再定義
第704話は、「奇跡を見せるより、共に泥を掻くほうが真の救いになる」というテーマを、徹底して情景・対話・システム演出で多重化した話と言える。
神の御使い/聖女を否定することは、
依存と被支配の再生産を断ち
共同体の自立を促し
読者自身の参与感を底上げする
――物語・世界両面の長期的サステナビリティを担保する行為。
典型的な “聖女もの” には、以下のような共通のモチーフがあります
少女が「神聖な存在」「選ばれた者」として称えられる
奇跡を見せ、民の信仰を集め、アイドル化される
恋愛や成長物語が主軸だが、表面的な困難は比較的無難に乗り切ることが多い
受け皿としての「聖性」を利用されて、政治や宗教的支配構造に組み込まれやすい
これらの要素は多くの恋愛に重点を置く少女漫画やライトノベル作品で見受けられ ます。しかし、メービスは、これら典型を 徹底的に回避し、解体しようとする姿勢を持っています。
メービスはなぜ “王道を避ける聖女”なのか?
1. 利用される聖性への拒絶
アウレリオ枢機卿の「聖女ではなく、人として敬意を示したい」という言葉には、聖なる称号がしばしば 「利害のために道具化される」 という認識があります。これは典型的な「聖女もの」が陥りがちな構造へのアンチテーゼでもあり、深い覚悟としての拒絶です。
2. 当人の過去と人格による自制
メービスは前世で「人身御供として」囚われ、苦痛と失敗を経験しました。その痛みをよく知った人物だからこそ、軽々しく「聖女」という役割を受け入れられない——これは物語のリアリズムとキャラクターの強さを演出しています。
3. 真の奉仕=共に船に乗る姿勢
「舟に共に乗る者」という比喩的表現には、対等な隣人としての覚悟が込められています。神聖性・祭礼性ではなく、泥と汗を共有する存在として民に寄り添う姿勢こそが、彼女にとっての「聖性」の在り方なのです。
典型作品では、聖女の称号自体が「王道」「ハッピーエンド」の象徴となりやすいですが、メービスはその枠を自ら外し、 聖性ではなく人格で立ち続ける道 を選びます。
作家的視点から なぜこの「避ける型」が魅力的か
「聖女」よりも「ただの人」であり続けようとする姿勢は、現代的な自己肯定感や自立感と重なり、読者に身近に感じられます。
神格化されないことで物語が深くなる
偶像として消費されるのではなく、人として愛し、責任を負う姿は描写の奥行きを深め、物語に厚みを与えます。
「利用される恐怖」と「自立」の対比構造
特に前世からの因縁を持つキャラクターの場合、「利用される怖さ」「再度祭壇に上げられる恐れ」を乗り越えるストーリーは、精神性と成熟を描く強い主題になります。
結論
単に「聖女」だから尊いのではなく——その生き方、自覚、怒り、愛、恐怖、そして人への寄り添いによって初めて「尊い」と思わせるキャラメイクです。
典型的な聖女ものが表面的な塔に命を預ける構造であるならば、メービスは塔を自ら解体し、新たな灯を掲げようとしています。それはまさに「欲しいものすべて」を、本当に自分自身の手で掴み取ろうとする、強くて切実な意思の物語だと感じます。




