黎明の傘と、逆観の楔
暁はまだ浅い。山稜の背は墨色のまま細く震え、薄金の光がゆっくりと稜線を撫で下りる。一筋の光が土を這えば、霜を纏った草葉は銀の細線をほどき、かすかな雫を抱いて身じろぎを始める。凍りついた世界が、指先でそっと弦を弾かれたように、静かに調子を取り戻してゆく朝だ。
わたしは鞍の上、ヴォルフの背へ身を預けていた。馬の呼吸が革越しに伝わり、その獣の鼓動に合わせて、彼の広い背中がごく僅かに上下する。硬い鎧越しの揺らぎは、触れたか触れないかの微振幅。それでも、わたしの胸に潜む不揃いな拍動を、ひとつ、またひとつと優しくなぞり直してくれるようだった。
淡紅の靄が斜面のあいだから立ちのぼる。左手の彼方には、雲海より低く沈むハロエズ盆地。風のひと撫でさえ許さぬ湖面のように静まり返りながら、その深みに宿るのは、まだ名前も数も知れぬ命のざわめき。耳を澄ませば届きそうで、しかし遠い。たったひと呼吸分の距離が、永遠に感じられる静寂だ。
甘い追憶は長くは留まらない。盆地の底から滑り上がる気流が、焦げた鉄と魔素の濃い香を運び、胸の奥の綿雲をいとも容易く引き裂く。わたしはまぶたを上げた。遠い低空に、結晶雲が紫銀の刀身を横たえるのが見える。
ここから先は記憶ではなく、決意の領域だ。彼の背に温もりを借りながらも、わたしは朝の鋭い空気を肺いっぱいに吸い込み、かすかな痛みを胸に刻む。凍える風がヴォルフの銀髪をすくい、まだ冷たい陽を反射させた。その光は焔ではない。けれど、わたしが進むべき道を、真東より確かに示している。
視界の左端で蒼い火花が瞬き、小さな数列が芽吹く。
《NAVIGATION HUD》
▼侵入推奨点まで残り 250 m
《SENSOR LOG》
▼地形スキャン完了
▼風向 南南東・微風
▼魔素濃度 0.68 au
レシュトルは声を出さない。ただ淡いルートラインが脈を打ち、峠の稜線をなぞる。迷わないで、と言外に告げる静けさ。
「……見えたわ」
わたしの囁きに、吐息ほどの気配でヴォルフが頷く。手綱がかすかに鳴り、軍馬が滑るように斜面を下りはじめた。霜粒を弾く蹄音だけが、冷たい空気を細く切り分けてゆく。
ほどなく、灰色の道標の岩が視界に立ち上がり、その横に淡いホログラムの灯が点滅した。
《WAYPOINT HUD》
▼IVG 加速圏・安定展開地点
▼ここが境界線
朝の薄金が岩肌を撫で、光の柱灯を淡く透かす。
「ここで下りましょう」
わたしが囁くと、ヴォルフは即座に手綱を絞り、軍馬が静かに歩みを止めた。鞍から身をそっと滑らせる。霜を噛む足裏に、ひやりとした土の硬さが伝わった。
馬は耳を鋭く動かし、盆地の方角へ落ち着かぬ鼻息を漏らす。彼も感じているのだ。遠い闇で渦巻く魔素と、その向こうで燃える戦火を。首筋のたてがみを撫でると、掌に宿る体温は驚くほど熱い。いましがたまで共に走った命が、まだ全力で脈打っている。
「ここまでご苦労さま……本当にありがとう」
わたしが低く声を落とすと、ヴォルフが手綱を解き、やさしく尻を叩いた。馬は一度だけ振り返り、わたしたちを確かめるように小さくいななき、そして霜の稜線へ向かって駆けてゆく。朝の光はその背に薄金を降らせ、雪煙を柔らかな羽毛のように舞い上がらせた。
朝の光の中に小さな影が融けてゆく。ただの乗り物ではない。危うい夜をともに越えてくれた仲間だ。その背中が見えなくなる頃、胸の奥で小さく火が灯った。
◇◇◇
馬の気配が遠ざかるのを確かめてから、ヴォルフが立ち位置を少しだけ変えた。朝霧が切れ、結晶雲の輪郭が上空に浮かび上がる。うっすらと白銀に染まりはじめたその縁は、どこか冷たい刀身のようにも見えた。
「……では、改めて。レシュトル、作戦の確認をしたい。ヴォルフと接続できる?」
硬質な問いかけに、ヴォルフは一度だけ白い息を吐き、頷いた。
《精霊子量既定値到達を確認。承認。ヴォルフ・レッテンビヒラーとのリンクを確立します》
「では概要を、手早く説明して」
《了解。作戦概要を共有します。現在、情報共有プロトコル〈Z-Φ〉は正常に稼働。操者メービスと補助端末ヴォルフ間の双方向思考バス、接続を維持。シンクレートは98.44パーセント。臨界安定域を維持しています》
蒼いスパークが走り、視界が一瞬で数字の奔流に満たされた。レシュトルの冷ややかなアルゴリズムが、峠の朝を切り裂くように走査結果を描き出す。
《SIMULATION-LOG》
▼Plan C〈逆観の楔〉—120 s シミュレーション
▼実体質量 130 kg
▼実効慣性質量 mₑff 10.4 kg
▼目標速度 1 020 m s⁻¹
▼必要運動エネルギー 5.4 MJ
▼量子ストア許容量 6.0 MJ
▼水チャージ単位 0.50 kg/shot
▼Δt 0.00 s/HUD 0 %/フィールド展開 Ø6 m
▼Δt 0.05 s/HUD 16 %/圧縮水 0.5 kg(1st)
▼Δt 0.21 s/HUD 32 %/圧縮水 0.5 kg(2nd)
▼Δt 0.37 s/HUD 48 %/圧縮水 0.5 kg(3rd)
▼Δt 0.53 s/HUD 64 %/圧縮水 0.5 kg(4th)
▼Δt 0.70 s/HUD 80 %/蒸爆核点火
▼Δt 0.80–1.45 s/HUD 100→88 %/推力 7 kN 前方射出
▼Δt 1.45 s/HUD —/Mach 3 到達
▼Δt 1.45–80 s/HUD 88→70 %/巡航(105 km進行)
▼Δt 80.00 s/HUD 70 %/減速水 0.5 kg 集液
▼Δt 80.16 s/HUD 86 %/逆推力 −7 kN
▼Δt 80.76 s/HUD —/速度 0 雲“窓”前静止
▼Δt 81–110 s/HUD 86→74 %/Z-Φ切替/楔射出
▼Δt 110–118 s/HUD 74→60 %/安全チェック
▼Δt 118 s/HUD 60 %/離脱推力 −4 kN
▼Δt 118.4 s/HUD 52 %/速度 −350 m s⁻¹
▼Δt 120.0 s/HUD 47 %/地表 40 m上 零速着地
▼残ストア 47 %/残酸素 4 L/飽和余裕 100 s
数字の弾幕が視界を叩きつけ、こめかみの奥で血管が一度だけ強く脈打つ。
「えっ……?」
蒼い数字の奔流は、槍の雨のように視界へ突き刺さり、呼吸さえ刹那でさらっていく。あまりの情報量に、思考が空転した。日頃慣れているわたしでさえ、こめかみの奥が痺れるようだ。ましてヴォルフは、と見れば、鋼の眉がわずかに震え、唇が言葉を探したまま凍りついている。
間髪を容れず、レシュトルの声が空間を満たした。氷片のように冷たいのに、刃の精度で言葉を刻む。
《第一フェーズ:IVGモード1起動。半径六メートルの絶対防御球殻を展開。これにより、内外の物理法則は完全に断絶されます。続いて、フィールド外空間に白・青・赤、三つの場裏領域を並行展開。それぞれを高圧空気、純水球、超高温真空として構成し、斥力限界――中心間隔〇・五ミリ――まで接近させます。メービス様の精神コマンド〈スレイブ・リンク〉によるガイザルグレイルとの副室連結後、三領域の境界膜を一斉解除。これにより、爆縮的膨張で約五・四メガジュールのエネルギーを生成、全量を量子ストアへ吸収・格納します。第二フェーズ:取得エネルギーを慣性ベクトルとして前方へ〇・六秒間放出。無振動・無音のまま、およそ十数秒で速度はマッハ3へ到達。目標座標到達後、逆手順で零速へ移行。雲芯にガイザルグレイルを楔として射出し、観測逆侵入パケットを注入。敵性知性の演算核を撹乱します。……この時点での演算モデルでは、これが最適解です。以上、簡潔な説明です……》
矢継ぎ早に、しかもどこまでも冷静に吐き出される緻密すぎる手順。数字と単語の嵐が収まった途端、ヴォルフはこめかみに指を押し当て、重苦しい唸りを喉奥で潰した。
「……す、すまんが、俺には何を言ってるのかさっぱりわからん」
「わ、わたしだって、頭がくらくらするわよ。こんなの、まさに情報の暴力以外のなにものでもないわ」
剣帯に下げたマウザーグレイルに指先で触れ、わたしは溜息を混ぜてたしなめた。
「レシュトル。たしかに“手早く”とは言ったけど、これはちょっと詰め込みすぎじゃないの?」
《簡潔に、作戦タイムテーブルと概略を提示いたしました。詳細を解説すれば、現在表示の十倍の情報量になります》
――これだからAIって……。
苦笑まじりの呟きを飲み込み、わたしはヴォルフの戸惑いを正面から受け止める。彼の眉間には深い皺が刻まれ、冷たい朝霧の中でも、その困惑が白い息のように滲んでいた。
「ごめんなさい、ヴォルフ。今のじゃ意味不明よね。わたしなりの言葉でまとめるわ。時間がもったいないから、できるだけ手短にね」
銀の瞳がわずかに細まり、不器用な決意がその奥でゆらりと灯る。
「うむ、俺でも飲み込めるように、頼む……」
深く頷く彼を視界の端に収め、わたしは空気を薄く切るように右手を持ち上げる。光に触れる前に影が生まれる、その刹那の静けさを破らぬよう、息をひとつ整えた。
「――任せて。レシュトル、わたしが脳内で描いたイメージを、ヴォルフに投影できるかしら?」
《可能です。視覚優位・触覚補助のシナプス投影で共有します》
即答する声はどこまでも澄み、同時に視界の隅へ光膜が芽吹く。湖面へ油彩を一滴垂らしたときの、虹色の波紋。それが空中でふわりと揺らぎ、やがて一枚の静止画へ収束した。透明な絵の中に、IVGフィールドの球殻と三色の小球が浮かび、蒸気の薔薇が静かに咲く。
ヴォルフの虹彩にも、同じ像が淡く映り込む。蒼の瞳がわずかに見開かれ、光の絵を飲み込むたび、剣士としての理解がひとつずつ灯っていくのがわかる。朝日より淡い光が二人の間に滲み、峠を撫でる風さえ、次の呼吸を待つかのように静まった。
◇◇◇
■〈傘――IVGフィールド――完全物理保護領域〉の図
白い霧の中に、直径六メートルほどの透明な球殻が浮かぶ。内側では、わたしとヴォルフが肩を寄せて立ち、外側から降り注ぐ矢・炎・落雷のイメージすべてが、外郭球面で虹色の干渉縞を残してかき消すように消失する。一点も内部へ届くことはない。
「これがIVGフィールド。三〇〇秒制限の最強の“傘”であり、わたしたちを守る絶対防御の障壁よ。この中にいるかぎり、何人たりとも、いいえ衝撃も熱も音すらも入り込めない」
わたしの声に合わせ、球殻の表面が淡く脈動し、守護の象徴として瞬いた。
■〈火薬――蒸爆インパルス〉の図
画面が切り替わり、傘の外に三つの小球が浮かぶ。白は高圧空気で淡く銀光を帯び、青は蒼い水滴が星を孕み、赤は真空の輝きが微細な火花を散らす。それぞれの表面に半透明の薄膜が張り、糸のように細い斥力線が結び付けている。
「あなたもよく知ってる、わたしの精霊魔術の領域――場裏よ。今回は白・青・赤、三つの場裏を別々に展開して、寄り添わせて使うことになるわ。この三つを、点火薬だと思って。同時に殻を壊すとそれぞれの現象が触れ合って、一点で急激な反応――すなわち爆発が起きる。だけど爆風は全部、傘が飲み込むの」
言葉と同時に、三色が弾ける。白熱光が刹那で収束し、爆風の輪は球殻へ吸われて真空の静寂に変わった。
■〈瓶〉と〈矢印〉――エネルギー・ストアとイナーシャ・ベクトル・コントロールの図
続く絵には透明な瓶。琥珀色の液体のように凝縮エネルギーが満たされ、瓶口は前方だけ開いている。そこから伸びる光の矢は、夜明けの空を裂く流星の軌跡。瓶全体が脈打ち、力が一点へ注がれる様が視覚化される。
「吸い取った力は瓶に貯める。瓶の栓を“前だけ”開ければ、力はそこへ流れて、傘ごとわたしたちを押す」
ヴォルフが空中の絵を睨み、眉間の皺を深くする。
「ちょっと待て。普通に考えれば、前へ力を吐き出したら、俺たちは反動で後ろへ吹き飛ぶんじゃないのか?」
もっともな疑問だ。わたしは小さく首を振り、彼に伝わる喩えを探して、かつて湖で見た“綱引きの舟”を思い出した。
「いい質問ね。でも、イメージとしては“ロープで舟を手繰る”方が近いかしら。ほら、岸辺に掛けたロープを手繰れば、舟は岸へ寄るわよね? 瓶に栓をして溜めた力は、その“ロープ”みたいなものよ」
わたしは彼を見上げ、両手で見えない綱を引く仕草をした。
「栓を前だけ開く。つまり、前方にロープを投げてすぐ巻き取ると、ロープは向こうへ伸びるけれど、巻き取る力でわたしたちが前へ引き寄せられる。外から見れば“前へ噴射”しているのに、中にいるわたしたちは“前から手繰られて進む”感覚だけが残るの」
「うーむ……なるほど。力は前へ伸びて、傘ごと俺たちを引っ張る。だから後ろへは行かないと」
「そういうこと。ロープの材質が“爆縮エネルギー”に置き換わっただけね。岸へ寄せる舟みたいに、滑るだけ。障壁で世界から完全に隔絶されたわたしたちには、加速する時に生じる力は何も感じられないわ。外側だけが音より速く滑るの」
ヴォルフは一拍考え、口角をわずかに上げた。その表情に、強張っていた筋肉がほどける気配があった。
「なんとなく理解できた。面白いじゃないか」
満足げな声を聞いて、わたしも白銀の翼をひとひら震わせる。次いで矢印が瞬き、球殻が滑るように前進した。外気は白く引きちぎられ、無音の衝撃波が花弁のように開く。
■〈杭〉――観測逆侵入パケットの図
最後の絵。濃紫の雲海にぽっかり開く闇の眼。そこへ白き聖剣──ガイザルグレイル──が真っ直ぐ撃ち込まれる。剣先から白い稲妻が奔り、闇の縁に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。その背後で、砂時計のタイマーが倒れ、零のまま狂おしく振動していた。
「雲の芯で急停止して、あなたのガイザルグレイルを杭みたいに刺す。剣から“毒”を流し込んで、向こうの導火線を壊す。それが〈逆観の楔〉よ。これは、もう説明してたわね」
光膜はふわりと花びらのように解け、朝霧を透かす淡金のひかりへ溶け込んだ。ヴォルフは重い鎧を抱いたまま一歩踏み締め、胸奥に落ちた石の重みを確かめるように拳を握る。霜を裂く微風が谷を渡り、その一度きりの囁きが、二人のあいだに「理解」という静けさを置いていった。
「傘を差して突っ走り、雲の中心で杭を打つか……。今度は腹に落ちた」
低く絞られた声には、鋼を鈍く研ぎ澄ましたような確信が宿る。わたしは肩の力を解き、唇に柔らかな弧を描いた。
「それさえ分かれば充分。あとは“折れない杭”を任せるわ。あなたの仕事は、一本、真っすぐ突き立てるのみ。……頼むわね、わたしの騎士さま」
「おう。任せろ」
ヴォルフの口端がわずかに上がり、凍える空気がひと呼吸だけ和らぐ。薄桃の暁光が鎧の稜を撫で、その鋭さを穏やかな刃へと変えていく。
「では、傘の舵はお前に託す。俺はその刹那に、すべてを注ぎ込もう」
「ええ。わたしを信じて。わたしも、あなたを信じる」
《リンク端末間の理解度、九九.八パーセントで収束》
レシュトルの無機質な報告が淡く落ち、数字の余韻だけが透きとおる。
雲の外縁は靄がほどけ、桃色の縁取りを帯びはじめた。五分間の賭けに挑むには、これ以上ないほど澄んだ朝だ。息を吸い込むだけで、霜の匂いと希望の温度が同時に胸を満たす。
あと少し。傘を開き、杭を打ち、必ず生きて帰る。その約束が、黎明よりも確かな光となって、ふたりの胸で静かに揺れていた。
レシュトルの声が薄い膜となって視界に降りる。
《STATUS HUD》
▼周辺気象・魔素濃度ともに安定
▼予定どおり進行可能
▼補足:理論上、加速度体感はゼロ
▼ただし誤差範囲で〈耳圧変動・内臓揺り戻し〉が数秒間発生する見込み
▼生理的負荷は軽微
脳裏に描かれたその一瞬の違和感を、わたしは胸の奥で受け止めて息を整えた。
「なら――いいわ」
わたしはそっと頷いた。




