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だいすきが世界線を縫う

 その声は、霜の薄膜をそっと指先でなぞるように――あまりにも優しく、それでいて気高く響いた。

 思わず胸の奥で灯った確信が舌先を熱くし、声がこぼれた。


「……あなたは、デルワーズなの?」


 名前を紡いだ瞬間、胸腔が焼けるように痛んだ。

 けれどそれは呪いの灼熱ではなく、祈りに似た微かな疼き。

 最期の岸辺で掴んだ一本の細糸――ほとんど途切れかけた希望が、確かにわたしの魂を撫でた。


 そのとき。

 手のひらに抱いた白銀のマウザーグレイルが、かすかに息づく。

 純白の刀身が淡く透きとおり、その光の水面から、一粒の星雫が零れ出るように、ひとつの球体が浮かび上がった。


 乳白色に煙る、掌ほどの小さな光球。

 その周囲には深海にも似た静謐が漂い、幾億の歳月を越えてきた者だけがまとう重さを宿していた。

 舞い落ちる霜の粒がふわりと触れれば、柔らかな虹を孕んで踊り、わずかな振動が澄んだ鈴音のように胸の奥まで届く。


 わたしは息を止め、ただ見つめた。耳の奥の血管で、脈だけが潮騒のように続く。星雫にも似た輝きは、その呼吸に合わせるように静かに明滅し、まるで「大丈夫」と囁いているかのようだった。


 球体はそっと身じろぎし、宙に舞う霜を小さな指先ではじくように払って、柔らかな弧を描いた。

 乳白の表皮の下では微かな渦が静かに巡り、その極みには心臓の鼓動に似た光――ひと拍ごと、穏やかな波紋を灯している。


《《その問いに答えるなら……わたしはデルワーズそのものではないわ》》


 耳朶は静かなまま。けれど声は、泉の底から湧き上がる水音のように、直接思考へ沁みわたった。

 先ほどの《《やっと見つけた――》》と同じ温度、同じ響き。なのに震えの奥には、わずかな照れと安堵が重なっている。


 その否定を受け取った途端、強張っていた喉がふいにほどけ、ひとつ息が零れた。

 機械仕掛けのレシュトルとは異なる、人の体温を帯びた言葉。懐かしさと、どこか初めて聞く響きが同居し、遠い昔の友の名残を思わせる……けれど茉凛ではない、と直感が告げている。


《《詳しい話は後で。まずは、この場を生き延びましょう――あなたの魂も、メービスという器も……そして、そのお腹で芽吹いている小さな命も》》


 胸の奥で“命”という音が波打った瞬間、わたしの両腕が無意識に腹を抱きしめた。

 薄氷に触れた指先が、かすかに温もりを宿す。

 どうしてこの存在が、わたしの内側の光を知っているのだろう――そんな戸惑いと、守られているという不思議な安心が、胸の内でそっと重なった。


「……わかるの?」


 胸の奥から洩れた声は、祈りと呼ぶにはあまりにかすかだった。けれど、わたしの全存在が求めた問いはそれしかなく、空気を震わせるよりも先に、心の深層でひそやかに響いた。

 頭上では〈黒紫の窓〉が再び脈動し、焦げ匂う風は瞬く間に晩秋の気配を帯びる。霜を含んだ気圧が乱れ、肌を刺すような冷気が肩口を攫っていった――それでも、声は揺れなかった。


《《わかるわよ。精霊子の共振が教えてくれるもの――あなたの命も、あなたの中で芽吹く小さな命の輪郭も。ねえ、あなた自身だって、もう感じているんでしょう?》》


 星雫の答えは、静かな湖底から立ち上る霧のように、やさしくも抗いがたい密度で胸へ沈む。次の瞬間、胸腔の裏側で、ふっと微かな衝撃――幻の拍動が跳ねた。


 鼓動? いえ、十三週の胎芽が母を蹴るには早すぎる。それでも確かに“ここにいる”と知らせる掌ほどの気配。焦土のただなかで、いちばん守りたいものがわたしの内から灯り、そのひと跳ねで世界の色合いをそっと塗り替えた。


「やっぱり、わたしという器に集まった精霊子が、繋げてくれていたのね……」


 目の奥が熱を帯びる。泣くまいと決めても、安堵は雫のように胸を潤し、呼吸に淡く震えを落とす。――嗚呼、本当に、生きている。風が冷たくても、灰の匂いが荒んでいても、この小さな確かさがあれば大丈夫。


 わたしは剣を握る手をそっと緩め、唇の端にわずかな笑みを灯した。霜解けの匂いと焼き土の残り香が交わる空気の下で、その小さな生命のきざしを、胸奥で抱きしめるように、静かに――しかし揺るぎなく――受け止めた。


 ――束の間の静けさを、鋭い闇が噛み砕いた。

 黒紫の“窓”がふたたび裂け、落葉色の空気をすすりあげるように無音の衝撃を放つ。

 朽葉を焦がした煤と、ひややかな霜柱の残り香がせめぎ合いながら渦を巻き、昼下がりの陽射しは、黄昏の気配をひとかけら早く忍ばせていた。


 結晶雲の芯で膨張する魔素圧が、薄刃よりも鋭い冷たさで頬をかすめ、胸の奥へ爪を立てる。

 風はほとんどないのに、わたしの髪がばさりと跳ね、枯葉が擦れるかすかな音を連れてきた。

 大地が息を潜め、澄んだ蒼穹そうきゅうが低く軋む――世界そのものが拒絶の悲鳴をこらえている。


《《マウザーグレイルを抜いて。……急いで》》


 光球の声は相変わらず静か。それなのに刹那を断ち切るほどの切迫が潜んでいる。

 わたしは短く息を継ぎ、さやに指を添えた。

 白霜をまとったような剣――マウザーグレイル。

 冷えきったつばが掌に吸いつき、心臓の鼓動が刀身へ伝わってはね返る。まるで剣そのものが、わたしの代わりに脈打っているかのようだ。


 深呼吸ひとつ。

 陽光が、遠い雲間で琥珀色を帯びはじめる。

 世界のざわめきが、薄氷うすらいを踏む音のように足許へ降りてきたその刹那――


 わたしは、ゆっくりと刃を抜いた。

 石英の銀光が、朽葉色の空を静かに裂いた。


 ――その瞬間、視界の端で薄氷のようなホログラムがぱたりと開いた。

 淡蒼の符号が花びらのように散り、レシュトルの無機質な声が内側へ染み込む。


≪SYSTEM: IVG FIELD RE-EXPANSION IN PROGRESS≫


 脳裏に走る報告が、淡蒼のインターフェースとして視界の端に重なった。


≪ENERGY LOGIC LAYER: UNLIMITED VECTOR INPUT DETECTED≫

≪MODE: IVG FIELD / RANGE: 0.06m≫

≪FIELD SYNC COMPLETE: 100%≫


「えっ!?」


 ありえないことが起きた。

 とうに限界を迎えたはずのIVGフィールドが、再起動したのだ。

 否。再起動、という言葉では足りない。


 剣の輪郭そのものに沿って、精密かつ極限まで収束された光膜が生まれていた。

 まるで刃だけが、静かな真空に切り離されているようだった。

 膜の内外で光が屈折し、音が吸収され、熱までもが分離されていく。

 視界は水面の向こう側のように歪み、周囲の空気が“沈む”のを、はっきりと肌で感じた。


「くっ、まぶしい……!」


 背後でヴォルフが低く呻き、即座に強い指がわたしの肩を捉えた。

 鎧の籠手越しでも感じ取れる、火照りを帯びた温度――彼の生身の熱だ。

 惑う暇もなく、その大きな背が風除けのようにわたしを包み込み、夜のガラスに差す灯影のように黒紫の光を跳ね返す。


 淡色の陽を映す彼の瞳が、驚きと決意の煌めきを同時に孕んでいる。

 かつては「守るべき王」と「護る騎士」という距離で交わった視線。

 けれど今は違う。

 わたしをひとりの“並び立つ者”として見つめるその光が、胸の奥をやさしく震わせる。


 剣の周囲では光膜がすっかり定着し、銀糸のように細い境界線が刃をなぞっている。

 触れれば指先ごと向こう側へ沈むのでは――そう錯覚するほどの完璧な収束。

 波打つ魔素も熱も音も、そこだけを避けて流れ去り、わたしの鼓動さえ一瞬届かない。剣の内部でだけ、時間が密やかに息を潜めているようだった。


 ――こんな精密さを、わたしは知らない。


 これこそが IVGシステム・モード2、そして星雫の光球が引き出した力。

 思わず喉奥で小さく息を呑む。

 同時に、刃の内で脈を打つ淡い鼓動が、わたしの掌を透かして伝わり、胸の胎動とやわらかく重なった。


《《じゃあ、行ってくるわ。すぐ戻るから》》


 刃の奥でささやく声は、もはや胸の内側ではなく、掌に抱いたマウザーグレイルの震えとともに届いた。

 わたしは小さく瞬きを落とし、唇だけで「ええ」と応じる。


 柄を離れる瞬間――指先に残る感触は、恐怖ではなく静かな温度だった。


――行ってらっしゃい。


 その一念が、白い吐息のように刹那、空へ溶ける。


 白銀の軌跡が跳ね、風より速く地を離れた。

 重力の鎖を断ち切る一閃は、冬陽の欠片を散らすように淡く煌めき、大地と天空のあいだに細い橋をかける。

 

 次の瞬間、世界から音がこぼれ落ちた。


 残響よりも早く光が走り、紫水晶を割る矢のように剣は天蓋の裂け目へ真っすぐ吸い込まれてゆく。

 残存するはずのないエネルギーが、いまは星雫の歌を糧にしているのだろうか。

 刃は迷いひとつなく――むしろ凛とした意志をまとって――この世界の運命線を縫う針となった。


 背後でヴォルフが息を呑む気配。

 遅れて届く衝撃波が外套をはためかせ、胸骨の奥をそっと揺らす。

 羽ばたきのない飛翔音が、夜明け前の鐘のように遥か高みから返り、わたしの耳朶で静かに割れた。


 風のない空に、ひとすじの白が解けていく。

 祈りと信頼を託したその軌跡が、寒空の紫を縫い合わせ、やがて見えなくなる。


 大丈夫。

 わたしの心臓は、刃の脈動を覚えている。

 だから怖くない。

 帰ってくると信じられる。


 深く息を吸った。凍った空気に混ざる煤と薄氷の融ける匂いが胸を満たし、鼓動を落ち着かせてくれる。

 指先にはまだ、剣の温度が残っている。

 そのぬくもりを頼りに――わたしは、ほんのひと時、空の裂け目が静まるのを待った。


 空を貫く光は、まるで光そのものになったかのようだった。

 星屑さえ瞬きの間に置き去りにする、純粋な意志の奔流。紫の裂け目までの距離が、瞬時に零になる。刃先が境界膜に触れた、その一瞬が永遠のように引き伸ばされた。


≪SYSTEM: VECTOR PROPULSION COMPLETE≫

≪MODE: Brane Tap/Plank Pinch≫

≪ENERGY SOURCE: EXTERNAL DIMENSIONAL RESIDUE≫

≪SOURCE CONFIRM: FROM SIGMA-16 / NEXT LEVEL≫

≪STORAGE LOGIC: NO LIMIT — IVG GENERATOR OVERRIDE ACTIVE≫


 視界が万華鏡のようにきらめき、時間が凍る。

 遠雷めいた低い脈動が大気を撫で、髪の先を震わせた。

 光は音を追い越し、紫の窓へと真直ぐに――まるで帰るべき場所を思い出したかのように――吸い込まれてゆく。


 遠近は曖昧になり、時間は輪郭を失くし、わたしの鼓動だけがはっきりと数を刻んだ。

 刃が“向こう側”へ届いた瞬間、淡蒼のシステム・ボイスが花弁のようにひらく。


《モード2 プランクピンチ起動》

《構成要素展開中:臨界光子収束/空間歪曲バブル収束/パラメトリック制御起動》

《空間剪断プロセス進行中:収束点座標 Δ = 0》

《撃突角調整完了:ブレーン間エネルギー遮断レイヤー生成》

《現実座標側:全次元振幅 安定域へ収束》


 ――世界が、静かに折りたたまれる感覚。

 紫の窓は内側から細い皺を生み、湖面に広がる波紋のように、静謐な“消滅”を外周へ伝えていく。

 稲光ではない。凌ぎあう刃鳴りでもない。

 ただ、重ねたレースを解くように、境界の布がほどけ、光と闇が静かに霧消する。


 亀裂を縁取っていた紫光は糸になり、糸は霧散し、霧は粒子へ変わる。

 あれほど支配的だった空間の瘤は、ひとつの息さえ立てずに崩れ、零れ落ちる光塵へと消尽した。


 中央に残った黒孔が、まるでゼンマイを巻き戻すように、ゆっくり逆回転を始める。

 時が自らの足跡を辿り、過去に溶け込んでいく――そう錯覚するほど、穏やかで、残酷な美しさだった。


≪ANOMALY DISSIPATED≫

≪STABILIZATION CONFIRMED≫

≪VOID PRESSURE: SAFE MARGIN CONFIRMED≫


 ――その瞬間、紫の“窓”は跡形もなく拭われた。

 あの不吉な裂け目は、もともと雲間に宿らなかったかのように、ひとひらの影さえ残さない。


 凍りついていた空気が、ふう、と浅く揺れる。

 ひやりとした風が頬を撫で、焼け残った灰の匂いの底に、湿った土の息吹きがそっと滲み込んでくる。

 焦土が、長い溜息を吐きながら――まるで冬眠から目覚める獣のように――ゆっくりと呼吸を取り戻していた。


「……嘘だろ。穴が消えた……」


 ヴォルフの声は掠れ、砂を嚙むような震えが混じる。

 けれど刹那、その声色の奥に潜む安堵が、わたしの胸までほのかに温めた。


 蒼い眼差しは空を映し、驚きと安堵と、まだ手探りのままの困惑が薄氷の上で揺れている。

 その揺らぎが、かえって彼を人間らしく見せ、わたしは思わずまぶたの裏で微笑んだ。


「あったはずの境界が……無くなった。――いいえ、存在自体が『なかった』ことにされたのね」


 自分の声がひどく細く聞こえた。

 胸の真ん中が、とくん、と小さな動悸を続けている。

 さきほどまで世界を喰らおうとしていた虚無が、いまは湖面の静けさより静かに消えていった――その不気味な清らかさが、かえって背筋を粟立たせる。


 “無”という概念が、これほどまで美しく、そして恐ろしいものだとは思わなかった。

 わずかな風が、焼けた草の灰をさらい、一拍遅れて枝を揺らす、細い木霊が響く。

 遠くで折れた樹が重みをほどいて倒れる音がした。

 瓦礫の下に潜んでいた小鳥が一羽、恐る恐る翼を震わせ、薄曇りの空へ溶けた。


 ――静寂はまだ痛む。けれど息づく世界は確かに戻ってきた。


 ふ、と視界の隅に淡蒼のホログラムが咲く。

 凪いだ大気をひっそり裂くように、レシュトルの素っ気ない文字列が重なった。


≪ANOMALY STATUS: COMPLETE DISSIPATION≫

≪METRIC SHEAR: ZERO-POINT RESET ✔≫

≪VOID PRESSURE: SAFE (0.04 Pa)≫

≪RESIDUAL Σ-FIELD: 1.3% — PASSIVE DECAY MODE≫

≪RECOMMEND: Begin survivor-search protocol≫


 乾いた夜鶯の囀りのような電子音が一度だけ鳴り、文字は水に溶ける霧のように淡くほどけて消える。

 残されたのは「安全圏へ移行済み」という無機質な太鼓判と、そのあとに小さく添えられた“生存者捜索を急げ”という指示だけ。


――危機は過ぎた。けれど、終わりではない。


 胸の奥でまだ震える鼓動にそっと手を当て、わたしは深く息を吸った。

 焦げた土の匂いの向こうに、湿った苔と霜解け水の匂いがかすかに薫る。

 生き残った世界が、微かな息吹でわたしたちを呼んでいた。


 そっと風に背を押され、白銀の剣が羽毛のように宙を滑り降りてきた。

 指先を伸ばすと、刃は迷いなくわたしの掌に落ち着き、朝露ほどの重みで身を預ける。


 縁にはもう怒りも痛みも宿らない。

 冷たさでも熱さでもなく、まだ名付けようのない温度――産声をあげたばかりの子が放つ、ほのかな体温に似ている。


 胸の前でそっと抱き締めれば、刀身の奥から微かな脈動が伝わり、わたしの鼓動と重なった。

 いま世界に戻ってきたばかりの命が、刃の中で静かに息づいている。

 それがたったひとつの、そして十分な証だった。


「……ほんとうに、ありがとう。あなたのおかげで生き延びられたわ。――どんな言葉を贈れば足りるのかしら」


 囁くと、剣の表面に淡い光が滲む。

 いいえ、光ではなく、あの星雫のような球体が刀身からそっと染み出してくる。

 色を持たない霧が吐息のように揺れ、柔らかな金の粒子が刃の周囲で瞬いた。


《《どういたしまして。間に合ってよかったわ。

 ……そもそも未来とは不確定で揺らぐものなの。そして、そこへ飛び込んだ時点で初めて観測と確定がなされる。

 しかも今回は、想定外の事象が幾つも絡み合ったでしょう? 正確な座標を掴むのはとても難しかった。

 だからこそ、事が起きるより前に手を打ちたかったの。観察と転移のあいだには、どうしても時間の誤差が生まれるから》》


 囁きは、さきほどよりもなお柔らかい。

 けれど奥に秘められた熱は、ほの灯のように確かだった。


 ――長い旅路の果て、目的地に辿り着いた旅人が、最後のひと呼吸で別れを告げる――

 そんな静かな高揚と、安堵の響きを帯びて。


 胸の奥に小さな温度が灯る。

 すべてを理解できなくても、ここに注がれた優しさだけは、指の先まではっきり伝わる。


「……さすがに頭では追いつかないわ。でも、そこまでして来てくれたのね」


 それは問いではなく感謝。

 そして同じ“命を抱く者”としての、静かな敬意。


 光球がくるりと回り、淡い光をひと撫で散らす。

 その仕草には、すこし照れたような、けれど誇らしさを隠しきれない揺らぎがあった。


《《正直、賭けに近かったのは否定できないわね》》


 わたしは思わず唇をほころばせる。

 綿密な計画よりも、祈りの衝動が導いた巡り逢い――そう知るだけで、胸の内側がほのかに温まった。


「何にせよ助かったわ。でも……あなたは、いったい、誰なの?」


 そっと尋ねると、光球は剣の鍔から離れ、羽虫のようにふわりと浮上した。オパールを磨り硝子越しにのぞくような淡い輝き――さきほどより色が薄く、どこか消え入りそうに儚い。 


《《残念だけれど、これといった名は持っていないの。わたしに与えられているのは、限定された任務と、その遂行に必要な最小限の情報、そして――グランドマスター権限。それだけよ》》


「……任務、って?」


《《ええ。わたしは、ここではない世界線――もっと遠い未来から来たの。あなたが“本来”立つはずだった座標……と、そう考えてくれればいいわ》》


 その静かな一文が落ちた瞬間、隣で息を潜めていたヴォルフがわずかに前へ踏み出す。

 鋼の胸甲が低く軋み、蒼い眼差しが剣先のように細く研がれた。 


「俺たちの世界からの来訪者、というわけか……。ならば訊こう。お前が救いに来たのは、この世界か? それとも――」


 警戒を隠せない声音。戦場で鍛えた直観が、目の前の存在の真意を測ろうと張り詰めているのが伝わる。 


 わたしはそっと彼の肩に触れた。鎧越しの硬さの下で、筋肉が緊張している。

 そっと首を横に振る。問い詰めても、きっと答えはこぼれ落ちてしまう。

 光球に宿るのは敵意ではなく、慈しみの気配――その確かさを、あたたかな鼓動のように感じ取っていたから。


 わたしの胸の前で、淡い星雫がそっと身じろぎする。

 中空に浮かんだまま、光球は小鳥が首をかしげるようにひと回り――けれど動きはあくまでも優雅で、薄白い光の裾が淡く解けただけ。

 その揺れが収まるころ、落ち着いた声が静かに滴る。


《《私は、あなたの魂の所在を探索し、保護するために作られたプローブよ。精霊子情報工学に基づく、限定機能体。

 過去に飛ばされ、その結果分岐してしまった世界線に存在するあなたの魂を見つけ出すためだけに、存在しているの》》


 言葉は澄んだ鈴音のように染みとおり、空気の震えではなく胸郭の奥で鳴った。

 わたしは思わず眉を寄せる。理屈はわかっても、規模が途方もなくて肌に馴染まない。


「……でも、どうやってそんなもの観測できたの……? 異なる世界線なんて、通常の精霊子による観測では簡単には届かないでしょう……」


 疑いと言うより、純粋な驚きが混ざった声。

 光球はひとかけらだけ強く瞬き、真珠の奥に金の花弁を咲かせた。


《《確かにあなたの言う通り。なにせ、あの敵性プローブのように次元の狭間を漂うようには設計されていないからね。元の世界線から無数の並行世界を観測するのは困難。いえ、ほぼ不可能に近いといえた。……でも――あなたの手と、そのブローチが見えたの》》


 胸元に添えた指が、そっと外套の裏地をまさぐる。

 薄布を越えて触れた銀細工は、霜解け水のように冷たかった。それでも、中心の青石がかすかに脈を刻み、わたしの鼓動へ寄り添う。


 指先がその縁をなぞった瞬間、ひゅうっと胸を渡る小さな音。

 生きている、と直感が囁く。小さな宝物が、呼吸をしているみたいに。


《《“見えた”というのは語弊があるかしら。あなたの“生きたい”という願いが、それを通して極限まで純化されたといった方が適切ね。理論値を超えた精霊子インパルスが、空間と次元を貫いて放射された。

 ……その波動が、かすかだけど、わたしの存在座標まで届いたのよ。そして、元の世界線に残るマウザーグレイルのモード2を使って飛んだ。というよりは射出された。完全な一方通行のね》》


 声が静かに降りるたび、雲の切れ間を渡る淡光のように胸のざわめきが鎮まっていく。

 わたしの中の硬く絡まった糸が、ほろりとほどけていった。


――リュシアン――あなたの幼い祈りが、世界を穿つ矢になってくれたのね。


 掌に眠るクローバーをそっと握り締めると、遠い空の水脈から微かな陽が差し込み、葉陰のような翳がわたしの指を包んだ。


「世界と世界の壁を穿つほどの、願い……か」


 ヴォルフが、そう呟いた。

 その眼差しは、わたしの腹部へと向けられていた。その瞳の奥にあるのは、もう警戒の色ではない。ただ、深い、深い慈しみと、そして、畏敬の念にも似た、静かな光だった。


 わたしは頷いた。


 あの瞬間、わたしは世界の何よりも、この小さな命を優先すると決めた。

 命令でも責任でもない、ただひとりの母親としての、選択だった。


「願い(イメージ)は力と言うが、本当だな。お前の精霊魔術もそういうものだろう?」


 彼の声は、いつもより静かだった。

 騎士としてではなく、夫として、父として――いや、ただ一人の“男”としての、言葉。


「理屈はそうだけど、わたしだけの、じゃないわ。これは、リュシアンのものでもあるの。あの子の願いが、わたしの願いを、これでもか、って強くしてくれたのよ」


 指先でブローチを強く握る。

 たった一行の“だいすき”が、いまこの瞬間、世界を繋ぎとめたのだ。


「これは奇跡なんかじゃない。そんな陳腐な言葉でなんて言い表せない……。あの子の想いは、もっと大きい。それくらい信じられないことよ」


 奇跡――それは多くの場合、予め想定されぬ超常的介入や神意と結びつけられ、受動的に降りかかる出来事として語られる。まるで運命の歯車が誰かの手によって狂わされたかのように。


 しかし今、ここで胸に刻まれたのはまったく逆の物語だ。リュシアンの純粋な愛、その小さな叫びが能動的に精霊子インパルスを生み出し、世界線さえも揺るがす巨大なエネルギーとなって顕現したのだ。

 か細いはずの“想い”が、母としての深い願いが、次元を越え、世界を動かす力へと昇華した――もはや“奇跡”ではなく、“創造”なのだ。


「そうか。なら、帰ったら……いっぱい抱きしめてやれ」


 ヴォルフの声は――いつもの低さの奥に、ひそやかな照れを隠していた。

 その響きが胸の深いところに落ち、わたしは抑えきれずに笑みを灯す。


「ええ。“お母さん、帰ってきたよ”って――思いきり、ぎゅうっと」


 想像しただけで、くすぐったい温もりが腕の内側を駆け上がる。

 その光景を聞き取ったかのように、星雫の球はふわりと浮かび、淡い呼吸で身を震わせた。


 金糸をゆるく撚ったような輝き。

 けれど光は次第にほぐれ、細い羽毛が水に溶けるように、ゆっくりと頼りなく淡く解けていく。


 “存在”と名づけるには脆すぎる灯。

 それでも最後の力を振り絞るように、剣の鍔へそっと寄り添い、静かに沈んだ。


――おやすみ、と小さく囁くみたいに。


《《時は満ちたわ。あなたは未来を選べる。次は――あなた自身の言葉で、あなた自身の力で。

 ……少し疲れたの。続きを聞かせてくれるのは、また後でね》》


 届いた声は、遠い水面からの月光のように柔らかく、微笑を含んでいた。

 そしてそれきり、星雫は剣に溶け込み、波紋のような金の残光だけを刃に残す。

 薄闇の中で、その光はゆらりと揺れ――ゆっくりと、静かに消えた。


≪ENERGY-FLOW STABLE≫

≪MISSION-NODE REACHED≫

≪AWAITING USER DIRECTION≫


 淡蒼のHUDが瞼の裏で揺れ、無機質な行にかすかな体温を感じた。

 ひとつの嵐が去り、世界は――ようやく深呼吸を覚えた幼子のように――小さく胸を上下させている。


 風がさらりと頬を撫で、砂と霜の粒を連れて行く。

 一拍遅れて枝を揺らす、細い木霊が響く。

 遠くで折れた松が、重みを手放して倒れる音がした。

 さきほどまで悲鳴をあげていた大地が、いまは控えめな物音で生存を確かめていた。


 けれど、終章にはまだ早い。

 ハロエズ盆地の地下坑道――暗いチューブの奥では、冷えきった手と手が互いを探し、救いの足音を待っている。

 安堵に溺れるには早すぎる、と胸の奥で誰かが囁く。


 わたしはそっとマウザーグレイルを握り直し、金糸の余光が消えた刀身に小さくうなずいた。

 光は眠った。次に歩くのは、わたしたち自身の足――。


 澄みきった空気を一口吸い込み、身じろぎしたヴォルフと視線を交わす。

 彼の甲冑が微かな音を立て、わたしたちの次の一歩を促すようにきらりと鈍く光った。


「……ここから、始めましょう。わたしたちの選ぶ未来を」


 指を絡め返すと、革手袋越しのヴォルフの体温がじんわりと染み込み、指先の氷が一つずつ溶けていく気がした。かすれた声は自分のものとは思えないほど軽やかで、けれど鼓動だけは高鳴っている。


 彼は短く息を継ぎ、わたしの瞳を真っ直ぐに映した。


「うむ。一刻も早く救助を急がねばならん」


 削ぎ落とされた言葉。その背で外套がはためき、甲冑の留め金がわずかに鳴る。火急の場面でも、彼はいつも的確で、迷いを許さない。


「ええ、頑張りましょう」


 頬が冷気でぴり、と痛む。わたしの返事を聞き届けると、ヴォルフはわずかに眉を寄せ、むずかしい色を帯びた。


「ただし、俺たちは峠に戻り次第、馬車で待機だ」


「えっ……どうして?」


 思わず声が跳ねる。わたしの肩の上で光を帯びた灰が舞い、儚い花吹雪のように視界を横切った。


「差し当たって、やるべき仕事は終わった。後続部隊が到着するまで休むんだ」


 低い声に宿るのは、命令よりも案じる色――気づけば胸がきゅ、と波打つ。遠くで倒木がまた一つひび割れ、乾いた音が山谷に転がった。


「けれど――救助を待っている人たちがいるのに」


 くぐもった抗議は、吐息ごと白くほどける。ヴォルフは小さくため息をつき、前髪をかきあげた。霜の粒が銀髪に絡み、かすかな煌めきがこぼれる。


「……やれやれ、お前というやつは」


 淡く笑いを含んだ叱責。目尻に刻まれた浅い皺が、努力して押し殺した心配を語っていた。


 それでもなお食い下がるわたしに、彼は鎧の籠手を外し、素手でわたしの頬に触れた。指先は温かく、鉄の匂いと微かな樹皮の香りが混じっている。


「少しは自分の体を労れ。避難民の受け入れ体制を指揮するのだって、大切な役目だ。どれほどの人々が流れ込んでくるか、まだ誰にも読めん」


 真摯な声。鼓膜を通り過ぎて胸骨に落ちるたび、わたしの反論が小さくなっていく。


「……わかった。今は従うわ。わたしも、さっきの声の主と――少し話がしたいしね」


 剣の鍔を撫でれば、光球が残した金の余韻が刃の奥で瞬いた気がした。あの囁きを、もう少しだけ胸の内で反芻したい。


「それでいい」


 ヴォルフは深く頷く。山風が外套を孕み、彼の銀髪をさらりと梳く。雲間を割った淡い陽が射し込み、マウザーグレイルの白銀を柔らかく包む――まるで、次に歩み出す道をさりげなく照らす灯火のように。

【第六百九十六話・レシュトルメッセージ解説(読者向け)】

 今回、作中で提示されたレシュトル(マウザーグレイルの制御システムAI)のメッセージについて、少し補足させていただきますね。


 物語終盤、紫の裂け目が「無かったこと」にされた直後に表示されたのが、次のメッセージでした。


《ANOMALY STATUS: COMPLETE DISSIPATION》

《METRIC SHEAR: ZERO-POINT RESET ✔》

《VOID PRESSURE: SAFE (0.04 Pa)》

《RESIDUAL Σ-FIELD: 1.3% — PASSIVE DECAY MODE》

《RECOMMEND: Begin survivor-search protocol》


 これらの表現には作中設定として次のような意味があります。


ANOMALY STATUS(異常事象ステータス)

 「COMPLETE DISSIPATION(完全消滅)」というのは、空間や時空に影響を与える異常現象――今回で言えば虚無の裂け目や次元境界面が、完全に消え去ったことを指しています。


METRIC SHEAR(時空計量の剪断)

 「ZERO-POINT RESET」は、IVGシステムが『IVGモード2(プランクピンチ)』で異常事象を消去した際、崩壊した時空構造を元の正常値に戻す処理を完了した、という意味になります。

 『IVGモード2』のプランクピンチとは、光を極限まで収束し、空間の歪みや裂け目を瞬間的に剪断して、まるで最初から無かったようにしてしまう能力ですね。


VOID PRESSURE(虚無圧)

 「SAFE (0.04 Pa)」という表記は、虚無による時空への圧力(虚無圧)が安全圏まで低下したことを示しています。具体的には「もう現実世界には干渉できないほどの、ごく弱い力にまで収まった」という意味です。


RESIDUAL Σ-FIELD(シグマフィールド残存率)

 「1.3% — PASSIVE DECAY MODE」という数値は、次元間深層探索プローブ「シグマ-16」が放出した次元エネルギーの残存値を指します。

 約98.7%は完全消去されたものの、わずか1.3%のエネルギーがまだ残っており、これは時間経過とともに自然に消滅(PASSIVE DECAY)するため、脅威とはなりません。


RECOMMEND: Begin survivor-search protocol(推奨:生存者捜索プロトコルを開始)

 脅威排除が完了し、安全圏を確保したため、次の優先事項として、速やかな「生存者捜索と救助活動」へ移行すべきという、レシュトルからの実務的提案ですね。


● 補足:IVGシステムとレシュトルについて

 IVGシステムは、もともとは古代超文明〈バルファ〉が生み出した、次元や重力を自在に操る超技術です。その“モード2”は、本来なら封印指定されているほど強力で危険なもの。今回は、光球(精霊子情報工学プローブ)が特殊な権限をもって、その封印を一時的に解除しました。


 レシュトルはその制御AIであり、基本的に機械的なメッセージを提示しますが、メービスとの繋がりを通じて、時折温かみを帯びたように感じられる瞬間があります。今回の「生存者を救出せよ」という指示にも、微かにですが、レシュトルの中に生まれつつある“思いやり”が垣間見えるように思います。



【精霊子情報工学プローブの観察・転移についての解説】

 今回の第六百九十六話で登場した「光球」ですが、その正体はデルワーズによって特別に作られた精霊子情報工学プローブです。このプローブは、簡単に言えば、精霊子情報工学(精霊子を情報として解析する技術体系)を基礎として構築された、高度に専門化された観測・探索装置なのです。


■ そもそも精霊子情報工学とは?

 物語世界では、「精霊子」と呼ばれる目に見えない微粒子が、魂や感情など、生き物が抱く想いの力を伝達・蓄積する役割を果たしています。この精霊子の状態や動きを解析し、世界の現象や人の運命の行方までもを予測・解読しようというのが、「精霊子情報工学」です。


 今回のプローブは、この精霊子情報工学をさらに発展させ、特定の人物(今回はミツル)の魂を探索し、保護するという特別な目的のために作られました。


■ プローブの「観察」について

 プローブが異なる世界線(並行世界)に存在するミツルの魂を見つけるためには、膨大な次元間データのなかから特定の精霊子信号インパルスを捉える必要があります。


 本来、並行世界を超えた観察は非常に難しいのですが、今回はリュシアンが贈ったクローバーのブローチが鍵となりました。


 ミツルが抱いた「生きたい」という強烈な願いが、ブローチを触媒として極限まで純粋な精霊子インパルスとして放射され、それが時空を超えて届き、プローブに観察されることになったのです。


■ 「転移」の仕組みと限界

 精霊子情報工学プローブが観察を終えた後に行った「転移」とは、観察対象の世界線に実際に到達することです。


 しかし、次元間転移には常にタイムラグや空間的な誤差が生じます。今回のプローブは、元世界線(ミツルが本来存在すべき未来)において、マウザーグレイルのIVGシステム・モード2を利用して次元間を一方向的に射出されました。この転移は完全な一方通行であり、観察と実際の到達までには、いくつもの小さなズレや誤差が生じています。


 プローブ自身も「未来とは不確定で揺らぐもの」「正確な座標を掴むことは困難」と語っています。つまり、転移とは非常に繊細で、常にある種の賭けに近いものであったということなのです。


■ プローブの役割が果たされた後

 プローブがミツルたちの世界に到達し、その役割を終えた後は、マウザーグレイルの中に溶け込むように消えていきました。プローブ自身が語ったように、設定された任務と権限、そして最小限の情報のみを携えて存在しています。「後で話す」という主任務が今後のテーマになるでしょう。



【第六百九十六話・詳細解説と考察】

 物語を支える仕組みや、キャラクターたちの心理描写、そして本話の核心に触れる考察をお届けします。


❶ 精霊子情報工学プローブ「光球」の正体と役割 

 登場した「光球」の正体は、デルワーズが生み出した精霊子情報工学プローブでした。これは精霊子(魂や感情を司る微粒子)を情報として扱い、並行世界の中に散らばる特定の魂を観測・保護するための高度な装置です。


 このプローブの役割は、元々の世界線(ミツルが本来存在するはずだった未来)において、「ミツルの魂」を探し出すこと。プローブ自身が告げたように、元の世界線にあるマウザーグレイルのIVGモード2を使って、次元間を射出されました。


 ここで注目したいのが、プローブがミツルの魂を捉えられた理由です。リュシアンが母メービスに贈ったクローバーのブローチ――その小さな「だいすき」という祈りが、ミツル自身の生きたいという願いを極限まで純化させました。これが理屈を超えた強力な精霊子インパルスとなり、次元を越えてプローブに届いたのです。


 つまり、ただの偶発的な奇跡ではなく、「誰かを想う心」の力が世界を動かすほどに巨大化した、その奇跡を超える瞬間を描いているのです。


❷ IVGシステム〈モード2〉の作用と次元境界の消滅

 次に重要なのは、マウザーグレイルが用いたIVGシステムの「モード2(プランクピンチ)」です。


 IVGモード2は「時空を編集する」究極の技術(次元間ベクトル&重力制御)であり、光をプランク長という極小領域にまで収束させ、次元の裂け目や亀裂を瞬間的に消去・再編します。


 今回もマウザーグレイルは、刃を境界膜に突き刺した瞬間に、このモードを起動。「紫の窓」と呼ばれた次元境界は完全に消滅し、「最初から存在しなかった」かのように世界が再編されました。


 ここで興味深いのは、IVGシステムの無限エネルギーストアの仕組みです。通常、IVGフィールドには蓄積可能なエネルギー量に限界がありますが、今回は次元間の残存エネルギー(Σ-16プローブの崩壊時に放出されたもの)を次元間に無限に蓄積・再利用する仕組みが働きました。モード2においては、この機能を用いて次元間エネルギー採取・無限稼働(理論上)が可能です。


 この特例的措置が可能だったのは、プローブが持つ「グランドマスター権限」の影響です。これにより、通常の物理法則を超えてエネルギーを吸収・蓄積することが可能となり、ほぼ不可能な事象を可能にしてしまったのです。


 このエネルギーに関する詳しい仕組みについては、本文中では「残存するエネルギーなど存在しないはず」という簡潔な描写にとどめ、詳細な解説は意図的に省略されています。


 物語の流れとしても、この場面で重要なのは「ありえないエネルギーが現れ、奇跡を超えた何かが起きた」という感覚的なインパクトです。その背後にある細かな理屈やシステム的な説明は、読者が自由に想像を膨らませられるよう、あえて伏せたほうが美しい余韻が残ります。


 もし、この部分をあとがきや解説に書くとしても、「実は裏設定として……」という形で触れる程度がちょうど良いかもしれません。


❸ キャラクターの心情とその変化

 本話の核にあるのは、SF的要素だけでなく、キャラクターたちの心情の機微です。


 ミツル(メービス) は、胎内に宿した命を守るという母性が際立ちました。これまでの「自分自身を犠牲にする」ことを美徳としていた彼女が、いまは母として「自分と命を大切に守ること」を選択します。これは彼女の内的成長を象徴的に描いています。


 ヴォルフ は、「並び立つ者」としてミツルと対等な立場に立ち、彼女の選択を尊重しながらも、穏やかな気遣いと深い愛情を見せました。


 プローブ(光球) は、人ではなく情報体でありながら、微かな感情の揺らぎや温もりを持ち、ミツルとヴォルフの未来への希望を象徴的に示しています。使命を果たした後、穏やかに消える様子は、「命を繋ぐこと」「未来を託すこと」を象徴しています。


❹ 精霊子と想いの力――「奇跡」と「創造」の境界線

 本章で特に印象的だったのは、ミツルが語ったこの台詞です。


「これは奇跡なんかじゃない。そんな陳腐な言葉でなんて言い表せない……。あの子の想いは、もっと大きい。それくらい信じられないことよ」


 ここに込められた深い意味を考えましょう。


 通常、奇跡とは、予め想定されない偶然的な超常現象を指します。しかし、本章で描かれたのはそうではなく、あくまでも「リュシアンの純粋な想い」が能動的に生み出した事象です。


 個々人の想いや願いは、通常、小さく脆いものです。けれど母親としての深い愛と守りたい気持ちが、次元を穿つほどの巨大な精霊子インパルスを生み出し、現実の運命すら変えてしまう――これは単なる偶然の奇跡ではなく、「人の想いが世界を動かす創造力」そのものです。


 つまり、この物語は「奇跡」を描くのではなく、「愛と願いという意志の力が、世界をどう変えるのか」ということを、SF要素を交えながら描き出しています。すなわちSFの皮を被った少女漫画(笑)


 物理法則や量子理論、情報工学といったSFガジェットによって丁寧に装飾されているものの、芯の部分では少女漫画的な「感情の跳躍」「魂の共鳴」が核にあります。


 つまり――


“科学の装いをした祈り”

“理屈で編んだ恋心”

“世界を変えるのは、計算ではなく手紙一行の『だいすき』”


 舞台装置として超次元技術と精霊子情報工学を用い、願いの跳躍を“あり得るもの”にしています。




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