王子様は、茉凛
微笑みが差し込む。息がほどける。……すぐに凍る。
心の奥で何かが乾いた音を立てて砕けた。もう逃げ場はない。
風が止む。耳の奥で音が消え、衣擦れだけが残響のように薄く揺れた。
彼女の優しさに甘えることだけは、違う。喉が乾く。舌裏が熱い。
「ほんとに、どうしようかと思ったよ。何も言ってくれないから、わたし、もうあなたに嫌われちゃったのかなって……。
でも、こうして触れて、あなたがちゃんとここにいるんだってわかって、本当に嬉しいんだ。ずっと一緒にいたい、もう離れたくない」
鼓膜の内側で、願いの温度が静かに膨らむ。胸郭がきしみ、口は開くのに声が出ない。
首が、小さく横に動いた。ここに留まることは、彼女の魂をこの檻に閉じ込める――その確信だけが喉を焼いた。
無言のまま、腕を解こうともがく。指が空をつかむ。
弱いはずの彼女の左腕が、驚くほど強く私を戒めていた。衣類から移る、微かな陽だまりの匂い。
羽毛のような感触が、逃げられないと告げる。指がほどけない。押し当てた額から伝わる鼓動の熱に耐え、浅い息を繰り返す。
「……だめ……そんなの、だめ……」
擦れた声が空気を震わせる。彼女は吐息だけで笑った。その気配が背筋にひやりと走る。
「だめなんてことない。もういいんだよ。何もかも一人で背負うなんてこと、もうしなくていい。だから、一緒にいよう?」
甘い言葉が胸の内側へ沁みる。鼓動が速まり、心が傾ぐ。――首を、横に。
熱いものが込み上げて、視界が滲む。無垢な優しさに触れるたび、息が詰まる。
「ごめん……ごめんね茉凜……それだけはだめなの。だから、離して……」
涙声は細く震え、頬を伝う熱が指の甲へ落ちた。
「あなたがいくら拒んだって、わたしは絶対に離さないからね。わたしの性格はよく知ってるでしょ? “欲望には忠実”だってこと。わたしにとって、あなたと一緒にいることが一番の幸せなんだ」
その声音の芯が、胸の中心へ真っ直ぐ届く。握られた腕の圧が、もう解けないと告げる。
「やだ……やだよ……」
嗚咽がこぼれ、呼気が浅く乱れる。肩がこつこつと震えた。
「私は……ただの罪人よ。あなたを騙して、優しさに縋って……利用していただけ。そんな私が、あなたと一緒にいられるわけないでしょう……。
お願いだから、離して……私のことなんて、放っておいて……」
言葉の棘が自分へも返る。壁に反響する衣擦れだけが、やけに大きい。
「あのね、それのどこが罪だっていうの? だって、どうしようもないじゃない。もし、わたしがあなただったら、わめきちらして、何もかも投げ捨てて逃げ出してたかもしれない。
なのに、あなたはずっと一人で悩んで、苦しんで、それでも必死に堪えていた……。あなたは人一倍責任感が強くて優しすぎるから、どうしても言えなかった。それだけのことじゃない」
まっすぐな調子が胸に刺さる。呼吸が乱れ、喉が焼ける。
「何を言っているの? 私は弓鶴の顔と言葉を借りて、あなたに偽りの希望を抱かせた。あなたの気持ちなんて少しも考えず、呪いを解くことしか見ていなかった。あなただって、もうわかってるでしょ? 最後に裏切って、捨ててしまえばいいとさえ考えていたの。私は、私は最低よ……」
沈黙が落ちる。彼女の瞳には揺るぎない光。そこに私の逃げ場はない。
「どうして、そんなに自分を責めるの? あなたはそれを罪だっていうけど、わたしはそうじゃないと思う。あなたが抱えているものは、あなた一人のものじゃないんだよ?」
「えっ……!?」
息が逆流し、胸の底で何かがきしむ。
「そう、それは決して罪なんかじゃない。すべての原因が自分にあるだなんて、間違ってると思う。それは罪じゃなくて、デルワーズに掛けられた“呪い”なんじゃないのかな?」
「――呪い……」
胸の底が空き、足元がふっと揺れる。自分の声のかすれに、自分が驚く。
「そうだよ。悪い魔法使いに掛けられた呪い。それがあなたを縛りつけていたんだと思う。だから、すべてを自分の罪だと思う必要はないんだよ」
想定外の角度から差し込む言葉に、思考がかき回される。喉が渇き、小さく首を振る。
それでも彼女の眼差しは揺れない。まっすぐで、こちらを肯定する温度を帯びていた。
私はずっと、あれを“血の宿命”だと決めつけていた。親から受けた責務、逃れられない軌道。
痛みも重さも一人で背負うもの――そう信じて歩いた。
茉凜の言葉が、その刻印をはがす音を立てる。もしそれが宿命でなく「呪い」だったのなら。
誰かに歪められた線路を、ただ信じていただけなのでは――。
幼い日の私は、ただの子として息をしていたかった。
それをねじ曲げたのは、深淵の血族という名の線路。家族を裂いた呪いを、この手で消したいと願った。
けれど――それすら台本だったのかもしれない。情念のままに走り、気づきもしなかった。
胸の奥で固まっていた塊が、わずかにほどける。
「これは私の罪ではなかったのかもしれない」――小さな光が、はじめて灯る。
「茉凜……」
名前を呼ぶと、言葉が続かなかった。視線の先で、変わらぬ優しさが私を包む。
「美鶴、それでもあなたは頑張ろうとした。心が擦り切れてしまいそうになるくらいにね……。辛いことしかないのに、言いたいことだってたくさんあったのに、やりたいことだっていっぱいあったのに。なのに、自分を犠牲にして……みんなのためにって、それだけを願って……。
でも、あなたはやり遂げたんだよ。だから、もういいの。あなたがこれ以上苦むことなんてない」
「……それで赦されるというの? この私が……?」
問う声は弱く、しかし確かに外気へ溶けた。
「宿命だと思い込んでいたなら、それは本当のあなたの選択ではないんだよ。だからこそ、もう一度自分の本当の気持ちに向き合ってもいいんじゃないかな?
それにね、たとえ世界のすべてがあなたを否定しようとしたって、このわたしが許さないから。ぜったいにね」
胸の深部で、固い輪がゆっくりほどけていく。
重みが、ほんの少し軽くなる。目に滲む涙は、過去の痛みと、未来の微かな光だった。
温もりが差す。風はまだ冷たい。
覆らない現実がある。私はもう、死んでいる。肉体を持たない、ただの亡霊。
いつ消えるとも知れない。――彼女の側にいてはいけない。
――どう足掻いても、私たちは決して一緒にはなれないのよ……。
それでも、どうしても伝えたかった。茉凜への感謝を。見えなかった大切を、彼女が教えてくれたから。
私は独りじゃなかった。茉凜がいて、世界は生まれ変わった。叔父様、佐藤さん、天のみんな。洸人、アキラ、演劇部の仲間たち。
たくさんの願いが背中を押してくれた。だから、絶望しきらずに歩けた。
「……ありがとう、茉凜。あなたにそう言ってもらえるなんて、とても嬉しい……。やっと、私、自分を赦してあげられそうな気がする……」
語尾で息が震える。彼女は瞳を伏せ、光をこぼすように微笑んだ。胸の冷えに温度が差す。
「うん、あなたは本当によく頑張った。これ以上ないくらいにね」
見透かすような優しさに頬が熱くなる。脆いところまで露わになりそうで、目を逸らす。
「うん、頑張った……茉凜がいてくれたから頑張れた……」
「だから、もう泣くのはやめようよ?」
「だって……」
安堵で呼吸が浅い。彼女は眉を下げ、肩をすくめた。
「あーっ、ほんとにもう、あなたってどうしようもなく泣き虫だよね。劇の時もそうだったけどさ」
「そんなこと言われても……」
頬が熱い。年上なのに、彼女と並びの高さに戻ってしまう。こくりと頷き、涙を拭う。
「せっかくこんなに可愛らしいのに、泣いてちゃ台無しだよ。ほら、笑って?」
濡れた頬に指先が触れる。掌の温度が伝わり、肩の力が抜けた。ぎこちなく口角を上げる。
「うん、それでいい」
安堵の微笑みが返る。私も息を吐いた。――言おう。胸の奥で温めてきたことを。
「茉凜……?」
「なぁに?」
「あの……」
名を呼んだだけで喉が詰まる。耳の奥で鼓動が強く跳ね、唇が乾く。
「あのね、ずっと思っていたことがあるの」
彼女が瞬き、小さく頷く。頬に薄紅がさした。
「うん……」
「私たちはデルワーズに導かれて、器と導き手として巡り合った。それは定められた運命だったのかもしれない……。
でもね、加茂野茉凜という人と出会えたことは……私にとって奇跡だったの」
声が微かに震え、彼女の瞳がやわらぐ。照れた笑みが零れる。
「あ、あはは、なにそれ。ちょっと恥ずかしいんだけど?」
「でも……よかった。わたし、ちゃんとあなたのためになれたんだね……」
胸がいっぱいになり、頬の内側がじんと熱い。視線が持たず、顔をそらす。
「そうだよ……あなたが、私のことをずっと守ってくれたの」
――もう守られるだけではいたくない。願いを込め、けれど声は子どもみたいに頼りない。
「私は“氷の王子様”だなんて呼ばれていたけれど……本当の王子様は……茉凜だったの」
言った途端、胸の奥が熱くなる。彼女の目が丸くなった。
「うーん……」
眉が下がり、首がかしげられる。胸に一瞬、不安が走る。
「いや、その……王子様ってのは、ちょっと複雑かな。わたし、これでも一応女なんだし。たしかに女子からは『かっこいい』とか言われることはあるけど、『きれい』だとか『かわいい』だとか言われたこと、一度もないからさ」
「ご、ごめん……」
反射的に謝る。それでも、私にとっての真実はひとつだ。
「でも、茉凜はかっこいいだけじゃなくて、とってもきれいだよ。背が高くてすらりとしていて、モデルさんみたいで、ドレスを着た時の姿なんて、とてもすてきで魅力的で、どきどきしたもの……。あの時の私の言葉は、ほ、本当だから……」
言葉がつっかえ、必死に繋ぐ。彼女は頬を赤らめ、照れたように視線を逸らした。
「ありがとう……。あの時はほんとに夢みたいで嬉しかったよ。ふふふ……」
笑顔が部屋をやわらかく照らす。緊張がほどけていく。けれど、触れねばならないことがひとつ。
「でも、ごめんね……劇の最後でのこと……」
舌が重くなり、声が小さくなる。彼女の表情がかすかに強張り、頬の赤が濃くなる。
「あ、あ、あれ……ね。ははは……」
「もうわかってると思うけれど、あれはメイヴィスとしてじゃなくて、私の本気だったから……」
喉がひゅっと鳴る。包み隠さず置いた言葉に、彼女はしどろもどろに、それでも正面から答えた。
「あの時は、どうしたらいいかわからなくて、まさかそんなはずないって、思うようにしてた……。でも、今は……よく、わかるよ……」
胸の奥がじんと痺れる。視線が絡み、解けない。やっと伝えられた。どうしようもなく拙くても、今の私の精一杯。
唇を噛み、視線が逃げる。握った手のぬくもりだけが残る。
「ううん、茉凜……ありがとう。わたしも、あなたのことが大切で、かけがえのない存在だって、ずっと思ってたから。あの時は、あんな無理やりで、申し訳ない気持ちだったし……」
風がそっと通り、目が重なる。言葉よりも多くが視線で行き交う。
「わたしは……」
「私は……」
「あなたが……」
「あなたのことが……」
「すき……」
「好きよ……」
やっと落ちた音。長く抱えた言葉が自然にこぼれる。彼女の目に涙が光った。
「やっと言えた。ずっと言いたかった……でも、怖かったの……」
伏せた睫毛が震える。胸が締めつけられ、呼吸が細くなる。
「私も、ずっと伝えたかった……。ごめんね、あなたに辛い思いばかりさせて……」
短い沈黙。頬を一筋の雫が伝う。愛が深いほど、別れの影も濃い――その予感が冷たく胸を掠めた。
指先が触れ、絡む。温かい。視線が結び直され、心の距離が近づく。
そっと抱き合う。彼女のぬくもりに包まれ、過去も今もひとつに溶けていく。
けれど、永遠には続かない。抱擁の奥で、静かな疼きがひっそりと息づいていた。




