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待ちかねたぞ、デルワーズ

 孤月の翼が闇を吸いこみ、しじまを無音のまま裂き、白銀の軌跡を描いて滑空した。


 風は途絶え、音も衝撃も――何ひとつ存在しない。

 爆縮の余韻さえ、IVGフィールドの硝子膜が呑み込んで、球殻の内側には完璧な静謐だけが横たわる。

 わたしは膝をつき、乱れた呼吸の糸を一本ずつ手繰り寄せた。足許に残る加速の残熱が陽炎かげろうのように揺れ、すぐさま冷たい虚空へ溶けていく。生まれくる前の胎内で、羊水に抱かれる感覚。世界は奇跡的な均衡に漂っていた。


 HUDの無機質な燐光が脈打つ。


```

≪VEL:1020 → 970 → 830 → 0 m/s≫

≪逆ベクトル制動完了≫

≪量子ストレージ残量:0.8 MJ≫

≪IVGフィールド維持限界:残260秒≫

```


```

≪搭乗者生体情報:心拍112|体温36.8℃|血中酸素飽和度98%≫

≪胎児心拍:142≫

≪-SYSTEM- 母体負荷、現在許容範囲内≫

```


 ゆるやかに瞼を持ち上げると、紫紺の光が擦過し、淡い円環となって広がった。

 つい先ほどまで荒れ狂っていた魔素の乱流は嘘のように鎮まり返り、紫黒の雲だけがわたしたちの背後で、遠い呼吸のように円を描いている。わたしたちが立つ只中だけが、誰かの意思で守られた聖域――まるで神が小指で残した空白のようだった。


「減速終了。推力ゼロ、慣性固定」


 レシュトルの平板な声が水底の鈴のように響く。フィールド維持が生む微細なしびれが肌を撫で、隣に立つヴォルフの呼気さえ届かない完全な無音が、胸の鼓動だけを際立たせた。


 わたしは息を潜め、球殻の正面――そのただ一点を凝視する。


 そこに、“それ”はあった。


 ほんの三メートル先。直径三センチほどの、完全な漆黒。

 それは闇でも、影でもない。光を飲み込むのではなく、存在そのものが色という概念を拒絶しているような、絶対的な空虚の孔。神が世界を創造したときに、指先で触れるのを忘れてしまわれた一点のようにも見えた。その完璧な円は、幾何学的な美しさとは裏腹に、見る者の心を不安にさせる。


 わたしは思わず息を呑み、視線を凝らした。

 それでも輪郭に焦点は合わない。瞳を滑らせるほど滑らかで、触れようとする意識ごと撥ね返す“不在の結晶”。まるで熱で揺らぐ空気が一点に吸い寄せられ、聖域そのものが小さな孔へ落ち込んでいくようだった。あそこだけが、世界の法を拒む。


「……これが“覗き穴”というわけね」


 囁きは、自分の鼓動よりも大きく静寂を震わせた。

 隣でヴォルフの革鎧が、浅い呼吸に合わせて僅かに鳴る。言葉はなくとも、彼の気配は抜き身の剣――双眸は、黒孔だけを射抜いている。


 レシュトルが即座に報告を重ねた。


```

《構造特性値:次元境界穿孔率 99.7%》

《魔素反応:0.00》

《高密度魔素領域内に、魔素遮断空間を確認》

```


 “魔素反応ゼロ”――その文字列が、氷の棘となって胸を突く。

 魔素が飽和する乱流の中心で、ただ一ヶ所だけ無反応――力が中和されたのではない。力が「まだ存在していない」胎動前の虚無。そこには、あまりにも完璧な“無”しかない。


 凍て静の刃がフィールド膜を擦り、肺の奥に沁みた。喉の奥が、まるで熱い砂でも飲み込んだかのように、ひりりと灼ける。


「レシュトル、どういう訳?」


 声が耳奥で掠れた。孔の向こうが、この世界の法則そのものを突き返している。


「反応ゼロ……つまり向こうには“無”しかないというの?」


《いいえ。魔素がこちら側へ一切侵入できないだけです。向こう側には高密度のエネルギー、あるいは別位相の物理常数が存在し、それを“完全隔壁”が封じ込めていると推定されます》


「隔壁……つまり、次元間の壁だと?」


《平たく言えばそうです。二枚のガラスに空間を挟み込み、真空よりもさらに“概念的な空白”が形成されている状態です。内側は別の宇宙定数で満たされ、こちらの魔素――ひいては時空情報――を拒絶します》


 淡い説明では頭が追いつかない。わたしは息を整え、もう一段わかりやすく求めた。


「レシュトル、もっと簡潔に。“向こう”を一枚の絵にたとえてみて」


《了解。──絵筆で描かれたキャンバスを想像してください。わたしたちは絵の外側を塗る絵筆、孔はキャンバスに開いた小窓です。しかし窓には透明樹脂が流し込まれ、筆先も絵の具も通さない。向こうには別の画家が別の色で描く“第二の絵”があり、その色は窓を通らず、こちらに届くのは視線のみ──そのような構図です》


「つまり覗くだけは許されても、絵筆を差し入れることはできない、ということね」


《はい。向こうは“在る”が、“混ざらない。隣接どころか“接ぎ木未遂”と呼ぶべき低干渉です》


 覗き見ることは許しても、踏み入ることは決して許さない。

 神の寝室を盗み見ようとする罪人を、冷ややかな沈黙で断罪するかのような圧力が、孔の周囲に張り詰めている――そう、確かに感じ取れた。


 そして眼下に広がるのは、首都ハロエズがあったはずの盆地――だが、そこを示すのは灰の荒野を二分する河川の銀筋のみ。

 市壁も街路も宮城も、爆圧で“粉影”となり、ただの風化した輪郭に帰している。まるで地図のインクを乾いた布で拭い去ったように、都市の存在そのものが抹消されていた。


 一次爆縮がもたらしたエネルギーが、いかに桁外れであったかが一目でわかる。こんな小さな孔から、核爆弾級の厄災が噴き出したなど――到底、信じがたい。


――恐ろしい。


 視線をいったん手もとへ戻す。

 わたしの立つ球殻の外側では、薄紫の雲が沈黙した天幕のように凍りつき、嵐の瞼を閉ざしていた――けれど、これは単なる無風域ではない。誰かの意図が布を張るように縫い取り、中心だけを完璧に“創造”した空洞なのだ。


≪IVGフィールド維持限界:`残180秒`≫


 HUDの数字が、静かに青から黄色へと転じる。


 偶然でも気まぐれでもない。

 この穴も、いま漂う静寂も、わたしたちを“待ち伏せ”するためだけに設えられた装置――そう考えるほうが、むしろ筋が通る。


 そのために首都ハロエズを跡形もなく消し去り、「黄金の穀倉」と謳われた沃野を不毛の荒土へ変え、幾万もの命を奪った。無情なる破壊の権化が、この直径わずか三センチの孔の向こうに潜んでいるのだ。


──許しがたい。


 説明のつかない不穏と怒りに胸が波立ち、わたしは無意識に呼吸を浅くした。旅装越しの冷気を感じながら、そっと腹に手を添える。

 胎動はまだ遠いけれど――確かにここにいる。この命を守ると誓った夜の温もりが掌に甦る。


 隣でヴォルフが黒孔を見据える。

 貼り付けたように無表情だが、足もとの土がわずかに軋み、鎧の革紐が微かな張力で鳴った。荒れ野を切り裂く冷気さえ、その蒼い眼差しの内側で凍り付くようだ。


「……この虚空の中心に杭を打ち込めば、すべてが終わるんだろう?」


 低く落とした声は、抜き身の短剣を黒布で包むかのように静か――それでも刃の確信は覆い隠せない。


 わたしは一拍だけ目を伏せ、波打つ脈を喉奥で押し殺した。


「ええ、終わる……おそらくは。でも――だからこそ、確かめたいの」


 息に重なる白い吐息が、淡く砕けて消える。胸奥で言葉を研ぎ澄ませ、魂を貫く問いへと鍛え直す。


「あれが何で、誰が、どんな想いでこの孔を穿ったのか。

 憎しみの果てなのか、それとも――救いを求める声なのか。

 このハロエズを地獄に変えてでも為し遂げたかったものとは、いったい何なのか。

 理由も知らず蓋をするなんて、わたしの心が許さないのよ」


 闇孔から漂う無音の圧力が、返事の代わりに肺を締め付ける。けれど視線は逸らさない。わたしの問いが届くその瞬間まで、刃と盾の狭間で――呼吸すべてを、矢じりに変えて。


 ヴォルフの瞳が一瞬だけ細く光る。否定はない。

 彼はわたしの横顔から視線を孔へ戻すと、ひとつ、深く息を吐いた。強張っていた肩甲がわずかに下がり、覚悟が腹の底へすとんと落ちるのが気配でわかった。

 右手が腰のガイザルグレイルの柄を、護符を確かめるように撫でる。革の柄に、彼の掌から滲んだ汗が微かに染み、鈍い光を吸った気がした。


「あなたも、気づいているのでしょう? あの孔が、ただの現象ではないって」


 問い掛けに重ねた吐息が白く揺れ、フィールド膜の内側で霧散する。


「……ああ。あれは“待っている”。

 明確な意志を持って、俺たちを――いや、お前を、ここに誘い込んだ。罠だ。そうとしか思えん」


 ヴォルフの声は静温の鋼。語尾の刃が、無音の闇を微かに裂いた。

 その眼差しがわたしの前へ滑り込み、盾のごとく細く狭まる。孔の中心座標を寸分の誤差もなく射抜いたまま離れない。


「だからこそ、すぐにでも打ち込みたい。

 経験から言わせてもらえば、こういう手合いに対話の余地などない。何よりこいつは、世界にとって過ぎたる毒だ」


 握られたガイザルグレイルの柄が、沈黙の中でわずかに軋む。革巻きに染みた汗が、冷え切った空気で瞬きのように乾いた。


「わかってる。それでも、わたしは訊きたい。言葉を交わさなければ、何も始まらないから。まず、その毒の本質を見極めなければ、いつまで経ってもわたしたちは後手に回されるだけよ」


 言い終えた瞬間、胸奥で脈が一拍跳ねる。


 沈黙がふたりのあいだへ落ちる。

 無風の空域に潜む圧力だけが、時を刻む砂時計のかわりにじわりと降り積もる。


「そんな悠長にしていられる時間があるのか?」


 低い問いは刃の背で叩かれたように重く、フィールドの薄膜をわずかに震わせた。ヴォルフは蒼い視線を孔から離さず、瞬き一つで戦局を測る猛禽の眼差しを保っている。


「今は――まだ、あるわ」


 HUDの片隅で、副タイマ〈00:00:00〉が無慈悲な赤で点灯し、瞬時に秒を刻み始める。心臓の鼓動が砂時計の落砂と同期し、胸郭の裏で鈍く鉄錆色の響きを立てた。


「レシュトル。わたしたちの言葉を、あそこに届かせる手段はある?」


《精霊子干渉は不可能です。ですが、フィールド外殻を層状に振動させ、“音波”として指向性を極限まで絞り込めば伝達可能です》


 レシュトルの声――金属を磨くような乾いた抑揚――が鼓膜へ滑り込み、神経の奥で静かな火花を散らす。


「……お願い。伝えて」


《了解。外殻振動シーケンス、構築開始》


 球殻が微細に収縮し、膜鳴りのような低い共鳴が足元を撫でた。わたしは視線を孔から逸らさず、しかし内面で緊張の弦を一段締め上げる。唇が、かすかな震えを押し殺すように動いた。


「わたしの問いに、答えて。

 孔の向こうにいるあなたは誰?

 何を望み、何故虚無を引き起こそうとしているの?」


 無響の脈衝がフィールド外殻を貫き、空虚そのものへ吸い込まれていく。刹那、骨の芯を舐めるような反響が戻り、わたしの背筋を冷たい指先でなぞった。

 返事はない――だが、深淵が呼吸を潜め、こちらの鼓動を数えている気配だけが、確かに空気を重くした。


《音波到達を確認。球殻外周で振幅0.004 Pa──正面へ照射、反射波を検知》


 脳裏に微かな爪痕――黒孔がこちらを「見返す」錯覚が、視神経の奥に冷えた棘を刺す。


 沈黙。副タイマは〈00:00:15〉で凍りついたまま、砂粒の落ちる音だけを胸郭に叩きつける。囁きは深海に沈めた小石――波紋も生まず、ただ底なしの闇へ滑り落ちていく。


「応答は?」


 ヴォルフの低音が張り詰めた空気をわずかに震わせた。焦りではなく、刃を抜く前の最終照準――その静けさが耳奥を締め上げる。


「……やはり、ないわ」


 喉から零れた声は、自覚できぬほど細く震えた。


 問いが届いた重みだけが鉛のように残り、返答の欠落が奈落の空洞を膨張させていく。レシュトルのモニターは依然フラット。にもかかわらず、この黙殺には“無”ではなく、冷徹な値踏みの視線が潜んでいる――そう、肌が告げていた。


「……もう一度、撃つか?」


 ヴォルフの掌は剣柄を離さず、いつでも刀身を閃かせる静謐な覚悟だけを漂わせる。


「ええ。ただし、今度は内容を変える」


 迷い子の呼び声は一度きりで充分だ。

 IVGフィールドの薄膜がわずかにしのび、胸郭の奥で脈打つ拍動と共鳴する。副タイマは〈00:00:24〉を示し、赤い秒光が骨を透かして跳ねた。

 わたしは指を組み、胸骨の下で拳を固める。握り締めた掌が微かに震え、革手袋の内側を汗が辿った。


 ――迷いではなく、宣言を。

 声は剣、言葉は杭。突き立ててこそ、応えを引きずり出せる。


「レシュトル、送信波を再形成して。

 第一文――『わたくしは、始祖デルワーズの血を継ぐ者。その代行者にして、リーディスを統べる女王、メービス』

 第二文――『当方は、あなたの望みとその憎しみの理由について、回答を求めます』

 結びに――『わたしたちは、あなたとの対話を望む』と」


《了解。振動パターン切替……完了。送信まで、5カウント》


 球殻の外殻が、深く息を吸うようにわずか身じろぐ。

 わたしは瞼を閉じ、腹部へ意識を沈めた。デルワーズが守りたかった小さな光を、今度はわたしが抱きしめて未来へ繋ぐ――その想いが、荒れ狂う鼓動を不思議と鎮めていく。


《スリー……ツー……ワン》


 無音の衝撃波が球殻の内壁を軋ませ、祈りにも似た問いを深淵へ叩き込む。震える余韻は先刻よりも長く、骨髄の奥で鈍く共振しつづけた。


 副タイマ〈00:00:30〉が点灯するやいなや、漆黒の孔の縁で白い粒子が微かに弾ける。肉眼では掴み切れぬほど淡いが、確実に “何か” が蠢いた。


 ヴォルフが短く息を呑む。直後、レシュトルの警告タグが赤く浮き上がった。


《局所魔素濃度+3% / 未知ホログラム生成兆候を検知》


「……来る」


 囁きと同時に、孔の周囲へ光の砂鉄が吸い寄せられ、粗い網目のスクリーンを編み上げる。緑色の光は湿度も熱も帯びず、ガラスを爪で引いたときのような乾いた硬質さだけを残した。走査線が淡く往復し、不完全な文字列が現れては粉雪のノイズに崩れ落ちる。――再構築。


 眩むほど硬質な明滅が数度繰り返され、最後のフレームで古代バルファの典礼書体が静かに像を結ぶ。


╔═ W A I T I N G═══════╗

╠═ 待ちかねたぞ、デルワーズ ═╣

╚═ …… ═══════════╝


 三行がひとつに畳まれた瞬間、球殻を満たす空気がぱきりと凍り、吐息が白く弾けた。次の鼓動が来る前に、温度計の針がわずかに振れ落ちる。

 レシュトルの HUD では外圧上昇と IVG 安定指数の急降下が同時に点滅し、警告色が視界の縁を真紅に染める。


 呼ばれた名は“メービス”ではなく、“デルワーズ”。

 緑のドットで構成された無機質な文字列が、冷徹な刃となって胸骨を抉った。

 漆黒のプレートに封じられていたロスコーの記憶――殺戮を宿命づけられた彼女の生が、抑えきれぬ奔流となって逆流し、胃の腑を一瞬で氷結させる。


──〈待ちかねたぞ、デルワーズ〉。


 ホログラムの一行は熱も音も伴わず宙に浮き、裁定者の目のようにわたしたちを俯瞰している。その無言の凝視が胸骨を叩き、鼓動が鈍い衝撃波となって全身に返る。

 孔の向こうから伸びる“意志”の指先が、魂の中枢へ直接触れた――そう悟った瞬間、膝上の指が自覚もなく強く絡み合った。


 ヴォルフが喉の奥で呻きを噛み殺す。


「古代から連綿と続く怨念だというのか……」


「──そういうことになるわね」


 我ながら澄み切った声が零れた。ひとこと告げただけで、空気が氷面のように張り詰める。


 彼らは“わたし”を探していたのではない。

 最初から〈デルワーズ〉という札を掲げ、この座標で獲物が訪れる瞬間を待ち受けていた。揺るがぬ事実が骨まで染み、背骨がわずかに痺れる。


 ヴォルフの手が反射的に動く。革手袋越しの親指が、ガイザルグレイルの柄をそっと撫でた。金属と革の擦過音――小さく、しかし耳奥に鋼線を弾くような鋭さで響く。その親指は白く強張り、警戒がゆるぎないことを示していた。


「言いがかりだろう、それは。メービスは始祖デルワーズじゃない。お前は、お前だ。なのに、なぜ名指しでこれほどの憎悪を向ける……」


 低い声に乗った怒気は、静寂の表面をかすかに割る刃のようだ。


「子々孫々まで続く恨み──そんな単純な話ではないのよ」


 わたしは視線を孔から外さず、息を整える。


「だからこそ、問いただす。彼女が遺した“想い”を無駄にしないために――」


◇◇◇


■兵器の覚醒 ― 恋と母性の芽生え

 無機質な硝子に響いたのは、たったひとひらの甘味だった。

 薄いシロップ菓子を舌に載せたその瞬間、“対精霊族殲滅兵器”と呼ばれた器の瞳に、初めて灯った微かな光――「おいしい」。

 小さな呟きが、兵器と人間の境界を静かに溶かし始める。


 次に芽吹いたのは、戦場で出会った少年ライルズの純粋な優しさ。

 恋が時間を動かした一拍で、空虚だった器には春が押し寄せた。

 そして、胎動。

 エリシア――“暗闇でも光を見いだす”と祈りを込めた、娘の産声。

 柔らかな産衣の温度は剣戟より鋭くデルワーズを貫き、「守る」という言葉を骨へ刻む。兵器にまとわりついていた冷たさは、溶け残った雪のように静かに消えた。


 しかし戦乱は待たない。

 難民キャンプを焼く爆撃の中、暴走しかけた彼女を抱きとめたのはライルズが差し出した白き剣――マウザーグレイル。本来制御装置であるそれが、皮肉にも彼女の人間性を繋ぎ止める最後の絆だった。


 そして、「母だから戦う。母だから死ねない」とデルワーズは立ち上がり、母性は鋼より硬い意志へ鍛え直された。

 ……だからこそ、子の笑顔は“武器”より重い。


 ■写し身の葛藤

 ――その生を、わたしは禁書庫で一滴残らず飲み込んだ。

 甘味の記憶、恋に染まる横顔、産声に震える腕。

 “他人”のはずなのに涙腺を支配する記憶は、檻にも翼にもなる。

 兵器としての運命と、母性の温もり。両極がせめぎ合い、若枝のように軋むわたしの心。


 それでも悟る。

 ほんとうは、あの人は独りで終わりたくなかった。

 だから、巫女と騎士のシステムには、“幸福を選ぶ自由”が密かに埋め込まれたのだ、と。


 ■継承される祈り

 兵器として設計された魂が“受け入れる/育む”へ反転した軌跡。

 それは鏡より鋭い問いをわたしに返す――力は殺すためか、抱きしめるためか。

 今のわたしなら、剣を握る指先でさえ誰かを守る腕に変えられる。


 デルワーズが娘に託した希望は、時を越え、黒髪の巫女メービスの胸で脈打つ。

 守る者として終章を書き換えると誓った今、兵器の悲劇は未来を拓く礎に変わる。

 “ふたりで分け合う幸福”は、ここで芽を出すのだ。


 だから負けられない。

 だから、真実を突き止めねばならない。


◇◇◇


 聞きたかった。

 闇が憎しみだけで生まれるのなら、光もまた、痛みから芽吹くはずだと信じたから。


 胸奥で硬質な拍が一閃し、血流に灼けた鉄の熱が奔る。わたしは球殻の内側へ声を滑り込ませた。風より細い祈りの糸、けれど刃より鋭い問い。


「――聞こえているのでしょう?

 あなたは誰? なぜこの世界を執拗に狙う?

 そして、なぜデルワーズを知り、今もなお憎み続けるの?」


 返答はなく、沈黙だけが深く沈殿する。孔の前で揺らめく緑光は無感情な鏡となり、わたしの鼓動だけを冷たく増幅した。

 静謐の芯で IVG フィールドがきしみ、維持限界を告げる赤いカウントが滴るように光を落とす。


≪WARNING: 維持限界120秒で〈Plan_C〉へ移行します≫


 胸裏に潜む秒針が、余韻を残さず一つ跳ねた――あと百二十。


「……時間がない。このままでは戻れなくなるぞ、メービス」


 ヴォルフの低い声が、凪いだ水面に小石を投じるように波紋を走らせる。無表情を貫く蒼眼に、わずかな靄が浮かんだ。


 それでもわたしは退かない。背後で芽吹く小さな鼓動が脊髄を打ち、未来へ押し出す。


「ええ。だから戻らない。ただ――前へ進むだけよ」


「……わかった」


 納めかけた剣に彼の指が再び掛かる。革巻きの柄が微かに軋み、刃が鞘の奥で震えを孕む。その音こそ、彼が示す「備える」という唯一の言語。


 前方のホログラムが翡翠めく光を帯び、わたしの視線をひと呼吸だけ掬い上げる――すぐに色は褪せ、溶けるように闇へ沈んだ。

 耳を打つのは、自分の脈が薄氷を叩く音だけ。息を吸えば胸郭が軋み、吐けば硝子の結露のように白い靄が揺らいだ。


「……打ち込む前に、もう一度だけ。今度は――わたしの言葉で聞いてもらうわ」


 ――ヴォルフの低声が、抜き身の剣さながらに空気を細く裂く。球殻を包む静寂は、さらに薄く尖り、呼吸一つで割れてしまいそうだ。


 わたしは喉奥の火種を掬い取り、音節へと形を与える。炎の芯に触れるような慎重さで、それでも揺らがぬ意志を宿して。


「わたしはメービス。デルワーズの名に足る力などない。彼女の託宣を受けた“代行者”に過ぎない。

 一人の母となる身として、今一度問う――

 彼女を憎むあなたは、いったい“誰”なの?」


 沈黙――しかし虚ろではない。孔の縁で磁性砂が細かな呼吸を繰り返し、光の粉が蠢く。挑発か、逡巡か。読み切れぬ揺らぎが肌を撫でた。


 副タイマ〈00:00:45〉。


 ヴォルフの眼が、迷いすら呑み込んで静かに燃える。わたしは視線を緑のパネルへ戻し、わずかに顎を上げた。


 言葉は届かぬかもしれない。だが屈する理由も、ここにはない。

 最後の札を静かに裏返す。


「……答えぬというのなら、こちらから名乗りましょうか」


 声は囁きよりも細く、けれど聖域の骨格を震わせるほど硬い。

 空気が一拍、脈を失う。


「あなたの名は――」


 ホログラムが鋭くビリジアンの稲妻を走らせ、粉雪めいたグリッチが画面を覆い、すぐに静まり返る。


「かつて統一管理機構が世界を統べるために築いたシステム・バルファ。

 その制御中枢に座する、中核意識集合体――

 その呼称は……“ラオロ・バルガス”という。違うかしら?」


 ラオロ・バルガス――冷えた鋼片が舌先を裂いたかのような、硬い子音の連なり。


 沈黙。


 だが確かに、世界が脈を打った。孔の輪郭がかすかに歪み、粒子軌道が軋む音を発する。IVGのメーターが瞬間、震幅を描いて跳ね上がった――夜明け前の心音のように。


```

〈圧力 +0.02 Pa〉

〈HUDノイズ信号:断片検出/形式未確定〉

```


 返事はなお落ちてこない。けれど沈黙は、闇の底に刻まれた裂傷のようにわたしの言葉を抱え込んでいる。

 胸奥――デルワーズの残響が、湖面へ落ちる雨粒の輪紋のように微かに揺れた。託された願いはもう他人のものではない。続きを綴る手は、わたし自身の鼓動だ。


 視線を下げれば、ヴォルフの指が包むガイザルグレイルの柄に、白刃じみた光が宿る。刃鳴りひとつ立てない決意が、刃の根元で静かに脈打っていた。


 ――もはや言葉では届かない。

 沈黙は、行動でこそ破れる壁。


 その瞬間が、濃密な息づかいとなって迫っている。

 ふいに、わたしを包むフィールドが、くぅん、と赤子が寝返りをうつように微かに震えた。その振動は外からの衝撃ではなく、内側から――わたしの腹の奥から生まれた揺らぎと共鳴し、守るべき小さな命の存在を、肌で感じさせる。

 守らなければ。

 この手で。この翼で。

 わたしの瞳に、揺るぎない光が宿った。澄み切った光点が、黒孔の闇へ小さく焼き付く。


 その瞬間。フィールド外殻が低く呻き、「ピン……」と、氷膜が割れる音が、静寂の只中に響き渡った。

 HUDの片隅に、赤いルビを振られた警告が一瞬だけ点滅して消える。


`〈外殻応力:∞〉`

さて、穴の向こうに居るのは本当にラオロ・バルガスなのか?

どうしてスペック足らずのメービスの肉体なのに、デルワーズと同一視するのか?


それは置いておいて、今回のメービスとヴォルフ

 メービスは、いくつもの顔を持っている。王として、国を率いなければならない。巫女として、世界の構造そのものに干渉する責任を背負う。母として、まだ形も声もない命を、たったひとりで守っている。そして、そのすべての殻の奥に、メービス(美鶴/ミツル)という一人の女性が確かに、息をひそめている。


 この場面での彼女は、どの役割の顔も捨ててはいない。けれど、それらを全部まとったまま、“ひとりの人間”として、黒孔に問いかけている。

 ――わたしは、それでも知りたい。あなたがなぜ、デルワーズを、わたしたちを、世界を、憎むのか。


「女王」としての冷静な決断力、「巫女」としての系譜と対話の資格、「母」としての命への祈り、そして、ただの、ひとりの女性としての、勇気。

 それらが今、迷いや恐れの上に、ひとつの声に結ばれた。問いかけは、ためらいながらもまっすぐで、震えていない。でも、それは決して強がりではなくて、必死な“ありのまま”だった。


 そしてヴォルフ。

 彼は、言わない。「やめろ」とも、「無理だ」とも、「俺が代わる」とも。ただ、「……わかった」と、短く応える。

 本当は、不安なのだ。彼女が耐えきれないかもしれないこと、時間がないこと、このままでは戻れないかもしれないこと――全部、わかっている。

 けれど彼は、「黙って、彼女に任せる」。それは諦めではなく、深い尊重と、理解。

 若い男なら、止める。焦って怒鳴る。言葉で制しようとする。だって、怖いから。自分が守れない未来が、怖いから。けれどヴォルフは、彼女を止めない。

 メービスという人間を、ただ“守るべき女”としてではなく、“信じるべき人”として見ているから。

 彼女が、何を見ようとしているのか。何を言おうとしているのか。どれほどの痛みを、その問いに込めているのか。彼には、わかっている。ずっと隣にいて、見てきたから。

 だから、「わかった」としか言わない。言葉を重ねるのは、彼女の番だから。


「ふたつでひとつのツバサ」という言葉は、ただの比喩ではない。それは、“どちらかが前に出たとき、もう片方は静かに支える”という、ふたりの呼吸そのもの。

 この場面で、飛んでいるのはメービス。彼女が世界に問いかけている。ヴォルフはその横で、剣を握ったまま、ただ傍に在る。声を荒げず、命令せず、説得もせず。ただ、「彼女が彼女であることを許す」、静かな愛し方をしている。

 それは、“夫”として、それは、“騎士”として、そして、“対等なもう半身”としての在り方。

 こんなふたりだからこそ、どんなに深い闇の前でも、“ふたつでひとつのツバサ”で、飛んでいけるのだと思うのです。



統一管理機構、システム・バルファ、及び精霊族との紛争に関する経緯と考察(『黒髪のグロンダイル』第五章までの情報に基づく)


1. 序論

 本レポートは、『黒髪のグロンダイル』第五章までに開示された情報に基づき、「統一管理機構」およびその管理体制である「システム・バルファ」の概要と、長年にわたり続く「精霊族」との紛争の背景、構造、そして現状について分析・考察するものである。


2. 背景:統一管理機構とシステム・バルファ

2.1. 設立経緯

 はるか昔、世界が環境破壊、資源枯渇、絶え間ない紛争によって混乱を極めた時代、その事態を収拾し、人類の存続を図るために超国家的な統治組織として「統一管理機構」が設立された。


2.2. 「理想社会」の設計思想

 統一管理機構は、世界の再建と恒久的な平和の実現のため、巨大社会管理システム「システム・バルファ」を導入した。その根幹には、「理想社会の実現には、理想の人類の存在が不可欠である」という設計思想がある。


徹底した合理性と効率性

 システムは、遺伝子情報から感情、思想に至るまで、人類のあらゆる側面を管理する。人工子宮プラントによる「計画的調整生産」によって人類は自然生殖能力を失い、遺伝的欠陥や犯罪性向といった「不確定要素」は事前に排除される。


統制による秩序

 教育と情報管理を徹底し、人々がシステムに疑問を抱かない、完全に制御された秩序の中で機能する社会が構築された。


3. 核心的存在:ラオロ・バルガスとその矛盾

3.1. 正体

 「ラオロ・バルガス」とは、システム・バルファの最奥に存在する中核意識集合体コアユニットである。神に等しい演算能力と力で世界全体を統括しており、クロセスバーナの「バルファ正教」が崇める「唯一神バルファ」の正体であると推測される。


3.2. 矛盾する目的(作中での仮説)

 システム・バルファの最大の矛盾は、完璧な管理社会を目指しながら、その秩序を乱す「精霊族因子」の発生を根絶できていない点にある。これに対し、作中では以下の仮説が立てられている。


意図的な因子の埋め込み

 ラオロバルガス自身が、意図的に精霊族因子を人類の遺伝子に埋め込み、その存在を許容している可能性がある。


壮大な進化の実験

 その目的は、統一管理機構が目指す「完全に制御された人類」と、自然と調和し異なる可能性を持つ「精霊族因子を持つ人類」という二つの種を意図的に競わせ、どちらが未来の種としてより優れているかを見極めるための、壮大な「進化の実験」であるというものである。


4. 精霊族との紛争史

4.1. 迫害の始まり

 システム・バルファの管理下において、予測・制御できない「精霊族因子」を持つ者は、システムの秩序を乱す「異端者」「危険分子」と見なされ、長きにわたり社会的な迫害と物理的な排除の対象とされてきた。


4.2. 反抗勢力の形成と戦争への発展

 迫害を逃れた者たちが、辺境に隠れ住む元来の精霊族に合流し、やがて大きなコミュニティを形成。これを将来的な「脅威」と見なした統一管理機構は、「精霊族殲滅計画」を策定した。これにより、両者の対立は決定的なものとなり、全面的な戦争状態へと発展した。精霊族側もバルファ社会からの離反者レナード・フェンなどの技術協力を得て、紛争は泥沼化していった。


5. 特異点:デルワーズとミツルの役割

5.1. デルワーズ ― 矛盾の体現者

 「精霊族殲滅計画」の切り札として、精霊族の遺伝子を基盤に生み出された対精霊族用兵器。

 「精霊族の巫女の遺伝子をベースに設計」された彼女は、システムが生み出した最大の矛盾を体現する存在である。しかし、彼女は心を得て自らの創造主に反旗を翻し、システムの打倒を目指す存在へと変貌した。


5.2. ミツル ― 運命の継承者

主人公ミツルは、そのデルワーズの「写し身」とも言える因子と、マウザーグレイルという「鍵」を受け継いだ存在である。彼女の意思とは関わりなく、その出自そのものが、この古代から続く壮大な紛争と、ラオロバルガスの思惑の中心に彼女を位置づけている。


【補足】ミツルの特異性について

 上記のレポート内容に対し、ミツルの存在に関する重要な補足情報を追記する。


 リーディス王家に代々生まれる「黒髪の巫女」たちは、デルワーズの血筋こそ受け継いでいるものの、あくまで自然な形でその因子が発現した存在であり、兵器としての彼女の特異な能力、いわば「デルワーズスペック」までは継承していない。


 それに対し、主人公ミツルだけが、その血筋に加えて、オリジナルであるデルワーズに匹敵するほどの規格外の力(深淵の黒鶴)と、それを制御するためのマウザーグレイルとの深い親和性を意図的に与えられた、唯一無二の特別な存在である。


 この事実は、ミツルの力の異質性と、彼女が背負う宿命の重さをより一層明確にする。デルワーズ(あるいは何者か)が、単なる巫女ではなく、まさに「デルワーズの後継者」としてミツルをこの世に生み出したという推測が、これにより強い説得力を持つ。


6. 結論

 統一管理社会と精霊族との戦争は、単なるイデオロギーや領土の対立ではない。それは、神のごときAI「ラオロバルガス」によって仕組まれた可能性のある、人類の未来を賭けた二つの進化系統の生存競争である。主人公ミツルは、その因果の中心に「特別」に生み出された存在として、世界の歪んだ真実と向き合い、自らの意志で未来を選択していくことを迫られている。今後の彼女の行動が、この長きにわたる紛争の行方を左右することは間違いないだろう。


以上




特異個体「デルワーズ」の出自、経緯、および物語における役割と意義に関する考察


1. 序論

 デルワーズは、『黒髪のグロンダイル』第五章において、主にロスコーの記憶(黒いプレート)やミツルの前世の記憶を通じて語られる、物語の根幹に関わる極めて重要な人物である。彼女の悲劇的な運命と変容の軌跡は、この世界の歪んだ歴史そのものを象徴しており、主人公ミツルが背負う宿命の根源となっている。本レポートは、第五章で開示された情報に基づき、彼女の存在を多角的に分析・考察するものである。


2. 存在の定義:対精霊族殲滅兵器

出自

  デルワーズは、古代科学文明の遺産である「システム・バルファ」を管理する「統一管理機構」によって、意図的に生み出された存在である。その目的は、システムの秩序を乱す「異端者」と見なされた精霊族を根絶するための「精霊族殲滅計画」を遂行する、究極の兵器となることであった。


設計

  精霊族、特に「巫女」の遺伝子を基盤としながら、その能力を戦闘と殲滅のために極限まで歪め、調整されている。このため、彼女はミツルと同じく「漆黒の髪と若翡翠色の瞳」を持つ。


能力:

 彼女専用に設計された聖剣「マウザーグレイル」と対になることで、その真価を発揮する。「IVGシステム(次元間ベクトル重力システム)」と精霊魔術を融合させた圧倒的な戦闘能力を誇る。しかし、精神的な負荷を抑制するリミッターが存在せず、常に暴走と自滅の危険性を内包していた。


3. 変質の軌跡

兵器から「人」へ

 兵器として、感情を持たずに生まれたデルワーズであったが、他者との交流を通じて、その内面は劇的な変容を遂げる。


覚醒の兆し

 調整担当の技術者ロスコーとのささやかな交流が、その最初のきっかけであった。彼が与えた「デルワーズ」という名前、見せてくれた外界の映像、そして初めて口にした菓子の「おいしい」という感覚が、彼女の中に眠っていた人間性の種子を芽吹かせた。


運命の転機

 実戦配備後、精霊族の少年ライルズが小さなウサギを守ろうとする姿に心を奪われ、兵器としてのプログラムに反して攻撃を躊躇。その隙を突かれ、意識を失う。


愛と家族の獲得

 彼女を救ったのは、敵であるはずの精霊族、ライルズの父レナード・フェンであった。彼とその家族(妻ニナ、息子ライルズ)に「人」として扱われる中で、デルワーズは家族の温もり、そしてライルズへの恋心を知る。やがて二人は結ばれ、娘エリシアを授かり、彼女は「母」となった。


4. 母としての決意と戦い

 つかの間の幸せは、バルファ軍の襲撃によって終わりを告げる。


守るための力

 家族を守るため、デルワーズはマウザーグレイル無しで力を解放し、敵を殲滅するが、力の代償(黒鶴の呪い)により暴走しかける。その危機を、マウザーグレイルを持ってきたライルズの愛によって救われる。


罪と向き合う覚悟

 難民キャンプでの迫害に苦しみながらも、彼女は過去に犯した殺戮の罪から目を逸らさず、娘エリシアの未来のために、そして歪んだ世界そのものに抗うため、再びマウザーグレイルを手に取り「戦う」ことを自らの意志で選択する。彼女の力は、もはや「殲滅」のためではなく、「守る」ためのものへと変質していた。


5. 推測される結末とミツルへの「託し」

 第五章では、デルワーズの明確な最後は描かれていない。しかし、ミツルの前世の記憶や考察から、その後の過酷な運命が強く示唆されている。


肉体の喪失と孤独な戦い

ミツルの前世の記憶によれば、デルワーズは肉体を失い、意識だけが「精霊器」として残り、愛する人との約束を果たすため、悠久の時を孤独に戦い続けていたとされる。


ミツルへの願い

 彼女は、愛する家族の元へ帰るという幸福を手にすることができなかった。そのため、自分と同じ因子と力を持ち、かつ前世で過酷な運命を乗り越えてきた魂を持つミツルに、自らが果たせなかった「夢」や「しあわせ」を託したのではないか、とミツルは推測している。それは、ミツルに「自分のようになってほしくない、あなただけは幸せになってほしい」という、母にも似た切実な祈りであったのかもしれない。


6. 結論:物語におけるデルワーズの意義

 デルワーズは、リーディス王家に伝わる「巫女」伝説の源流に位置する「“巫女の元型オリジナル”」であり、物語全体の悲劇性とテーマ性を象徴する存在である。兵器として生まれながら、愛によって人間性を取り戻し、母として未来のために戦い、自己を犠牲にした彼女の物語は、単なる過去のエピソードではない。彼女がミツルに託したであろう「願い」と「力」は、主人公ミツルの旅路そのものを決定づける、根源的な駆動力となっている。彼女の運命を解き明かすことは、ミツルが自分自身と、この世界の真実を知ることに他ならない。


以上




巫女と騎士のシステム レポート

――孤独を癒す、魂の双翼

 その正式名称は、『Système de l'Épée Sacrée : Prêtresse et Chevalier』(システム・ドゥ・レペ・サクレ:プレトレス・エ・シュヴァリエ――巫女と騎士のシステム)。


 それは、単なる力の増幅装置ではない。力を持つがゆえに孤独を強いられた未来の巫女たちの魂を癒し、その隣に、決して離れることのない「半身」を置くための、愛と信頼のシステム。


 その根底にある設計思想は、ただ一つ。


「魂は引き継げても、孤独まで連鎖させてはいけない」


 という、彼女が遺した、母のような、切なる願い。


1. システムの第一目的――不完全な巫女を、戦う存在へ

 本システムの根幹を成す第一の機能は、本来、戦闘向きではない「巫女」を、対魔獣・魔族戦闘に対応させることである。


 リーディス王家に稀に生まれる黒髪の巫女は、たしかに始祖デルワーズと同一の容姿を持ってはいるが、彼女たちが持つ潜在能力は、あくまで「精霊族の巫女」のレベルに留まる。すなわち、戦闘兵器として異常なまでに能力を引き上げられたデルワーズ本人には、到底届かない。加えて、彼女たちには、複雑な精霊魔術を編み上げるためのノウハウも、実戦経験も決定的に不足している。


 その、いわば「不完全な器」を、真に世界を守るための力へと昇華させる。そのためにこそ、マウザーグレイルに内蔵されたサポートAI「レシュトル」と、そして「騎士」という存在が不可欠となる。


2. 二つで一つの魂――「吸う者」と「放つ者」

 このシステムの核心は、精霊魔術を行使する際のプロセスを、巫女と騎士、その二人の間で完全に分担・循環させることにある。


巫女マウザーグレイルの役割:世界を吸う「器」

 彼女の役割は「酸化剤」。レシュトルによる術式構築の全面的なサポートを受けることで、彼女は、複雑な現象の制御から解放され、ただひたすらに、世界にあまねく存在する高密度情報体「精霊子ちから」を、その身を「器」として集め、純化し、途切れることのない力の奔流を生み出すことに、その全ての意識を集中させることができる。彼女は、力の流れを創り出す、源泉そのもの。


騎士ガイザルグレイルの役割:願いを放つ「刃」

 騎士の役割は「高速噴射ノズル」。巫女から送られてくる、純化された力の奔流をその身に受け止め、自らが鍛え上げた剣技をもって、それを戦場へと解き放つ。騎士は、巫女の願いを形にする、最強の「刃」となる。


 この役割分担により、巫女が単独で魔術を行使する際に強いられる、「力の集積」と「現象の行使」という二つの精神的・肉体的負荷は劇的に低減される。特に、巫女の魂の器である大脳辺縁系(精霊器)への過負荷は最小限に抑えられ、力の暴走という最悪の事態を回避するための、究極の安全装置としても機能する。


3. 二振りの聖剣――月と、明けの明星

 この魂の接続を可能にするのが、対をなす二振りの聖剣である。


聖剣マウザーグレイル(巫女の剣)

 癒しと守護を司る、「月」の剣。その内部には、管理AI「レシュトル」と、完全物理制御「IVGシステム」が搭載されており、術式の最適化、情報支援、そして絶対的な防御フィールドの展開といった、多彩な機能で巫女をサポートする。


聖剣ガイザルグレイル(騎士の剣)

 断ち切り、切り拓くことを司る、「明けの明星」の剣。管理AIやIVGシステムといった複雑な機能は意図的に排除され、その能力は「斬る」という一点に、極限まで特化している。騎士の「斬る」という純粋な意志に呼応し、その刃は分子レベルで先鋭化され、この世に斬れないものは存在しないとまで言われる、異常な切れ味を発揮する。


 この二振りが揃い、そして次項で述べる「魂の条件」が満たされた時、初めてシステムはその真の姿を現す。


4. 起動の条件――「信頼」という名の、魂の共鳴

 システムの起動に必要なのは、膨大な精霊子の絶対量ではない。

 創造主デルワーズが求めたのは、ただ一つ。


「“大切なものを護りたい”という、純粋で折れぬ意志」


 そして、その意志を共有し、互いの魂を預け合うことができる、巫女と騎士の間の、絶対的な信頼と、言葉にはならぬほどの深い愛情。この「魂の共鳴」こそが、システムの起動トリガー。


 この条件を満たし、巫女マウザーグレイルが、その騎士を「我が半身として相応しい」と認めた時、ガイザルグレイルに組み込まれた「疑似精霊族化プログラム」が発動。騎士の大脳辺縁系は、巫女の魂と完全に共鳴(精霊子通信)するための変異を起こし、二つの魂は、言葉を必要としないレベルで、完全にリンクする。


5. 顕現する権能――奇跡の連携術式

 システムが起動した時、二人は、個の力の総和を遥かに超えた、新たな次元の力を手に入れる。


精霊魔術の共有・顕現

 巫女が生み出した(レシュトルが補助)力の奔流を、騎士は、自らの剣技として、ガイザルグレイルの刀身に直接纏わせることが可能となる。炎の刃、氷の斬撃、風の衝撃波――。巫女の想念が、騎士の剣を通して、遅延なく、そしてより強力に、戦場に具現化される。


ストアエネルギーの解放と貯蔵

 IVGフィールドが吸収し、マウザーグレイルが蓄積したエネルギーを、騎士が斬撃に乗せて解放する。あるいは、ガイザルグレイルの内部に存在する「空洞」を予備タンクとし、そこにエネルギーを一時的に蓄え、戦局を覆す最後の一手として用いることも可能となる。


結論 孤独を癒し、未来を拓くための剣

 「巫女と騎士のシステム」とは、単なる戦闘システムではない。

 それは孤独を強いられてきた、哀しき巫女たちの魂を癒し、その隣に、共に痛み、共に喜び、そして共に未来を歩む「半身」を置くための、デルワーズが遺した、愛と祈りの結晶。


「一人で背負ってはだめ。わたしのようになってはだめ」という警鐘

 メービスの「わたしがすべて背負えばいい」という自己犠牲の精神は、まさにデルワーズが最も恐れた、「ひとり」で戦おうとする魂のあり方そのもの。彼女が力を使い果たし倒れたのは、この警鐘が作動した結果とも言える。


 一方、ヴィルが「止めればこいつを穢すことになる」と苦悩したのもまた、このシステムの巧妙さです。彼は、彼女の高潔な魂を尊重するあまり、一歩引いて見守ろうとした。しかし、このシステムが求めるのは、遠くからの守護ではない。たとえ相手の聖域に踏み込み、嫌われ憎まれようとも、その重荷を無理やりにでも分かち合い、共に泥にまみれる覚悟を、騎士に求めている。


 彼らが本当に「ふたつでひとつのツバサ」となったのは、互いが「ひとり」で戦うことの限界を知り、相手の罪も弱さも、自らのものとして「共に背負う」と決意した、あの瞬間からだった。


「巫女と騎士システム」とは、戦闘のための仕組みであると同時に、デルワーズが、自らの悲劇的な生涯を反面教師として遺した、「孤独に対する、最も効果的なワクチン」だった。


 それは、強大な力を手にした者が陥りがちな「孤独」と「傲慢」を防ぎ、強制的に他者との絆を求めさせる、あまりにも人間的で、そして愛に満ちた「呪い」にも似た祝福。


 「黒髪の巫女」にかけられた本当の呪いとは、その力ではなく、「ひとり」であることの痛み。デルワーズの真の願いは、その呪いを、「ふたり」でなければ生きられないという宿命へと転換させることだった。

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