毛布の温度、希望の温度
夜明け前。霧を孕んだ冷気が谷底から這い上がり、肺を刺した。吐く息は白く千切れ、頬の産毛を凍らせる。焚き火の群れは灰色の靄にゆっくり呑まれていく。小刻みに震える炎が宙を照らすたび、馬上で揺れる紋章と漆黒の槍頭が淡く浮かび、すぐ闇へ滑り落ちた。
――進軍再開の刻だ。荷車に積まれた魔導灯が一つ、低く唸りながら点る。その赤銅色の光が、ぬかるんだ車輪のわだちをたどり、土と霜をないまぜにした路面に、まるで地の底を流れる火脈のような一筋の線を描いた。
先遣混成軍は、もう言葉を交わすこともなく、三列の縦隊へとその姿を変え、音もなく、目の前にそびえる峠道へと取りついていく。空がまだ群青の深みを残しているうちに、あの稜線を越えなければならない。そして、盆地の中央――《虚無のゆりかご》の発生が予測される、その中心をこの目で視認する。それが、我々に課せられた至上の命題だった。
馬車の中には、三人。進軍の、規則的で、しかし絶え間ない振動に合わせて、天井から吊るされた魔導ランプがかそけき音を立てて揺れ、補助燃焼オイルのどこか懐かしい匂いが淡く漂った。
対座するルシルは、揺れる車内でも、その背筋を少しも崩すことなく、硬い椅子の上で、手にした羊皮紙に行軍記録をまとめている。ペン先が羊皮紙の上をなぞる、その淀みない速さと正確さは、夜半から一睡もしていないはずなのに、少しも衰えを知らない。その揺るぎない仕草が、かえってこの場の非日常を、静かに、そして残酷なまでに際立たせていた。
向かいの座席に身を沈め、膝に広げた地図へ視線を落とす――。羊皮紙の乾いた匂い。その上に引かれたインクの黒い線。その一本一本が、これからわたしたちが辿る、過酷な運命そのものを示しているかのようだった。
――言わねばならない。今しかない。
この、張り詰めてはいても、まだ言葉の交わせる静寂は、おそらく最後の平穏。峠を越えた先で待つ決断の重さが脈拍をひそかに速めていた。
「ヴォルフ、ちょっといいかしら」
車輪が石を噛み、馬車が小さく跳ねる。革張りの座面が軋み、乾いた油の匂いが立った。窓外の闇――さらに奥を探っていた隣の彼が、短く「ん」と声を落とす。吊り灯の橙が頬の陰影を深く刻み、その蒼い瞳にひと滴の火を映した。胸裏の硬い弦が、一拍だけ緩む。
「さっき、レシュトルから経過観測の報告が届いたわ」
ペンの走る音が止む。対座のルシルが手を静止させ、羊皮紙の上に影を落とす。車体がわずかに軋み、息づかいより小さな静寂が車内を満たした。
「気になるな。聞かせてもらおう」
ヴォルフは腕を組み直し、肩越しにルシルへ視線で合図すると、再びわたしへ頷きを返す。板壁に伝う振動が、深い呼吸と重なり合った。
「その前に、まず《虚無のゆりかご》がどういった段階を経て生まれるのか、改めて共有させて」
「ああ」
膝上の地図を指でなぞる。谷を示す細線の間で羊皮紙が霧を吸い、わずかに波打った。
「最初の段階が一次爆縮。膨大な魔素が一点に押し込まれて、空間が“ギュッ”と潰れるの」
「わかる。“息を吸う”みたいなものだな」
灯火が甲冑の縁で瞬き、金属色の光点が彼の横顔を斜めに走った。車輪が再び石を踏み、遠い振動が床を伝って足裏へ揺れる。わたしは呼気を整え、次の言葉を静かに探した。
「そんな感じね――」
指先がひときわ冷えた。地図の紙肌がやけに硬い。
「観測上は、強烈な閃光と衝撃波だけを残して、わずか数秒で収束するわ。──そしてすぐに一次拡散が起きる。潰れた空間が弾み返す反動で、余ったエネルギーが四散するの。それが最初にわたしたちを襲った爆風よ」
説明を吐き切った肺がじわりと焼け、冷気が刃のように吸い込まれる。山麓の向こう側から届いた、あの耳鳴りを伴う衝撃――。
視界の端で、吊り灯の火がかすかに瞬き、誰も口にしない記憶が車内に影を落とす。わたしは地図をつかむ指を強く握り込み、かさり――紙の縁が擦れ、その乾いた余韻が指先に残った。
「山麓の向こうからであの威力。つまり……首都ハロエズ周辺の被害状況は――」
言いかけて、唇をそっと閉ざす。羊皮紙に刷られた地名の上を灯火が揺れ、赤錆の影が滲む。惨状を思い描くには、想像力がありすぎた。喉に上がった鉄の味を飲み込み、再び声色を整える。
「……ここから二次爆縮までの猶予は、ケースによって違うけれど……カウントは確実に減り始めるはずなの。それが尽きれば二次爆縮──散った魔素が再収束し、二度目の圧壊が起こる。そこで“次元境界”、すなわち空間に穴が穿たれ、そこから魔獣が湧き出し始める……」
「巣窟現出後の魔素活性度は極大です。魔獣の湧出は尽きることがありません。そうなれば、もはや地域ごと『包囲』して、漏れ出してくる魔獣を『殲滅』する以外の選択肢はなくなります」
ルシルが低く言い添える。ペンを置いた指先が、ほの暗いランプ光の下でわずかに震えたのを、わたしは見逃さなかった。
沈黙が、ひと呼吸ぶんだけ車内を満たす。その地図から目を上げ、ヴォルフへ。続いてルシルへ――交互に目を合わせた。橙の灯が二人の瞳にちらつく小さな炎を宿し、その奥で、それぞれが抱える覚悟の色を、わたしは確かに見た。
「けどね、今回はおかしいのよ」
灯芯がパチ、と鳴り、ランプの影が壁を這う。
「というと?」
ヴォルフの訝しむ眉がわずかに寄る。甲冑の肩板が揺れ、革紐の継ぎ目がかすかに軋んだ。
「一次爆縮と一次拡散までは、すでに終わった。でも、レシュトルが示す二次爆縮へ向けたカウントが、十八分でぴたっと止まったまま、一向に進んでいないの」
言いながら、指先で膝の地図をたぐる。羊皮紙に刷られた時刻目盛りの上で、ランプの光が震えた。
「それはどういうことだ?」
低い声が木壁にこもり、馬車の揺れと重なって背筋に響く。
「レシュトルの推測では、エネルギーが内部で“息を吸ったまま止まった”状態らしいわ。言うなれば炸薬に火はついたけれど、弾がまだ砲身から出てこない――そんな感じよ。しかも、その間に内部の魔素は通常の三倍以上に膨れ上がっている、と」
ヴォルフの眉間に深い縦皺が刻まれた。吊り灯の橙が皺の奥で鈍く揺れ、彼の呼気が白く滲む。
「……なるほど。剣でいえば――腹の底に気を詰め、腕も肩も張り切ったまま、次の一太刀を振り下ろす寸前。溜めが長いぶん、振り下ろされた瞬間には手遅れってやつか」
剣士らしい的確な比喩に、わたしは小さく頷く。地図の端を掴む指に、紙の縁が食い込み白くなった。
「そして問題は、その“次の一撃”がもたらす副作用よ。レシュトルは二つの危険性を指摘しているわ。一つは“反重力歪曲”。二次爆縮の渦の中心では重力の向きが乱れて、建造物は上へ引き剥がされながら、同時に地面にも押し潰される。もう一つは渦心の形成。真空のドリル芯みたいなコアが、地下を抉りながら拡大していく――」
「ちょっと待ってくれ。俺には難しすぎて意味がよくわからん」
ヴォルフが額を指先で押さえ、戸惑いを隠さず吐息を漏らす。車輪が轍にとられ、馬車がぐらりと傾いた。
「ごめん。ついレシュトルの受け売りで突っ走っちゃった。……要するに、二度目の爆発が起きれば、そのあまりの大きな力が地盤や地下坑道にまで大打撃を与えるってことよ」
「むぅ……」
喉奥で低く唸り、ヴォルフが視線を地図へ落とす。指先で盆地を形どる線をなぞり、険しい稜線の先に目を細めた。
「地下施設――つまり、坑道に逃げ延びている人々の生存率は?」
ルシルがペンを静かに置き、澄んだ声で問う。医師のそれとわかる、冷静で切実な響きだった。
「……レシュトルが言うには、その場合五割未満。天井岩盤が“裏返る”ように崩落する危険性があるそうよ」
わたしは指先で羊皮紙をなぞり、坑道を示す細い線のうえに影を落とす。揺れるランプの灯が、線と線の隙間で脈打ち、まるでそこに潜む暗い空洞をあぶり出すかのようだった。
「“静かすぎる狩場ほど獣が潜む”――まさにその状態ですね」
ルシルが書き込んでいた羽根ペンをそっと置き、瞳を細める。月白色のまつげが震え、細い息が吐き出されるたびにランプの炎がかすかに揺れた。
「そうね……」
胸膜の奥で心音が一拍だけ逸れ、喉奥に冷たい金属球が落ちた。
やがて思考の奥から、忘れかけていた地名が浮かび上がる。
「……そういえば、“ハムロ渓谷”のこと、思い出したわ」
名前を口にするだけで、乾いた岩肌が崩れ落ちる轟音が幻のように蘇る。ランプの光が卓上の水差しに反射し、渓谷の断崖を連想させる鋭い稜線を天井に投げた。
「あれか……」
ヴォルフは肘掛けに置いた手を握り込み、革手袋の縫い目が張って軋む。蒼い瞳が一瞬だけ遠い闇を彷徨い、再び焦点を結ぶ。
「たしかに、今回感じた爆風は、規模も威力も北方遠征の時とは段違いだ。もし、次の爆発であれに匹敵する地殻変動が起きるとすれば……」
言葉の末尾で声が掠れ、車輪が深い轍に落ちた衝撃が床板を伝う。吊り灯が揺れて火影が乱れ、三人の影が壁に重なり一つになった。
ルシルは聞き慣れない地名に目を瞬かせた。医師の白衣の袖がわずかに揺れ、胸元の聴診器がかすかに触れ合う音を立てる。それは、この時代にはまだ“発生していない”、ある巨大な厄災の爪痕を指すのだから――。
◇◇◇
【ハムロ渓谷の回想】
――それは、この時代よりも、はるか先の未来での出来事。
北の辺境エレダンを発ち、南のリーディスへ向かう途中、ヴィルが「寄り道をしよう」と提案した。鬱蒼たるキカロスの大森林を抜けた先――そこに在ったのが、歴史上最大規模とされる、虚無のゆりかごがもたらした爪痕――「ハムロ渓谷」だった。
広大な森大地は荒々しく削り取られ、生命の気配は一切ない。草木一本生えず、赤茶けた岩肌が、どこまでも広がっている。太陽を乱反射する岩は焼けるように熱を帯び、渓谷全体が陽炎に包まれていた。
空気は乾ききり、ひび割れた唇に砂がざらりと当たる。熱を孕んだ風が赤い砂塵を巻き上げ、視界をわずかに霞ませるたび、長い孤独が耳元でざわめいた。
深く刻まれた断崖、断層の切れ目――圧倒的な規模が視界を支配する。豊かな森が、なぜここで唐突に途切れているのか。境界線はあまりにも鮮やかで、不自然だった。
普通、渓谷は気の遠くなる年月をかけて、風と水にゆっくり削られて生まれる。けれど、ここは違う。岩肌は自然の筆致ではなかった。何か巨大な力が一夜にして大地を抉り、引き裂いた――そう言われても、疑いようがない。
あのときヴィルが低く語った伝承が、耳の奥で反響する。
『昔、この地は精霊が静かに眠る聖域だったそうだ。しかし百年前のある夜を境に、大地は一夜で裂けた――そう伝わっている』
断崖に走る縞模様は整然としすぎていて、まるで巨大な刃で一刀両断した痕跡のようだ。赤茶けた岩間を白い鉱脈が走り、ひび割れた傷口を白骨のように露わにしている。
ヴィルが示した岩盤に刻まれた一本の鋭い亀裂。周囲はただ裂けただけではなく、重い何かが天から叩きつけられたかのように粉砕されていた。ここは、自然が生んだ渓谷ではない。巨大な墓標なのだ。
そして、夕闇が渓谷を茜に染める頃、わたしは「それ」を目にした。渓谷の奥、赤茶けた大地が大きく口を開けた場所。霞の向こうに、異様なまでに巨大な黒い孔が佇んでいた。
ただの裂け目ではない。世界そのものが内側から食い破られたかのような、冒涜的な空洞。縁から漏れる黒紫の瘴気が空気を歪ませ、渦を巻きながら地を這う。時折、その瘴気に紫と赤の稲光が閃き、孔がまるで生き物のように呼吸していることを告げていた。
それこそが、魔獣の巣窟。
背筋がじわりと冷える。得体の知れない力が、この孔を中心に脈動している――そう直感した。風が一瞬止み、世界が息を潜めた。空間そのものが異界に呑み込まれそうな錯覚の中、わたしはただ立ち尽くし、闇の口を見つめ続けた。
◇◇◇
わたしたちは互いにその光景を思い浮かべ、息を呑むしかなかった。吊り灯の炎が車窓に投げかける橙の揺らぎが、無言のまま張りついた空気をわずかに撫でる。
「わたしなりに当時の観測記録を調べたんだけど、ハムロ渓谷の場合、一回目の爆発から二回目の爆発まで、一月もの停滞期間があったそうよ」
地図の端へ滑ったインクの染みを辿るようにして、わたしは指先で渓谷の名をそっと押さえた。羊皮紙の下からわずかに伝わる車輪の振動が、胸の奥の不安と同期する。
「一ヶ月だと? 普通は長くても一週間というのが常識だぞ」
ヴォルフが低く唸る。言葉の端に混じった金属質の響きが、彼の驚愕の深さを物語っていた。甲冑の肩板がわずかに当たり合い、低い音を立てる。
「ええ、その通り。他の事例を調べてみたけど、あれはあまりに異例、そして異常すぎた。もし同じように二度目の爆発までの時間が長引くようだと、ハムロ渓谷に匹敵する規模の地殻変動が起きる可能性がある」
言い終えて唇を閉ざす。揺れる灯が彼の瞳に映え、深い海色の奥にわずかな迷いを落とすのが見えた。
「首都ハロエズの地下には――太古の坑道網が無数に張り巡らされている。それらが一斉に崩落すれば……」
ヴォルフの声は途中で途切れる。言葉の先に横たわる最悪の光景を、あえて描写するまでもない。車内の静寂が一瞬、霧のように重く沈殿した。
「二次爆縮までに暇があるなら、救助の道筋が立てられるかもしれない。けれど“その時”がいつ来るかわからない。つまり、“希望を語るには早い”、ということよ……」
わたしのか細い声に、彼は重く頷いた。影がその輪郭を深く刻み、眉間の皺が灯火の明滅に合わせて伸びたり寄ったりする。
「レシュトルはこう言っている。“二次爆縮が開始し、反重力歪曲が発生するまでのタイムリミットは二百四十秒”。それまでに避難している人々を坑道の最上層へ退避できれば、崩落を被る確率は十七%まで低減できる、と」
「二百四十秒――わずか四分だが、その刹那が生死を隔てるということか」
ヴォルフ――いや、ヴィルの奥歯がきしむ微かな音が耳朶を打つ。拳を固めた手袋の革が膝の上でわずかに軋み、震えを帯びた。
「いざとなれば、わたしたち――巫女と騎士の力で抑えるしかないわね。たとえばIVGフィールドを最大規模で展開して、周囲を封じ込めるか、中心核を爆縮前に破壊して反応の均衡を崩す……。けど、どの案にしても決定的なデータが足りないし、現段階ではなんともいえないわ」
「……そうだな」
わたしはヴォルフから視線を離し、膝上に置いた指先が震えるのをじっと見つめた。指輪の縁がわずかに触れ合い、かすかな金属音――冷えた空気に沈む鈴の残響。
――押さえ込む? 破壊する? 何言ってるの?
その瞬間、もし“固有時制御”を発動せざるを得なくなったなら。魂を燃やし、世界の時軸をこじ開ける禁忌の刃を、この小さな命を抱えたまま振るわねばならなくなる。
まだ胎動をはっきり感じるには早い。それでも、ときどき下腹の奥で水面がふっと撓むようなあの感覚が、“ここにいる”と告げている。この、ようやく形を整えはじめた小さな手足ごと、その鼓動を胸膜越しの奔流で――自分自身の力で――壊してしまうかもしれない。
選べるのか。この子の息吹と、世界の明日を天秤にかけるという残酷を。選んでしまって、いいのか。母として、この上なく愛おしい、たったひとつの未来を――自らの手で断ち切るなど。
答えのない問いが胸を圧し潰し、冷たく重い石となって沈んでいく。息を吸うたびに石はさらに深く沈み、沈黙だけが肺の奥に積もっていく。暗闇の底で微かに灯る脈拍。その鼓動こそが、選択を迫る刃の音に聞こえて、身を震わせずにはいられなかった。
……その、わたしの心の気配に、隣に座す彼が、気づいたのだろう。これまで、わたしに触れることを、どこか躊躇っていたはずの彼が、そっと毛布を、掛け直してくれる。
その、布の温もりよりも、彼の、すぐそばにある体温が、わたしの凍てついた心を、ほんの少しだけ、溶かした。その瞬間、子宮の奥で水面が揺れるような微かな跳ね──胎動の幻か、それとも想像か。安心と恐怖が同時に泡立ち、喉奥で息が絡んだ。
「……わたしの考えではあるんだけど――」
言い淀みながらも視線を上げ、二人の顔をひとりずつ確かめる。ランプの灯りがルシルの睫に細い影を作り、彼女の瞳に映るわたし自身がわずかに揺れた。胸の奥で小さく鼓動を数え、決意を息に乗せる。
「……この件について、枢機卿に伝えるべきだと思うの」
告げた途端、車輪の軋み以外のすべての音が消えたかのようだった。ヴォルフは腕を組んだまま微動だにせず、その蒼い瞳の底で何かを測る。沈黙が刃のように張り詰め、オイルランプの香だけがゆっくりと漂う。
やがて、彼は深く息を吸い、まるで硬い木の実を噛み砕くように、低く言葉を押し出した――。
「いや、峠を越えるまでは、待て」
低く放たれたひと言が、車室の空気を鋼の線で縫いとめる。車輪の揺れさえ、瞬間、足並みをそろえたかのように静まり返った。吊り灯の炎は揺らいだまま凍りつき、橙の光だけが彼の横顔を硬質に彫り出す。
「どうして……? わずかでも希望があるなら、それを共有するべきではないの? 誰もが口には出さないけど、みんな胸の内は不安で仕方ないのよ。枢機卿だって、家族を首都に残しているんだから……」
早まる息づかいを悟られまいと唇をかむ。言葉の末端が震え、握りしめた指先が羊皮紙の端をくしゃりと押し潰した。ランプの灯が紙上に揺れ、交錯する等高線がまるで脈打つ血管のように見える。
「道だの情だのは、戦場では役に立たん」
ヴォルフは視線を落としたまま、沈着な声を放つ。甲冑の留め金がわずかに鳴り、鉄と革の匂いが冷気を割って滲む。その静けさが、かえって胸に重くのしかかった。
「けれど、彼らには知る権利があるはずよ! もし、わたしたちが彼らの立場だったら、どう思う? 真実を知らされず、ただ恐怖の中で待たされる気持ちを、あなたは考えないの?」
言葉が弾けるたび、吐く息の白さが灯に照り返った。目を上げれば、ルシルでさえペンを伏せ、凍ったまなざしで行く末を見守っている。耳の奥で自分の鼓動が高鳴り、車輪の軋みと不揃いに重なった。
「考えた上で、言っている」
静かな返答。だがその一拍の合間、彼の拳が膝上でごく小さく収縮する。装飾のない銀指環が、薄明かりを鋭く弾いた。
「その“希望”は、時に毒にもなる」
語尾が掠れ、低い声が奥底で軋む。灯火が揺れるたび、長い睫の影が頬を横切り、刻まれた古い傷のように色を深めた。
「アウレリオは、一軍を束ねる楔だ。その楔が、夢を語れば部下は先走る。組織は、ほんのわずかな期待でいとも容易く崩壊する。俺も、ユベルも、希望をちらつかせて兵を殺した指揮官を、この目で何人も見てきた」
最後の一節は、刃を抜くような静かな痛みを帯びていた。語り終えると同時に彼は目を閉じ、ひそかに息を吐き出す。車体の揺れが再び戻り、板壁が遠くの風鳴りを拾って震えた。
彼の言葉は、理においても経験においても正しかった。それでも胸の奥で小さな炎が燻り、冷たい論理を拒むように身を震わせる。張り詰めた沈黙が脈打ち、わたしの喉奥で重く滞った――まだ頷くことのできない心を抱えたまま。
「あなたの言いたいことはわかる。それが軍を率いる者としての正しい考え方だってことも。でも、人としてはどうなの? それが、本当に“正しい”ことなの?」
声を張り上げたわけではない。けれど、胸の奥で擦れた悲鳴がそのまま言葉になったようで、喉の奥が焼けつくように痛んだ。車輪が石を踏み、車体がきしむ低音が、やけに遠くに聞こえる。わたしの視界は、吊り灯の橙だけを残してかすみ、彼の輪郭だけが際立って見えた。
ヴォルフは瞬きもせずにこちらを見つめる。細く張った眉間の、さらに奥――瞳の底で揺れた影は、明らかに動揺の色だった。それでも、表情の筋は崩れない。長い沈黙ののち、彼はごく浅く息を吸い、腕の組み方をわずかに強める。その仕草で鎖骨の辺りがゆるく上下し、革鎧の合わせ目が小さく鳴った。
「これは“正しさ”ではない。――“守る”ための判断だ」
低く、けれど丁寧に刻むような声音。言葉を押し出すたび、胸板の奥で澄んだ響きが共鳴し、車内の冷気を微かに震わせた。吊り灯の炎がひときわ揺れ、淡い光が鉄の留め具に跳ね返る。その刹那、彼の口もとがわずかに歪む――痛みとも諦念とも読み取れない影が過ぎるが、すぐに凍り付いたような静けさへ戻った。
わたしは息を詰めたまま、膝の上で組んだ手を固く握り締める。乾いた指先が震え、爪が掌に食い込んで白く変色していく。軽い痛覚が、ここが現実だと告げる唯一の糸だった。灯りの下で震える影が掌を覆い、涙の気配を静かに縫い止めた。
ヴォルフの瞳に映るわたしの姿が、ゆらゆらと揺れる。そこににじむのは冷徹さか、それとも――わたしには、無言で己を諫める人の孤独に思えた。彼の背に負うものの重みを思い、喉の奥で呼気が詰まる。
最後に、彼はほんのわずか顎を下げ、独り言のように呟いた。
「希望が、峠を越えた先に――もし、まだあるならだが……」
静かに落とされた言葉は、夜気よりも重く、車室の床へ沈んでいく。吊り灯の火影が彼の横顔を縁取り、まぶたの陰に深い疲労を映した。
「……あなたの言う通りかもね。いまはまだ、憶測だけで希望を抱かせるべきではないのかもしれないわ」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。反論でも同意でもない。ただ相槌のように零れたひと言――それすら灯火の揺れに紛れそうなほど細い。
「だいたい、いつ次の爆発が起きるか予測できんのだろう?」
上ずりも重みもない平坦な問い。けれど、その平坦さこそが彼の張り詰めた覚悟を示しているようで、心臓がかすかに軋む。車窓をかすめる外気のひゅう、と鳴く音が、不吉な笛のように耳を刺した。
「ええ……。それに、現状ではまともな作戦など立てようがないわ。レシュトルも今のところ、外縁から先――盆地の内部で何が起きているかは掴めないと言っている――」
言いながら視線を落とす。地図の端で揺れる灯影が、首都ハロエズの小さな印を焼き焦がすように照らし出す。胸を満たすのは焦燥ばかり。それでも声だけは静かに保った。指先でなぞった紙の感触がひどく冷たく、紙が重みを帯びて手の中で沈んでいくようだった。
「だから、まずは峠に到着しだい全体の様子を把握する。それから坑道への進入路を確保して、生存者のおおまかな分布を割り出す。段取りは、その順番でいきましょう」
言い終えた途端、馬車が大きく傾き、天秤のように車体が揺れた。乗り合わせた三人の重心が一瞬同じ方向へ滑る。木板が悲鳴じみた音を上げ、再び平衡を取り戻した瞬間、わたしたちの間に透明な壁が立ったかのように、深い沈黙が降りた。
吐く息が白く曇り、その白さが灯火の橙と混ざって淡い灰色に溶けていく。それは、二人のあいだに引かれた、決して軽々しく跨げない境界線の色のように見えた。
その、凍りついた空気をやわらげたのは、これまで黙ってわたしたちのやり取りを静観していたルシルの、たった一つの仕草だった。ペンと羊皮紙を片手でそっと脇に置くと、彼女は腰を浮かせ、灯火の陰に隠れていた毛布を取り上げる。細い指先が布の端をつまむ仕草は、硝子を扱うように慎重で、物音ひとつ立てない。
ルシルは、何も言わずに、わたしの膝へそっと毛布を載せた。薄いウールが肌を撫でる瞬間、ランプの温かな光がその山吹色の綾に滲み、ほのかな体温が布越しに指先へ伝わる。思わずわたしは息を止めた。
視線を上げると、彼女の瞳が真っ直ぐこちらを見つめ返している。温度を秘めた淡灰の虹彩が、さながら夜明け前の霧を透かすように静かに光り、その奥に揺れる感情は読み取りきれない。
慈しむような、けれど同時にすべてを見透かしているかのような眼差し――。そこに映るのは、わたしたち二人の迷いと焦り、そのどちらをも確かに受け止めた上で与えられる小さな庇護だった。
「――なら、なおのこと、“今は温めて”おきましょう。必要になる、そのときのために」
抑えた声色は柔らかい。それでいて、医師としての確固たる判断が芯に通っている。
言葉が空を弾くように低く響き、車室のほの暗い空気をゆっくり押しひろげる。そのひと言が誰に向けられたものか、すぐにはわからなかった。凍えていたわたしの心にか――あるいは、ヴォルフが語った、いつ途切れるとも知れない「希望の灯」にか。だが曖昧さこそが、わたしたちの胸を撫でるような優しさになった。
毛布の重みは羽根のように軽い。それでも確かに熱を湛え、身体の奥の震えを静かに封じてくれる。わたしは布端をそっと指で握り直し、礼の代わりに小さく首を傾けた。ルシルは応えるように目を細め、再び席へ戻る。その動作は乱れた呼吸すら整える鎮静剤のようで、車室を満たしていた微かな緊張が、砂がこぼれるように解け落ちていく。
ヴォルフもまた、その一連の所作を黙って見守っていた。肩の力をほんのわずか抜き、深く息を吐く。その吐息が灯火に揺らめきを与え、柔らかい陰影が鎧の縁を撫でていく。
毛布の温もりは、張り詰めた三人の境界線を、そっと融かす小さな炎だった。わたしは胸の奥に残った鋭い棘を、布越しの温度でゆっくりと溶かしながら、遠く軋む車輪の音に耳を澄ませた。
◇◇◇
車輪は、坂を降りながら軋んでいた。粗い礫を拾った前輪が小さく跳ねるたび、箱型の車体が軸ごと震え、座面の革が低く悲鳴を上げる。ゆらり――体が前後に遠心され、腰の骨に座面の反発がかすかに突き上がった。
窓の外、未明の谷にはまだ陽が届かない。薄紅に染まりかけた稜線だけが天幕の端に浮かび、そこから滲む光が霧の層を鈍く濁らせている。わたしは指先で窓枠を探りながら、じっとその色の変化を追った。夜明けは遠く、峠の影は深い。
ヴォルフが、隣でそっと息を継ぎ、視線をこちらへ滑らせる。蒼い双眸に宿った光は、深く水を張った洞窟のように暗い――そこに映るのは、押し殺した焦燥と、砕け散らぬよう抱え込んだ憂い。
彼の喉奥から、小さく押さえ込んだため息が漏れた。金具の当たる微かな音が甲冑の下で揺れ、灯火の橙が肩甲の縁を鈍く照らす。
「……峠越えまではあと二刻はかかる。少しでもいいから眠れ」
低い声は、諭すというより願うようだった。けれど、わたしはただ首を横に振る。頸椎を動かすたび、背中の筋がぎしりと軋み、疲労が骨の髄まで染み込んでいるのを悟る。
「こんなに揺れていて、眠れると思う? ……横になったって、余計に不安になるだけよ」
唇を閉じた直後、言葉がすぐ冷えて、胸に重く沈んだ。苛立ちでもわがままでもない――ただ本音を吐き出しただけなのに、ヴォルフの顔に影を落とすのが怖い。
彼はわずかに目を伏せ、膝の上で組んだ手に視線を落とす。長い睫が灯に縁取られ、眉間に刻まれた皺がひときわ深くなる。馬車の板壁に映る揺らめきが、その表情をいっそう翳らせた。言葉の矢は放たれず、舌先で確かめるように息を呑む仕草だけが、静かに時を引き延ばす。彼は、わたしを救うための言葉を探している――融けやすい氷片を箴言に鍛え直すように、心の炉の奥で必死に。
その沈黙が、骨の奥まで沁みとおってくる。車輪がひときわ深い轍を踏み、車体がぎくりと揺れた瞬間、わたしは思わず息を呑み、指先で座面をつかんだ。革の縫い目が掌に食い込み、胸の内の張り詰めた糸が一段と震える。隣にいるはずの彼の体温だけが、唯一、かろうじて現実をつなぎ止めていた。
「なら……俺を使え。緩衝材がわりにはなるだろう」
ぶっきらぼうな響き。けれど、灯の橙が描く頬の陰影は、優しい。わたしの緊張をうまく隠そうとする時、彼はいつもわざと乱暴な言い回しを選ぶのだと知っている。胸の奥が、じんわり熱を帯びる。
「あなただって疲れているでしょう? そんな子供みたいなこと。それに、ルシルが見てるし……恥ずかしいんだけど」
語尾がわずかに震えた。わたし自身の弱さを責めるように、唇を強く噛む。
「お前が落ち着いてくれた方が、俺も気分が休まるんだが?」
低く抑えた声。冗談めいた語調の下に、真面目な決意が滲む。わたしの視線を正面から受け止めると、彼は肩越しにそっと息を吐き、甲冑のバックルを一段緩めた。金具がかすかに鳴り、馬車の油灯が剣帯の鋲をほの白く照らす。
その時、対座のルシルがペンを置き、ほぐれた金栗色の髪を耳に掛け直した。瞳に医師としての光を宿しながらも、その声音はどこか姉のように柔らかい。
「陛下、殿下。……御夫婦なのですから、ご遠慮なさいませんように。これは軍医としての提案です。ヴォルフ殿下、どうか、陛下が安寧の眠りを得られるよう、優しく包んで差し上げてください」
紙と羽根ペンの擦過音が途切れ、馬車の闇に残ったのは、油芯がぱち、と微かに弾ける音だけだった。視線が三角に絡み合い、ほんの一瞬の沈黙が落ちる――けれど、もう迷いは影すらない。
“理性で築いた距離”。自分で積み上げたはずの壁が、長い夜を揺らす振動に合わせて軋み、崩れかける。甘えでも媚びでもなく、ただ必要なのだ。わたしにとって彼が。彼にとっても、きっと。
「……じゃあ、少しの間あなたを貸して。わたしを包んでいて」
囁きは車輪のきしみにかき消されることなく、真っ直ぐに彼の耳へ届いた。ヴォルフはひとつ瞬きを落とし、静かに顎を引く。その間、わずか鼓動三つ。すぐさま腰を引いて座面の半分を軽く叩き、甲冑の胸当てから外套を払って、わたしを迎える懐をつくる。
「――膝に乗れ。揺れは俺が引き受ける。遠慮はいらん」
淡々と紡がれる言葉とは裏腹に、声色は驚くほど柔らかい。喉奥が熱を帯びる。わたしはスカートの裾を指先で掬い、靴先を揃えて影へ身を滑らせた。
革の地図が膝裏でかさりと鳴り、鍛えた腿の硬さが車体の震えを呑み込む。思いのほか高い体温。胸板に頬を寄せると、布越しの鼓動は速過ぎも遅過ぎもせず、静かな拍を刻む。そのリズムが乱れた呼吸をゆるやかに整えてゆく。
馬車はなお微かにきしみながら揺れていた。けれど、その脈打つ震幅よりも、ヴォルフの外套にこもる体温の方が、何倍も深くわたしを包み込んでゆく。蝋燭の炎が細く揺れ、革張りの壁に朱金の波紋を走らせた。そこへ吸い込まれそうになりながら、わたしはそっと息を整える。
「……うん」
漏れた返事は、自分でも驚くほど静かだった。護衛でも夫でもなく、“揺れる馬車という戦場”で最善を選び取った騎士の声色が、胸の奥に染み込む。迷いはひとかけらも残っていない。
足が宙を切る瞬間、車体がぐらりと傾ぐ。その揺れを追い抜くように、左腕が背から腰へ滑り込み、しなやかな曲線でわたしを支え上げた。外套ごと抱き寄せる右腕は、ちょうど翼の弧に似て優しく、内側で高鳴る拍動を伝える。毛織の布地に閉じ込められた微かな鉄の香と、騎士の肌に染みついた檜のような澄んだ匂いが、温い吐息と混ざり合う。
額を胸板に預けると、軍衣の下で脈打つ熱がじわりと滲み、縦横の震動は鍛え上げられた胸郭と腿の張りへ吸い込まれて消えた。胸をなぞる規則正しい鼓動――それが、いまのわたしだけのメトロノーム。重く、けれど柔らかなその拍が、静かに全身へ沁みわたる。
「……やっぱり、落ち着くわ」
「……なら、いい」
囁きより淡い吐息が髪をそよがせる。外套の裾がふわりとのしかかり、視界は絹の闇に覆われた。耳を澄ませば、遠くでホイールが石を噛む鋭い音がするけれど、もう皮膚の奥までは届かない。温もりの海の中で、世界はゆるやかに停止していた。
やがて油芯の微音さえ遠のき、残ったのは二人の心拍が重なる深い鼓動だけ。腿は揺れを受け止める弾む支点、胸は規則を刻む枕。その完璧な組み合わせに凭れながら、わたしはそっと瞼を閉じた。
「……ありがとう、ヴォルフ」
言葉より先に、肩へ回った指がやわらかく強くとどめる。決して離さない――無言の誓いが、静かな圧として腕の輪に宿る。蝋燭の微かな樹脂の香と温い鉄の匂いが、呼吸のたび胸いっぱいにひろがった。
馬車は揺れ続ける。それでも、もう怖くない。この膝、この胸に抱かれるだけで、夜明けまでの長い峠道も、幾重もの不安も、遠い霧へとほどけてゆく。彼の腕の中で、わたしはようやく――いつか失ったはずの、無垢な安らぎの中へ、静かに沈み込んでいった。




